序
今回の記事は野心的な内容になります。多岐に渡る内容を攻めることになるので書ききれるかどうかは分かりませんが、結論を最初に、単刀直入に書くことから始めようと思います。
この記事では私はユングの「個性化過程」と、大乗仏教の悟りの本質について考えます。本質なんていうとおおげさで高慢だと思われるかもしれませんが、私は大乗仏教の本質的なものをついに理解したと思うのです。
端的に言うとそれは個性化です。ユング心理学の「個性化過程」こそが、大乗仏教の悟りの本質です。
私は以前から、大乗仏教とユングの比較に関心がありました。「華厳経入門(木村清孝)」を読んだとき、そこに書かれている菩薩の哲学がユングの個性化過程につながるものではないかと感じたのです。また「正法眼蔵入門(頼住美子)」を読んだとき、そこの修行論にもユングの個性化過程に通ずるものをかなり感じました。
しかし華厳経も正法眼蔵もとても素人には読みこなせるものじゃないので、それ以上研究せずにいました。
この停滞にブレイクスルーを与えてくれたのは「八千頌般若経」(はっせんじゅはんにゃきょう)です。私はこの経を読むことではじめて大乗仏教のいう悟りがなんなのかが分かり、それまでのさまざまなモヤモヤ感が発散しました。その後私は「金剛般若経」と「善勇猛般若経」も読みましたが、これらも同じような思想を説いています。
私はまず八千頌般若経のレビューをして、そこに登場する重要語句の一つ一つを解説・解釈し、それが一体どうユングと関係あるのかを説いていきます。
第一章 般若経典とは何か
般若経典は、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ又はプラジュニャーパーラミター)を解く経典です。般若は「知恵」、波羅蜜は「完成」を意味するので、「知恵の完成」という意味になります。
般若経典は多数の経典のグループで、数十の経典があり、中には翻訳や出版されてないものも多くあります。最初に成立し、もっとも基本的とされるのが「八千頌般若経」です。これは日本ではそこまで読まれていない経だと思いますが、チベットなどではもっと崇拝されているそうです。
八千頌般若経は初めて「大乗」という言葉が登場した経典で、ここから大乗仏教が産声をあげます。成立は前100年〜後100年ほど。
「頌」とは詩のことですが、八千頌というのは八千の詩からできているという意味ではなく、ここでは長さの単位になっています。一頌は32音節とのことです。
日本で一番有名な般若経典は「般若心経」と「金剛般若経」ですが、これらは分量で言うと25頌と300頌に相当するそうです。
「般若心経」は、般若経典類の思想をごく短くダイジェストしたものです。非常に短いので全文暗記するのも難しくありません。しかし、その説いている思想を本当に理解するのは決して簡単ではなく、言ってしまえば「悟りを開か」ないと、真の理解はできないです。
般若心経と金剛般若経は、その短さから非常にとっつき易いものではありますが、般若思想を理解するには分量が足りないと思います。
「八千頌般若経」は、より分量を伸ばしたバージョンが登場します。それが「二万五千頌般若経」とか、「十万頌般若経」です。これらは拡大般若経と言われ、内容は基本的に「八千頌」と一致するそうです。十万頌なんていうのは、聞いただけで頭が爆発しそうです。「八千頌」ですら、私がこれまで読んだ経典で最も長く、読むにはそれなりの根気がいるものでしたが、その十倍以上もある本は想像できません。そこそこの厚さがある文庫本で二十五冊くらいにはなるでしょう。
当然、「二万五千頌」「十万頌」などは日本では出版されてません。「八千頌」ですら全然売れない(笑)ので当然のことですが。
私が今回の記事で引用するのは中公文庫「大乗仏典」シリーズの1〜3巻にあたる、「般若部経典(金剛般若経 長尾雅人訳、善勇猛般若経 戸崎宏正訳)」「八千頌般若経 I・II 梶山雄一・丹治昭義訳」です。
第二章 八千頌般若経を読む体験
大乗経典は非常に煩わしい、ということを最初に告白します。八千頌般若経を読んでいる間は何度も何度も睡魔に襲われ、これは「読む睡眠薬か」と思ったくらいです。どれくらい煩わしいかは、本文の例を見せないと分からないでしょうが、煩わしさを見せるためにわざわざ文章をキーボードで写したいとは思いません(笑)。経典を読むときはある程度(場合によってはかなり)読み飛ばしが生じざるを得ません。読み飛ばしても、ほとんど理解が変わらないというくらい内容がない部分が多いので、むしろ飛ばしていいと判断したところは堂々と飛ばすような読み方をお勧めします。そうでないと集中力も精神力も持ちません。経典はもともと「唱える」もので、「読む」ものではないのです。唱えるうちにトランス状態に入っていく、という風にも考えられます。
この経典はとにかく繰り返しが多いです。繰り返しを省くと半分ほどの分量にできると思いますし、なんなら要点をまとめれば十分の一か、最悪二十分の一のページ数にもできると思います。
全く同じようなやりとりを何度も、何度も繰り返すだけでなく、省略できる文を全く省略しません。例えば経典内で、ある質問者が一つ一つ言わなくていい言葉を全部言いながら質問したとしましょう。その質問にブッダなどが答えますが、答える人も質問の内容をわざわざ全部言い返します。
この文庫本では訳者はいくつか省略記号を導入していますが、ある省略記号は1ページほどに渡るほどの文章を省略しており、それが7−8回登場します(笑)
上下巻に分かれている八千頌般若経で特に思想的に面白くなってくるのは下巻からです。私は思想的に重要に感じたところは後から参照できるように印をつけたりしてますが、これは下巻の方が圧倒的に多いです。上巻には全然印がありません。私は上巻を読み終えたときはクタクタで、下巻を読んで意味があるのかと少し諦めかけていたくらいでした。投げてしまおうか?(ニーチェのツァラトゥストラを下巻で投げたことを思い出す・・)しかし下巻を進めていくと、どんどんこの経が説こうとしていることがなんなのかが分かってきました。最初はユング心理学と比較するつもりなど全くなかったのですが、進めていくうちにユング心理学の「個性化過程」との対応が見えてきました。最終的には、読んだことを非常に満足しています。この経は大乗仏教を理解するために決定的に重要な経だと思います。
八千頌般若経には、のちに「浄土三部経」や「法華経」として開花してく思想の種がすでに植えてあります。八千頌般若経の終盤にある都市が登場しますが、この都市の風景は浄土三部経に出てくる極楽浄土と酷似しています。
また「この経の福徳がどれだけ大きいか」というプロパガンダを説く部分が非常に多く、これは法華経を感じさせますが、八千頌はたぶん法華経よりもきついです。
