以前に、ユングの「心理学と錬金術」をレビューする記事を書きましたが、その記事ではあまりに錬金術の説明が不完全だったと思えます。今回は、錬金術というものをもっと理解できる形で紹介するのが目的です。
 主な参考文献はF・S・テイラーの「錬金術師」(人文書院)です。この本はもっともまとまった錬金術の紹介書としてかなり高く評価します。
 ほか池上英洋「錬金術の歴史」(創元社)は、珍しく日本人が著者です。主要な錬金術文献の図像紹介にかなりのページを割いているのが素晴らしい。


   錬金術とは何か
 
錬金術のもっとも教科書的な説明では、卑金属から金を作ろうとした術ということになっている。錬金術は近代化学の前身であり、様々な実験器具を発明し、いくらかの化学的な発見はもたらしたが、金を作るという目標は達成されたことがない。
 このような説明は嘘でも間違いでもないが、不完全ではある。錬金術はただの「迷信の混じった化学」ではない。化学とは目的が違ったのだ。正確には、錬金術の「一部」が化学の「一部」になったにすぎず、錬金術と化学に連続性があるわけではない。
 その一部とは、実験室の技術であった。初期の化学者が使った器具は、錬金術師の使ったものと同じである。しかしそれを除いては、化学は思想的な面では錬金術から何も引き継いではいない。化学と錬金術は全く違う自然観に基づいていた。
 化学の自然観は説明するまでもないだろう。化学は現代人には問題なく受け入れられるものである。しかし錬金術の考え方を理解するのは現代人には難しい。錬金術的な考え方に近づきたければ、現代人には当たり前である科学的知識を捨てさって一時的に忘れる必要がある。中世の人間が世界をどう見ていたのかを理解しなければいけないのだ。


 「金を作る」というとき、現代人は何をイメージするだろうか。まず金という元素をイメージするだろう。我々は金がどんな元素かを知っている。原子番号79番で、何個の電子を持っているかも知っている。中世の人間にはそれは分からないのである。まだ彼らは物質が何でできているかも知らない(原子論は古代からあったが、錬金術は原子論的な考え方をほとんど採用していない)。錬金術師にとって金とは「完全な金属」、「完全な物質」であった。現代化学では、ある物質が優れているとか劣っているなどとは考えない。しかし錬金術は金は他の全てに優っていた。錬金術は「不完全から完全を目指す」という自然哲学に基づいていた。

 「自然はなにごとも無益に行うことはなく、最終目標を目指している」、「自然と神は完全なるものに向かって進んでいるのであり、完全なるものに向かって奮闘しているのである」と、アリストテレスは述べているとされる。錬金術師にとって、金とは自然の最終的な到着点で、完璧な金属であり、金以外の金属は金になり損なったものだという考えがあった。
 ここでよく理解して欲しいのは、錬金術師は決して我々が知っているような元素としての金を作ろうとしていたわけではないということだ。錬金術師は、自然が何千年もかけて行う仕事を、短時間で行うのが目的だった。自然界は長い時間をかけて金を作るとされる。錬金術師は、実験器具の中で自然を再現し、その働きを促進することで、もっと早く完成したもの、つまり金を作り出そうとした。
 錬金術はあくまで「自然を模倣する」ものであるとされ、自然をねじ曲げて意のままにコントロールしようとするものではない。その意味で、魔術や呪術ではなかった。


 錬金術がなにを目標としたかは、はっきり理解するのが難しい。神秘的−哲学的な錬金術師たちは、単純に金を作ろうとしていた人たちを小馬鹿にしていた。「真の錬金術師」たちが求めていたのは「哲学者の黄金」であって、「卑俗の金」ではないと主張した。卑俗の金とはただの物質の金で、つまり我々の知っている元素としての金である。では、この哲学者の黄金とは一体なんなのか。
 錬金術は、肝心の作業内容をかなり秘密にしていたので、我々は錬金術書を紐解いても、実際に行われていた作業がどのようなものかなかなかイメージができない。
 錬金術が目指したものの一つは「錬金薬」とも訳されるエリクサーの作成や、「賢者の石」の作成である。エリクサーと賢者の石はおそらく同じものを意味するが、これらがなんなのか、どう作るのかははっきりせず、異論が多い。一般的な教科書的な解説では、これらは病気を治す力があったり、ごく少量だけでも、大量の卑金属を金に変える力を持つとされる。

 古代の初期錬金術では金をメッキしたり、金に他の金属を混ぜて合金を作ってみせかけだけ増量するような技術が主に錬金術と呼ばれた。錬金術は冶金からはじまったと言って良い。金属の性質は不思議で人を魅了するものがあり、早い時代から金属は神聖なものとして扱われていた。
 賢者の石の作成が問題になるのは中世以降である。
 錬金術は神聖な術であった。古代の錬金術師は物質を変成する人間として畏れと尊敬を持って見られていたことだろう。中世では主に修道僧が錬金術を行なったが、これは読み書きができ、学問ができる人間が主に修道僧だったからである。
 錬金術の世界観を理解していただくために、錬金術の基礎となる自然観を説明していきます。最初にも言いましたが、現代人としての科学知識は一時的に忘れなければ、先に進むことはできません。




