点の悟りと線の悟り
仮に悟りが二種類あるとして、それを「点の悟り」と「線の悟り」と呼んで考察してみることにしたい。
点の悟りは「小乗の悟り」、線の悟りは「大乗の悟り」と言い換えても良いかもしれないが、あえてそのような言い方はしないでおこうと思う。その理由は、必ずしも小乗の悟りが全て「点」で、大乗の悟りが全て「線」だとは思わないからである。でも傾向としては、確かに小乗の目指すものが点の悟りで、大乗の目指すものが線の悟りだと言ってもあながち間違いではないと思うのだが。
悟りというものを、ある「一時的な精神状態」として捉えた場合、それはある到達できる「点」だということで、これを点の悟りと呼ぶ。
他方、悟りを一つの到達点ではなく、「日常的な生活態度」のようなものとして捉える場合、これを「線」の悟りと呼ぶ。
悟りについて語られる時、それが一時的な精神状態なのか、持続した態度なのかがはっきりしていないことが多い。このこと自体が、悟りというものをとても曖昧にしているように思う。原始仏教で説かれる涅槃(ニルヴァーナ)も、到達点のように聞こえるが、同時に単なる到達点ではなく持続した状態であるかのように言われている節もある。
点の悟りは、原始仏教が涅槃(ニルヴァーナ)と呼んだものや、大乗仏教の場合「空」の体験、密教の場合はおそらく「即身成仏」と呼ばれるものである。禅の悟りもこれである。
ウパニシャッドが説く「梵我一如」の境地や、古典ヨーガの三昧(サマーディ)もこれに相当する。
これらの境地はどれも、瞑想によって意識が変容した、意識水準が大きく低下した状態と考えられる。これは無になった感じや、全てと一体化した感じ、または神あるいは仏と一体化したように感じる精神状態である。この精神状態は一度でも経験すると、人生で最も重要な体験をしたように感じる、強烈な神秘体験である。これを経験した人は主観的に「悟った」と思わないはずがない。
しかしこの状態は一時的である。その影響力は長期的に続くかもしれないが、体験そのものは必ず終わってしまう。
線の悟りのほうは、もっと理解が難しい。これはある時点で始まったり、終わったりするものではない。ユングの「個性化過程」にも似たものがあると思われる。つまりこれはあくまで「過程」であり、到達点ではないのだ。線の悟りは大乗仏教が「菩薩道」として説こうとしてきたものである。ソクラテスのいう「良く生きる」ことも、これと同じことではないかと思える。
線の悟りは、今やるべきことをやっている状態である。世界のため、自分のために最善のことをやっている状態である。点の悟りが絶対的な無の意識だとすれば、こちらは絶対的な有の意識と言ってもいいかもしれない。点の悟りは一人で修行に打ち込んで世間のためにはなにもしない状態だが、線の悟りはまさに世間のために最善の働きをしている状態である。
しかし偽善であってはならない。この状態を理解するのが難しいのは、偽善的行動が悟りだと誤解されて、結局悟ってない人に悪用される恐れがあるところである。
結局のところ、世界にとって何が最善かを見極めるのは非常に難しい。他人を心理的に支えたい場合などは、心に関する知識を大いに必要とする。これは単なる意識や行為の問題ではなく、知恵の問題とも言えるわけです。優れた知恵がなければ、高い境地には到達できません。なので大乗の般若経典は知恵を重要視するわけです(そもそも般若は知恵の意味です)。
曹洞宗の開祖である道元は、明らかに点の悟りを経験したことがある人です。しかし彼は悟りを線として捉えています。
道元は悟りを、到達点ではなく過程として捉えました。道元によると、修行をし始めることがもはや悟ることと同じなのです。人生全てが修行です。修行はある時点で始まって、ある時点で終わるのではありません。悟りは到達する点ではなく、「軌道に乗る」ようなものです。なので修行を怠ると悟りから転落します。
