二項対立の超越としての中道

 我々は現実世界のことをほとんど知らない。我々の脳は言語を通して、世界を単純化して理解している。
 我々はものごとに言葉と概念を当てはめて、ものごとを理解しやすいように一般化していく。細かい不規則的なものを無視する。そうでもしないと、世界の情報量は多すぎて我々には処理ができないだろう。我々は世界を見ていると思っている時でも、実際に見ているものは言葉と概念だけであることが少なくない。そして気付いた頃には、両極端の二極的思考と、概念の実体視という誤謬に深くはまり込んで抜け出せなくなる。


 人は二項対立、「白か黒か」という思考に陥る傾向がある。その中間がないかのように考える。あらゆる質問に「はい」か「いいえ」で答えられると思い込む。現実はそうではなく、無限に中間があるのだ。
 自然科学や数学などの命題は「はい」か「いいえ」で答えられる。学校教育も、正しい答えが一つだけあると教える。しかし実際の人間心理は両価的で、反対のものを含んでいるので、「はい」か「いいえ」で答えると、間違いであることが非常に多い。 我々は両価的な現実の片側だけをみてそれに固執するのだ。
 例えば、過度に好き又は嫌いな人がいるとしよう。過度に好きな人の嫌いな面は無視されてしまう。過度に嫌いな人の好きな面も無視される。だが自分の心をしっかり観察すると、意識されない「逆の意見」が心の奥の方にしまってあるはずだ。
 それでも人々は頑なにこれを認めない。質問に曖昧な答えをすると、「どっちなのか、はっきりしろ」と言われる。「どっちなのかはっきりさせる」ことによって、我々は全体的なものの半面を抑圧し、自我を強化させ、同時に無意識が自我から遠ざかっていく。
 もちろん、意識と自我を強めて近代的にしていくには、この二項対立的意識・白黒思考は必須だった。これこそが近代科学を生み出したからだ。しかし対立の明確化は科学には役立つ思考方法ではあっても、心の理解にとっては誤謬なのだ。



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 仏教経典、特に般若経典類では、「Aではなく、B(非A)でもない」という論理が繰り返し繰り返し登場する。これを読んで現代人は混乱し、全くのナンセンスだと思う。
 上図の左側が典型的な思考法を表している。この世界観では、世界はAと、それと対立するBからなる。一般的な、科学的な思考法を持つ人にとっては「AでもBでもないものは存在しない」。
 しかし仏典が本当に言おうとしているのは、右図の方に表されたものである。AとBは極端論であり、極端論は現実には存在しない。AとかBとかいうのは単なる言葉であり、コミュニケーションのために作られた概念にすぎず、実際の世界のようすを表しているのではない。「Aでもなく、Bでもない」ものは、全体を、真理を表している。真理は、概念に取り憑かれていない世界である。

 一般に、仏教は無我を説いている。しかし仏教は中道をも説いている。中道的な思考が徹底してくる大乗仏教以降では、実は無我も一種の極端論として否定されていく。
 「迦葉品」(大乗仏典シリーズ9)は、無我と自我の両方を否定している。どちらも極端論だからだ。 この世には自我か無我の2つしかないと人は思い込む。その概念に取り憑かれているからだ。問題は自我論と無我論の対立だと考える。しかし深く考えてみれば、完全な自我とか完全な無我は存在しない。実際は、不完全な自我から不完全な無我へのスペクトルだけがあるのだ。
 完全な自我というのはもはや神のようなもので、論理的にありえないし、完全な無我も、完全な無と同じで、論理的にありえない。
 




 つぎに、「自己肯定感」概念と「禁煙」概念について考えてみようと思います。私は昔からこの二つの概念を存在しないものだと認識していました。中道的な考え方を適用しながら考察して、なぜ存在しないかを考えてみたいと思います。




 自己肯定感の誤謬

「自己肯定感が高い人がしている○のこと」などの記事は無限に量産されているが、現実には自己肯定感が高い人などおらず、自己肯定感が高い人がしていることなどない。なぜなら自己肯定感というものが、少なくとも実体としては、存在しないからです。
 自己肯定感が高い人と低い人がいるのではなく、「自己肯定感という概念に取り憑かれている人」と、「その概念を持っていない人」とがいる、というのが正しいのです。