現世利益を説く部分は、思想を知りたい我々からすると価値がなく、読み飛ばされるだけでなんのありがたみも感じません。その部分がなければ経全体が良くなるのになと思ったりもします。しかし民衆が求めているのは高度な思想ではなく常に低俗な現世利益なのですから、歴史的情勢とかも絡んで、そういう部分を入れなければいけなかったのだと思います。
小乗批判もいくらか目立ちました。そして「魔の所行」という章は二回も別々に登場し、「こういうことがあったら魔の所行だ」というのが延々と説かれています。この部分もプロパガンダ-洗脳的な色彩が濃いように感じました。修行僧のなりをして、小乗経典の中に真理があると勧めてくる人の正体は「魔」らしいです。そういう記述がなんどもあり、この経は自らを、これまでの経典より高い位置に置こうと必死なのが伺えます。
「善勇猛般若経」のほうも軽く紹介しましょう。
「善勇猛般若経」は、もっと後代に成立したからか、プロパガンダ的な部分がほとんどなく、小乗批判内容もなかったと思います。思想的には「八千頌」よりもっと成熟していると言えます。しかし最初から最後まで読み応えがあるかというとそうでもなく、これもかなり多い部分が読み飛ばされました。思想的に特に価値がある章は一の「序」と、六の「実践」の前半あたりでしょうか。
第三章 八千頌般若経のキーワード
八千頌般若経の思想を解説するために、重要キーワードをいくつかとりだして、一つ一つを検討してみます。
キーワードは空、不二、無執着、知恵の完成、全智者性、知恵の完成の暮らし、発心、不退転、無上のさとり、巧みな手立て
空(くう)
空は、般若経典の中心的な思想で、また大乗仏教の中心的思想です。
大乗仏教の中心思想は菩薩と利他ではないか、と思う人もいるでしょう。それは確かにそうなんですが、実は空こそが菩薩と利他を本当に支えているものなのです(その理由と論理はこの記事内で説明されます)。
「八千頌」のなかではまだ空思想は未熟な段階にあるかもしれません。のちのナーガールジュナ(龍樹)は第二のブッダとも呼ばれる人ですが、彼の「中観派」が空思想を完成させていきます。
空思想について詳しく書くと記事がどこまでも長くなってしまので、今はごく簡単な記述だけに留めておきます。
般若経典は、全てのものが空だと説きます。空はあらゆるものの本質です。それでいて、直接経験することはほぼ不可能です。
空とは、全てが否定された境地です。そう聞くと、これが無だとか、ニヒリズムだとすぐ誤解されますが、空は無やニヒリズムではありません。空は無すらも否定するからです。空は有と無を包括している全体か、あるいは有にも無にも属そうとしないその絶対的な中間か、それとも人間的な次元の有と無を超越したより高次元の視点、というふうに考えてみて欲しいです。
空は絶対に言葉では表せず、論理的な概念で理解することもできません。
般若経典は、「言葉で表せないもの」=空を、「かなり多くの言葉」で必死に表現しようとしている試みなのです。ですが表現できているのはあくまで空の周辺だけで、空そのものではありません。
禅に馴染みがある人なら、禅語と空は似たものだと気がつくでしょう。般若経典は禅とも関わりが深いです。般若経典そのものが長大な禅問答だと考えてもいいと思います。空思想は、ことばと論理を完全に否定するものです。そのことばの表面的な意味しか読まない人にとっては、なんの意味もないナンセンスにしか見えないのです。
不二(ふに)
不二は、二つに分けられない、という意味で、要するに全てが同一だということです。
不二は空の性質の一つです。空の世界では「これ」と指し示せる、区別できるものがありません。
悟った人間にとっては、全ては不二になります。
不二は大乗仏教の重要概念です。原始仏教では聖なるものと俗なるものを区別し、汚れたものと清浄なものを区別します。しかし大乗では聖俗が不二で、全てのものが本来清浄です(これはのちに密教の性行為肯定思想につながっていく)。聖俗が不二なので出家にもこだわりません、修行にもこだわりません。普通の俗人として生活しながら仏教者として生き、なんなら悟りを開くこともできます。このように俗人の聖者を描いたのが「維摩経」という経典です。維摩経は在家主義を説きますが、これは日本史上唯一の在家仏教者である聖徳太子が重要視した経典の一つです。
無執着
無執着は、空とも不二とも密接に関わっています。無執着の極みこそが空、そして不二の境地なのです。
般若経典は徹底的な無執着を説きます。本当にこれ以上ないくらいの徹底した無執着を説きます。なので読者は、「じゃあこのまま何もせずにじっとして餓死すればいいのか」などとも思うでしょう。ですがそう考えるならまだ無執着思想を理解していません。
無執着はストイックに聞こえますが、実は無執着思想が言おうとしていることは禁欲ではなく、中道なのです。立場を持たないこと、究極の中立を目指すことなのです。
原始仏教では、自我に執着するなと教えます。しかし原始仏教で修行している人は、涅槃(悟り)に執着しています。俗なるものから離れ、聖なるものに執着しています。
大乗仏教は原始仏教を思いっきり批判して、悟りにも執着するなと言います。
「善勇猛般若経」では、もともと仏教の根本思想である四諦と八正道も、否定してしまいます。四諦や八正道を実践している人はそれに執着しているわけですから、本当に無執着とは言えないわけです。善勇般若経はこのように、無実践の実践を徹底して説きます。
具体的に「こう修行しろ」という指導を求めて般若経典を読んでも、「こうするな」という指示しかないので、多くの読者は「この経に使える思想はないな」と思ってしまいます。私自身、善勇猛般若経を買う前に軽く立ち読みしたとき、「実践は何かを対象にするのではない」とかいう文面を見て、これは面白くないと思ったものです。しかしこれが説いている本当の意味が分かった今はそう思いません。修行法に具体的な指示がないことについては、のちほどユングとの関連で考えていきます。
原始仏教は涅槃こそが目的だったので、「涅槃にも執着するな」と言われると、もう仏教は思想を捨ててしまったのか、悟りは実践ではなく単なる信仰対象に成り下がったのか、と思われがちです。しかし違います。大乗が説く悟りは、確かに存在します。ただもっと理解が難しく、存在しないかのように見えるだけです。大乗仏教では悟りは、到達点ではなく過程になったのです。到達点の悟りと過程の悟りの違いについては、前回の記事で論じています。
「善勇猛般若経」は、無執着も実践するものではない、と言います(p274)
知恵の完成
プラジュニャーパーラミター、般若波羅蜜のこと。般若経典類のメインテーマ。
知恵の完成は「八千頌」の中で最も多く登場する単語の一つです。誰かが知恵の完成を讃えたり、知恵の完成について説いたり、知恵の完成について聞いたり、知恵の完成について答えたりすることが経の内容の大半を占めます。