点の悟りと線の悟りについて大きな示唆を与えてくれるのは「十牛図」です。

十牛図は、悟りあるいは自己の発見に至る過程を十段階で示した禅の図です。
牛は自己のシンボルになっており、牛を尋ねる、牛の足跡をみる、牛を見つける、手名付けるというふうに進んでいきます。
第六段階は「騎牛帰家」つまり牛に乗って家に帰る、第七段階で「忘牛在人」なんと牛を忘れてしまいます。そして第八段階では「人牛倶忘」人と牛をともに忘れてしまいます。
ここで注目して欲しいのが、この絶対無と言えるような状態が、決して最終段階ではなく、第八段階に置かれているということです。
古典ヨーガなどでは、明らかに無の状態が「最終段階」です。ですが大乗仏教(十牛図)ではこのように、無を経験しつつもそれを一度否定し、世俗に戻り、普通の生活に戻ってこそ悟りがあるという考え方をするわけです。十牛図の第八段階が「点の悟り」であれば、第十段階が、「線の悟り」ということではないかと思います。
しかしもっと深く考えると、第十段階ではなく第一段階の時点ですでに「線の悟り」をしていると言うことも出来るのではないかと思います。実際、第十段階から第一段階にループしていくと考える人もいます。第十段階に到達してそれで自己の探究が「終わって」しまうなら、それは線の悟りの「過程」とは言えないのではないでしょうか。線の悟りは必ず過程であって、終わってしまったらもう線ではなく点になってしまうからです。
悟りは存在しない?
悟りという言葉はナンセンスだ、悟りなど存在しないという人がいます。
このような人が点と線の悟りを区別していることを仮定した場合での話になりますが、彼らはどのようなことを考えているのでしょうか。大体予想はつきます。
「点の悟り」は一時的な体験に過ぎず、しかも幻覚のようなもので価値がない。
「線の悟り」は実体がなく、測れないのでないのと同じことである。と、そのように考えているのだと思います。
しかし主観的な体験は否定しようがありません。「悟った」と思えるような強烈な体験には、結局何らかの呼び名をつけて呼ばなければいけないわけですから、悟りと呼んではいけないならなんと呼べば良いのでしょう。この問題の解決策としては私は「悟り」ではなく「悟り的」体験という言葉を使うのが適切だと思っています。「悟り的」と言っている以上は、悟ったという断言ではないですし、悟りが何かを理解してそれを実現したという意味にもならないので、安全だと思います。
線の悟りのほうは、確かに判定するのが難しいので存在しないと言われたらそれまでかもしれません。しかし大事なのは、本人が自分の人生に意味を感じることだと思います。悟っているかどうかという判断に固執せず、やるべきことをやって、生きがいを感じている以上は、それを他人にどう言われようと関係がありません。
大乗仏教の経典は悟りが存在しないということをうすうす自覚しているように思います。もっと正確にいうと、悟りが存在しないと言っているよりは、悟りのパラドックス性を認識させようとしている、と言った方が正しいかもしれません。逆説とパラドックスに悩んだり苦しんだりせずに得られる悟りはないぞ、とでも言っているかのようです。
「金剛般若経」などの般若経典では、さとりは存在しないとか、如来は何も悟ってないなどと逆説的なことが延々と書かれています。般若経典では、すべてが「空」で実在せず、何にも執着をするなということを重点的に言いますが、悟りに執着するな、なぜならそれは存在しないからだ、ということも何度も言います。
禅でも、「ブッダに合えば殺してしまえ」のような言葉があります。
ユングの「個性化過程」は悟りか?
