ラブクラフトは何を描こうとしたのか

 私はラブクラフトの頭の中までは知らないので、彼はこれこれを描こうとしたのだ、と断言することはできません。ですが彼がコズミック・ホラーで何を表現しようとしたかは、コズミック・ホラーとはそもそも何かという考察によってある程度説明できると思います。

 「クトゥルー神話」とも呼ばれるラブクラフトの小説群は、コズミック(宇宙的)ホラーと呼ばれます。コズミックホラーというものを短い言葉で定義するのは困難だと思いますが、私は個人的には「宇宙」部分を大気圏の上にある宇宙空間(英space)という意味には取りません。コズミックホラーの描く宇宙とは、我々の知る次元、存在の地平を超えたものです。それは理解不能で、精神世界として理解した方が正しいと思います。
 ユング心理学的にいうと、コズミックホラーは集合的無意識に圧倒されてしまった意識の感じる恐怖感を表現したものです。
 ちなみに、Wikipediaはコズミックホラーは「無機質な大宇宙や、超常的な存在と対峙した時の人間の恐怖や孤独感を意味する」と言っています。



 
 ラブクラフトの描く異次元/精神世界は、精神病者や幻覚剤経験者にとっては、そうでない人より理解やイメージがしやすいでしょう。ラブクラフトは説明不可能な異次元世界をなんどか描写しましたが、それをどう受け取るかは読者の想像力や人生経験に大きく左右されます。
 精神病の体験と幻覚剤体験と深い夢、そしてラブクラフトのような作家が描く精神世界は、同一の源から来ているものなので、似ていて当然なのです。同一の源とはもちろん、「こころの深い層」です。
 ユングが集合的無意識と呼んだこころの深い層は、正常な人間の覚めた意識からはほとんどアクセスできないところですが、それは自我意識の弱った人(精神病の人や、トリップしている人のこと)の意識を呑み込んで崩壊させることができる、とてもおそろしい強大な勢力です。
 ラブクラフトの描く邪神や怪物たちは、心理学的に解釈すると「意識を飲み込もうとする強力な無意識」に見えます。異次元の邪神に呑み込まれることは、現実的には精神崩壊=発狂=精神病発症を意味します。じっさい、ラブクラフト作品の多くでは登場人物が発狂します。人間には耐えうるものではないものを見たり知ったりした人が発狂するというのは、決して創作世界だけの話ではなく、非常に現実的なことなのです。

 ラブクラフト本人は分裂病だったのか、幻覚剤経験はあるのか、と気になる人がいるようですが、少なくとも我々の知る限りではどちらもノーらしいです。ただ彼は精神世界との親和性が高い気質だったことは明らかで、それだけである意味潜在的な精神病(という名の「才能」)を持っていたと言っても心理学的には完全に間違いではないと思います。薬物に関しては、彼は使用しないと公言していたそうです。彼の在命中にはまだLSDは発見されてないので、サイケデリックスを知っていたとしたらメスカリンくらいしかなかったでしょう。
 それでも彼の作品にはときおり具体名は伏せられた「麻薬」が登場し、夢の世界や精神世界へ行ける薬として書かれています。(後にレビューする「ヒュプノス」や「セレファイス」などの短編で)