知恵の完成について同じような質問が延々とされ、同じような答えが延々と出され、たくさんの言葉が使われているにも関わらず、読者はなかなか知恵の完成がなんなのか分かりません。
ここまでたくさんの言葉を使いながら、ここまで何も意味しないものがあろうか?なぜ具体的に説明が出来ないのだろうか。多くの読者は最後まで読み終えて、結局知恵の完成が何か分からない、ということになるのではないでしょうか(多くの法華経の読者が、法華経がなんなのか分からないで読み終えるように)。しかし、私がここまでで説明したことを理解された方なら、知恵の完成がなんなのか少しは理解できると思います。知恵の完成は空とほぼ同義語で、後に解説する「無上の悟り」ともほぼ同義です。
仏教者たちが知恵と呼んだものは、我々が思う知恵とは違います。違うどころか、真逆です。
我々は、ものごとをことばを使った論理と概念で理解します。、これを知恵と呼ぶでしょう。知恵を使ってものごとを分別します。そうやって様々な科学を作っていきました。
仏教者たちのいう知恵は、ものごとを、ことばという虚構や、概念という虚構を使わずに理解することです。
我々は木を見て、「木だ」と思う。木が何かを概念で理解している。しかし犬が木を見たらどう思うだろうか。犬は「木だ」と思うだろうか。木の根っこが水を吸っていることや、葉っぱの葉緑素が光合成しているということを知っているだろうか。知らない。犬は「!」としか思わないだろう。
知恵の完成とは、木を見て、「」と思うことである。・・いや、もっと般若経的な表現では、「」と思うことも、思わないこともないことである。彼の目の前には虚構で装飾されていない、そのままの現象だけがある。
「金剛般若経」では次のように説かれています。「如来によって説かれた『知恵の完成』は、すなわち完成ではない」(p33)「この最高の完成は、すなわち完成ではない」(p 37)。
全智者性
この言葉は、知恵の完成と関連して使われる。空と、知恵の完成と同義である。如来は全智者性を持つ。
現代人の我々は全知ということを聞くと、科学的な知識をすべて知っていることだと思うだろう。すべての粒子の位置と運動が分かれば、物理的に今起こっている全てのことがわかる。それに加えて過去と未来も全て知っていれば全知になろう。
しかし科学を持っていない人たちが考える全知というのは全然違うものである。彼らはもっと主観に注目している。我々現代人の考える全知は客観だけに注目しており、我々は外の世界の完全な理解が全知だと考える。内なる世界はまるで重要じゃないかのように無視されている。
しかし科学以前の人の考える全知は、現象学的なものである。内なる世界を知り尽くすこと。
外の世界は重要ではない。物理学は我々の意識現象を理解させるものではない。我々が本当に体験できるのは意識だけである。
知恵の完成の暮らし
「最高の暮らしによって暮らそうと思う菩薩大士は、知恵の完成の暮らしによって暮らすべきであり、アーナンダよ、如来の暮らしによって暮らそうと思うものは、知恵の完成の暮らしによって暮らすべきである」(「八千頌」下巻p284)
この言葉は登場回数は多くなく、突然ぽっと出てきたものだが、何を指しているのかはすぐに分かった。
知恵の完成は原則として人間が生きている間には達成できないものである。人間には不可能なのだ。菩薩は知恵が完成するのではなく、知恵の完成の暮らしをする。知恵の完成の暮らしは、知恵の完成に向かっていること、知恵の完成を生きていることである。
これはユングの「個性化過程に入っている」ことに相当する。
「今日から先は、私どもは、この知恵の完成から離れない菩薩大士、また知恵の完成の暮らしを暮らす菩薩大士を如来と同じように考えましょう」(「八千頌」上巻p73)
発心(ほっしん)
発菩提心ともいう。悟りを得ようと心を起こすこと。
大乗経典は発心を非常に重要視する。その理由は、大乗の悟りは到達点ではなく過程だからである。
悟りを得ようという本気の思い、願いが生じた瞬間、その人は「過程」に入る。
しかし一度過程に入ったからと言って「悟った」わけではない。そこから堕落することもできる。
発心はゴールではなくスタート地点だが、スタート地点は一種のゴールである。だが本当のゴールはないし、実を言うと本当のスタート地点もない。
ろうそくの火が燃え尽きる時、それは最初の火が原因で燃え尽きたのか、それとも最後の火が原因で燃え尽きたのか。どちらでもない。それと同じように、最初の発心と最後の発心は価値において差がない。
「善勇猛般若経」(p114)・・「善勇猛よ、そもそも菩提(=悟り)に向かって発心するということは不可能である。なぜなら、菩提には、(それに対して心が)起こるということもないし、菩薩には、(それに対して起こる)心があるということもないからである。」
不退転
不退転は、実質さとったという主張に等しい概念です。
後ほど説明しますが、般若経典が目指すのは「無上の悟り」というもので、これは原則としては現世では達成できません。何度も生まれ変わった後の来世に到達できるとされます。
現世で達成できないものにどうやって満足するべきか、という問題を解決するために不退転の概念が作られたように思います。不退転になった菩薩は、もはや悟りの道から退転することがありません。つまり、いつかの来世に必ず「無上の悟り」を悟ることが確定したという予言を受けたと言うことです。
都合のいい概念に聞こえますが、いちおう不退転になる条件はかなり厳しいです。どれだけわずかなものだけが不退転になれるかは、「八千頌」上巻88–89pに記述があります。それによると、阿羅漢(小乗仏教の修行完成者)のうちのほんのわずかだけが(無上の悟りに向けて)発心し、発心した人のほんのわずかだけが不退転になります(ここに書いたのはかなり省略したもので、実際の記述はもっと凄まじいです)。
「八千頌」では第17章が「不退転の形状のしるしと証拠」になっていて、不退転のしるしが書かれていますが、これ以外の箇所でもパラパラと不退転のことが出てきます。
不退転の菩薩は、自分が不退転かどうかということを考えませんし、気にしません。これは非常に大事な考え方です。自分が不退転だと考え、その考えに執着したり自慢したり誇ったりする人は、明らかに不退転ではありません。
無上の悟り
無上の悟りは、単純に考えると空、知恵の完成と同義語です。
これは法華経にも出てくる言葉ですが、法華経を読んだときは私はこの無上のさとりがなんなのか理解できませんでした。無上の悟りの本質をやっと理解できたのは「八千頌」を読んだときです。