  第一章 錬金術の基礎となる自然観

  ・四元素
 四元素は水、土、空気、火である。これは古代ギリシアから中世ヨーロッパまで広く信じられた。
 この四元素は物質そのもののことではなく、原理のようなものとして考えたほうがよい。
 熱、冷、乾、湿が四つの原理との対応でも考えられた。水が冷−湿、土が冷−乾、空気が熱−湿、火が熱−乾とされる。
 また、土が固体、水が液体、空気が気体、火が物質変成のエネルギー、というふうにも考えられた。
 
 四元素とは、「全体」を意味するのである。世界は4分割できる四元素なので、四元素というシンボリズムは世界全体を表すものでもあった。こういう全体性のシンボリズムは、科学には存在しない。我々の科学的な世界観では、「全体」というものを表すシンボリズムは作れない。




 ・質量と形相
 質量と形相の概念はアリストテレスの哲学だが、錬金術に与えた影響は大きい。
 あらゆるものは質量と形相で出来ているとされる。例えば家を見て、人がそれが家だと分かるのはなぜだろう。それは家の「形相」をしているからである。でも家を分解していくと、木とかコンクリートとか鉄筋とか、各種の「質量」でできていることが分かる。これらの質量だけでは、家ではないわけです。
 さて各種の素材も、質量と形相で出来ていると考えられたのでした。例えば鉄は、鉄の形相をしているから鉄なのです。鉄から鉄の形相を取り除いたら、純粋な質量だけが残ります。もっとも純粋なものに還元され、これから何にでもなれるような質量が「第一質量」と考えられました。
 あらゆるものは究極的には第一質量から作られるので、あらゆるものは同一の質量でできているのです。なので、鉛などの卑金属からその「形相」を取り除き、「金の形相」をそこに導入できれば、理論上は金を作れることになります。しかしアリストテレス哲学は、どうやってそれを行うかの説明はできないので、錬金術師たちはその方法を考えなければいけなかった。

 あらゆるものが同一の質量で出来ているという考えは、決して非科学的ではない。あらゆる分子は原子で出来ており、あらゆる原子は陽子、中性子と電子で出来ていることを考えると(そして陽子と中性子はもっと細かい素粒子に分割できる)、確かに金を構成している素粒子と、水や空気を構成している素粒子は根本的には同一だということになる。組み合わさり方が違うだけなのだ。




 ・プネウマ、第五元素
 これは最重要概念なのだが、とても広い意味を持っており、類似した言葉の数も非常に多いためかなりの混乱をもたらしがちである。この概念は近代では失われているので、我々は古代人の感覚に戻って想像してみなければいけない。
 我々近代人は、物質と心を別物として考える。この二者の間を通信するものは想定しない。
 古代人は物質にも少なからず精神的な部分が含まれていると信じていた。石には石の精が宿っているのである。古代人にとって物質と精神は連続性があり、はっきりと二つに分かれたものではなかった。

 さて古代中世では「魂」と「精神」を別々のものとして区別するのだが、私は長い間これに混乱していた。この二つの違いが分からなかったからである。だが明確な違いがある。混乱が増す原因の一つに、訳語がある。訳語はかなり多様で統一性がない。精神の方を魂と訳す訳者が少なからずいるのだ。

 「魂」(ギリシア語「プシュケー」ラテン語「アニマ」)は全体的なものであり、言ってしまえば「ひとりひとつ」しか持っていない霊魂である。これは「いのち」のことだと考えてもいいでしょう。現代人は生死を医学的に考えて、心停止とか脳死を死と定義しますが、古代人にはそのような考えはなく、「いのち/魂」があるかどうかで考えます。生きているものには魂があり、死んでいるものにはない。肉体が死んでも魂は不滅です。人は「魂」が抜け出ると病気や精神疾患になると信じられている場合もあります。その場合、シャーマンなどが霊界へ赴き、患者の魂を見つけ出し連れて帰ってくることで病気が治る、という信仰もあります。

 「精神」(ギリシア語「プネウマ」ラテン語「スピリトゥス」英「スピリット」サンスクリット「プラーナ」)は、量的なもので、入ったり出たりするエネルギーである。「精神」のうちの「神」の部分を取って、単に「精」と書いた方が、分かりやすいと思う。ドイツ語の「ガイスト」もこれに相当するし、同語源の英語の「ゴースト」も、もともとは幽霊のことではなく精としての霊や、(三位一体の一つとしての)聖霊のことを指した。

