新約聖書はギリシア語で書かれた、イエス・キリストによる救済を説く書物です。
イエスは、ブッダと並び人間の歴史の中で最も大きな影響を持った思想家(宗教家)の一人です。新約聖書は、そのイエスを神格化した文学作品と言えます。西欧文明に最も大きな影響を与えた書物です。
聖書には様々な読み方があります。宗派によって、またお国柄や時代によって、文章の解釈が変わったり、どの部分を重要視してどの部分を軽視するとかの差が出てきます。私はいわゆる神学を勉強したわけではないですが、自分の視点(ユング心理学や仏教との比較を重視する)から新約聖書を紹介します。私の視点や解釈に同意されない方がいたとしても、気にしませんが、できる限り間違いはないよう気をつけたつもりです。
新約聖書は大きく四つの部分に分けると、四つの福音書、使徒行伝、書簡集とヨハネの黙示録からなります。
四つの福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとそれぞれ著者とされる人間の名前がついています。
マタイ、マルコ、ルカは同じような世界観を持っていて内容がかなり重複するため「共観福音書」と呼ばれます。ヨハネは他の三つとだいぶ離れた内容を持ちます。
福音書はどれも、イエスの誕生から十字架による死までの生涯を描きます。福音(ゴスペル)とは、良い知らせと言う意味ですが、良い知らせとはキリストによる救いのことです。
マタイによる福音書
これはユダヤ人の読者を想定した書と言われ、旧約聖書との連続性が意識されています。とても長いイエスの系図から始まります。 そして旧約聖書を引用し、その予言が成就されたという表現を好みます。
史実かどうかは知りませんが、イエスがユダヤ人を贔屓(ひいき)する立場を取っています。例えば、イエスが使徒たちを伝道のために派遣するとき、異邦人の道へ行ってはいけないと言ったり(10:6)、15:7では「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言います。他の福音書の同じ箇所には、こういう表現がありません。
「山上の説教」と呼ばれる場面(5〜7章)ではイエスの最重要の教えがまとまって書かれています。この部分は個人的に最重要視しています。
マルコによる福音書
一番短い福音書で、一番古い福音書。悪く言えば質素だが、おそらくもっとも原始的な形を残しているので、研究者には重要な資料となる。マタイとルカは、マルコに含まれる物語のほとんどを含んでいるので、この福音書は他の福音書のベースである。
この書はラテン語由来の言葉が多く用いられ、ユダヤの風習などについての解説があるので、読者はユダヤの風習を知らない異邦人であることを想定している。なのでローマ人に向けて書かれたと言われる。
ルカによる福音書
翻訳では分からないが、この書は四つの福音書の中で最も立派なギリシア語で書かれており、知識人の文体と言われる。ギリシア人を読者に想定している。三つの共観福音書の中では、独自の内容が最も多い。使徒行伝と同じ作者で、使徒行伝と一続きの書として読める。
ヨハネによる福音書
最も遅く成立した福音書。ここに登場するキリストの言葉は他の福音書と大きく異なる。キリスト教徒の多くはこの福音書を最重要視するが、私個人的にはむしろこれが一番下であると感じた。
心理学-道徳的な教えは少なく、イエスが神であることの証明(「しるし」)にかなりの分量を割いている。しかも信者が「永遠の命を得る」という主張が繰り返しなされる。歴史的に実在した人物の言葉を読んでいるというよりは、神学的–文学的作品を読んでいるという感が強い。
・どれを読むべきか?