私の一番大きな疑問は、無上の悟りの何が無上なのか、ということでした。原始仏教や小乗仏教の悟りでも相当なもので、一度でも経験したら一生忘れないような究極体験です。それを超える(とされる)ものというのが想像できませんでした。そこでわたしはこの「無上の悟り」を、単なる信仰対象だという風にしか考えることが出来ませんでした。
無上の悟りは空の体験なのだろうか。単純に読むとそのように理解されます。しかし空のどこが無上なのだろうか。もちろん、空は究極の境地ではありますが、原始仏教〜部派仏教の時代の悟りとどう違うのか?開祖のブッダは空という言葉こそ使ってないですが、空を経験するような悟りをしています。ブッダ以後の多くの仏教徒もしています。それをどうやって超えて、「無上」の悟りになるのか。
無上の悟りは、現世では達成できません。輪廻を繰り返した来世に達成できるものです。そう聞くと、これは実践から離れている、実体がないものに見えます。でもその通りで、だからこそ無上なのです。無上の悟りは実践もされませんし、実体もありません。だから空であり、神とか仏とかとも言い換えられます。
無上の悟りへと至る道は、ユングの言う個性化過程です。ユングは個性化過程が「過程」であることを重点的に言いました。過程はある時点で終わりません。なので個性化はある時点で達成はされません。個性化過程のゴールは、架空の点です。それと同じように、無上の悟りも架空の点です。その架空の点に向かって我々は永久に進んでいくのです。
巧みな手立て
方便とも。方便は法華経でも重要な概念です。
巧みな手立てが何なのかについても、具体的で分かりやすい説明は経内にはありません。漠然としています。なので今の私はこれがなんなのかは説明できません。
しかし菩薩にはこの巧みな手立てが必要だと書かれています。ときには少しルールを破ってでも、結果さえ良ければいい、っていうような使い方がされていると思います。
「八千頌」第20章は「巧みな手立ての考察」ですが、これを読んでも巧みな手立てについてはいまいち分かりません。
菩薩は真実の究極を、空性を「直証はしない」(!)。涅槃に入らないことも巧みな手立てのうちに入るようです。
なぜなら、「彼には最も力強く、もっとも堅固な守護者、すなわち、知恵の完成と巧みな手立てとがあるからである。」
第四章 ユングの個性化過程、過程ということ
さてここまで解説もなくユングの個性化過程という言葉を何度も使いましたが、知らない人のために解説が必要でしょう。
ユングが「個性」と考えたものは我々現代日本人が考える「個性」とほぼ無関係です。
ユングのいう個性はインディヴィジュアルのことで、要するに個人です。個性化過程は英語ではindividualization processと言いますが、直訳すると個人化過程です。
訳者によっては「個体化過程」と訳しています。私自身、以前は自覚もなく「個体化」と「個性化」をごっちゃにして使ってました。
河合隼雄は、この概念の翻訳に困ったと言っています。
ユング自伝下巻(p134)にはこのような記述があります。ユングは自身の臨死体験のヴィジョンや夢で「客観性」を経験し、それが完成していく個性化過程の一部をなしていると言います。
・・個性化とは価値判断とか、感情的結合と呼ばれているものからの離脱を意味している。感情的結合は人間にとって、一般的には極めて重要なのだが、しかしそれは投射を含んでいて、自分自身や客観性に到達するためには、この投射を棄て去ることが肝心である。感情関係は、強制と圧迫との入り混じった、欲望の関係であって、その関係では他人から何か期待されていて、それが他人も自分自身をも窮屈にしている。客観的な認識は感情関係の背景に隠れ、その認識は中核的な秘密であるように見える。客観的な認識によってはじめて現実的な合一(結合)が可能である。
これは簡単には理解できないかもしれませんが、ここでユングが「中核的な秘密」と呼んでいるものは、大乗仏教の「空」とつながってくるものではないかと思えます。ユングは個性化を、「客観性を得ること」として捉えています。・・般若思想は、「空」こそが絶対の客観だと主張します。
現代日本人は「個性がある」というのを、基本的に悪い意味として受け取ります。周りから浮いている。しかしユングの個性は、周りから浮くこととは何ら関係がなく、むしろ浮く人の方が無個性であることが多いくらいです。
個性化は、周りからの過度な影響から解放されることです。偽りの自分(ペルソナ)を捨て、真の自己を探す。かといって他人から逃げるのも個性化ではありません。無意識内容の影響を過度に受けず、かといって無意識から離れ過ぎず、というバランス感覚が、中道が必要です。ユングの「自我と無意識」などを読んでいると、個性化過程が一方で無意識から解放されるもので、でも他方では無意識の中に入っていくものとして書かれているので、どちらなのか分からずに多くの読者は混乱します。
ユングは個性化過程を、多くの著作や論文で扱いました。たくさんの言葉でそれを解説しました。しかし読者の多くは、個性化過程が具体的に何なのかを理解できません。
ユング心理学の概念の多くがそうなのですが、曖昧で、掴みどころがありません。なのでユングの叙述力が足りなかったのだと考える人もいます。でも私はそう思いません。
個性化過程は、「個性」化過程なので、原則として全員が違う道を行きます。「こうすれば個性化になる」という指示をしてしまうと一般化したことになり、「一般化過程」のようなものになってしまうでしょう。
例えばユングは元型についてもたくさん書いているはずなんですが、それでも例えば「元型論」を読んでも、ほとんどの読者は元型がなんなのかよく分かりません。その理由は、これらが記述できないもの、だからなのです。そしてユング自身もそれを自覚しており、何度も何度もそう言っているのです。
ユングは錬金術文献を研究し、錬金術が扱っているのも個性化の問題であることを明らかにしました。錬金術の文献は禅問答みたいになっており、何を目的にしているのか、どんな作業をすればいいのかも全然分かりません。化学実験をするつもりで読み始めても、具体的な読める指示は皆無なのです。
ユングが個性化過程の流れや到達点を具体的に書けないのは、錬金術書が目的や目標を具体的に書かないのと同じ理由によります。そして般若経典が知恵の完成(=悟り)に目的がなく、存在もしないから到達できないと言っているのも同じ理由によるのです。これらは、ことばで指し示せないものを表現しているのです。
なぜ指し示すことが出来ないのでしょうか。それはこれらがどれも過程であるからです。流動的なもの、指向性としての過程そのものは記述できません。何かを記述するには、ものごとを分別し、スライスし、区切ってやらなければいけません。ある「過程」をことばと概念で記述した文章は、もともと「方向性」でしかなかったものが「ある断面で切られたもの」です。