 やる気の出るアドバイスとして、次のようなことを言う人がいる。「自分を天才だと思え。だが同時に自分をクズだと思え」と。 このアドバイスは同意できません。これは精神不安定な人の考えることだからです。真のやる気は内発的なもので、自己肯定や自己否定から来るものではありません。自分を天才だと思って自己肯定したり、自分をクズだと思って自己否定したりして、バランスよく肯定と否定を自分の成長のために使えという論理ですが、これはうまくいくときはあっても、長い目で見るとおすすめはできません。
 精神が安定している人というのは、自己像がぶれないのです。メンタルが安定している人は、自分が天才ともクズとも思いません。「メンタルが安定している人は自分が天才だと思っている」と思う人は間違っています(本人のメンタルが弱いからそう思うのだ)。優越感と劣等感は必ず補償関係にあり、同時に存在するからです。自分が天才だと思う人は必ず無意識の劣等感があり、自分がクズだと公に吐き散らす人は無意識の優越感があります。
 天才とかクズとかいう概念は単なる言葉であって、現実を表しているわけではないのです。

 自己肯定感というのも単なる言葉で、存在する実体を指し示しているのではないし、数値化できるものでもない。「自己を肯定しなければいけない」という考えに取り憑かれているからこそ、自己肯定感という言葉が(近年)登場し、この言葉の登場とともに「自己肯定感の低い人たち」が爆増しました。
 しかし彼らは気がついていません。自己を肯定しなければいけないものだと思うこと自体が、自己否定だということを。
 本当の意味で自己を肯定している人は、「プラスの感情としての自己肯定感」を感じているのではありません。 自己を肯定している人は(皮肉にも)自己のことをクヨクヨ考えません。プラスやマイナスで考えないのです。
 マイナスの自己否定を日頃から感じている人は、「プラスの感情としての自己肯定感」を得なければいけないと考えてしまい、プラスになる方法を必死に考え、プラスとマイナスを行き来するからこそ精神が不安定なのです。

 まとめると、自己肯定感が存在しないと私が考える理由は、自己肯定は自己否定の補償のすぎないからです。自己肯定は自己否定なのです。 自己を肯定する必要があるのではなく、自己を肯定しなくてもよい状態にならなければいけないのです。 







「禁煙」が存在しないワケ

 世の中には喫煙者と非喫煙者がいるのではない。 喫煙者か非喫煙者かというのはアイデンティティの問題に過ぎない。「自分が○○者だ」という考えへの執着であって、実体的なものに根拠があるのではない。
 よく考えてみて欲しいのだが、喫煙者とは一体なんだろう。チェーンスモーカーは自分を喫煙者と呼ぶだろうし、毎日吸う人も自分を喫煙者と呼ぶだろう。だがたまに吸う人はどうだろう。頻度が月一だったら?半年に一本だったら?数年に一本だったら?簡単には答えられなくなる。一本だけ吸ったことがある人は?やめた人は?副流煙を吸ったことがある人は?
 明確に線を引けるところはない。般若経典的な言い方をすれば、人は「喫煙者でも、非喫煙者でもない」のだ。


 禁煙が「必ず」失敗するのは、喫煙者として禁煙するからです。
 たばこを『本当に』やめるというのは、「喫煙者として禁煙する」ことではなく、「非喫煙者になる」ことでもなく(!)、「喫煙者、非喫煙者」という概念を持たないことです。
 本当にたばこと関係を持たない人は、喫煙者でも非喫煙者でもありません。
 どこかに、たばこを持たない民族がいるのを想像してみてください。彼らに、あなたは「喫煙者ですか、それとも非喫煙者ですか」と聞いたら、どのような返事が来るでしょう。非喫煙者です、という答えが来ると予想するかもしれませんが、「非喫煙者」という概念すら持っていない人々は、自分を「非喫煙者」とは考えません。なのでおそらく、彼らは答えに渋り、変な質問だと思われるのがおちです。