新約聖書を読み始める人はどこから読めばいいか迷うと思います。本というものは最初から最後まで読むのが普通ですが、福音書の場合、同じような内容の文書が三連続で置かれているので、マタイ–マルコ–ルカと読んでいくと、ほとんどの読者は飽きてしまうでしょう。私個人的にはとりあえずマタイだけを読んで次の使徒行伝に進むことをお勧めします。もっと深く福音書を読みたくなったら、他のものを読めばいいと思います。もちろん、読みたいものがあるならそこから読んでください。マルコやルカからでもいいです。ヨハネはイエスの教えを多く含まないので、最初に読むことはお勧めしません。が、もちろんヨハネだけを読みたいという方がそうされるなら、それも自由です。
福音書ごとの違いの一例
四つの福音書は矛盾する箇所がいくつもある。四つの福音書は、本来別々の場所で書かれ、別々のコミュニティで使用されていた。それがのちにひとまとめにされた、と考えてよい。
古事記と日本書紀の違いのように、異伝を読む面白さというのはある。異伝があることは全く自然な現象である。
イエスが処女から生まれたという記述があるは、面白いことにマタイとルカだけである。なのでマルコを読むとイエスが最初から大人なので「いきなり始まる」感がある。
ヨハネだけは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」‥と創世記のような雰囲気で始まる。
イエスの死の場面を比較してみると、各福音書でイエスの最期の言葉が違う。これは各福音書がイエスをどう描こうとしたのかが表れている。
マタイ(27:46)&マルコ(15:34)「イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』これは、『我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
ルカ(23:49)「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」
ヨハネ(19:28)「『渇く』」(19:30)「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
イエスがユダに裏切られ、逮捕されるシーンでも、イエスの言葉に異同が見られる。
イエスと居合わせた人のうち一人が剣を抜き、イエスを逮捕しにきた大司祭の手下の一人に斬りかかり、耳を切り落とす(マタイ、マルコでは「片方の耳」、ルカ、ヨハネでは「右耳」)。
このとき、マタイ(26:52)ではイエスは「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは剣で滅びる」と有名な言葉を言う。ルカ(22:51)では唯一、イエスがその耳に触れて癒す描写がある。
ヨハネ(18:10)では大司祭の手下の耳を斬ったのは使徒ペトロということになっており、斬られた人物の名はマルコスであったと書かれている。
イエスが「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えにきたのか」と言うのは三つの共観福音書に共通する。ヨハネの福音書だけはイエスの調子が非常に違い、強気に出ているよう描写されている。イエスは自分から何度も「(イエスは)わたしである」と堂々と名乗り、逮捕に来た人がイエスの威圧感に、「後ずさりして地に倒れた」とある。
使徒行伝
使徒行伝、または「使徒たちの宣教」は、福音書の出来事の直後からはじまり、イエスの弟子たちやパウロが宣教する様子が描かれる。神話的要素も含むが、歴史的に信頼できる部分も多い。エチエンヌ・トロクメの「キリスト教の幼年期」という本はおもに使徒行伝をソースにして最初期の宣教の様子を考察している。彼によると、最初期のキリスト教徒はユダヤの律法を守るべきかどうかで意見が分かれて争っていたようである。パウロは異邦人には割礼の必要はないと説いたが、ペトロなどによるエルサレム教会は割礼などのユダヤの伝統の維持を求めたので、摩擦が起こった。
地名がたくさん出てきて、しかも今の世界地図と当時のものはだいぶ違うので(たとえば、今ではトルコである土地はトルコではなく大部分ギリシア人の入植地、中東にまだイスラムは存在しない等)1世紀ごろの地図や歴史に少し通じていないと、ついていけないように感じるだろう。
この書の最初はイエスの弟子たちを描くが、パウロが登場してからはほぼパウロが主人公的な立場で描かれる。
パウロは元ユダヤ教徒で、はじめは第一世代のキリスト教徒を迫害していた。しかしあるときキリストの幻覚を見て回心し、熱狂的なキリスト教伝道者となる。キリスト教を「作った」のは、キリストではなくこのパウロであると言われる。パウロの宗教観がキリスト教を作った。
使徒行伝は最初期のキリスト教の雰囲気を明らかにし、霊性がビンビンと伝わってくる書物である。いつの時代の宣教者もこの書をインスピレーションにしてきただろうことは容易に想像できる。
書簡集
〇〇の手紙、と題された短い書簡がたくさん入っているのが書簡集である。大部分はパウロが執筆している。パウロの時代、まだ新約聖書なるまとまった書物はなかったわけだが、パウロが伝道した各地の信者に当てた手紙は、キリスト教信仰者の生活の指針として重要な書物だったので、このように聖書の一部として組み込まれた。
地味に思えるからといって、書簡集を無視してはいけない。むしろここに最重要の珠玉の教えがたくさん詰まっていると言ってよい。