それは終わりのない無限大(∞)をある時点で区切って、数えてしまったようなものです。数えてしまうとかなり大きい数字になるかもしれませんが、どれだけ大き数字でも、決して無限大ではありません。有限になってしまいます。
ある点に到達したことで過程が完了するわけではありません。無限大とは、数え始めることはできても数え終わることはできません(無限大の種類によっては、数え始めることもできない)。
自分の過程が完了したと考えた人は過程から転落し、それ以上進まなくなります。これが小乗仏教(大乗以前の仏教)の最大の誤謬です。
大乗は小乗見下すスタンスをとっているわけですが、小乗は自利しか求めないから大乗から批判されるのでしょうか。それは違います。本当は、小乗は過程が終わるから批判されるのです。
原始仏典(大乗から見ると小乗経典にあたる)を読むと、誰々が最高境地の聖者「阿羅漢」になり、煩悩を離れたなどと書いてあります。彼らは生きながらにして本当に永久に煩悩を絶ったのでしょうか。そんなはずはありません。実際の人間は修行完成者にはなりません。
大乗仏教の本質は、修行の過程が絶対に終わらないことです。それを「遠い来世に無上の悟りを得る(仏になる)」などという思想で表現しているのです。これは決して来世信仰ではなく、今を真面目に生きているからこその思想なのです。
神秘的な過程である個性化、錬金作業、そして知恵の完成の暮らしは、具体的な言葉によってその境地を説明することはできません。説明すると相対化したことになり、相対化してしまうともうその主観を生きていないことになってしまうからです。
個性化過程はユングが発明したものでなく、もともと人間の中にある一種の方向性、衝動性のようなものです。
第五章 ユングと仏教
ユングがどこまで大乗を研究したかは分かりません。彼は禅や、観無量寿経についての論文は書いています(「東洋的瞑想の心理学」に収録)。
しかし彼はおそらく主要な大乗経典には通じていません。興味がなかったのか、時間がなかったのか、読める言語に翻訳されてなかったか、理由は色々と考えられますが。〔大乗はユングの読める言語に翻訳されてない、そして紹介されてなかったのだと思われます。ユングは原始仏教についてはよく知っていました。〕
さてここまでお読みになった方で、ユングと仏教を一緒に考えることに違和感を覚えた人もいるのではないかと思います。決定的な問題は、仏教が自我や自己を否定していることです。ユング心理学では自我と自己がそれぞれ存在しますし、それは個性化過程とも密接に関わっています。
個人の存在もほぼ否定していると言える仏教が個性化過程を説いている?そんなはずはない!と考える方もおりましょう。
私は仏典が明確に西洋的なユングと同じ個性化過程を説いているとは思いません。ただ多くの共通点を見出しただけです。対応関係を全てここに綿密に記述することは出来ないのですが、実際に「八千頌」や「善勇猛」を読んでいただけたら、確かにそうだなと分かってくるところが必ずあると思います。
※追記 上の般若経典類は個別化という面はあまり見られないですが、「首楞厳三昧経」(大乗仏典シリーズ7)では個別化、個人間の違いというところまで説いています。この経では無数の天子たちが皆、如来のための獅子座を用意し、如来がその全てに座るというエピソードがあります。天子たちは自分の用意した獅子座に座った如来しか見えず、他の獅子座は見えなかった。獅子座はたくさんあるはずであったにもかかわらず、お互い邪魔することもなかった(!)。これは各個人の主観の違い、救いの違いというのを表現している。普遍的な救いは、個別的に受け取らなければいけない。または個別的な救いこそが普遍的な救いなのかもしれない。
自我と自己の問題については、わたしは気にしません。あると主張しようが、ないと主張しようが、大差がない、と私は考えます。それは立場上の違いに過ぎません。ユングが仏教と対立すると考える人は、ユングと仏教を表面的にしか理解してないと思います。
私個人的には、西洋心理学的な自我を作っていくべきとする考えと、自我を滅却すべきという仏教的な考えの両方に同等の価値があると思います。そして矛盾するとは思いません。私はそれを説明するために「犬の形をした岩」という比喩を考えました。
遠くから見ると犬の形をした岩があります。しかし近づいていくほど犬の形には見えなくなっていきます。すぐそばまでくると、ゴツゴツしてザラザラした斜面しかなく、犬などどこにもいません。
私は自我と無我をそのように考えます。自我は確かに存在するように感ぜられますが、細かく分析していくと本当は「ない」ことが分かります。この二つの立場のどちらかが正しいのではなく、両方がそれぞれの文脈で正しいのです。
そもそも仏教のいう自我とユング心理学の自我は同じものではないようです。こういう用語を単純に捉えて比較することは危険です。自我という言葉はあまりに曖昧で、何を意味しているか他人に伝えるのは非常に難しいのです。一つ言えることは、ユング心理学の自我は心理機能として原則的に常に存在するもので、肯定したり否定したりするものではないということです。ここでは自我問題については深入りしませんが。
仏教は開祖のころから自己の存在を否定してきました。しかし、大乗仏教や密教になってくると「こそっ」と自己の概念が導入されていきます。ただ違う呼び方でごまかされているだけで、明らかに自己なのです。禅では、端的に仏を自己として見ています。悟りは自己を知ることです。密教でも、大日如来は世界全体でありながら自己のシンボルでもあります。
大乗仏教の如来蔵思想では、誰もが内なる如来の胎児を持っているとされ、これも自己シンボルとしか言いようがありません。経典(「勝鬘経」など)は如来蔵がヒンドゥー教徒などの説く自己(アートマン、プドガラ)とは違うと言っていますが、私からみるとどう違うのかは分かりません。そう言っているだけで、本当は同じものに見えます。
自己的なものを設定する如来蔵思想が仏教でないと主張する学者もいますが、私はそれに異を唱えます。そう考える学者はコトバに騙されているだけで、自己が「本当は何か」を十分に深く考えてないのです。
対応表(仏教/ユング)
発心=個性化過程の始まり?おそらく神秘的体験を伴う(≒患者の回復し始め)
不退転=(対応なし)
知恵の完成の暮らし=個性化過程
知恵の完成・無上の悟り=個性化過程の自己シンボル、錬金術では「賢者の石」など
空≒集合的無意識
第六章 中道
三組づつの言葉を出しますが、上と下の二つが両極端で、真ん中が「中道」を表します。
↗︎極端な快楽
→ 中道
↘︎極端な不快(苦行)
・ブッダが説いた中道。
↗︎有
→ 空
↘︎無
・中道としての空。
ナーガールジュナの中観派、「中論」などの著作。
