夢に関する雑文集です。



 1ー夢の超記憶 
超記憶夢と呼べるようなものを見ました。
フロイトは、「夢判断」で、夢の中には本人(の意識)が覚えてないようなことが出てくることを報告したが、私はまさにそれを経験した。
 最近ジンギスカンの歌に興味があって、それがもともとドイツ語の歌だと知ったので、勉強がてらドイツ語の歌詞を読んでいました。私は小学校?でジンギスカンの歌を何度も聞いたんですが、いつ聞いたかはよく覚えていない。でもどうやらダンスだったらしい。
 夢に学校が出てきた。それで夢の中でダンスの授業のようなものがあったんだが、夢の中に出てきた振り付けに何となく見覚えがあった。でも漠然としていた。
 目が覚めたときに、夢の中のあの足の動きは実際にジンギスカンの踊りの振り付けなのではないかと思って、動画で検索してみたら、なんとびっくり、そうだった。
 俺は15年くらいは一度も意識しておらず完全に忘れていたダンスを、夢が自然と想起したのだ。無意識〔脳〕は覚えていたのだ。

 アクセスされない(発火されない)ニューロン回路は弱まる。つまり再度発火する能力が下がっていく。これがいわゆる「忘れる」ということである。でも本人が忘れたと思っても、完全に消え去っていない。
 寝ているときは、自我(意識)の抑制がなくなった状態なので、より自由な連想/想起が起こる。
 ところで、夢の中では決してジンギスカンの歌は流れていなかったし、「ジンギスカンの夢だ」という自覚もなかった。あくまで、目が覚めてから、内省して初めて気がついた。夢はよく観察しなければ何も見つからない。私も踊りを調べようと思わなかったら気づかないで終わったことだろう。






 2ー矛盾審査

「分かる」とは何か?と本気で悩む人がいるが、考えても無駄ではないか。
 何かが「分かる」ことはない。あるのは納得だけである。
 そして納得は、頭の中に矛盾がないことで成立する。
 反論という反作用が用意されていないときに初めて、何かがすんなりと頭に入り、理解される。

 なぜこの話をするのかというと、さきほど夢を見た。夢には数年前に死んだ犬が出てきた。しかし夢の中では「この犬はもういないはずだ」という反省が最初はなかった。ちょっと経ってから、これは夢なのではという自覚が微かに生じたが、それでも犬は見えたし(視覚的には少し不正確だった)触れることもできて、感触もあった。

 この夢のことを考えると、暗示を受けたことに近いのではないか、と思った。
 暗示というものは、例えば、次のようなものが暗示である。うまい占い師の話にはめられて暗示を受けてしまう人がいる。占い師が「あなたは一人っ子ですね」と言ったとき、客が、実際は兄弟がいるにも関わらずに、「はいそうです」と答えてしまうことがあるのだ。これはおそらく客が占い師を尊敬し信頼している時に起こりやすく、そうでない時には起こらない。
 このとき「そうです」と答えた客は、実際に自分が一人っ子だと一時的に思い込んでしまった。この現象を「暗示を受けた」というように呼ぶ。
 頭の中に、違和感を感じさせる反作用としての矛盾(兄弟がいるという事実のこと)が、本来あったにも関わらずそれが起動されず、「矛盾審査」がスルーされたのだ。

 この「矛盾審査」こそが夢の現象の中で抜け落ちているものなのです。我々の覚醒時の意識では矛盾はひどく嫌われて避けられるが、夢は矛盾を気にしないようだ。夢では二つの相反することを同時に経験することができる。


 意識が拡張され、因果的思考が強化され、頭がキレッキレになりすぎると、「矛盾審査」の基準がものすごく厳しくなる。こうなると人は人間生活が誤謬まみれで出来ていることが分かる。何にも納得できなくなってしまう。「分かる」とはなんなのかが分からなくなる。納得がどこにも成立しないからだ。





3ー夢と現実の並行関係
 私は仕事中に、突然、過去に見た夢の場所の一部が思い出されるときがある。一部が思い出されると、そこから派生するように他の夢も思い出していけることが多い。
 不思議なことに、私はこの現象を仕事中以外にはほとんど経験しない。
 夢は、私の意志とは無関係に突然思い出されます。自然に自発的に思い出されるのであって、もし仮に自力で思い出そうとしてもきっとできないだろう。そこに至る回路が閉じているようなのだ。夢の断片に至る回路は、無意識の精神が自分の都合で勝手に開いたり閉じたりするようだ。