最初に配置されていて最も長い手紙はパウロによる「ローマ人への手紙」だが、ルターはこの手紙について次のような序言をつけている。(岩波文庫「キリスト者の自由」より)「この手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。だからこれをあまりに多くあまりに読みすぎるということはほとんどありえない。これに親しめば親しむほど、ますます貴く、よりよく味われるような書である。」
なるほどキリスト本人は「キリスト教徒はどういう生活をするべきか」などについて何も語っていない。キリスト在命中はキリスト教とかキリスト教徒という概念すらないからだ。福音書でキリストの教えと生涯だけを学んでも、福音を学んだとは言い切れない。福音書にはまだ発達した教義的な罪論やキリスト論(キリストが人類の罪を背負って死んだこと等)もないからである。キリスト教的生活の基礎はこれらの手紙にある。福音書と手紙は並べて一緒に学ばなければいけない。
ヨハネの黙示録
新約聖書の最後の書ヨハネの黙示録は、なぞである。わたしは理解できなかったが、秘教的なものを好む人の興味は引くかもしれない。
著者が、審判の日前後の幻を見る。その幻を伝える内容になっているが、天使たちが様々な災害を起こして大量の人間を殺すので、私にはこれがキリスト教的なものには思えなかった。内容からもスピリチュアリティを感じることは出来なかった。なぜこの書が新約聖書に含まれたのかは疑問なのだが、同じ疑問を持つ人は少なくないと思う。
この書を信じる人はこの書の内容が実現すると言ったり、これが「キリストの言葉」であると言ったりするが、これがキリストの言葉であると思う人はレベルが低いと思うのが正直なところです。
シャーマンとしてのイエス
イエスは多くの人を癒された。福音書ではイエスが病人を癒す記述がとにかく多い。(が、パウロの手紙では一度もメンションがない)
我々現代人はこれをどう理解すべきか。現代医学を持たない昔の人は病の原因を知らなかったし、治すことも難しかった。「癒し」は神だけに与えられた専売特許だったのであろう。
イエスが中風や皮膚病の人を癒したと聞いても、現代の人間がこれを史実として信じるのは難しい。だがイエスが癒した人の中には、「汚れた霊に憑かれた人」も多く含まれている。これは面白い。霊につかれた人とは、現代的に言えば解離性障害などの精神疾患であろうが、イエスがシャーマンとして彼らの精神疾患を癒したという可能性は十分にある。シャーマンにはそれができるからである。患者が治療者の力を信じ、意味のあるコミュニケーションが取れれば、様々な症状が解消することは知られている(シャーマニズムの参考文献としては「病気と治癒の文化人類学」波平恵美子などをおすすめ)。
イエスが悪霊に取り憑かれた人を癒す記述の一つが、マタイ(8:28)、マルコ(5:1)、ルカ(8:26)に見られる。
患者は「レギオン」と名乗る(「大勢」という意味)。これは多重人格であることを示唆し、それだけで解離性障害であることの証拠として読める。
ルカによればレギオンは墓場に住み、「何回も汚れた霊に取り憑かれたので、鎖で繋がれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと借りたてられていた。」
マルコによると「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分の頭を打ちたたいたりしていた。」こういう徘徊や奇行はよく見られる症状である。
イエスは悪霊を豚に移動させ、悪霊に憑かれた豚は崖を下って湖になだれこみ、溺れて死ぬ。
単純に悪霊を消し去るのでも良かったのだが、わざわざ「移動」させるのは面白い。これはかなり呪術的な出来事で、キリスト教的ではないと言える。
ルカ(11:24)などでは、明らかな憑き物信仰が見られる箇所がある。イエスはこう言う。「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。そして戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の状態は前よりも悪くなる。」
この節の神学的解釈は、ただ悪い霊を追い出しても、信仰がないと戻ってくるよ、信仰が必要だよ、ということになっているらしい。空の家とは信仰がない個人の心のことらしい。だがこの解釈は憑き物信仰という事実を隠すためのこじつけであるように私には思える。イエスがこんなことをわざわざ話すようなら、いっとき回復したように見えても後に症状が悪化した患者がいた、という事実が背後にあると推測するのが自然だろう。そしてそれは、解離性障害が催眠による治療では決して完治するわけではないという一般に知られている観測と一致する。イエスの「治療」あるいはお祓いは、催眠のようなものであった。それで一時的に症状を抑えることはできても、根本的な治療になるとは限らない。フロイトはヒステリー(解離性障害に同じ)患者に対し最初は催眠術も試したが、精神分析の方法を確立してからは催眠を完全に放棄した。
だが「信仰がないから再発する」という考え自体は、ある意味正しい。ここで言う「信仰」とは単純に何らかの信条項目を事実として信じることではなく、自分を作り替えて全き人間になるという意味においてである。イエスの力で精神疾患が治る人は現代でもいるが、そう言う人たちは真の信仰を見つけた人たちである。彼らにとってイエスとは自分の心の中の治癒力の擬人化、または全き人間のシンボルである。
イエスの復活
キリスト教の基礎はイエスの復活である。キリスト教をつくった使徒たちにとって最も大きな関心であったのはキリストの復活であり、彼らが伝えたかったのはキリストの復活である。
復活がどれだけ大事であったかは、次の記述を見ればよく分かる。
「...キリストが復活しなかったなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。...
キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(1コリント15:12~19)
キリスト教徒でない人間の中では、キリストの復活とはキリストが弟子たちの夢や幻覚の中で現れたことだ、というスタンスを取る人が少なくない。私もその一人である。
だが一つ問題がある。死者が夢に現れること自体は決して稀な出来事ではないのだ。それどころか、誰でも経験できるくらい身近な現象である。私の周りの親族も経験があるし、私もある。もし死者が夢に出たというだけで死者が復活したことになるのであれば、イエス以前からかなり多くの人が復活していることになってしまう。
ではイエスは何かが違ったに違いない。彼の「復活」は何を意味するのか。
この問題に現時点の私はまだ答えられません。まだキリスト教は勉強し始めたばかりですし、これから見つけていきたいと思っています。
少なくともユング心理学的な視点から思うことは、イエスは弟子たちにとって強烈な印象を持った人間であった、ということです。イエスはなんらかの元型的な投影を受けていた。言い換えると、神格化されうるほどの人格を持っていた、ということです。
それほど尊敬されていたイエスが殺されたとき、弟子たちは深い悲しみと絶望に陥りました。「イエスは人類の罪を背負って死んだ」という神学が登場するのはもう少し後なので、この時点では慰めにもなりません。イエスが死んだ直後の弟子たちはもはや途方に暮れており、何をすればいいかも分からない状態でした。
イエスは弟子たちのグルであり、ある意味ではカウンセラー、分析官でした。イエスは彼らの個性化のシンボル、つまり自己実現のシンボルでした。たとえイエスの肉体が死んでも、彼が弟子たちの心に残した深い印象は死にません。その印象–シンボルは、強力な夢や幻覚を作り出すに足りるものだったと考えても間違いではないでしょう。つまり私が言っていることは、イエスはその強い心理的影響力のために、死後に人の夢や幻覚に現れて強烈な体験をもたらしたのでしょう、ということです。イエスの周りの人たちが元々皆スピリチュアルな宗教家たちであっただろうことを考えると、イエスの死が彼らに宗教体験をもたらしたと信じることはナイーブではないでしょう。
復活について、より単純で誰でも思いつきそうな解釈としては、死の恐怖を克服するための信仰だと言うこともできます。これもあながち間違いとは思いません。ユングが言うには「すべての宗教は心理療法」。宗教の本質は死の準備です。
ですが、何でもかんでも死からの逃避として説明するのは建設的ではありません。やろうと思えば人間のやること全てが死からの逃避だと言えてしまいます。科学は寿命を伸ばすため...死からの逃避。芸術やエンターテインメントは...死から目を逸らすため、と。でも本当にそうでしょうか。それはあまりに消極的な捉え方ではないでしょうか。積極的な捉え方をすると、我々は未来に向かって、新しい価値を創造する存在です。キリスト教は、本質的には未来に向かって開いていく宗教であると信じています。終末に向けて閉じていく宗教ではありません。「キリストの復活」は、一見しただけでは分からない何らかの意味(無意識的な..)を持っているのでなければ、普遍的なイメージとして二千年の間人々の中に定着してきたはずがありません。
キリストは確かに復活しました。私はその意味を探りたいです。
聖書の来世観について
実は本来ユダヤ人は来世の観念を持っていませんでした。律法(トーラー、旧約聖書の最初の五冊)を読んでも、来世に関する記述はありません。アダム、ノア、アブラハム、モーセなどが死後どこに行ったかは書かれてないのです。(いわゆる死者の復活の概念が登場するのはだいぶ後に成立する予言書においてなので、律法のみを正典と認めるサドカイ派などは、復活はないと断定していました。)
ユダヤ人の目指したのは来世の救済ではなく長寿だったようです(現代人と同じですね)。どうやら彼らは、人間はもともと寿命が長いが、罪によって短くなっていくのだと考え、罪をはらうための儀式を行うことが重要視されていました。
しかし時代が下るにつれ、ユダヤ人も次第に何かがおかしいと思い始めます。現世で神に支えて、正しい生活をしても、その後何もないのはおかしいのではないか、と。そうして審判の日の概念が生まれます。最後の日=審判の日では、死者が皆復活し、裁きを受けます。
ユダヤ人は(ちなみに、イエスやパウロもそう)肉体と霊魂を分離できる別々の原理として見做していませんでした。そのような考えをギリシア人などは持っていたようですが、ユダヤ人には本来はありません。なのでユダヤの復活は、霊魂だけが天国に行くのとは全くニュアンスが違い、死者が肉体と霊魂の両方を持ったまま復活するようなものとして理解されます。
最後の日=審判の日=復活の日の概念は、キリスト教やイスラームに引き継がれますが、霊魂が天国/地獄へ行くという信仰と矛盾するため、よくわからない曖昧なものがあります。
古典的な天国/地獄のイメージは、中世以降に成立したようなもので、イエスやパウロの教えにはそのようなものが見当たりません。でもイエスが「地獄」と言う箇所があるぞ、と指摘する人もいるでしょうが、どうやらそれは一種の誤訳らしいのです。
新約聖書学者のDr.Bart Ehrmanによると、イエスの教えはよく読むと次のようになっています。
復活の日に復活した人々の中で「天の国」に入る資格がない罪人たちは、火(ゲヘナ)に投げ込まれる。この火は永久に罪人を罰し続ける消えない業火…というのではなく、火に投げ込まれた人は「消滅」「破壊される」「滅ぶ」。復活を拒否された人は、単純に消滅するのです。火に入った雑草は燃え尽きてなくなるように、人も無くなります。拷問が永久に続くわけではありません。