↗︎極端な自己利益(涅槃)
→ 菩薩道(無上の悟りへ)
↘︎極端な利他(自己放棄)
・無執着と空に支えられた悟り。
↗︎孤立(関係のないこと)
→ 自立(関係を持つこと)
↘︎依存(関係の強すぎること)
・これは人間関係。
↗︎自分勝手、他者の無視
→ 他者と関係を持ちつつ、自らの道をいく
↘︎他人の目線や考えばかり気にする
↗︎意識の過剰拡大(自我肥大)
→ 個性化過程 (意識–無意識のバランスを作っていく)
↘︎無意識が大きい(神経症)
・一つ上の図の言い換えでもあります。
↗︎内向性
→ 全体性
↘︎外向性
・ユング心理学の重要概念。
↗︎ある目的のために修行すること
→修行をするのでもしないのでもないこと
↘︎修行しないこと
・「善勇猛般若経」にはこのような文が満載だが、ここまでで紹介した中道的な考え方と比較すれば、これがナンセンスではなく重要なことを言っているのが分かってくるはずだ。
大乗仏教の本質は利他行ではありません。中道です。中道こそが、実は本当の利他行だからです。
金銭などを布施して、「自分は布施をした(から偉い)」と考える人は菩薩ではないと、こういう記述が般若経典内に何度も何度も出てきます。
真の菩薩の布施は、意識されないのです。「自分」が、「誰かに」布施をしたのであれば、そこで「われ」という思いが生じて、つまりエゴが出てきます。エゴは感謝や報酬を欲しがります。
真の菩薩は、「われ」という思いがないので、『「利他のため」という考え』こそが自我を肥大させるということを知っているのです。彼にとっては「空」が「空」に布施をしただけなのです。
中道的な考え方は現代のわれわれにも決して無関係ではありません。われわれの生き方、社会の作り方とも関わってきます。われわれは中道としての『最大多数の最大幸福』を実現するべきです。これは中道でしか実現できません。自分の利益だけを求めること(資本主義)では絶対に達成されませんし、極端な平等を作ろうとすること(共産主義)でも達成できません。答えはその中間にあるはずです。中間は掴みどころがなく、見ることも名付けることもできません。存在もしません。でもそこに向かって進んでいかなければいけないのです。
「八千頌」下巻(p92)
そのとき、スブーティ長老が世尊にこうお尋ねした。「世尊はこう仰せられました。『無上にして完全なさとりは得がたいものである。無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なく難しいものである』と。世尊よ、さとる人など実はだれもないのに、どうして無上にして完全なさとりは得がたく、無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのでしょうか。それはなぜかと申しますと、世尊よ、すべてのものは空であるからです。それをさとることができるような、いかなるものも存在いたしません。」
「善勇猛」(p 289)
善勇猛よ、菩薩がこの知恵の完成を学習するとき、それは最もすぐれたものを学習しているのである。彼は、あらゆる衆生の涅槃への道をきれいにするために学んでいるのである。それはなぜであるか。実に善勇猛よ、この知恵の完成の学習というもの、それは最高の学習であり、最も卓越したもの、選りすぐられたもの、最もすぐれたもの、無上のもの、最上のものであるからである。
無上の悟りへと至る道は、ユングの言う個性化過程です。ユングは個性化過程が「過程」であることを重点的に言いました。過程はある時点で終わりません。なので個性化はある時点で達成はされません。個性化過程のゴールは、架空の点です。それと同じように、無上の悟りも架空の点です。その架空の点に向かって我々は永久に進んでいくのです。
巧みな手立て
方便とも。方便は法華経でも重要な概念です。
巧みな手立てが何なのかについても、具体的で分かりやすい説明は経内にはありません。漠然としています。なので今の私はこれがなんなのかは説明できません。
しかし菩薩にはこの巧みな手立てが必要だと書かれています。ときには少しルールを破ってでも、結果さえ良ければいい、っていうような使い方がされていると思います。
「八千頌」第20章は「巧みな手立ての考察」ですが、これを読んでも巧みな手立てについてはいまいち分かりません。
菩薩は真実の究極を、空性を「直証はしない」(!)。涅槃に入らないことも巧みな手立てのうちに入るようです。
なぜなら、「彼には最も力強く、もっとも堅固な守護者、すなわち、知恵の完成と巧みな手立てとがあるからである。」
第四章 ユングの個性化過程、過程ということ
さてここまで解説もなくユングの個性化過程という言葉を何度も使いましたが、知らない人のために解説が必要でしょう。
ユングが「個性」と考えたものは我々現代日本人が考える「個性」とほぼ無関係です。
ユングのいう個性はインディヴィジュアルのことで、要するに個人です。個性化過程は英語ではindividualization processと言いますが、直訳すると個人化過程です。
訳者によっては「個体化過程」と訳しています。私自身、以前は自覚もなく「個体化」と「個性化」をごっちゃにして使ってました。
河合隼雄は、この概念の翻訳に困ったと言っています。
ユング自伝下巻(p134)にはこのような記述があります。ユングは自身の臨死体験のヴィジョンや夢で「客観性」を経験し、それが完成していく個性化過程の一部をなしていると言います。
・・個性化とは価値判断とか、感情的結合と呼ばれているものからの離脱を意味している。感情的結合は人間にとって、一般的には極めて重要なのだが、しかしそれは投射を含んでいて、自分自身や客観性に到達するためには、この投射を棄て去ることが肝心である。感情関係は、強制と圧迫との入り混じった、欲望の関係であって、その関係では他人から何か期待されていて、それが他人も自分自身をも窮屈にしている。客観的な認識は感情関係の背景に隠れ、その認識は中核的な秘密であるように見える。客観的な認識によってはじめて現実的な合一(結合)が可能である。
これは簡単には理解できないかもしれませんが、ここでユングが「中核的な秘密」と呼んでいるものは、大乗仏教の「空」とつながってくるものではないかと思えます。ユングは個性化を、「客観性を得ること」として捉えています。・・般若思想は、「空」こそが絶対の客観だと主張します。
現代日本人は「個性がある」というのを、基本的に悪い意味として受け取ります。周りから浮いている。しかしユングの個性は、周りから浮くこととは何ら関係がなく、むしろ浮く人の方が無個性であることが多いくらいです。
