序
 精神科批判です。 
 私は薬物療法のない時代に、本気で患者のこころと向き合って治していった医者たちの著作を何冊も読んでいるので、現代の投げやりな薬物療法にはかなりの批判的意見を持っています。

 私は精神科通院者へ満足度のアンケートを取ってみました(これは私が個人的にネットで取ったものに過ぎず、ちゃんとした科学的な調査ではないので、目安程度のものとして受け取ってください)
 「精神科などに通院している方へ質問
 精神科の診断や処方、治療によってこころの問題の改善が見られますか。治療内容に満足できていますか。」三択回答、投票数77票
 ・「改善に向かっている、前向き」22票(27%)
 ・「不満はある、または効果が分からない」21票 (28%)
 ・「時間と金の無駄だと思う」34票(41%)

 なぜここまで満足していない人が多いのでしょうか。もしこれが内科や外科だったら評判が悪過ぎて潰れることでしょう。でも精神科はこのような評価でもやっていけるわけです。なぜでしょうか?
 私はネットで、難しい精神疾患(複雑な症状の解離性障害など)を持っているにも関わらず一向に根本的な治療を受けられる気配がなく、「たらい回し」にされるように病院を転々としている人を何人も見てきました。患者たちは自分では精神医学の知識などありません。プロフェッショナルの治療を求めています。でも頼れる人がなかなか見つかりません。
 以下は、ある精神疾患の女性から聞いたことをベースにして再構成した文です–
「ショックだったことは、初めての診察の際になるべく薬は飲みたくない(増やしたくない)と伝えていたにも関わらず、現状辛いことや改善したいことを相談してもまともに取り合ってくれずに、「お薬増やしておきますね」と流されてしまったことがひとつ、2つ目は「あなたの性格は治りません」と断定されたこと。友人から良い先生だからと紹介されて通院してますが、今のところ根本的な改善というよりも、とりあえず薬飲んで様子見てねという対応なのがいつも引っかかります。
 どうして〇〇の症状が出たのか、いつ頃出るのか、どんな風に症状が出るのか、は一切聞かれず「〇〇障害かもね」と一言で片付けられて驚きました。」

 この記事ではこの問題に、納得できる答えを提供することを目標にします。



 さいきん「精神科医は腹の底で何を考えているか」(春日武彦/幻冬舎新書)という本(以下略して「腹の底」と呼びます)を読んだのですが、この本はまさに現代の精神科の問題がそっくりそのまま出ているように感じて、いくつも批判しなければいけないところを見つけました。
 私はこの本の著者を個人攻撃するつもりではございません。この医者はもしかしたらたくさんの患者を救っている名医かもしれませんし、そこは分からないです。私はこれからいくつも批判的なことを書きますが、その全てがこの本の著者に向けたものではなく、現代の精神科医全般に向けたものだと思ってください。

 まず「腹の底」を読んで思ったことは、この本は本当にタイトルの通り「精神科医の腹の底」について書いているかというと、そうでもない、ということです。確かに「キラキラなうわべ」よりは、一段階深いところを書いています。都合の悪いところも正直に書いていますので、そこは評価するべきかもしれません。
 しかし医者の内的な深い道徳的葛藤とか、哲学的葛藤が書いてあるかというと、そこまでではないです。まあ、そこまで書くと著者が自分の最も深い内面を世間に曝け出すことになるという、プライバシー的な問題もありますから、そこまで求めるべきじゃないかもしれないですが。どっちにしろ、タイトルは出版社が勝手に決めた可能性もありますし、多少内容と不一致していても気にするべきではないでしょう。







 1 薬は必要か?精神疾患の二系列

 精神疾患とはなにか。心を病むとはどういうことか。心が治るとはどういうことか。
 これらの問題は一つの記事では書き切れないほどの大きな話題なので、今回はそこには深入りしません。ですが精神疾患に2系列がある、ということだけを理解して頂きたいと思います。