 プネウマは気息という意味を持つ。生物は呼吸しなければ生きられない。ということは、空気にはある種の生命エネルギーが宿っているはずではないか。我々は常に大気の中の生命エネルギーを吸い込んで生きているわけだ。なので大気は巨大な精の貯蔵庫ということになる。
 
 我々近代人はどのように動植物が成長するかを知っている。生物学などの教科書を見ればいいだけの話だ。だが古代人はどのように植物が成長するか知らなかった。古代人の目には、自然界には見えざる力が想定された。何かが動植物に精気を与えているに違いないと彼らには感じられた。なので農耕をしていた民族はかならず穀物霊とか、豊穣の女神とかを信じた。そのような架空の勢力を想定するのは全く自然なことであった。収穫祭などは穀物霊や豊穣の女神などに感謝するために必須の行事であった。
 というわけで、ギリシア人の一派は空気を世界霊魂として捉えたわけです。プネウマは「世界霊魂」とか、訳者によっては「宇宙霊」などとも訳されます。(余談ですが、私は子供の頃「風」を死者の霊だと思っていたことがあるので、ギリシア人のこの思考には親和を感じます)

 さてこの「魂」と「精神」の説明でお分かりになられたと思いますが、ここで精神と呼ばれているものは我々が精神と呼ぶものと全く違います。
 英語では蒸留酒のことを「スピリッツ」と言いますが、それもこの考え方から来ていることを知っておいて損はないでしょう。蒸留によって得られるものは、蒸留されたものの「精」だと信じられていました。太古から錬金術師は様々なものを蒸留していました。蒸留は錬金術の最も基本的な化学操作の一つだと言えると思います。
 何かを蒸留する時、近代人はそこになにも神秘的なものは見出さないでしょう。しかし古代人がどのように蒸留を見守ったかを想像してみてください。古代人は蒸留で物質の「精」を抽出していると考えました(日本語でも、エッセンシャルオイルのことは「精」油と言いますね)。

 プネウマというギリシア語は中世になるとほとんど見られなくなり、他の用語に置き換わります。ユングの「心理学と錬金術」に頻出する用語「メルクリウス」はプネウマを指すようですが、錬金術は用語が多すぎて、意味があまりにも多様なので、同じ意味とされる二つの用語でも単純には対応しないことが多いです。(ヘルメス(ギリシア語)メルクリウス(ラテン語)マーキュリー(英語))は、水銀と水星を指すが、「精」も指す)
 中世ヨーロッパではプネウマ/メルクリウスに相当するものが「第五元素」と呼ばれることが増えます。
 第五元素とは、四大元素の元となっている最も純粋な元素のことです。「第一質量」でもあります。
 この「第一質量」に冷熱湿乾うち二つの原理がつくことで、四大元素の一つに変容します。なので第一質量としての第五元素は、冷でも熱でも湿りでも乾でもない、ということになります。

 ある本は端的に、「賢者の石は世界霊魂を濃縮したものである」と紹介しています。プネウマ=世界霊魂=第五元素を、なんらかの方法で単離して濃縮できれば、賢者の石になるというのです。
 この主張/解釈は決して間違っているとは言えないのですが、賢者の石というものもかなり多様な意味と類似語があり、捉え難い存在なので、このような単純な説明は錬金術という深いジャングルのほんの一角しか写していないということを忘れないでほしいです。
 



 ・水銀ー硫黄説
 錬金術はアリステレスの金属発生論からかなりの影響を受けていた。アリストテレスの金属発生論は、我々から見ると偽科学もいいところで、なぜこんなものを思いついたのか、と思うこともあろうが、錬金術の理解には欠かせない。
 アリストテレスによると、金属は石の中にできる。地中に「乾いた蒸気」と「湿った蒸気」が存在し、「乾いた蒸気」が濃縮されると様々な金属以外の鉱物ができ、「湿った蒸気」は石の中で蓄積され固定されることで金属になる。この発想はどうやら露や霜の観察からの類推っぽい。

 のちにアラビアの錬金術はこの金属発生論をアレンジ発展させる。「乾いた蒸気」は硫黄、「湿った蒸気」は水銀を指すとされ、硫黄と水銀の結合で金属ができるとした。金とは、硫黄と水銀が完璧なバランスで結合したものである。金に「なり損なった」金属たちは、硫黄と水銀のバランスが悪い、ということになる。つまりこの理論では、卑金属の中の硫黄と水銀のバランスを調節すルことができれば、金になるはずなのだ。
 ここで「硫黄」や「水銀」と呼ばれているのは、架空の元素のようなもので、我々の知っている硫黄や水銀そのものを指すのではないことに注意されたい。
 錬金術師はよく、原理と実物を区別するために哲学の〇〇という言い方をする。原理としての水銀は「哲学の水銀」であり、物質としての実物の水銀は「卑俗の水銀」と呼ばれる。
 ちなみに、錬金術師が求めた金も、あくまで「哲学者の金」であり「卑俗の金」ではない、と考えて間違いではない。もちろん、卑俗の金を求めた錬金術師や詐欺師はいくらでもいたわけだが・・。
 賢者の石とは、要するに哲学者の石である(なぜか哲学者が賢者と訳されて定着した)。