罪人は地獄で無限に拷問され続けるという記述は、コーランにはたくさん見つかりますが、実は聖書にはないのです。キリスト教の本来的な信仰は(少なくとも教会ではなく聖書を権威とした限りでは)、人間の「有限の罪」が来世で「無限に罰し続けられる」ということはありません。よく反宗教者が、数十年の生涯の罪のために人を永久に罰する神は悪で不道徳だ、と非難しますが、イエスにはそのような教えはないのです。
地獄(英Hell)と訳された言葉「ゲヘナ」は、エルサレム近郊に実在したゴミ捨て場の呼び名でした(今もそこに行くことができます。今はただの綺麗な草っぱの広場です)。過去に多神教徒が恐ろしい子供の生贄などを行っていた場所で、それがゴミや死体を焼却する場所になりました。イエスはこのゲヘナを「最終的な焼却の火」のイメージとして使い、イエスの教えを聞いていたユダヤ人たちはそれがどこの何を指していたのかは知っていたでしょう。ゲヘナの火は、「地獄」ではありません。
さて天国のほうはどうか。これも我々がイメージするものと、実際にキリストが説いていたものはちょっと違うのです。キリストは来世に霊魂が天国へ行くと言ったのではなく、「神の国」が地上に降りてくると説きました。キリストの(共観)福音書における基本的なメッセージは、「神の国が近づいたので悔い改めなさい」というものでした。「神の国」は人間ではなく神自身が支配する王国です。それが、この地上に現れる、その時が近づいているとイエスは説いて回っていたのです。
神が最初にアダムのためにエデンの園という楽園をつくったように、地上に神の支配する楽園ができる。おそらく、審判の日に復活した人々が神の国に入り、復活を拒否された人々は神の国に入れず、火に投げ込まれて消滅する。そういうことでしょう。
では神の国はどういう場所なのか。面白いことに、イエスは神の国について具体的に語っていない。たとえ話を用いて天の国を語ることが多く、どんな場所なのかははっきりしない。どうやらイエスは神の国がどのような場所であるかより、どうすればそこに行けるのかを重視し、それを中心的に教えたのではないか、と思える。このような態度はブッダに通ずるものがある。ブッダは、悟りがなんなのかをあまり語らなかった。それは語りようがないからである。説明したところで分かるはずがない。なのでブッダが説いたのは悟りが「何であるか」ではなく、「どのようにそこに到るか」であった。
大乗経典では、法華経が思い起こされる。法華経は仏の救いとはなんなのかを、数々のたとえ話で語る。たとえ話は人々のこころの中にイメージを作らせる方法として有効なのだ。
マタイ(13:44)でのイエスの言葉
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
フィリピの信徒への手紙に見られる菩薩道的な生き方
パウロが執筆したフィリピの信徒への手紙(以下フィリピ)は短い手紙ですが、私が見るには最も教えが優れた手紙に数えられます。ここには大乗仏教でいう「菩薩道」と同じ生き方の指針が見られます。
元来、仏教では、生まれ変わりは苦しみの存続なので悪いことと見做され、仏教の当初の目的は輪廻から解脱すること、すなわち「生まれ変わらないこと」でした。しかし、自分だけが救われて、それが真の救済なはずがない。と考えた人たちが大乗仏教を作りました。大乗仏教では菩薩と呼ばれる存在が仏と同列に崇拝されます。菩薩は「まだ悟りを開いていない修行者」だと紹介されることがあります。それは間違いではないのですが、重要な考え方が抜けています。経典に登場する菩薩の多くは、「(悟りを開いて)解脱する能力があるにも関わらず、苦しむ衆生を救い続けるために、あえて輪廻(生まれ変わり)し続ける存在」でもあります。
菩薩道とは、菩薩の生き方のことで、菩薩の生き方とは、自分ではなく他者を救済するために生きることです。ですが決して自分の身を捨てるというわけではなく、本当は他者の救済を通して自分を救っているわけなのです。
キリスト教に話を戻しますと、「クリスチャンは死んだら天国に行くことを信じている。では死はいいことではないのか。なぜ死を悲しんだり、恐れたりするのか」、とキリスト教の矛盾をついたかのように指摘する人がいますが、実際は矛盾はありません。キリスト教は生を否定する宗教ではないのです。キリスト者は、より多くの他者を生前に悔い改めさせ、世界の幸福を増やすために活動する(生きる)べきです。
フィリピ(1:20)には次のように書かれています。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」
この言葉は、パウロが生と死のどちらか片方ではなく、両方を肯定しようと努力しているさまが見て取れます。
フィリピ(3:12)では完全になるための努力には終わりがないことが書かれています。菩薩の修行に終わりはなく、自己実現には終わりがない。これも菩薩道と同じテーマです。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捉えようと努めているのです。(中略)なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、(中略)目標を目指してひたすら走ることです。」
これはまさに個性化過程を生きている人の言葉使いである。一般的な人の宗教のイメージとは違うかもしれないが、私が真の宗教的態度と見なすのはこういうものです。
フィリピ(1:9) 「知る力と見抜く力とを身につけて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。」
(1:27)「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」