 夢が一種のパラレルワールドみたいなものであることについて話したい。
 当たり前ですが、現実世界には常に再現性がある。同じところに行けば必ず同じものがあるってことです。
 夢にも似たような再現性がある。一度見た夢は、その空間があたかも「有る」かのようで、現実世界ほどではないにしても、ある程度の再現性があるように感じる。夢が日中に突然思い出されるときは、まさに「再現」が起こっているのです。
 夢の世界は現実世界に対応していて、似ているけど、微妙にアレンジされている。
 私は夢の中で自宅とか、職場とかを見る。でもいつも旧自宅や旧職場である。今住んでいる部屋はあまり夢に出てこない。そして知っている道路や街も出てくるが、どこかが違う。

 非常に面白いのは、私に第二の家があるという夢や、隠し部屋を発見する夢や、実在しない旧職場などが出る夢(夢の中ではその職場の「別店舗」で働いていたことになっている)。こういう夢は不思議な魅力があり、その秘密の場所が実在するように感じ、行きたくなる。完全に目が覚めてからやっと実在しないことを自覚できるが、半覚醒のときはまだ非実在を認識できない。
 こういう夢の中の場所は、自分にしか分からない、他人に伝えることはできない。だが自分にとっては妙なリアリティがあり、ある種の現実であるように感じるものだ。




4ーネット上で行ったアンケート
 夢で見た場所の中で、行きたいと感じたところはありますか。
 夢の中の場所が実在するかのように感ぜられたことはありますか。
(票数:73)
 ある:75.3%
 あるかもしれない:16.4%
 ない:8.2%




5ー聖域?
 観想法という、仏などの姿を眼前に見ようとする瞑想修行は密教などで重要だったが、決して簡単なものではない。「精神のバランスが崩れる」リスクがある。リアルに精神病になるリスクがあった。
 このような危険な行いを支えるのが儀礼やシンボリズムである。儀式の形式などは、セット&セッティングとして機能したわけです。
 非科学的としか言いようがない儀式や象徴でも、心理的効果があるなら効果はあるというわけです。  
 例えば結界があります。漫画などで出てきそうなものですが、実際に瞑想者は「結界をはって」、外からの魔的な侵入者から身を守りました。
 ヨーロッパではテメノス(聖域)などという、同じ概念があります(ユング「心理学と錬金術」)。
 ユングは夢の中に出てくる囲いのようなものは聖域として解釈しています。非科学的な匂いはしますし、とくに証明する方法はないのですが。  
 
 私個人的には、ゾンビが出る学校のような気味の悪い空間で、外からの侵入者を防ぐために「扉を閉める」という夢を見たことがありますが、のちにそれを解釈してこれがテメノスか?と思ったことがある。
 その夢では安心感があった。外(廊下)は危険だ。外は怖い。しかしこの部屋は安全だ。安心できる。扉は締め切っていて、危険なものが入ってくることはない。
 中には私を含めて男女二組がいた。全員知ってる人。四人の人間というのもかなりユングっぽい状況です。

 しかしなぜ瞑想修行の話から夢の話に飛んだんだ?と思う方もおりましょう。
 夢はシンボルを作るからです。少なくともユングはそう考えました。人の象徴形成の多くは夢の中で行われます。
 神秘体験の多くが古来から夢であることにもちゃんと理由があるのです。神や神々、精霊などが啓示を与えるのも、夢という媒体を通してであることが多いのです。夢は、精神病にならずに精神病を経験し、幻覚を見ずに幻覚を見れる世界なのです。





6ー夢は無意識から来る

 自分の心には自分が意識していることしか起こってないと、そう考えるのは非常に高慢ではないですか。無意識否定論者のことを言っています。
 自分が自分の精神という家の主だと思うか。あなたは精神について全てを知っていると考える。それがどういう大胆な主張なのかを気づきもせずに。それは魚が大海を知っていると言うに等しい。