 水銀ー硫黄説にはのちに塩が付け足されて、水銀ー硫黄ー塩説になる。どうやら、揮発性のある物質が水銀、可燃性のある物質が硫黄、そして揮発性と可燃性がない物質が塩、ということらしい。
  この三原理は魂、精神(霊)、肉体の三位一体をも表す。(塩が肉体である。水銀と硫黄はどちらが魂でどちらが精神なのかは分かりにくい。ある図像では水銀はアニマ(魂)、硫黄はスピリトゥス(精神)という説明がつけられているが(タイラー「錬金術師」p244)、従来は水銀が精神/霊のはずなので、なぜか逆になっている。私の予想では、ルネッサンス頃になると古典時代と用語の意味が変わったのではないかと思う。つまり魂を意味するアニマが霊の意味を持ちはじめ、精神を意味するスピリトゥスが魂の意味に変わったということである。だから実際は水銀が精神/霊、硫黄が魂である。魂としての水銀は、世界霊魂のことである。念のため英語で調べてみると、硫黄はsoul、水銀はspirit、塩はbodyと出た。現代英語だけでは、soulとspiritの意味の違いが少ないので理解しにくいだろう。)








  第二章 錬金作業
 錬金術を行うことを錬金作業という。これは偉大な作業なので、「大いなる作業」とも呼ばれる。
 英語では、芸術家や音楽家などのライフワークや最高傑作を、magnum opus(マグナムオーパス)と呼ぶことがある。この語の由来が錬金術であることを知らないで使っている人が多いようだ。これは「大いなる作業」を意味するラテン語をそのまま使っているのです。

 さて、錬金作業は具体的に何なのか。これは錬金術を知る上で最も基本的なことで、調べればすぐ分かると思われるかもしれません。しかしそうではないのです。錬金術関連の本を読み終えても、読者は困惑したまま、「結局錬金術ってなに?」と問うことが多いのです。錬金術を知らない人に、「錬金術が何かを一言で説明してください」と言われても、答えることは非常に困難なのです。なぜなら錬金術は、肝心の作業内容が最も大きな秘密だったのです

 科学系の本で、コラムのような小さいスペースで錬金術が紹介されているのはよく見かけますが、こういうコラムに載っているような説明は大抵、錬金術をほとんど説明していません。
 例えば、「鉛から金を作ろうとした」などと書かれていたりするでしょうが、それは完全な間違いとは言い切れないにしても、錬金術師が皆、鉛から金を作ろうとしたのではありません。「何」から目標物をつくるかが、まさに最も重要な秘密だったのです。

 錬金作業の方法が書かれているとされる「錬金術書」は、記号や暗号や不可解な象徴表現に満ちており、今の我々から見て「化学的観点からは意味のある」ものとして読むことはほぼ不可能なのです。なので錬金術書はなんらかの精神的な事柄を伝えようとしている、と結論せざるを得ません。ユングの「心理学と錬金術」を読めば分かりますが、ユングは錬金術のテクストを完全に心理学のテキストとして読んでおります。ユングの研究では錬金術の具体的な実験的側面はほぼ無視されていると言ってもいいです。
 ※ここで錬金術書の例文は出さないので、興味がある方は錬金術入門書などを手に取ってみてください。出さない理由は、書くことが大変な割には読み手がすぐ突き放されてしまう(笑)ことが明らかだからです。

 しかし錬金術が精神的な事柄を伝えようとしているという明らかな事実を否定したがる人も一定数いるようです。深層心理学に無知で唯物論的世界観に閉じ込められている一部の「科学史家」たちは、錬金術の精神的な側面を主張するユングやエリアーデの説をオカルトと同一視して一蹴し、それが「支持されない」などと言います。一体何が「支持されない」のか、呆れるばかりです。彼らは何を研究したつもりなんでしょうか。
 ユングは現代語に訳されてすらいない大量のラテン語文献などを一通り研究しました。ユングの研究の範囲と深さにかなう人は滅多にいないことでしょう(ユングの本を読んだことがある人なら分かると思いますが、ユングが引っ張ってくる文献の量と深さは、圧倒されるものです。テレンスマッケナは、ユングの本は「脚注が高等芸術」だと評価していました)。ギリシア語とラテン語が読めるだけでなく、古代中世の精神文化に広く精通しているユングと同じレベルの研究をできる人がそもそも全然いないのです。錬金術に精神的な側面があることはもはや確実であり、それを否定するのは無知な人だけなのです。