個性化は、周りからの過度な影響から解放されることです。偽りの自分(ペルソナ)を捨て、真の自己を探す。かといって他人から逃げるのも個性化ではありません。無意識内容の影響を過度に受けず、かといって無意識から離れ過ぎず、というバランス感覚が、中道が必要です。ユングの「自我と無意識」などを読んでいると、個性化過程が一方で無意識から解放されるもので、でも他方では無意識の中に入っていくものとして書かれているので、どちらなのか分からずに多くの読者は混乱します。
ユングは個性化過程を、多くの著作や論文で扱いました。たくさんの言葉でそれを解説しました。しかし読者の多くは、個性化過程が具体的に何なのかを理解できません。
ユング心理学の概念の多くがそうなのですが、曖昧で、掴みどころがありません。なのでユングの叙述力が足りなかったのだと考える人もいます。でも私はそう思いません。
個性化過程は、「個性」化過程なので、原則として全員が違う道を行きます。「こうすれば個性化になる」という指示をしてしまうと一般化したことになり、「一般化過程」のようなものになってしまうでしょう。
例えばユングは元型についてもたくさん書いているはずなんですが、それでも例えば「元型論」を読んでも、ほとんどの読者は元型がなんなのかよく分かりません。その理由は、これらが記述できないもの、だからなのです。そしてユング自身もそれを自覚しており、何度も何度もそう言っているのです。
ユングは錬金術文献を研究し、錬金術が扱っているのも個性化の問題であることを明らかにしました。錬金術の文献は禅問答みたいになっており、何を目的にしているのか、どんな作業をすればいいのかも全然分かりません。化学実験をするつもりで読み始めても、具体的な読める指示は皆無なのです。
ユングが個性化過程の流れや到達点を具体的に書けないのは、錬金術書が目的や目標を具体的に書かないのと同じ理由によります。そして般若経典が知恵の完成(=悟り)に目的がなく、存在もしないから到達できないと言っているのも同じ理由によるのです。これらは、ことばで指し示せないものを表現しているのです。
なぜ指し示すことが出来ないのでしょうか。それはこれらがどれも過程であるからです。流動的なもの、指向性としての過程そのものは記述できません。何かを記述するには、ものごとを分別し、スライスし、区切ってやらなければいけません。ある「過程」をことばと概念で記述した文章は、もともと「方向性」でしかなかったものが「ある断面で切られたもの」です。
それは終わりのない無限大(∞)をある時点で区切って、数えてしまったようなものです。数えてしまうとかなり大きい数字になるかもしれませんが、どれだけ大き数字でも、決して無限大ではありません。有限になってしまいます。
ある点に到達したことで過程が完了するわけではありません。無限大とは、数え始めることはできても数え終わることはできません(無限大の種類によっては、数え始めることもできない)。
自分の過程が完了したと考えた人は過程から転落し、それ以上進まなくなります。これが小乗仏教(大乗以前の仏教)の最大の誤謬です。
大乗は小乗見下すスタンスをとっているわけですが、小乗は自利しか求めないから大乗から批判されるのでしょうか。それは違います。本当は、小乗は過程が終わるから批判されるのです。
原始仏典(大乗から見ると小乗経典にあたる)を読むと、誰々が最高境地の聖者「阿羅漢」になり、煩悩を離れたなどと書いてあります。彼らは生きながらにして本当に永久に煩悩を絶ったのでしょうか。そんなはずはありません。実際の人間は修行完成者にはなりません。
大乗仏教の本質は、修行の過程が絶対に終わらないことです。それを「遠い来世に無上の悟りを得る(仏になる)」などという思想で表現しているのです。これは決して来世信仰ではなく、今を真面目に生きているからこその思想なのです。
神秘的な過程である個性化、錬金作業、そして知恵の完成の暮らしは、具体的な言葉によってその境地を説明することはできません。説明すると相対化したことになり、相対化してしまうともうその主観を生きていないことになってしまうからです。
個性化過程はユングが発明したものでなく、もともと人間の中にある一種の方向性、衝動性のようなものです。
ユングはそれを示そうとしていろいろな著作を書きました。彼はこの過程が神秘的で筆舌に尽くしがたいということを理解していました。彼が錬金術に求めたのも個性化過程の象徴です。個性化過程は象徴(シンボル)でしか表せないので、たくさんの象徴を作ってきたのです。
「八千頌」はほとんどシンボルを提供してくれません。なので象徴の比較研究にはなりません。 禅も、シンボリズムを一切使わないので象徴の変容過程として研究することは出来ません。前回の記事で紹介した十牛図などは一連の象徴の例になります。
「善勇猛般若経」(p 210)「善勇猛よ、実に菩薩はあらゆる実践を断っている。それは”菩薩の実践はこれこれである”とか、”菩薩の実践はこれこれによってである”とか、”菩薩の実践はここにある”とか、”菩薩の実践はこれこれから生じる”というように示すことができない。このようなことで、菩薩の実践が明らかになるわけではない。
第五章 ユングと仏教
ユングがどこまで大乗を研究したかは分かりません。彼は禅や、観無量寿経についての論文は書いています(「東洋的瞑想の心理学」に収録)。
しかし彼はおそらく主要な大乗経典には通じていません。興味がなかったのか、時間がなかったのか、読める言語に翻訳されてなかったか、理由は色々と考えられますが。〔大乗はユングの読める言語に翻訳されてない、そして紹介されてなかったのだと思われます。ユングは原始仏教についてはよく知っていました。〕
さてここまでお読みになった方で、ユングと仏教を一緒に考えることに違和感を覚えた人もいるのではないかと思います。決定的な問題は、仏教が自我や自己を否定していることです。ユング心理学では自我と自己がそれぞれ存在しますし、それは個性化過程とも密接に関わっています。
個人の存在もほぼ否定していると言える仏教が個性化過程を説いている?そんなはずはない!と考える方もおりましょう。
私は仏典が明確に西洋的なユングと同じ個性化過程を説いているとは思いません。ただ多くの共通点を見出しただけです。対応関係を全てここに綿密に記述することは出来ないのですが、実際に「八千頌」や「善勇猛」を読んでいただけたら、確かにそうだなと分かってくるところが必ずあると思います。
※追記 上の般若経典類は個別化という面はあまり見られないですが、「首楞厳三昧経」(大乗仏典シリーズ7)では個別化、個人間の違いというところまで説いています。この経では無数の天子たちが皆、如来のための獅子座を用意し、如来がその全てに座るというエピソードがあります。天子たちは自分の用意した獅子座に座った如来しか見えず、他の獅子座は見えなかった。獅子座はたくさんあるはずであったにもかかわらず、お互い邪魔することもなかった(!)。これは各個人の主観の違い、救いの違いというのを表現している。普遍的な救いは、個別的に受け取らなければいけない。または個別的な救いこそが普遍的な救いなのかもしれない。