(2:3)「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
(2:21)「他の人は皆、イエス・キリストではなく、自分のことを追い求めています。」
菩薩道的な言葉としては、コリントの信徒への手紙1からも次の引用をしたい。
(9:16)「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それは私の誇りになりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないと、私は不幸なのです。」
(9:19)「わたしはだれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」
(10:24)「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい。」
深層心理学者としてのイエス
イエスの教えは型破りである。福音書にはたびたび、教えを聞いていた人たちが「驚いた」という記述があるが、二千年たったあとの我々が読んでも、まだ驚かされる。イエスのような教えを説く人はおそらくあなたの周りにはいなかっただろうし、他に聞いたこともないでしょう。少なくとも私はそうです。
イエスの教えを深層心理学の立場から読み解くと、無意識のことを言っている言葉は多く見られる。
ルカ(8:16) 「‥隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。‥」
マタイ(12:36)「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。‥」
イエスはブッダと同じように、無意識(抑圧)の悪影響を知っていた。だから彼らは人は自分の罪を認めるべきこと、罪を懺悔するべきこと、「悔い改める」べきことを説いてきた。
イエスの要求は大きい。イエスの教えを文字通り受け取って実行するのは無理に近い。イエスは迫力のために表現を盛っているような節があるのは確かだ。が、これにも意味がある。イエスは我々に、我々の不完全さを自覚させようとしているのだ。我々はイエスの言葉を真に受ける=真面目に考慮することで、自分の本当の弱さ、不完全さを自覚させられる。
完全な存在を目指すべき我々は、まず不完全さの自覚から始めなければいけない。パズルを完成させるには欠けてるピースの認識から始めるのと同じことである。
マタイ(7:1)「人を裁くな」
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤(はかり)で量り与えられる。あなたがたは、兄弟の目の中にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
この素晴らしい教えはあえて解説しない。多くの人がすぐに意味を理解すると思う。理解しないなら、できるようになったときにまた読めばよい。
律法を超える
さて律法(りっぽう、トーラー)とは、旧約聖書の最初の五冊のことで、ユダヤ教にとって最も聖なる書物です。
神の創造とそれに続く神話群を描く「創世記」、ユダヤ人がエジプトから脱出しモーセが神から十戒を授かる「出エジプト記」、そして「レビ記」「民数記」「申命記」という五冊です。
トーラーとは指導、教えの意味らしいですが、それが律法と訳されました。
律法の中には613の戒律があります。もちろん最も有名なのは出エジプト記の「十戒」ですが、それ以外にも六百ほどの神による指令が含まれています。今でも、超正統派ユダヤ教徒などはこの戒律を守って「聖なる生活」をすることを目指しています。
一般に、キリスト教徒は旧約聖書の律法に縛られていません。キリストと新しい契約を結んだから、神との古い契約である旧約聖書の律法は破棄されたと見做します(もちろん、「殺すな」「盗むな」などの最低限基本となる道徳は維持されます)。キリストやパウロの教えのテーマの一つは、「律法を乗り越える」ことです。
イエスが活動していた当時のパレスチナでは、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教徒がいた。律法を守ることを人々に厳守させた宗派である。イエスは福音書の中で、ファリサイ派と律法学者を繰り返し偽善者と呼んで批判している。
ユダヤ法には安息日を守れというのがあり(十戒の四番目)、週一回の安息日には働いてはいけません。旧約聖書では、安息日に薪を拾った人が処刑されるという(残念ながら)残虐なくだりがあります(民数記15:32)。
イエスは安息日に病人を癒していたので、癒すことは仕事とみなされ、安息日の掟を破っているとファリサイ派から非難されました。またイエスの弟子たちは安息日に空腹だったので麦の穂を積んで食べ始めましたが(マタイ12:1)、これをファリサイ派に非難されると、イエスは弟子たちを擁護し、ファリサイ派を批判します。
マタイ(15:2)では、イエスは食事前の(儀式的な)手洗いをしないことをファリサイ派に批判されます。(衛生の観点から見ると「いや、汚ねえから手洗えよ‥」と思うかもしれませんが、ここで問題となっているのは衛生ではなく、「昔の人の言い伝えを守ること」です。※調べたところ、旧約聖書には、祭司が祭儀の前に身を清めるために手を洗うというのはありますが、衛生のために手を洗えという指令はないようです)
宗教権威側からするとイエスは律法を破り、神を冒涜する人間でした。しかしキリストは本当は律法をないがしろにする気は毛頭なく、律法は守らなければならず、律法の最後の一文字まで消え去ることはないと言います。一見矛盾したような立場です。彼はなぜ律法を破るかのような行動をとったのでしょう。キーとなるのは次の言葉です。