 心理学的解釈の意義
 小説にはいろんな読み方があります。多様な読者が多様な解釈をするものです。なのでラブクラフトを恐怖目的で読む人もいれば、SFとして読む人、ファンタジーとして読む人、影響力のある文化素材として読む人、文学として読む人、いろいろいるでしょう。私の関心は最初から、もっぱら心理学的でした。
 私は基本的にラブクラフトが描く邪神や精神世界、夢や異次元などを心理学的に解釈してこころの「深い層」、集合的無意識の表れとして見ます。なので私のコメントや解釈は人によっては「心理学的すぎる」と思われるかもしれません。その場合私は、これは私の読み方に過ぎないと弁解しなければいけません。私は決して「他の読み方」を否定してはいません。私はなんでもかんでもユング心理学と結びつけたがると言われるかもしれませんが、それは全て承知のうちです。
 私はラブクラフトを、「ユング心理学の正しさを証明するための道具」として使っているわけではありませんが、そのように見えるかもしれません。私がしたいことはあくまで、ラブクラフトがなぜ面白いか、彼の作品に登場するものにどういう心理学的な意味や意義があるのか、を理解することです。クトゥルー神話世界の最も深い闇の部分、恐ろしい未知の部分は、ユング心理学のような深層心理学でしか比較研究できません。少なくとも私はそう思います。ラブクラフトがこころの「深い層」を描いていると主張するのは、彼の作品の価値を下げるものではなく、上げるものだと思っています。
 ラブクラフト作品の中にはユング心理学と親和性の高い描写が幾度も出てきます。ですがラブクラフトがユング心理学を知っていたのかどうかは知りませんし、知っていたかどうかに関心もありません。どちらでもいいのです。でもどちらかというと、知らない場合の方が私は喜ばしく感じます。もしラブクラフトがユングの直接的な影響を受けてないでユングと似たようなことを言っているなら、それこそ「深い層」の体験の普遍性を証明するからです。
 ラブクラフトはいちおうはホラー作家ですので、彼は「深い層」を基本的に恐怖の対象として書いています。でも、彼の作品の中では「深い層」の中にはかなり魅力的な宝があるように仄めかされることが何度かあります(それが最も顕著なのはのちにレビューする「闇に囁くもの」)。







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 以下個別の作品レビュー。話の核心に迫るネタバレできる限り避けますが、多少は内容に触れることになります。


 「インスマスの影」南條竹則訳 新潮文庫 
 このシリーズはやや読みにくい旧訳(創元推理文庫の全集のこと、70年代の翻訳)の文章に比べてだいぶ読みやすいと思うので、おすすめします。新潮文庫のシリーズは現時点で三冊あり、ラブクラフトの全作品はカバーしてませんが、ラブクラフトのコズミックホラーを一冊だけ読むというなら傑作がもっとも多くまとまっている「インスマスの影」を勧めます。以下この本に収録されている作品のレビューです。(レビューは心理学的にコメントのしたいものに限り、収録全作品のレビューではありません)


 中編–ダンウィッチの怪
 この短編は恐怖も面白さでも、個人的にラブクラフトのトップ3には必ず入る作品です。
 冒頭の引用文(エピグラフ)からしてさっそく、ユング心理学的な理解が容易にできる、元型論と恐怖論になっている。全部載せたいところですが、長いのでやめておきます。

 この話はダンウィッチ村で起きた怪事件の物語ですが、ヨグ・ソトース(この本の表記ではヨグ・ソトホート)なる神格が間接的に登場します。
 この短編の中で最も神話部分を表現しているページは90〜91pですが、「ネクロノミコン」なる架空書物の一節とされるこの部分は(たぶん)ラブクラフト自身が書いたヨグ・ソトースの最も詳細な解説になっています。この部分をよく読む限り、私はヨグ・ソトースをユング心理学的な無意識、そして元型として解釈することにやぶさかでない。


 ””かれら”は我々の知る空間をではなく、そのを悠然と原初から存在として歩み、次元の法を超えているため、我々の目には見えない” 
 ・・これは無意識の表現として受け取れる。

 ”過去、現在、未来はすべてヨグ・ソトホートのうちにあって一つである” 
 ・・無意識や元型にはある種の無時間性がある。それは太古から存在したし、これからもずっと存在する。

 ””かれら”の姿形は何人も知ることができない––”かれら”が人類の胎を借りて産ませたものの外形を通じて見る以外には。” 
 ・・この部分は、無意識や元型はそれそのものを知ることはできない。意識化された部分によって間接的に知られるに過ぎない。という意味に受け取れる。