 精神疾患の2系列とは、まず一つは「器質的な疾患」で、もう一つは「パーソナリティの歪み」と呼ばれるものです。
 これらがどう違うのかというと、「器質的な疾患」は主に精神病である統合失調やうつ病、躁鬱などを指します。これらは、個人のパーソナリティ、生活史との関連はある程度はみられるかもしれないですが、大前提としては脳に問題があり、遺伝的な要因が非常に大きいものです。
 他方、「パーソナリティの歪み」のほうは、個人のパーソナリティ、つまり人格そのものの問題です。生活史が関わっていて、幼児期の過程環境やトラウマ、その後の発達過程が密接に関わっているのです。

 結論を先に言いますと、器質的な疾患へ薬剤を使うことに私は何一つ反対しません。カウンセリングで統合失調や躁鬱は治らないからです。精神病は個人に苦痛をもたらし、人生の質にも大きく影響するので、薬物で精神病症状を抑えたり、気分を安定させたりすることに関してはもはや反対する理由がありません。
 問題は、パーソナリティの歪みのほうです。現代の精神科医は「治療」などと称してパーソナリティが歪んでいる人に薬物を処方します。しかしこれははっきり言って必要ないのです(危機的な状況に安定剤を使用するとかならまだ分かりますが)。この薬物処方が問題を解決することは非常に稀です。何一つ患者の抱えている問題の本質に触れてないからです。患者の問題の本質は決して脳神経や神経伝達物質の異常ではないからです。

 別の言葉に言い換えると、我々はここで「脳の病」と「こころの病」を区別しているのです。
  脳の病にはエビデンスがある科学的な方法で治療しなければ意味がない。脳の病に深層心理学を当てはめても大抵間違っています。
 しかしこころの病では脳に異常はないので、治療者は個別的に、人間を相手にする必要があり、エビデンスはほぼ無意味なのです。ここでは純粋に心理学が必要になってきて、神経科学や薬学などは無価値です。
 人が抱えるこころの問題はほとんどが人間関係です。劣等感や欲求不満や、孤独、人によっては人生の無目的感だったり、何らかの状況への絶望などもあります。これらは根本的には人格の問題であることが多く、患者はこれまで逃げてきた人生の問題に向き合わなければ治らないのです。

 (しかし現実には脳の病かこころの病か判別が着かない場合もあるので複雑です。脳の問題があるからこそこころの問題が生じたとか、こころの問題があるから脳の問題が生じたという場合もあるでしょう。)
 
 治療者は自分の専門分野を過信して、苦手分野はうっすら背景に霞んでしまうものです。例えばエビデンスや科学的思考に特化した医者であれば、何でも脳の問題として見做してしまうことが増えます。最悪、ほぼ全てが脳の問題だと見做してしまうでしょう。
 心理学だけに特化して最新脳科学に関心がない医者の方は、脳の問題がある患者に、効果がない心理療法を行ったりするリスクがあります。



 こころの問題をほとんど無視している精神科医たちは、こころの問題にむりやり病名をつけていきます。それで誕生したのがいわゆる「非定型うつ」や「治療抵抗性うつ」です。普通のうつのように治療できないからです。以下に引用するある精神科のウェブサイトでは、この非定型うつの存在を否定しています。
 「若い人を中心に非定型うつ病が増えていて、薬が効きにくいと社会問題にさえなっており、非定型うつ病の分類を試みられている精神医学者もいますが、私は、非定型うつ病などというものは存在しない、と考えています。
 一般に非定型うつ病と言われている症状は、栄養障害とパーソナリテイ障害の二つに大別することが出来ます。」
 狭義のうつ、器質的なうつは、ほとんどのケースで抗うつ薬がちゃんと効くそうです。
 「治療抵抗性のうつが多い」というのをいろいろな場所で聞きますが、それは間違いなんです。それはうつじゃないのです。現代では狭義の、器質的なうつ病患者はそんなに多くありません。
 うつ状態とうつ病は別物です。うつ状態は誰でもなりますが、うつ病は遺伝的な要因が大きい病気です。
 抗うつ薬を飲んでいる人の大半は、実はうつ病ではないのです。精神科の薬はよく批判されますが、必要な人にとっては批判しようがない、本当に命を救うほど効果のある薬なのです。しかし、飲んでいる人の大半が、「飲まなくても良い層」であって、この層が薬の文句を言っています。