 中道とは、無実践の実践です。無実践の実践と言われると逆説のように聞こえて理解が難しいかもしれません。「禁煙すること」は執着を生む実践ですが、「単に吸わない」のは執着を捨てる無実践です。
 禁煙する人は、禁煙という苦痛に満ちた禁欲を実践しているので失敗します。単に吸わない人は、最初はつらいとしても、時と共に禁欲しているという意識がなくなっていくことで実質やめたことになります。
 客観的に見た行動だけではこの両者は同じことをしているように見えます。ですが何が違うかというと意識の持ち方が違うのです。中道とは行動ではなく意識の持ち方です。なので内面世界に対して無知で、外的な行動しか見ていない人々には、中道的な考え方は理解できません。 

 もともと吸わない人は、禁煙しているとは言いません。決して「吸わないことを実践している」のではないからです。これが無実践です。無実践がいわゆる禁煙と意識的にどう違うのか、お分かりいただけるでしょうか。
 たばこをやめたい人は、やめることを実践するのではなく、無実践する、つまりただ単に吸わない、そして吸わないことを意識しないのがより優れたアプローチです。禁欲/我慢は原則として苦痛なので、成功しません。

 単に吸わないことにしている人は、自分が「非喫煙者だ」という考えにも陥らないので、気分で一本吸うこともできます。仮に一本吸っても、決して禁を破って「失敗した」ことにはならないので、禁煙に失敗した前例を作ることもなく、罪悪感を感じることもないし、罪悪感のせいで再び喫煙習慣に戻る必要もない。
 禁煙という考えに執着している場合は、たった一本の喫煙があなたに罪悪感を与え、失敗と無力を悟らせる。そして「禁煙はむりだ」という考えにより強く執着させていく。



 ここで少し自分の話をするが、私は現在、ごくたまにしか吸わない人間である。過去は様々なたばこを試した片っ端から試した愛煙家であったが、様々な理由から気付いたらほとんど吸わなくなっていた。今吸うとしたら、非常にストレスが溜まった時などに他人から一本だけもらって吸うのが数ヶ月に一度あるかないかというくらいである。
 この私が他人から「喫煙者か」と聞かれると、私はどう答えればいいか分からず混乱してしまう。喫煙者だと答えると、「ではなぜ全く喫煙しないのか」ということになるし、非喫煙者だと答えると、私が吸っていたと知っている人が横から否定してくる。
 「元喫煙者」だという答えが無難だと思われるかもしれないが、この答えもおかしい。やめたことをアイデンティティにしたくはないし、するつもりもないからだ。
 結局のところ、「たばことの関係の結び方」は無限にあるのであり、喫煙者とか非喫煙者とかは執着の対象にされる偽物の実体、ただのコトバにすぎない。
 「(たばこって)やめられるものなんだ!」とびっくりされることもある。私のような「タバコとの関係の結び方」をしている人は非常に少ないようで、このような関係の結び方はあたかも存在しないかのように思われてすらいる。あたかも、依存症か非喫煙者かしかいないと。依存しない喫煙者は喫煙者ではない、とすら一般に考えられている。私は「喫煙者でも非喫煙者でもない」ので、そこらへんの人々から見ると私は矛盾していて、存在しないことになる。








 精神活動を正確に反映していない日常言語

 日常的に使われる一般的な言語は実際の心理現象を正確に反映していない。 それで非常に多くの人が、言いたいことを言えてなかったり、伝えられていない。その自覚がある場合もない場合もある。 誤った考え方が誤った言葉使いの原因で、誤った言葉使いが誤った考え方の原因になる。
 例えば、タバコや薬物やらが「自分の意志だけではやめられない」などという「コトバ」がそこら中に溢れているが、このコトバが一体何を表しているのか、何を言おうとしているか、多くの人は誤解している。それは「自分」とか「意志」とかいうコトバを、深く考察したことがないからだ。
 日常的な言語レベルで考えると、自分があって、意志がある。これらは辞書で定義されている言葉なので、一応他人には言いたいことが伝わったように感じる。 「自分」や「意志」が、先天的に、実体として存在すると単純に考えてしまう人は、この言葉を間に受け、信じ、それ以上何も考察できない。しかしこういうものは決して疑いようのないような実体ではない。
 精神の構造を考えたことがある人と、全く考えたことがない人では、自分とか意志とかいうコトバが持つ意味は全く違ってくる。  後者の人には単純な言葉に感ぜられる。だが前者の人には単純な言葉ではない。  薬物は人の精神と個別的でダイナミックな関わりを持つ。単純な依存モデルは全て現実を無視している。
 