 多くの夢は、過去の記憶等に還元できます。しかし全く個人的なことと無関係の、どこから来たかが分からない夢があります。
 前者が個人的無意識から来たとすれば、後者は集合的無意識から来た夢です。後者の夢の例が多く思いつく人ほど、自分の知らないものが精神の中にあということを認めざるを得なくなる。
 個人的無意識は自我に近い。自我とどこかしらで繋がっているので、探れば出てくる。
 集合的無意識は自我と直接は繋がっていない。なのでこれが意識に侵入したときは、他者の侵入に感じる(精神病や幻覚剤)。集合的無意識の内容がそれと分かるように顕在化しうるのは、自我の働きが完全に抑えられた後だけなのです。
 精神の中にあるものが記憶だけ(個人的無意識に相当)だと考える人は、幻覚などがどこから現れるのかが説明できないので、記憶から来たものだとしか考えることができない。彼らは記憶以外に、精神のなかにソースがあるということが分からないのだ。現に、ある反薬物ポスターは、幻覚をごっちゃになった記憶だと言っている。これは大きな間違いだ。







7ー夢を思い出せない理由

 目が覚めると急速に夢を忘れて夢にアクセス出来なくなるのは、自我がそれを妨げているからですね。一度自我が立ち上がると、それは喩えるなら、地上の鉄道に乗ったようなものです。夢は地下鉄です。覚醒世界とは別の体系なのです。目が覚めてから夢を思い出そうとするのは、地上の鉄道に乗りながら地下鉄の路線を考えようとすることです。ぜんぜん別の路線図なので、それは無理な仕事です。

 覚醒世界では人は自我を中心に考える。「私に何が起きたか?」と。でもこのような想起方法では、夢は思い出せない。なぜなら夢内容は自我と結びついていない(ことが多い)からだ。自我を強化する思考方法(「私に何が起きたか?」)では夢は見つからないだけではなく、遠ざかっていく。
 それはあたかも、地上鉄道の路線について必死に思考するとするとするほど地下鉄路線が意識から消えて分からなくなるようなものです。
そして多くの人がこう言うわけです。「自分は夢を見ない」。実際はほぼ毎日見ているのに、即忘れる上に内省しないので気付いていないだけなのです。


「自分に起こったこと」というのは、自我という巨大な心的内容の複合体(「コンプレックス」はそもそも複合体という意味だと思い出してほしい)に組み込まれている。
 自我は鉄道路線のようなもので、よく通る「駅」は大きく、強く、より多くの列車が通るようになり、使われない「駅」は小さくなっていく。
 自我は最も大きいハブです。最も大きいので、精神全体の中で中心的な役割を果たします。首都圏だと思えばいいでしょう。
 コンプレックスが大きい人は、自我駅の正常な列車運行を妨害するような、別の大きな駅があります。別の大きな駅が巨大化しすぎると自我は崩壊し、様々な疾患が生じます。


 睡眠時には鉄道は運行を停止します。
 地下鉄(夢)という、日中は見えない路線が、睡眠によって顕在化してきます。地下鉄は無意識の体系です。これは本来は日中も常に働いているもので、地下から地上を支えているものなのですが、地上の鉄道が運行している間はその働きを知ることが難しい。

 上の文章は全て、起床直後に夢を思い出せないことを実際に経験しながら書いた文章です。
 深い(?)夢を見たのが分かっているのに思い出せないのは悲しいですが、夢の「深さ」として感じるものは、自我からの「遠さ」のことなんですね。だから思い出せない。浅い夢ほど思い出しやすいんです。
 覚醒時の意識体系や認識論で十分に説明ができるような夢が「浅い夢」、覚醒時の言語体系ではもはや説明できない不条理的なものを「深い夢」と呼びたい。


 ところで悟りということを考えると、悟りとは少なくとも自我駅が列車をバンバン出してる時には得られません。「私が」「私に」「私は」「私を」「私の」と意識するたびに自我駅は利用されます。自我駅を使うのは、心的内容に比重を与えることであり、中立性を破ることになります。