(マルコ2:27)「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
イエスは律法そのものではなく、律法主義を批判しているのです。律法がなぜ存在するのかを考えずに、それを守ることだけを考える人を批判しているのです。
マタイ(5:17)
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
新共同訳で「完成」と訳されているこの部分は英語では"fulfill"である。「完成」は誤訳とは言わないが、本来のニュアンスを完全に伝え切っているとは言い難い。fulfillは満たす、(予言などを)成就するという意味。
念のためギリシア語も調べると原語はπληρῶσαιで、これは満たす、(水をコップになみなみに注ぐように)いっぱいにする、といったような意味らしい。
イエスは法を破ることで法を「成就している」と主張するのだから、これはとても深い言葉だと言わなければいけない。法令遵守を絶対視する人(当時のファリサイ派はもちろん、現代人も‥)にはその真の意味は理解できないだろう。
キリスト教徒と律法の関係がどうあるべきかという問題に関しては、最重要の考え方はパウロによるローマ人への手紙に記されている。ローマ人への手紙は新約聖書で一番長い手紙ですが、少し錯綜していて完全に論理が固まっているわけではないような書です。しかしそもそも信仰というスピリチュアルで曖昧な問題を扱っている以上、こうなるのは仕方ないというか、必然であるようにも思います。
長い引用は避けたいので出来るかぎり簡単に述べていきます。
結論からいうと、パウロは律法ではなく信仰によって救われると説きます。
パウロは、律法は決して人を「義」と認めず、信仰だけが人を「義」とするのだと主張します。アブラハム(最初の預言者)は律法ではなく信仰によって義と認められたのだと。
パウロによると律法は、人に「罪の自覚」を与えるために存在します。律法によって我々は罪を知ります。ですが、それだけです。
律法は神からユダヤ人に与えられましたが、ギリシア人などの異邦人も律法のようなものを持っている。律法を聞いたことがない異邦人でも、正しく生きれば律法を守っているのと同じことだと言います。
(ローマ2:11)「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」‥「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」
いったん律法というものを置いておいて、現代人の我々が理解できるようなものに置き換えてみましょう。現代国家の法律のことを考えてみて下さい。
現代の我々はどうすれば善人として、義として認められるだろうか。
法律はたくさんあり、専門家でもないと知らないような法律もたくさんあります。一般人でもなんとんく知っていて、日常的に守らなければいけない法律といえば道路交通法とか、刑法、軽犯罪法などでしょう。
では我々はこれらの法律を守れば、周りの人から義人だと称賛されるのでしょうか。決してそうではないことは誰でも分かると思います。
法律は基本的に「⚪︎⚪︎をするな」という形式を取ります。そしてそれを強制するために、違反者への罰則を設けます。しかし、これは「善を勧める」のではなく、「悪を咎める」だけです。善を勧めるのと悪を咎めるのは全く別のことなのです。
全ての国民が全ての違法行為から足を洗ったら、国家は最高のユートピアになるのでしょうか。きっと、ならないですよね。我々はどれだけ法律を守っても、不健康に生きたり、周りの人を敬わなかったり、怠惰、強欲、高慢などの中で生きていたら、善人にはなれません。
我々の法律は決して善人を作るようにデザインされているのではないのです。「他者を愛しなさい」‥などの命令ができるのは、宗教だけなのです。
むしろ善人というのがいるとしたら、それは人のために法を破る勇気を持っている人ではないのか。
たとえばアメリカで、逃亡奴隷を罰さずに見逃した人たち。ナチスのホロコースト下で、ユダヤ人の亡命を助けた人たち。こういう人達は法に反することをしていたかもしれません。では彼らは悪人だったのか。そうではないでしょう。
よき行いは、強制することができませんし、(少なくとも現世では)報酬もないように感ぜられる時も少なくありません。よき行いをしろという法律は作れませんし、社会は善人を評価することができないのです。
本当に「義」を目指すスピリチュアルな人間にとっては、法を守ることは確かに重要でありますが、それだけが「義」の条件ではありません。それ以上のものが必要です。それは評価されない行動です。それは誰もあなたに強制しているわけではない自己犠牲です。それをパウロは「信仰」と呼んだのだと理解します。
むすび 福音とは何か
この記事を読んだだけで聖書がどのような本か理解するのは困難だと思います。聖書は様々な問題を提起します。私はこの記事の中でいくつかの問題に言及しましたが、この記事はまだ表面をかすっているだけで、まだ扱ってない問題がたくさんあります。この記事で新約聖書に関心を持ち、自分で読んでみることに踏み出した人が一人でもいれば、私は嬉しいです。
私は布教するつもりは一切ございませんから、キリスト教が合わないという人に無理に勧める必要はないと考えます。聖書からどんなメッセージを受け取るかは人それぞれです。何も受け取れないという人もいるでしょう。何も受け取れない人は、自分が何か重要なものを受け取れる本を他のところに探せばいいと思います。他に本はたくさんあります。
新約聖書をとりあえず読み終えた人は、次のような疑問を持つかもしれません。少なくとも私は持ちました。
「福音」ってそもそも何?