 中編ークトゥルーの呼び声
 この短編にも冒頭にエピグラフがあるが、ユング的な内容なので全文引用しよう。

 ”「そのような偉大な諸力や存在がどこかに生き残っていることは考えられる……それは悠遠の昔からの生き残りで…意識がさまざまな姿や形に顕現したが、それらは遥かな昔、潮の如く押し寄せる人類の到来を前にして影をひそめた……詩や伝説だけが、こうした形のたまゆらの記憶をとらえ、それをあらゆる種類の神々や、怪物や、神話的な存在の名で呼んだ……」––アルジャノン・ブラックウッド”

 この文を深層心理学的に理解すると次のような意味です。元型のような無意識の諸力はずっと存在していたが、「人類の到来」…という名の自我や理性や科学の発展によって、無意識の勢力は影をひそめた。…といっても無意識がなくなったということでは決してなく、無意識が自律したものとして振る舞うのをやめたというだけで、これによって近代人の意識からは神々や精霊や妖怪などがいなくなったのである。
 より原始的な人間の精神性を記憶しているものが、神話や伝説、おとぎ話などである。


 この短編は冒頭からさっそくコズミックホラーへのマニフェストみたいなことが書かれており、意味が理解できた人はすぐ恐怖的世界へ誘われる。これも全文引用するに越したことはないだろう。

 ”思うに、この世で一番慈悲深いことは、人間の精神がそのうちにあるすべてのものを関連づけて考える能力を持たないことだ。我々は無限という暗黒の海に浮かぶのどかな無知の島に暮らしており、遠くまで旅するようには定められていない。諸科学はおのおのの方向に邁進しているだけだったので、これまでは我々にはほとんど害をなさなかった。しかし、いつの日か、分散した知識が綜合されて、恐るべき現実の見通しがひらけ、その中にいる我々の戦慄すべき位置がわかると、我々はそのために気が狂うか、あるいは、死をもたらす光から逃げ出して、新たなる暗黒時代の平和と安寧のうちへ潜り込むかのどちらかであろう。”

 けっこう言葉使いが違うので、宇野訳(ラブクラフト全集2)も載せておきます。
 ”思うに、神がわれわれに与えた最大の恩寵は、物の関連性に思いあたる能力を、われわれ人類の心から取り除いたことであろう。人類は無限に広がる暗黒の海に浮かぶ《無知》の孤島に生きている。いうなれば、無明の海を乗り切って、彼岸にたどりつく道を閉ざされているのだ。諸科学はそれぞれの目的に向かって努力し、その成果が人類を傷つけるケースは、少なくともこれまでのところは多くなかった。だが、いつの日か、方面を異にしたこれらの知識が総合されて、真実の怖ろしい様相が明瞭になるときがくる。そのときこそ、われわれ人類は自己のおかれた戦慄すべき位置を知り、狂気に陥るのでなければ、死を秘めた光の世界から新しく始まる闇の時代へ逃避し、かりそめの平安を希うことにならざるをえないはずだ。”

 この話はタイトルの通り、クトゥルーが登場します。ラブクラフトの創造した神格でとくに重要で、無意識や元型のあらわれと言えるのはアザトース、ヨグ・ソトース、クトゥルーです。
 アザトースは漠然とした魔王で、深い夢の奥の方に存在を匂わせる程度。直接現れることはなく、ニャルラトホテプという中間的存在を介してだけ知られるっぽい。ヨグ・ソトースも、肉体を持った存在に「産ませた」ものによって間接的にしか知られない。これら二神のどちらが「最高神」なのかは人によって意見が異なるが、私から見ると、どちらが最高神だという序列を考えるのは無用で無益である。
 アザトースやヨグ・ソトースは不可知で実体がないのに対し、クトゥルーだけははっきりと地球上に肉体らしいものを持ち、目に見えるものとして「登場」します。(ヨグ・ソトースなどはクトゥルーからもぼんやりとしか見えないらしい。)というわけで、クトゥルーはある意味「分かりやすい」わけです。だから実際はラブクラフトの創作上最も重要とか最も強力なわけではないにも関わらず、神話そのものの名称にされた上、最も有名になりました。※ラブクラフトの作品を広めた人がクトゥルーが好きだったことも理由のようです。