 錬金術の不可解な言葉遣いや不思議な象徴画などは、実際に金を作るための方法を「隠す」ためのものだと一般には言われています。皆が金を作れてしまったら金の価値が暴落してしまうとか、そういうリスクがあったからです。でも実際に錬金術で金が作られたことなどないのですから、錬金術は「隠す」ものなどなにもなかったはずです。ユングが言うように、人は秘密を隠しておくことなどできないのですから、もし金を作れた人がいたら、彼はそれを隠語で隠したりはせずに、大いに吹聴したことでしょう。錬金術師は秘密めかして隠しておかなければいけない化学的発見など何も持ってなかったのです。
 錬金術の秘密は、錬金術師本人でさえ分かっていないような、「当の本人さえ明瞭には窺いえない正真正銘の秘密があったのではなかろうか」(ユング「心理学と錬金術」)。つまりそれは暗示の形でしか知らなくて、根本的には未知のものである。根本的には未知のものというのはもちろん、無意識、特に集合的無意識のことを言っています。錬金術師にとって物質の性質は未知であった。彼らは未知の物質を探求したわけですが、化学をもたずにどうやって物質を探求するのでしょうか。彼らは物質をある種の擬人化した目で見て、自分の心の一部として直感で見たはずです。深層心理学的な言い方をすれば、「物質に無意識内容を投影した」のです。これがユングの錬金術理解の基本的な考え方です。


 錬金術はとても長く豊かな歴史を持っているので、ただの「過去の過ち」とか、「化学の前身」として片付けて忘れ去られるべきものではありません。錬金術は中世ヨーロッパを陰で支えた精神文化の一つだったのです。錬金術はヨーロッパの精神文化に、今思われているよりははるかに大きい影響を与えていたのです。キリスト教(カトリック)が十分な精神探究技術を持たず、心の深いところからくるものを基本的に「異端視」していたため、キリスト教圏で発展した精神探究技術、それが錬金術だ、と考えても間違いではないと思います。もちろん錬金術には化学的な側面もあります。錬金術師はあくまで「化学的な実験」をしていました。しかし実験中に、何らかの精神的な体験をしていたのです。ユングは、「錬金術は哲学的な変容の手続きで、ヨーガの特殊な形態であった」と言います。
 ヨーロッパ人には物質探究と精神探究が一緒くたになっていたのです。その理由は、もしかしたら、ヨーロッパ人の意識が外向的だったからかもしれません。インドでは紀元前の時点で、精神探究は非常に高いレベルに達していましたが、インド人は最初から内向的で、意識を内向きに探究することに非常に長けていました。しかしヨーロパ人の精神的な土台であるキリスト教は、仏教などの東洋宗教に比べれば一目瞭然ですが、内面を探究するという性格はそこまで強くなかったでしょう。

 





  第三章「完全」を目指して
 錬金作業は、のろく、退屈で、難しかった。ある作業では熱を持続させる必要があり、錬金術師は数ヶ月から数年間も装置を見張っていなければいけないこともあった。ある操作を数十から数百回行うこともあった。
 錬金術書は秘密の表現に満ちているわけですが、中には比較的に化学操作として読めるような指示書もありました。しかし処方通りに作業を行うこと自体が非常な困難である場合が多いようでした。明らかに指示が不明確なところとか、曖昧なところがあったり、異常な回数や長い期間がかかる作業もありました。聞いただけでやる気が失せそうなものだったり、やってみたところで途中で器具が壊れるだろうものもありました。中世の実験器具は良い品質ではなかったのです。
 これらについてどう考えるべきか。明らかに著者自身もやったことのないであろう作業が指示されている時は、詐欺や悪ふざけで書かれたという可能性も否定はできませんが、著者はその作業になんらかの意味を感じていたのだろうと推測したいものです。何かが出来そうな兆候があったのかもしれません。
 テイラーは「錬金術師」の中でこう言います。(p142)
 「現代科学によればおこるはずのないことがらを錬金術師が記述しているという、この一般的な現象は、どう説明したらよいだろうか。もし私たちがこのことを錬金術師に難詰すれば、もちろん彼は、では君たちはこの処方を試してみたことがあるのかと、あっさりやり返すだろう―そしてむろん、現代の科学者で、これをためした人は一人もいない。(中略)これらの処方を試験しようと思えばできるわけだが、だれも、そうする値打ちがあると思うほどそれらを信じていない。」