ユングの概念の多くは曖昧で説明が難しく、ユング派の中でも常に対立があって意見が一致しないことが多いようです。個性化過程というものもいろんな理解ができます。現に個性化過程がなんなのかということで議論して相手を「論破」することに夢中になっている人を見たことがあります。
ここで私は個性化過程がなんなのかをはっきりと定義するつもりはないですし、読者に個性化過程を理解させようというつもりもないのですが、ただ一つ言いたいことは、個性化過程は少なからず悟り的なものと関連があるということです。
しかしユング自身、個性化過程を明らかに悟り的なものとして記述している時とそうでない時があるような感じがするので、以前から私の中でも曖昧な理解をしております。
個性化過程というものは、ごく簡単に説明しますと、それまで人生をてきとうに生きていた人間が、自己を見つけ、「自分自身の自己」になり、自分の人生を創造していく過程に入ることです。それを一言に言い換えると「自己実現」ということになります。
しかし個性化過程は危険に満ちていると言われます。そして得られるものには最高の価値があります。個性化過程を経験するのは患者の一部だけで、一般的には人生後半の年齢(40代以上)に位置している人が入る過程だと言われております。
個性化過程に入った人は、自己を肯定しており、自分のやるべきことを理解しており、そして「自分自身のあり方を重大な仕事として提示」しています。これは言うだけでは簡単ですが、実際にやるのは「真に骨髄に徹するほどの仕事」です。
個性化は、個人になるということなので、集合的なものの影響力から脱しなければいけません。ですが、集合的なものから完全に脱してしまうとただのアウトサイダー、一匹狼になってしまいます。孤立してしまうと個性化したとは言えないのです。個性化とは自分だけの問題ではなく、社会と関係を持つことでもあります。自利だけでなく利他も必要なのです。社会との関係をもってこそ、自分が存在するのです。しかし社会に飲み込まれてはいけませんし、完全な自己中心的人物になってもいけません。その中道を見つけないといけないのです。
ユングの個性化について書いてある著作である「自我と無意識」では、集合的無意識に近づくのか個性化なのか、離れるのが個性化なのかはっきりしないところがあります。はじめて呼んだときは特に混乱します。が、ユングは、一直線に迎えるようなゴールがない、ということを、遠回しに、実際にその迷いのような過程を見せながら言ってるのではないかと思います。
これが大乗仏教の菩薩の理想や、「線の悟り」と無関係だとは思えません。個性化過程は難しく危険に満ちているということが何度も言われています。実際に患者と向き合って心理療法をしたことがない人は(私もそうですが)、何が難しいのがよく分からないかもしれません。しかしユングがいうには、人格の発展は最も価値のある宝です。価値の高いものはそう簡単には手に入らないのです。
大乗仏教の菩薩
仏教では人格とか、人格の発展ということを言いません。ですが名僧と呼ばれるような人たちは必ず優れた人格を持っていました。尊敬される人物というのは、必ず高い人格を持っているのです。どれだけ知恵を持っていても、どれだけ無我的神秘状態を経験しても、それだけで尊敬されるわけではありません。大乗仏教の菩薩に求められているのは、本質的には人格ではないでしょうか。大乗仏教の菩薩道は、ユングの個性化過程と重なるところが多いように思います。
ご存知かもしれませんが、大乗仏教の菩薩というものは、仏になる(=悟る)ことができるにも関わらず、人々を救うために現世に存在し続ける修行者です。人々が苦しんでいるというのに、なぜ自分だけが悟りを開いて救われるべきだろうか。そういう精神が大乗仏教の基本的な考え方になっています。
なので菩薩という考え方は基本的には、最初から線の悟りを目指すことを想定しています。そして点の悟りを目指すとされる、それ以前の仏教を「小乗」と呼んで批判するわけです。
しかし小乗(上座部仏教)の立場からすれば、大乗は後世にでっちあげられたもので、ブッダ本来の教えから離れ、悟りに至る方法を忘れてしまった宗教です。原始仏教の経典のほうが、おそらく意識の拡張にははるかに役に立ちます。大乗経典の一部は(法華経や浄土三部経など)、個人的な悟りや意識拡張にはほとんど役立ちません。
原始仏教(大乗側から見て小乗)が本当に点の悟りだけを目指すのか、というところについても実は疑問に思うところがあります。本当はそうではないと思います。
歴史上のブッダは、菩薩と呼べるような人物だったと思います。彼は他人のために尽くして生きました。本当に自分だけを救って気が済んだなら、ブッダは何十年も伝導活動をしなかったことでしょう。ブッダは明らかに線の悟りをしていたと思います。そして原始仏教のブッダの教えも、決して点の悟りだけでなく線の悟りをある程度は意識しているものだったのではないかと思います。