 ––””大いなる古きものら”は感受性の強い者を選び、その夢を形作ることによって語りかけた。”かれら”の言葉を哺乳類の肉体を持つ精神にとどけるには、これが唯一の方法だからだ。”
 クトゥルーや他の邪悪な存在たちは、夢を見させることによって人とコミュニケーションを取ります。夢を送るのです。これはまさに夢が無意識への王道であること、という事実が反映しているのでしょう。(ギリシア人は、「夢はゼウスから来る」と言いました)。しかもラブクラフトは、夢と夢が開示する無意識内容をどれだけ真に受けるかに人によってかなりの差があることを理解していたようで、作中では科学者はほとんどクトゥルーの影響を受けなかったとされています。最もクトゥルーの影響を受けたのは「芸術家や詩人たち」でした。的を射ています。



 クトゥルーを見ただけで人は狂うというのが広く信じられているようですが、正確にはそういう明確な設定があるわけではないようです。この中編では、報告者によるとクトゥルー登場時にクトゥルーを「見ただけ」で恐怖によって六人中二人が死んだとされている。
 ところで、気が狂うという言葉の意味について、多くの人が理解していないのが現状です。理解は難しいのでしょうがないのですが。本来は発狂(going insane等)とは狭義には精神病(今でいう統合失調、旧分裂病)になるという意味で、心理学的には自我の統合性が失われ、精神が崩壊したという意味です(もちろん、創作内で登場人物が狂ったときに、それが実在の精神病にどれだけ近いかは、著者の精神病知識がかなり反映されます)。気が狂った人は現実感を失ったり、自分が誰か分からないことになります。外から見た人は発狂した人の行動のおかしさだけに注目して「頭がおかしくなった」と言うでしょうが、いちばん苦しんでいるのは本人なのです。
 現実感を失うことの怖さは、経験がない人には想像しようもないでしょう。現実感がないというのは、主観的には「現実がない」ことと同義だと思えばいいです。何かと関係を持ったり、何かを理解したりするための最低限必要な根本的なインターフェイスである「現実」がないのです。そうなると、何も理解できるものがなく、知っているものもなく、全てが異様で敵対的に感じる。そのような生き地獄は、想像できない方が幸いでしょう。







 短編ーニャルラトホテプ
 非常に短い作品ですが、悪夢のような雰囲気が味わい深く、高く評価しています。

 ”また私は見た、この惑星が暗黒と戦うのを––いやはての宇宙から押し寄せる破壊の波と戦い、暗くなって冷えてゆく太陽のまわりで旋転し、奔騰し、もがくさまを。”

 この誇張された宇宙的なヴィジョンでは、地球は自我を表していると解釈したくなります。宇宙の中の地球というのは、「海の中の島」の言い換えです。

 ”ニャルラトホテプが私の街へ––数知れぬ犯罪の温床である、大きな、古い、恐ろしい街へ来たときのことを憶えている。友人が私に彼のことを語り、彼の啓示が人を魅了し、誘惑すると言ったので、私は彼の神秘の奥底を探りたいという思いに燃えた。友人は言った––それは君のもっとも熱をおびた想像を超えるほど、恐ろしくて印象的なものだ、と。”

 この小品は元型的な夢の持つ強い印象とそれが持つ魅力の感じをうまく表現できている。それもそのはず、この作品はラブクラフトが実際に見た夢をなぞっているそうです。








 中編ー闇にささやくもの

 
この作品は個人的にはラブクラフトの最高傑作だと思います。
 最初は怪奇ホラーのように始まり、ミステリっぽくなって、急展開でSFっぽくなって、最終的にホラーとして終わります。中盤に非常に面白い「ひねり」があって、そこからはノンストップです。
 ラブクラフトのいいところの一つは、多くの場合に設定が語られすぎず、一部の謎の真相ははっきりとは解明されないので、あくまで読者自身の想像力に訴えるところでしょう。だから読者本人の想像力で怖さは大きく変わるでしょう。