8ー夢の中では自我がない
 夢の中では自我がない。自我らしいものが半分ほど立ち上がると明晰夢になるが、自我が完全に立ち上がった頃には絶対に目が覚めてしまう。
 そう考えると、目覚めていることというのは、そもそも自我が機能していることを意味するわけです。
 私はものすごくはっきりした視覚がある夢を何度も見たことがある。そのような夢では、覚醒時並みに視覚がある。それでも何がないかというと、過去や未来がないのだ。眼の前にあるもの以外が意識に生じない。それが覚醒時との決定的な違いです。

 意識というのは、現在の感覚だけではない。意識は現在起こっていないことをも経験する。過去の記憶であれ、未来の予想であれ、見えないところで起こっていることの想定、抽象概念での思考など。
 夢では、どれだけ鮮明な夢であっても、現在しか経験できない。「もし」はすぐに現実化してしまう。
 なので例えば、夢の中で未来を予想するということはできない。未来を予想したときにはすぐに場面ごと未来に飛び、それを現在として経験する。

 *
 夢は心的内容のまとまり=コンプレックスが、覚醒時ほど制約を受けずに、自由に動き回る。
夢の創造力はドーパミンが関わるらしく、他の神経伝達物質が抑制されているのでドーパミンがより自由に活動しているという。
(ただし深層心理学と脳科学の対応は不明なのでコンプレックス=ドーパミンではない。)








9ー全体性、夢と個性化

 ユング心理学的な考え方では、無意識というものは、基本的には意識と反対の立場を持っています。
光と闇みたいなものです。男と女みたいなものです。無意識が意識を補償しています。

 夢では、自我とは反対の立場が表現されていることがあります。
 こういう夢を「無意味」とか「自分と関係ない」と考えて無視せずに、自分の一部として真面目に考えることで、無意識内容が意識に結合していきます。人はこうして自分の「欠けたもう半分」を知っていき、”全体性”に近づいていくのです。
 夢を見て、記録し、その内容を真面目に考えるだけで、人は人格的に変容していきます。少なくともユングはそう考えました。


 私がつい最近、とても感情価が高いが夢ありました。悲しいような、でもカタルシスがある夢で、目覚めてから考察したのですが、その夢の意味は分かりました。
 その夢は私の意識的態度を補償していたのです。私の意識が認めたがらないことを夢は描いていました。ユング心理学で説明がつきます。
 〔夢〕修学旅行と学祭が混じったような世界。聞いたこともない名前の先生が、死期が近いかもしれないということで、皆がその先生のために頑張っているというシナリオでした。言葉にするとあまり筋の通ったものとして説明できないのですが。
 長い夢で、前後にあったことは全部は思い出せないですが、「別れ」がテーマでした。私は夢の中で泣いたかは分かりませんが、強い感情価があったのは覚えています。
 それで朝起きてから、夢の意味を考えてみたんですが、職場の某同僚ががその日に辞めたことを思い出し、それを表す夢だったと理解しました。

 夢はもとのモチーフをよくアレンジするので、夢の中には某も職場も一切出てきていません。それでも某に関する夢だと解釈できます。タイミング的に偶然であるはずがないからです。
 この夢は私の心の中、無意識のなかのイメージをそのまま写しだし出したのです。

 同僚の某は、発達障害なのか非常に問題が多い人でした。基本的に仲は良くはなかったです。某が辞めることへは色々な気持ちがありました。一つはこの人が原因の苦労がもうなくなることへの安堵、もう一つは職場の主力がひとり減ったことの不満、これからの不安。

 それでも夢(無意識)は、そういう安堵も不満も表現しなかったのです。夢は「悲しみ」を表現しました。これがユング心理学の重要な考え方である、意識と無意識の補償関係というものです。
 無意識は意識と反するものを含む。自我が意識から追い出しているものが、無意識内容として夢に出るわけです。

 某の退職に対する私の「意識的態度」は、主に無関心でした。某がいなくなることに関してそこまで強い感情はなく、深く考えることもないと思っていました。
 夢は補償的に高い感情価を出して来ました。私の”感情不足”を補おうとする働き、と解釈できます。
全体性に近づくため。

 意識と無意識は陰と陽のようなものです。
 中国の太極のシンボルはまさに全体性を表現しているものに他なりません。
 夢を地道に観察し続けことで無意識が意識に同化されていき、人は全体的なものに近づきます。この取り組みがいわゆる個性化過程、個性化過程の夢象徴解釈です。