 錬金術は実践が重要です。錬金術師は口を揃えて、実践しなければ錬金術でないと言います。この点では、ヨーガや禅と同じです。知的な理解から得られることと、経験から得られるものはまるで違うのです。ヨーガや禅の行者は、言葉で境地を説明できるとは考えません。実践しない人が語れることなど、ないのです。
 なので我々が錬金術を理解したいならば、錬金作業をしてみるしかないのですが、我々はすでに化学を持っていて、物質がもう未知のものではないために、我々は「意味のあること」として錬金作業に挑むことが非常に困難です。現代人にはもう錬金術はできない、と言ってもいいでしょう。

 (p173)「錬金術師は物質についてたしかに多くの化学的操作をした。(中略)彼らは、こんにちの化学者なら無視するようなたくさんの現象を見たに違いない。たとえばこんにちの化学者なら、溶液を蒸留するときには蒸気が澄んでいるか曇っているかとか、表面に滓が浮いているかいないかというような、付随的な現象には興味をもたないし、また、泥状の残留物のようすを精密に調べることにも興味をもたない。ところが、錬金術師が興味をもったのは、こういうことがらだったようである。彼は、物質の形や色や匂いに注意を集中した。そして生起するすべての現象を、熱心に見守った。」

 考えてみてください。現代の化学者は、化学現象を、意識を集中するほどのレベルで「熱心に見守る」でしょうか。そんなことはしていないと思います。現代の化学者は物事を知的に考え、理解するので、プネウマも第五元素も信じていません。彼が見ているのは科学的に記述できる法則のもとで働いている分子や原子や電子の唯物論的世界です。そこには自分の想像力とか空想とか、無意識的な願望が入り込む余地などありません。


 錬金作業は共同で行われた形跡はほとんどなかったと言われます。錬金作業は一人でやるものでした。正確には、師匠から弟子へ秘伝を伝授していくものでした。
 錬金術師を描いた絵画は何枚も存在します。中には複数の錬金術師が錬金作業をしているような絵もありますが、個人的には、老人の錬金術師が一人で黙々と錬金作業をしている画が一番印象に残るものだと思います。錬金術は長く険しい道で、楽しいだけの道のりではなかったはずです。錬金術師が絵画に描かれる時は、たいてい悩んでいるような顔をしており、部屋は様々なもので散らばっており、机には必ず大きな書類や本が広げられています。
 錬金術の歴史の中では、たまに化学的発見はありました。しかしほとんどの錬金術師は新しいものを発見することはなく、つねに挫折し続けていたことでしょう。錬金術書を読んで、意味が理解できずに諦めた人も星の数いました。
 それでも錬金術は人々の興味をそそりました。錬金作業に挑む人はいました。錬金作業に挑む人は、何か意味のあることを成し遂げようという真摯な志があったことでしょう。彼らは何かを作ろうと本気で取り組み、しかしそれができないことに苦しみ続け、目標が達成できないという現実と、そして自分の心と、延々と向き合い続けました。金はできませんでした。しかし作業が意味深いと思われている限り、錬金術師は実験を続けることができ、喜びも感じたのです。
 「新たな試み、冒険、探究、そして発見のもたらす満足感も軽視できない。用いている方法が意味深く思われる限り、この満足感は持続するものである」(ユング)。
 
 手に入るものを求めると、それが手に入った時には「大いなる作業」は終わってしまいます。終わってしまったら、もうやることがなくなってしまうでしょう。他方、手に入らないものを求めると、作業は終わりません。終わらないからずっと成長し続けることができるのです。優れた目標は、終わりがないのです。
 二人の医学生がいたとしましょう、ひとりは医者になりたいという目標を持ち、もう一人は人助けをしたいという目標を持っていたとします。どちらが、良い医者になるでしょうか。・・後者じゃないですか?。前者の医学生は、終わりのある目標しか持ってません。彼は医者になったら、もうゴールに到達したと思って、努力をやめるかもしれません。でも後者の医学生は、人を助けるために、永久に努力し続けます。すべての人を完全に救うことなど不可能ですから、目標はある意味、達成できません。でも、不可能に挑むことこそが意味があるのではないでしょうか。


 手に入らないものを、本気で信じて求めることが、人間にとって最も高い生き方だと、私は確信しています。それがユングのいう「個性化過程」であって、仏教の「菩薩道」でもあります。
 個性化過程は、完全な人格を目指して発展し続ける過程です。菩薩道も同じで、仏になるための半永久的な修行のことです。これらには終わりはありません。何かが手に入るのではありません。これらと同じように、錬金作業で得られるとされる「哲学者の石」は、完成のシンボルとして理解すべきです。錬金術師自身が、哲学者の石になるのです。
 ユングは錬金術に個性化過程を見出しました。「錬金術師の経験は、ある意味では、私の経験であり、彼らの世界は私の世界であった」(「ユング自伝」)。分析心理学は奇妙なかたちで、錬金術世界と符合していたのです。