 ラブクラフトの作品にはいつも怪異が登場しますが、登場人物たちは科学的なインテリであることが多く、はじめは超自然的存在を否定し続けます。毎度丁寧な「証拠集め」があり、これで少しづつ読者を引き込みます。証拠は断片的なことが多く、読者は自分でパズルのピースを埋めていかなければなりませんが、全部が埋まるわけではないので、ゾクゾクと怖くなってくるときもあるわけです。
 この中編では、二人の人間の手紙のやりとりで話が進んでいきます。一人は謎の怪種族の存在を主張し、もう一方の民族学者は現実的な立場からその存在に懐疑的ながらも、様々な考察をしながら手紙のやり取りを続けていきます。
 "...彼は何か本物の、しかし奇妙で異常な現象に遭遇し、それをこんな空想的なやり方でしか説明できないのだ..."

 ”...ああした神話はすべて人類の大部分に共通する周知の類型に属するものであって、つねに同じ型の幻想を生む、空想体験の初期の様相によって決まるのだ...”
 この文は言うまでもなくユングの元型論がそのまま出ているように見えます。

 ※以下ネタバレ・この作品を読みたい人は次の部分を読まないことをおすすめします※

 さて、この宇宙外から来た怪種族と関わっていた(と主張する)ほうの男エイクリーは、初めはこの種族を恐れ、自分が彼らに監視されていると主張し、銃撃戦をすることもありました。しかしある日突然、自分は彼らを誤解していたと言い始めます。彼らは悪い奴らではなかった。彼らはエイクリーとテレパシーでコミュニケーションをとり、エイクリーを宇宙の彼方とその先へ連れ去ろうとしており、エイクリーは初めは抵抗していました。ですが、これが抵抗するべきでない名誉だったと考えを変えます。
 ”私が病的で、恥知らずで、不名誉だと思っていたことは、実際は畏怖すべき、精神を拡張する、輝かしいとすら言えるものだった––私のそれまでの判断は、まったく異質なものを憎み、怖れ、尻込みする、人間のつねに変わらぬ傾向の一局面にすぎない。”
 ”私は知識と知的冒険という贈物をふんだんに与えられた。ほかにこうした恩恵を分け与えられた人間はほとんどいない”
 このような「重要な知識」は、ラブクラフト作品に何度も出てくるのですが、その肝心の内容はほとんど触れられません。なぜでしょうか。それは、そもそも書きようがないからでしょう。
 重大な秘密が書かれないのは、そのような秘密主義が作者の選んだ表現技術や美的センスだからというよりも、ただ単に現実的に不可能だからだと考えるべきです。人間の理性に把握されうるような知識は、深い秘密とは言えません。つまり、それは意識には完全には把握されきれない、無意識なのです。

 ”我々が宇宙存在の総体とみなしている時空の小球体は、かれらのものである真の無限に於ける一原子にすぎない。そしてこの無限のうちで、人間の頭脳にとらえられる限りのものが、やがて私に明かされようとしている。それを開示された人間は、人類が生まれて以来、五十人を越えないのだ”

 科学というものは物理的宇宙の法則を明らかにしようとするものですが、我々の存在は物理的宇宙だけで営まれているわけではありません。唯物論者は否定するでしょうが、我々の存在の真の「インターフェイス」は、物理ではなく意識です。我々は物理的世界ではなく意識の世界を生きているのです(このような考え方は唯物論に対して唯心論という)。精神というものを、物質に付随した二次的なものではなく、探究されうる世界として見做せば(そのように見ている人のいかに少ないことか!)精神世界は物質世界より広いと言ってもいいかもしれません。もちろん精神世界には計測できるような「広さ」があるわけではないので物質と比較はできないのですが。ラブクラフトが描こうとする宇宙の先の異次元は、精神世界として理解することでしっくり来ます。
 さてこの中編の特別おもしろいところは、異次元=「深い層」が、ただのコズミック・ホラーの恐怖の対象ではなく、悟りや解脱の知識を得られる場所だということが示唆されているところです。「深い層」は他の作品では他の描かれ方をしてますが(クトゥルーの夢や、ヨグ・ソトースなど)、それが心理学的に表しているものはいつも同じだと認識しています。ユングの術語では集合的無意識です。集合的無意識の元型は、ふつうは”稀に見る深い夢”や幻覚剤体験などでしか垣間見ることができません。それは強く引きつける魅力を持ち、想像を絶する宝を秘め隠していますが、十分な準備なく彼らの影響力に捉まってしまうと、その強力さの前に自我は取り憑かれ、最悪崩壊します。最も貴重な宝は最も危険なところにあるのです。