もちろん福音はいい知らせという意味で、いい知らせはキリストによる救いのことです。福音とは何かをグーグルに聞けば分かりやすい模範解答を貰えるでしょう。
でもそういう答えは全て間違っているように思います。本来、福音の「正体」は誰にも分からないのではないか、と思うのです。
1世紀、イエスという男がおり、彼はカリスマを持って多くのフォロワーを従え、当時の宗教権威によって敵視され処刑されました。
イエスは「福音」を教えていたとされる。しかし、イエスが具体的に何を教えたのかははっきりしない。
もちろん、イエスの教えは福音書にたくさん書かれている。が、福音書に残っているのは初めては口伝で語り継がれていた、印象深い話のダイジェストのようなものである。後世の創作も幾分か含まれていよう。イエスが「実際にどう教えたのか」は誰にも分からないのである。福音書では、イエスが喋っているとき、他の人物は一切喋らない。だが現実世界の会話はそうではない。いろんな人がいろんな言葉を口にし、人は遮り合い、会話は途中で途切れたり話題が変わったりするはずです。
イエスは安息日に会堂(シナゴーグ、ユダヤ教の教会)で教えていたと福音書には何度も書かれているが、彼が具体的に何を教えていたのか、聴衆とどういう関係だったのか、聴衆はどういう層の人たちだったのか、喧嘩や口論はあったのか、イエスが議論に負けるようなことはあったのか、そういうリアリティのある想像をすると面白い。
イエスの基本的なメッセージは、「神の国が近づいたので悔い改めよ」というものであった。イエスは世界の終わりが近いと考えており、初期キリスト教もそこに力点があったと思われる。しかし時が下って、世界の終わりが近いという考えは背景に霞んでいったように見える(今でも審判の日が近いと主張するキリスト教系カルトはいくらでもあるが、メインストリームの関心からは消え去っている)。
パウロは手紙の中では、人はキリストの信仰によって救われると主張します。だがヤコブの手紙を読むと、行いの伴わない信仰は無意味、と書いてあります(私はヤコブの手紙は重要な教えであるように感じましたが、ルターは福音ではないと呼んでバッサリ切っています)。
では、どう救われるのか。悔い改めたら救われるのか、パウロの言うように信仰のみか。それとも信仰を伴う行動か。
何をしたら悔い改めたことになるのか。何をしたら信仰があると認められるのか。どう行動すればいいのか。これは聖書の解釈によって無限に別々の答えが出せてしまいます。
私が「福音の正体が分からない」と言う時、それはこういう問題意識を持って言っているのです。つまりは救いは定式化できない、マニュアル化できないということです。聖書自身がさまざまな教えをまとまりなく説き、互いに矛盾するかのような教えを含んでいるのです。
歴史的に、カトリック教会などは「⚪︎⚪︎をすれば救われる」などと説いていたかもしれませんが、実はそれは本来の聖書的な立場ではないのです。聖書の救いはどのように得られるのかがはっきりしません。そして私はそれがキリスト教の弱みではなく強みであると主張します。これは、いいことなのです。
もし救済が単純に図式化できるなら、誰にでも当てはまる普遍的な手順があるなら、二十七の書(新約聖書)と四つの福音書はなぜ必要なのか。一つでいいはずではないか。
救いは全て「個性化」なので、個別化されなければいけないのだ。誰にでも当てはまる一つの方法があるはずがない。
聖書は、自分の内面と向き合わさせるための書物です。人は、聖書を通して、まず自分の本質と出会わなければいけません。その最重要の出会いを抜きに、ただ文章だけを目で追ってもあまり意味はありません。聖書は救いを約束するというよりは、救いが必要な自己と出会わせてくれる書だと考えるべきです。
なので聖書の文章を目だけで読んで心で読まない人は、味わうこともありません。「これは自分と関係がある」という意識が、読書を印象深くします。
「良い知らせ」が一体なんなのかは、私がこれからじっくり考えていきたいことです。
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あなたのように過度に宗教的にならずにまさに中道の視線で仏教や宗教・心理学的な考察ができることをとてもうらやましく思います。