10ー夢は論理を離れている
 普段の意識は、仏教のいう「空」から最も遠い。
 夢は覚醒時よりは空に近い。空が説明不能なのは夢が説明不能なのに似ている面がある。
 夢の中で筋の通った論理を成立させるのは難しいが、完全な空の中では、あらゆる命題が成立しないのです。空の世界観ではあらゆる命題が成立しないことは、龍樹が「中論」に著しました。

 現代人は論理や命題が成立しない世界、簡単に言い換えると「不合理」を、扱わずに無視することがすなわち知性だと考える傾向がある。そうしてどんどん夢や空から離れていく。
 夢?でたらめで理解できないから無視。神秘体験?神秘思想?でたらめで理解できないから無視。
 これらはでたらめではないのです。かといって決して合理的に「理解」もできないのですが。

 論理や命題は意識によって理解されます。
 夢や空の世界は意識によって理解されることはありません。漠然と体験され、思考とは違う直感のようなもので把握されます。
 思考によらない理解があるのです。それが直感です。が現代人は直感をほとんど信用しません。偽科学と迷信の根源だと考えているからです。

 思考より直感をはるかに発達させた民族はいくつかあります。中国人などがそうです。
 インドの非常に論理的といえるヨーガは、中国に入るとかなり直感的な禅に変容しました。
 禅とは論理的思考を完全放棄するための修行に他ならない。大乗仏教の般若経典、般若思想も同様です。

 禅の公案、有名なところでは「両手を叩くと音がする。では片手の音は何か?」
 これは論理的思考では答えようがないナンセンスです。この公案は思考によって答えるものではありません。言葉と概念による思考をやめた禅者は、この問題の答えを「直感」できます。それを見性といいます。
 見性体験を説明するのは、夢を説明するようなもので、不可能なのです。






11ー夢分析は夢占いではない

 夢占いでは、「こういう夢はこういう意味ですよ」と断定するでしょう。ユングの夢分析では断定しません。それよりも、夢を観察する態度そのものを重要視します。
 夢を観察し続けることで、自我と無意識の関係が変容し、夢の内容も変わってくるということです。

 トリップでも同じことだと思います。トリップから学ばないことは夢から学ばないことと同じです。
 トリップに真面目に取り組むことで、自我と無意識の関係が変容していきます。そして必ずトリップが遊びでないということが分かります。真面目に取り組んだことがない人には分からないのです。

 自我と無意識の関係が変わるというのはどういうことかと言いますと、これはユングの著書「自我と無意識」にそっくり書いてあります。ただ誰もがユングの記述通りの道を行くわけではないので、難解な本ではあります。
 自我が夢から無意識を取り込むことで、意識と無意識の浸透性が上がっていき、"意識が拡張"され、最終的には人格の変容にもなる。






12ー夢の中に含まれる個人的な過去と、個人的でない普遍的なモチーフ

 夢の内容を書いてみると、必ず発見がある。最初の段階では気付かなかった発見が後から為されることは少なくない。
 夢の中の出来事は過去にあったことがかなり多く含まれている。それが過去にあったことだという「つながり」を見つけたときはいつも不思議なワクワクがある。

 そして夢の中には自分にとって都合の悪いものがかなり含まれる。
なので夢の内容をしっかりと書き留めることは、それが確かに自分に起こったことだと認めなければいけない苦痛もある。これがコンプレックスの自覚につながる。
 とうの昔に克服したと思っていた問題も、夢には勝手に立ち現れてくる。

 こういう夢の理論的な話をする時に具体例を挙げる人が少ないのは、具体例を挙げると自分のコンプレックスをはっきりと公言することになってしまうからだ。
 なので上で言われていることの事実性を確認したければ、自分で自分の夢をしっかり観察してもらう必要がある。知的な勉強は経験の替わりにはならない。夢の理論をどれだけ勉強しても意味はない。夢を知りたければまず夢を見るところから始めなければいけない。それも、くだらない明晰夢法などのテクニックから入るのではなく、受動的に夢を「見る」のです。

 夢の中には、個人史に全く還元できない夢もある。これは本人のコンプレックスと関わりがないので公言することに抵抗は生じないし、場合によっては公言したいくらい面白い内容であったりする。
こういう夢は象徴的な内容で、多様な解釈ができる(他方、コンプレックス夢は意味が明らかで解釈の必要がない)