 ー”まったく奇怪なものとの接近は、しばしば霊感より恐怖を吹き込むものである。” ・・これは個人的にお気に入りの一文です。我々は一個の人間の自我と、それが背負える程度のもの以上を知る必要はない。我々が世界の究極だと考える範囲の外にある「完全なる異質なもの」は、その存在が示唆されただけで、我々の全存在を脅かすことになるのではないか?

 ”エイクリーは危険な研究をしているうちに、何か途方もない展望の変化を実際に体験した可能性が高い....” "..時間と空間と自然法則の狂おしい、うんざりする限界を振り捨てること––広大なる外部とつながること、––無限なるものと窮極なるものとの闇につつまれた深淵の秘密に近づくこと––たしかに、そういうことのためなら命も、魂も、正気も賭ける値打ちがある!”

 ”...”外部の怪物たち”と協定を結んだあとに教わったことは、ほとんど正気の頭脳には耐えられないものだった。今でさえ、私は断じて信ずることを拒む––窮極の無限の構造、諸次元の並列、そして我々の知る空間と時間の宇宙が、つながれた宇宙原子の果てしない環の中でどんな恐ろしい位置にあるか..”


 我々から見て恐ろしい怪物の世界は本当は恐ろしくなく、我々の世界のほうも、最初は彼らには恐ろしく見えただろうという下りが出てきたときは、まさに精神が拡張された気分になったものです。
 ”...その暗い世界は本当は恐ろしいところではありません。我々にだけ恐ろしく見えるのです。たぶん、この世界も、あの存在たちが太古に初めて探検したときは、同じくらい恐ろしく見えたことでしょう。.."

 終盤のびっくり要素やオチは書かないでおきます。









「狂気の山脈にて」南條竹則訳 新潮文庫 
 この本は6つの芸術的短編と、「インスマスの影」に収録されていなかったもう二つのコズミックホラー代表作が入っています。

 短編ーランドルフ・カーターの陳述
 この小品は深い夢や悪夢というものをうまく表現している。そして肝心の部分の具体性に欠けるので、読者の想像力が大部分の仕事をしなければいけない。
 カーターは目的もよく分からないまま友人と墓場に行き、友人はカーターを置いて一人で墓の中に入っていく。
 友人はこう言う。 ”君が今まで本で読んだことや、僕が教えてやったことからも、僕がこれから見たりやったりしなければならないことは想像できまい。..."
 地上で待っているカーターは無線機で友人の言葉を聞いているだけだ。
  "「君には言えないよ、カーター!まったく思考を絶しているだ––」”
 ”「やめろ!君には理解できないんだ!」”

 



 短編ーエーリッヒ・ツァンの音楽
 音楽家のツァンは英語も喋れない孤独な老人で、屋根裏部屋で一人でヴィオルを弾いている。その演奏技術はかなりのものだった。同じ建物に住む主人公の青年はツァンの音楽に惹かれ、毎晩聞き入る。その魅惑する聞いたこともないような音楽の正体を知りたくなる。
 これは芸術的なヴィジョンと言える怖ろしくも美しい短編である。設定上は夢の世界というわけではないが、夢のような内容であるため私は夢系作品として認識している。
 オチの部分はとくに、夢から醒めた時の感覚を思い出させる。夢から醒めたとき、重要な秘密が失われてしまったとか、もっと続きを見たかったとか感じることがあるでしょう。夢で行ったところが実際は存在しないと知ったときのがっかり感とか。


 

 [この記事は未完ですが、もう一年ほど下書きを放置していたのでいっそのこと公開することにしました]