自我と自己の問題については、わたしは気にしません。あると主張しようが、ないと主張しようが、大差がない、と私は考えます。それは立場上の違いに過ぎません。ユングが仏教と対立すると考える人は、ユングと仏教を表面的にしか理解してないと思います。
私個人的には、西洋心理学的な自我を作っていくべきとする考えと、自我を滅却すべきという仏教的な考えの両方に同等の価値があると思います。そして矛盾するとは思いません。私はそれを説明するために「犬の形をした岩」という比喩を考えました。
遠くから見ると犬の形をした岩があります。しかし近づいていくほど犬の形には見えなくなっていきます。すぐそばまでくると、ゴツゴツしてザラザラした斜面しかなく、犬などどこにもいません。
私は自我と無我をそのように考えます。自我は確かに存在するように感ぜられますが、細かく分析していくと本当は「ない」ことが分かります。この二つの立場のどちらかが正しいのではなく、両方がそれぞれの文脈で正しいのです。
そもそも仏教のいう自我とユング心理学の自我は同じものではないようです。こういう用語を単純に捉えて比較することは危険です。自我という言葉はあまりに曖昧で、何を意味しているか他人に伝えるのは非常に難しいのです。一つ言えることは、ユング心理学の自我は心理機能として原則的に常に存在するもので、肯定したり否定したりするものではないということです。ここでは自我問題については深入りしませんが。
仏教は開祖のころから自己の存在を否定してきました。しかし、大乗仏教や密教になってくると「こそっ」と自己の概念が導入されていきます。ただ違う呼び方でごまかされているだけで、明らかに自己なのです。禅では、端的に仏を自己として見ています。悟りは自己を知ることです。密教でも、大日如来は世界全体でありながら自己のシンボルでもあります。
大乗仏教の如来蔵思想では、誰もが内なる如来の胎児を持っているとされ、これも自己シンボルとしか言いようがありません。経典(「勝鬘経」など)は如来蔵がヒンドゥー教徒などの説く自己(アートマン、プドガラ)とは違うと言っていますが、私からみるとどう違うのかは分かりません。そう言っているだけで、本当は同じものに見えます。
自己的なものを設定する如来蔵思想が仏教でないと主張する学者もいますが、私はそれに異を唱えます。そう考える学者はコトバに騙されているだけで、自己が「本当は何か」を十分に深く考えてないのです。
対応表(仏教/ユング)
発心=個性化過程の始まり?おそらく神秘的体験を伴う(≒患者の回復し始め)
不退転=(対応なし)
知恵の完成の暮らし=個性化過程
知恵の完成・無上の悟り=個性化過程の自己シンボル、錬金術では「賢者の石」など
空≒集合的無意識
第六章 中道
三組づつの言葉を出しますが、上と下の二つが両極端で、真ん中が「中道」を表します。
↗︎極端な快楽
→ 中道
↘︎極端な不快(苦行)
・ブッダが説いた中道。
↗︎有
→ 空
↘︎無
・中道としての空。
ナーガールジュナの中観派、「中論」などの著作。
↗︎極端な自己利益(涅槃)
→ 菩薩道(無上の悟りへ)
↘︎極端な利他(自己放棄)
・無執着と空に支えられた悟り。
↗︎孤立(関係のないこと)
→ 自立(関係を持つこと)
↘︎依存(関係の強すぎること)
・これは人間関係。
↗︎自分勝手、他者の無視
→ 他者と関係を持ちつつ、自らの道をいく
↘︎他人の目線や考えばかり気にする
↗︎意識の過剰拡大(自我肥大)
→ 個性化過程 (意識–無意識のバランスを作っていく)
↘︎無意識が大きい(神経症)
・一つ上の図の言い換えでもあります。
↗︎内向性
→ 全体性
↘︎外向性
・ユング心理学の重要概念。
↗︎ある目的のために修行すること
→修行をするのでもしないのでもないこと
↘︎修行しないこと
・「善勇猛般若経」にはこのような文が満載だが、ここまでで紹介した中道的な考え方と比較すれば、これがナンセンスではなく重要なことを言っているのが分かってくるはずだ。
大乗仏教の本質は利他行ではありません。中道です。中道こそが、実は本当の利他行だからです。
金銭などを布施して、「自分は布施をした(から偉い)」と考える人は菩薩ではないと、こういう記述が般若経典内に何度も何度も出てきます。
真の菩薩の布施は、意識されないのです。「自分」が、「誰かに」布施をしたのであれば、そこで「われ」という思いが生じて、つまりエゴが出てきます。エゴは感謝や報酬を欲しがります。
真の菩薩は、「われ」という思いがないので、『「利他のため」という考え』こそが自我を肥大させるということを知っているのです。彼にとっては「空」が「空」に布施をしただけなのです。
中道的な考え方は現代のわれわれにも決して無関係ではありません。われわれの生き方、社会の作り方とも関わってきます。われわれは中道としての『最大多数の最大幸福』を実現するべきです。これは中道でしか実現できません。自分の利益だけを求めること(資本主義)では絶対に達成されませんし、極端な平等を作ろうとすること(共産主義)でも達成できません。答えはその中間にあるはずです。中間は掴みどころがなく、見ることも名付けることもできません。存在もしません。でもそこに向かって進んでいかなければいけないのです。
「八千頌」下巻(p92)
そのとき、スブーティ長老が世尊にこうお尋ねした。「世尊はこう仰せられました。『無上にして完全なさとりは得がたいものである。無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なく難しいものである』と。世尊よ、さとる人など実はだれもないのに、どうして無上にして完全なさとりは得がたく、無上にして完全なさとりは、さとるのにこの上なくむずかしいのでしょうか。それはなぜかと申しますと、世尊よ、すべてのものは空であるからです。それをさとることができるような、いかなるものも存在いたしません。」
「善勇猛」(p 289)
善勇猛よ、菩薩がこの知恵の完成を学習するとき、それは最もすぐれたものを学習しているのである。彼は、あらゆる衆生の涅槃への道をきれいにするために学んでいるのである。それはなぜであるか。実に善勇猛よ、この知恵の完成の学習というもの、それは最高の学習であり、最も卓越したもの、選りすぐられたもの、最もすぐれたもの、無上のもの、最上のものであるからである。
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早速ですが弟子にしていただくことは可能でしょうか?
東京に住んでいます。