 私が最近みた象徴的な夢–個人史に還元できない夢は、例えば飛行機に乗っているかと思ったら宇宙船だったというもの。これは上昇のシンボリズムという風に感じた。
 数日前見た夢では、太った女性が内向きに吸い込まれるように変形していき、回転する花のような造形物になった。リアルな動きと形だった。
 宇宙船で思い出したが、数年前には、古代ギリシア風の船に乗って天に向かって飛んでいくような夢があった。かなりの感動があったことを覚えている。

「変形する女」系(?)の夢では、ちょっと前にも別のものを見た。それでは、女の脇腹のあたりが裂けて、気持悪いクモ女が出てくるというホラーだった。


 ユングは、夢の中には分析のために必要な素材が全て含まれていると言う。ユングは晩年には、患者の分析はほとんど夢の分析だったらしい。これは一見異常なことに聞こえる。
 夢から何が分かるのか?これを非科学的だと考えてユング思想自体を無視するのが、おそらく現代の知識人の平均的な反応だろう。
 だが夢の中には、「本人の話したがらないこと」が含まれるという決定的な事実に気がつけば、夢を一定数集めさえすれば、「本人の話したがらないこと」が必然的に全て自然に立ち現れてくるということが分かる。
 夢を議論することは心の最も深い問題にアプローチするための『近道』だったのだ!
 
 例えば私が今日見た夢について話そう。
 〔夢〕学校のような場所で、隣の席の男が、俺が描いたとされる漫画のようなものを出して馬鹿にしてくる。俺は動揺しないフリをしつつも、後でそいつの顔面を殴る。そしてそいつに皿を投げつける。
 
 この夢は、私が「夢分析」でなければ自発的には話さなかったでろう事実がいくつか含まれている。一つは昔漫画を描いていたこと。その事実は、今の自我とはほとんど関係がないと自分では思っていても、無意識には残り続けている。一般に漫画はいい印象を持たれるものではなく、コンプレックスを形成しやすい。
 そして「皿を投げた」こと・・は実際にあった出来事だと後から気がついた。
 私が夢の中で皿を投げたのは、居酒屋のバイトで実際にあった情動的な出来事であった。非常に性格の悪い店長が理不尽な理由で私にキレて皿を投げてきたので、私が別の皿を(多分二枚も)投げ返したという出来事があった。相当に情動的な出来事だったので、普段の私は(もちろん)そのような暴力的なことなど全くしない。
 この出来事は特にトラウマというものではないが、よく考えてみると、複雑なコンプレックスの「一部」をなすものらしい。ユングはこう言っている。「すべての情動的な事件は、コンプレックスになる」(「分裂病の心理」)






13ーユングが夢を使う理由

 ユングは患者が「立ち往生」しているときに夢を観察するという。
 患者はこれからどうすればいいのか見当もつかず、忠告を求めるときが少なくないが、そういう時にユングは偉そうに忠告することなどなく、自分も何をするべきか分からないということを認める。
 こうした「立ち往生」は、人類史の中で何度も繰り返されてきた、とユングは言う。
 神話やおとぎ話では、「立ち往生」を打ち破るような外部の勢力の侵入や、突発的な不思議な出来事が出てくることが多い。神話やおとぎ話は、ユングによると夢と同じく無意識の産物なので、夢にも同じことが期待できる。意識がこれ以上進めないという壁に当たっているとき、無意識から自然と応答が出てくる、というのだ。
(以下CGユング「心理療法論」林道義編訳・みすず書房、p44から引用)
『それゆえ私はこうした場合に何よりもまず夢に注目する。私がそうするのは、何も私が是が非でも夢も用いてなさなければならないという理念に固執しているからとか、神羅万象に夢がしたがって動いているに違いないという神秘的な夢理論を持っているからではなく、ごく単純に途方に暮れてのことにすぎない。
 私はこれ以上のどこからしかるべきものを手に入れられるか分からず、それだからそれを夢の中に見出そうとしているのである、というのも夢は少なくとも何もないよりは多くのことをそれなりに示唆する想像をもたらしてくれるからである。
 私には夢の理論などまったくなく、夢がどのようにして成立するのかを知らない。私の夢の扱い方がそもそも「方法」という名に値するのかも全く分からない。夢解釈が眉唾で恣意的な最たるものだという先入観は私にもある。しかしその一方で私は、長いあいだ徹底的に一つの夢をまさに文字どおり沈思黙考すれば、すなわち胸の中に温めておけば、そのときほとんど例外なく何かが現れてくることを知っている。・・』
(p47)『私はこの点についてほとんど何も知らない。私に分かるのは患者に対する作用だけである。』