例えばブッダの教えに八正道があります。①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為) ⑤正命 (正しい生活) ⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想)
点の悟りだけを目指すなら正定(正しい瞑想)だけで足りたはずです。他のものは、瞑想修行とは直接は関係がないようなものです。八正道の実践は明らかに、線の悟りを求めるためのものです。線の悟りの中に、点の悟りが現れるのだと考えて良いと思います。
サイケデリックスによる悟り
点の悟りだけが悟りだと思ってしまった人は、点の悟りを貪るように求め続けます。点の悟りを物質の摂取で獲得できると思った人は物質を崇拝して、他人にも勧めます。物質が真理を与えてくれると思います。こうなるといわゆる「自我肥大」に陥っていくと考えられます。点の悟りを経験するとするだけ世間から遠ざかってしまい、世間から遠ざかるだけ線の悟りからも遠ざかってしまいます。
自分は悟っている、という考えを持ち、悟っていないとされる人々を見下すことは、カルト宗教の低レベルな宗教家によく見られる現象です。
「線の悟り」の過程に入った人は(そうです、これはあくまで過程なので、到達するのではありません)、自分の人生に、行いに満足しているはずです。彼は世間を見下したりしないはずです。世間の問題ばかりを指摘して、自分がいかに意識が高いかを自慢するようでは、悟っているというよりは苦しんでいます。
サイケデリックスの使用が全て上で言ったような末路になるとは思ってません。そもそも、サイケデリックスで点の悟りを経験する人自体が非常に少ないです。
それでも、点の悟りの強力な魅力に魅了され取り憑かれてしまうような人はいるように思います。
サイケ使用者は最終的にサイケ使用を少なくしていき、最終的にはやめる傾向があります。どれだけの人がやめるかは分かりませんが、本当に大切なのは点の悟りではなく線の悟りだと気がついた人は、自然と使用を減らしていくことになるはすだと思います。
サイケ使用中、線の悟りに入ったかのように感じるときもあります。自分のやるべきことを分析し、理解し、自覚した状態です。この体験は確かに貴重で、多くのことを学べます。しかし、いずれはしらふに戻らなければいけません。十牛図を思い出して下さい。悟った後は日常に戻らなければいけないのです。悟りの世界に執着しているようでは、そもそも悟っていると言えないのではないか?
逆説的かもしれませんが、本当に悟っていると悟りを求めないようになるのです。悟るためにまたドースしなければいけないという人は、今一度なぜ飲んでいるのかを自覚しなければいけません。
自分の人生が惨めだからですか?だから飲むんですか。自己分析したいからですか。それを飲まないと自己分析できないのですか。
本当は自己分析になど興味がないのではないですか。お手軽に手に入る「悟り」が欲しいだけで、自分の人生に真面目に取り組もうとなど思ってはいないのではないですか。
悟りに至るためには必ず師の導きが必要です。楽器や外国語を勉強する人に必ず師が必要なのと同じことです。楽器をやる人は、決定的なミスを犯していても、それを正してくれる先生がいないと間違ったまま自分が正しくやっていると思い込んでしまうことがありますし、外国語の場合も、間違いを犯していてもネイティブの先生に教えてもらわないと分からないということがあります。
悟りに至る修行でも、間違いを犯す人は多いです。自分が実際より高い段階にいると思い込む人は非常に多い。何を目指すべきなのか、どうするべきかもよく分からずに独断でやっても、導きがない限り迷いやすい。
なので仏教や禅などは昔から修行の方法や段階などを細かく設定してきたものです。
自分で悟ったと自己判断しても、通用しないのです。禅宗などでは、それぞれの伝統によって、「これは確かに定められた形に当てはまる宗教体験である」ということが師などから認められなければいけません。悟ったかどうかは自分ではなく師が決めるということです。
サイケデリックスをやっているときに何が難しいかというと、こういう導きがほとんどないことです。
だから人それぞれ、自分なりに哲学や宗教や神秘思想などを学んで、自分なりの道を見つけなければいけないのですが、そういう勉強もせずにただ物質だけ飲み続ければ高い境地に至れると思っている人は間違っています。
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