 極論すると、タバコは自分の意思でやめられます。  ただ、やめられる人とやめられない人で、「自分の意志」という言葉の意味が全く違うというだけです。だからやめられる人にとっての「自分の意志」と、やめられない人の「自分の意志」は同じ言葉でも同じ対象ではないのです。意識構造が違うからです。
「自分の意思ではやめられない」などと言うと、そのコトバは刷り込みとして、聞いた人の現実を規定します。 「自分の意思ではーやめられない」と思うのではなく、「やめられない」主体こそが「自分の意思」という実体だと思うのです(この意味は非常に分かりにくいでしょうが)。

 別の言い方をすると、「(ニコチンは)自分の意思ではやめられない」と聞いた人は、ニコチンの性質について知ったと勘違いをするが、本当はニコチンの特性についてではなく自分の精神構造についての偏見を獲得したということである。彼は「ニコチンをやめられないという現象」=「自分の意志の正体」だと考えるのだ。

 ニコチンであれ他の薬物であれ、やめるということはできない。脳は否定を理解しないからだ。あるのは忘れることだけである。薬物はやらないことで次第に忘れ、忘れることで実質やめたことになる。だがこれは意識的にやめたというわけではない。 意識的にやめようとすると、意識をやめていないわけです。

 どこかの自称メンタリストは「科学的」な禁煙法などとうたって、死の恐怖を使う方法を言っている。なんとくだらない。 科学的な禁煙法などあるはずがない。意識は科学の対象じゃないし、「吸わないこと(禁煙とは別の概念)」は意識の対象ではないからだ。







 実体視の問題、統合作業やバッドトリップなどについて

 何かを実体視すると、
 ①それがある時点で始まり、ある時点で終わると考える
 ②他のものと区別できると考える。
 こういう誤解が生じます。 ①②は仏教がするなと、延々と延々と言ってきたことです。
 これが仏教の中道思想、空思想の要点です。

 「トリップ後の統合作業」などと言いますが、統合作業というものを実体視する人を見ると、この人は理解していないな、と思ってしまいます。
 統合作業がある時点で始まって、ある時点で終わると思っているのでしょうか。実際はそうではない。統合には正しい答えもない。始まりも終わりもない。
 
 バッドトリップについても強く思うのは、実体視しないでほしいということです。 ひどいトリップはありますし、ひどいトリップをバッドトリップと呼ぶことには何の問題もないのですが、「バッドトリップという実体」があると考えると、それに「入ったり」「出たり」するという誤った考え方になってしまう。
 バッドトリップは存在しないと言う人がいますが、彼らが本当に言いたいことは、バッドトリップを実体視するべきじゃないということでしょう。彼らは恐ろしいトリップが存在しないと言っているのではありません。 「バッドトリップという考え」こそが(ある意味・・)バッドトリップの原因です。
 ラジャラムが言うには、昔(5−60年代か)はバッドトリップと誰も言わなかったそうですね。誰もその話をしなかった。サイケ類が禁じられてからバッドトリップと言われるようになりました。悪い体験を概念化、実体化することが、恐怖植え付けに最適な方法だからです。
 
 あるのは意識のあり方だけです。意識のあり方を離れて存在するものはありません。 意識のあり方は自我の努力だけで完全にコントロールできるわけではありません。なので人は悪い体験を実体視したくなるでしょう。そうすれば悪い体験が自分の外にあることになり、自分と無関係にできるからです。