 ユングは、夢がどこから来るのかを知らないことを認める。だが、患者に対する作用があるから使う。
 解釈が科学的に正しいかどうかの問題ではない。ある解釈が患者の心に何らかの良い影響を持ちうる限りにおいて、夢には価値があるのです。

 夢が潜在的な可能性の世界を見せてくれるのは科学的にも証明されています。どうやら睡眠中はセロトニンなどが活動してなくて、ドーパミン系がより"自由に"働きます。
 意識の傾向と無関係に、つまり目が覚めているときには思いつかないような"つながり"を、夢は提供するのです。
 なのである夢の解釈が、合ってたり間違ってたりするのではないのです。
 ある解釈が、夢見者にとって意味を持ち、ある解釈が夢見者にとって意味を持たない。それだけの話です。
 夢の解釈は、夢に「隠されている」意味を掘り当てることではないのです(フロイトの批判)。 
 夢の解釈とは、新たな意味を創造することなんです。
 意味を創造することが馬鹿げていると思いますか。人生自体が、意味を創造するものじゃないですか?
 だからユングは、とくに中年の患者の、治療が停滞してきたときこそ夢を見るのが大事になってくると言うのです。
 人生後半に差し掛かって、知的にはかなり成熟しているけど、人生に意味を見つけられないような人達が、ユングのところに行ったのです。彼らは診断できるような精神疾患ではなかった。このような人たちにユングは「夢を見させて」(そう、二重の意味で・・)、いわゆる「個性化過程」へと導いていったのです。








 14ーなぜ夢を見るのか?

「なぜ夢を見るのか?」は問いが間違っている。
 夢が精神世界の一部であった原始的な人たちにとっては、夢の存在は自明のことであったろう。
 夢を精神世界から除外し、その意義を忘れてしまった近代的な自我が、「なぜ夢を見るのか」などと問いはじめた。自我ではないものは問わなければいけなくなったからだ(だが自我は問う必要がない、らしい)。

 覚醒世界が精神世界の全体だ、自我が精神の全体だ、と思っている近代人にとって、夢はよく分からないノイズであろう。
 だが精神を全体として捉える人には、夢ほど重要なものはない。夢は自我に捏造されてない、自然と心が作り出すもので、自我が知らないこころの一面を教えてくれる。
 睡眠中も脳は働いている。夢は意識とは言えないが、意識がないとも言えない。不可解な中間領域である。
 夢という中間領域があるなら、覚醒意識も本当は実体がなく、我々が思っているほどはっきりしてないのかもしれない、と考えてみたらどうだろう。意識は我々が思っているほど、無意識と対立しているものではなかったら?
 対立で考えるから、中間が理解できないのではないか。

 近代人は自分が意識を知り尽くしていると思い込んでいる。知り尽くしていると勘違いしている人は、要するに自我だけを生きている人のことである。自我だけを生きている人は、自我のことはよく知っている。意識は過剰に発達している。だからこそ自我以外からくるもの/夢を、まるで理解できない。自分の中に「自分じゃないもの」があるということが理解できないのだ。


 意識を経験しているのは誰か?→自我。
 自我を経験しているのは誰か?→意識。
 結局、何が何を経験しているかは誰にも説明できない哲学の難問です。考えるだけ混乱します。
 この問題の仏教の答えは、自我も意識も、実体がない。本当は存在しない、と。
 意識も自我も実は曖昧なものの組み合わせに過ぎなかったのです。
 だから夢というものも、誰かが見せていて、だれかが見てるというわけじゃないと思います。ただそこにあるんです。ただそこにあるものを経験することがどんなことかを、夢が教えてくれます。