 第四章 仏教と錬金術の比較

 ・禅の公案
 
「両手を叩くと音がする。では片手の音は何か」
 禅の公案は、意識を拡張させ、不合理的なものを経験させるためにデザインされている。錬金術書の不可解な言葉使いは、禅の公案に通ずるところがあるかもしれない。想像力を刺激し、論理的にあり得ないことをイメージさせると言う点で。
 ただし私は錬金術書も禅の公案も、比較研究できるほどには知らないので、具体的なところには踏み込めない。
 禅の公案は答えが求められる。禅僧は公案に向かって瞑想し、または公案と一つになり、「見性」と呼ばれる体験をしたら、師匠に伝えなければいけない。だが、公案の答えは普通の質問への回答のような形にはなり得ない。答えようがないのだ。知的に理解できるような回答があるのではない。あるのは体験である。体験は言葉には直せない。
 錬金術も、そのように理解しなければいけないのだと思う。錬金術書の指示は、知的に理解しようとしてはいけない。だから一生懸命に頭を使うと使うほど分からないのだ。意識水準が低下したときにこそ、「分かる」のである。
 聞いた話では、悟り的な精神状態に達した人は、仏教経典の言っていることの意味がすんなりと理解できるようになる。理解が飛躍的に上がるという。錬金術でも、ある種の「精神状態」に到達した人だけが、象徴の意味を「理解」するのかもしれない。




 ・密教マンダラ



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※四隅に四元素が描かれている。
 左上:サラマンダー(火)右上:鷲(空気)
 左下:ライオンに座った王の下にドラゴンがいる(土)右下:コバンザメに跨っているアルテミス(水)
 円周上の三つの逆三角形にはANIMA(魂)SPIRITUS(精神)CORPUS(肉体)の三位一体が描かれている。
 中央から放射する七つの光は、伝統的な七つの惑星とそれに関連付けられてきた7つの金属が描かれている。1木星ー錫。2土星ー鉛。3火星ー鉄。4太陽ー金。5金星ー銅。6水星ー水銀。7月ー銀。
 七つの小さな円の中に描かれている図は、「大いなる作業」の過程を表す。すべての中央にいるのは錬金術師本人である。
 
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 画像の1枚目は錬金術象徴の一つ、2枚目は胎蔵曼陀羅である。一見、関連性があるようには見えないかもしれない。だが私の考えではこの錬金術象徴は一種のマンダラと見なすべきで、密教マンダラと「やっていることは同じ」なのである。何をしているのかというと、これらは世界全体と、その中心の自己を表現しているのです。マンダラは、大宇宙と小宇宙(世界と自己)の一致を自覚させ、ある種の精神状態に至らせることを目的にした、シンボリズムによる修行ツールです。
 もちろんこれはほとんどの人にはただの絵画や美術品にしか見えません。これを見ただけで悟るのは非常に難しいでしょう。この図が意味することを学んでいないと、図だけを見ても意味がないのです。    
 そして真のマンダラは究極的には心の中に生成されるもので、「自分がマンダラになる」のであり、紙に書かれたマンダラはその体験を二次元に投影した、見せかけのものにすぎません。
 密教ではマンダラは秘蔵物とされ、本来はある程度の修行ができた人でないと見せてもらえなかったと言われます。
 



 ・空海の修行
 真言宗の開祖空海は日本仏教史の天才の一人ですが、彼は密教の行法の一つである「虚空蔵求聞持法」(こくうぞう・ぐもんじほう)を行いました。
 この修行法は簡単にいうと、虚空蔵菩薩のマントラ(真言)を百万回唱えるというものです。これを50日か100日で終えなければならない。
 虚空蔵菩薩のマントラは「ナモー アーキャーシャ ガルバーヤ オーム アリ カマリ モリ スヴァーハ」であるが、これを百万回唱えるのである。
 これを50日で完遂する場合、1日あたり2万回唱えなければいけない。
 空海はこの修行の結果として短い文しか残していない。「谷、響を惜しまず。明星来影す」現代語訳は、「虚空蔵求聞持法が成就したその瞬間には、自分の居た谷全体が応えて共鳴し、虚空蔵菩薩のシンボルである明星が、自分の方に輝きながら迫ってきた」といったところである。ソースは不明だが、空海は「星が口の中に飛び込んできた」という神秘体験を得たとも言われている。この修行を完成すると超人的な記憶力が手に入るなどと信じられていたそうだが、空海はそれを得たという報告はしていない。当然ながら、我々から見るとこの修行は迷信であり、現代人はこの修行から直接何かが得られるとは思わないだろう。
 この修行法はかなり過酷なもので、破戒僧(戒律を破った僧)への罰として使われることもあったらしい。ひどい時には致死率が半分に達したとも言われる。睡眠や食事に充てられる時間もそう長くはなく、朝から晩まで常に真言を唱え続けるので、数十日も経った頃には疲労だけで精神変容的状態になるであろうことは想像に難くない。精神異常をきたしても不思議ではないものだ。

 なぜ空海は何も得られないような過酷な修行をしたのだろう、と「合理的」な現代人なら思うかもしれない。かわいそう、騙されたんだと思う人すらいるかもしれない。しかしそのような考え方は間違っている。空海はこの作業が聖なるものだと信じているから取り組めたのである。それは、錬金術師にとって錬金作業が聖なるものであるからこそ全身全霊を持って取り組めることであることと同じである。
 手続きが聖なるものである以上、人はそれに意味を感じるのである。報酬として得られるものの幻想に惹かれてやり始めたとしても、本当に大事なのは作業過程に身を置いていることそのことであって、最終的に何を得たかではない。
 それにきっと空海はなんらかの精神的達成感を得たに違いない。決して何も得ていないなどとは言えないのだ。

 


 ・大乗経典と金属編成の物語
 大乗経典は「創作」である、と非難する人がいる。江戸時代頃に登場した、幼稚な啓蒙主義、近代合理主義から来ている、いわゆる「大乗非仏説」である。
 「法華経」などが釈迦本人の言葉であると信じていた人々にとって、それが実際は1世紀くらい、釈迦の入滅後500年ほどは経ってから成立したものだと知ったときのショックは大きかったのだろう。
 だが創作であるという理由で大乗経典が「仏の言葉でない」とするのはあまりにも馬鹿げている。なぜなら、仏という人格完成者は架空の存在であり、実在の人物から仏の言葉が出てくることなどありえないからだ。創作でなければ大乗思想はそもそもできようがないのである。
 「法華経」は、気が遠くなるほどとても遠い来世にではあるが、最終的にはすべての人が皆悟りを開いた仏になると説いている。これは経験だけに基づいた現実的な人の口からは決して出てこない思想である。
 
 さて錬金術のほうでは、実際に金を造ったとされる錬金術師の伝説がいくつかある。もちろんこれは伝説であって、歴史的事実として受け取ることはできない。だからといって、これが「捏造」された嘘である、と言ってその物語の価値まで否定することはできないのではないか。金を作った物語は、何らかの精神的な価値があるのではないか。大乗経典のように。
  テイラーの「錬金術師」の中に、ニコラ・フラメルの金属変成の伝説が収録されている。この物語はきっと中世の人間にさまざまなインスピレーションを与えたのだろう。そこに書かれていることが実際にあった出来事ではなくても、それは誰かの心の中で本当にあったことなのだ、と考えることにしたい(すべての創作物がそうなのだが)。

 ニコラ・フラメルの物語は、金を作ったという部分だけに着目してもその本当の教訓はわからない。この物語の重要な部分は、むしろ精神的な産物であるように思う。フラメルが錬金術で得たのは決して物質としての「金」だけではないのだ。
 (p209)「それ(錬金術)は、誰にでも完成できるもので、悪を善に変えることであり、その人からすべての罪の根(欲深さの罪)をとりのぞき、彼が以前にどんなに邪悪であったとしても、彼を、好感のもてるやさしい敬虔深い、そして宗教的で神をおそれる人にしてくれる。というのも、それ以降彼は、神から得た大きな恩恵と慈悲、さらに神聖で称賛すべき敬遠な仕事に、たえず心をうばわれるからである。」
 ここに書かれていることは、宗教的なめざめを成就した人間が書くことと同じであろう。ただ単に「金属を作った」人のことが書かれているとは思えない。
 さらにフラメルは、妻ペレネルの「助けを借りて作った」と明言している。なんならペレネルはやろうとすれば彼女一人でも作れただろうとも書いてある。一般に女性差別の風潮があった中世に、女性の知性や敬虔さを評価していることは珍しいだろう。ここにもなにか重要な示唆があると思える。







 おわりに
 エリアーデは「鍛冶師と錬金術師」のまえがきで次のように言う。
 「錬金術はその起源において経験科学でも、発育不全の化学でもなかったことを最初に強調しておかなければならない。錬金術がそうなったのは、実践者の大多数にとって錬金術の精神的世界が価値と存立根拠を失ってしまって以降のことであった。」ー「物質がその聖なる属性を脱落したときに化学は初めて成立したのである。」
 エリアーデに従えば、錬金術と化学の最も根本的な違いはその物質観であることになる。錬金術は神聖な術であったのに対して、化学は、錬金術師からみれば「世俗の学」に成り下がったものであった。錬金術は宗教的な感情と深く関わっていたのに対して、化学はあらゆる個人的感情や「宗教的救済」から引き離された。
 「聖なるもの」を失って全てが俗化しまった近代人は、俗化した目線から錬金術を見ても正しく理解することはできないだろう。我々が錬金術を学びたければ、まずは童心に還り、物質への興味関心を取り戻し、存在そのものの神秘に心を弾ませることを思い出すところから始めなければいけない。