 これ以降、私が議論するのは全て「こころの病」である「パーソナリティの歪み」についてです。



 


 2 精神科医と心理療法家の区別

 混同と誤解を避けるために、ここでは用語をいちおう説明しておきます。

 精神科→精神症状がある人が行く。(身体症状がある場合も多い)
 心療内科→身体症状がある人が行く。(精神症状がある場合も多い)
 カウンセラー→相談を聞く。医者の資格はないので薬剤の処方はしない。心理療法家、セラピストとほぼ同義。

 心理療法→精神療法ともいう。心の病を治すためのカウンセリングなど。
 薬物療法→薬剤の処方で精神疾患を治療すること。

 精神科医になるには→医学部を出る必要がある。人間や人間社会について疎くてもなれる。
 前述の本「腹の底」では著者は精神科医が世間知らずだということを認めている(p137)。バイト経験もなく、「苦労知らずのお気楽な身分」「病気でない『普通の人々』の物語には疎い」。

 精神分析家→フロイト派の心理療法家(精神科医ではない)。フロイト派の深層心理学に基づいて、無意識について考えて治療する。無意識について考えないで表面的な症状しか見ない精神医学に対して批判的な立場をとることもある。現在日本で精神分析がどれだけ行われているかは分かりません。
 知らない人が多いと思いますが、「精神分析」という言葉はフロイトの心理学を指します。広い意味で精神を分析することを何でも精神分析とは言いませんのでご注意ください。

 ユング派心理療法士→ユング派のカウンセラー。Ph.D.がないとなれないらしい、けっこう厳しい資格である。ユングの心理学に基づいた治療をする(が、決して患者にユング心理学を教えるとかいうわけではなく、カウンセリングそのものは至って普通のカウンセリングが多いと思われる)。
 ユングはよく精神科医と言われるし、ユング自信も自分を精神科医と呼んでいるが、現代では精神科医は診断して薬剤を処方する人のことを言うので、現代風にいうとユングは実は精神科医ではなくカウンセラーである。(なのでユングの著作には鬱や躁鬱はほとんど出てこない。器質的な疾患を治療するのではない)
 

フロイト派もユング派も、心理療法士になるために必要なのは医学(だけ)ではなく、人文科学が必要だと言っています。つまり文学や哲学もできたほうがいいのです。ユングはある論文では心理療法家は哲学者のようなものだと言っています。


 ユングは、分析官も分析されなければいけないというルールを作りました。精神分析家やユング派になるには、まず自分が分析される=カウンセリングを受ける必要があります。これを教育分析といいます。
 これが非常に重要なポイントなんですが、その理由はのちほど詳しく書いていきます。
 精神科医の方はというと、教育分析などありません。なので自分の内面と向き合ったことがない人でも、医学部を出て精神医学の知識があればなれます。ここに問題の本質があります。


 「腹の底」の裏表紙にはこのような紹介文があります。
 『精神科医とはどんな人たちなんだろうか。人の心を治療する医者だから、人の心の闇を知り精神の歪みにも精通し、人格的にも高い成長を遂げているはず。だが本当はどうなのか。」

 この本を読んだらすぐに分かりますが、大した人格などない精神科医が多いです。もし彼らにそのことを言うと彼らは「そういうものだ、たかが医者になにを求めるのだ」というような顔をするでしょう。医者は聖人ではないし和尚でもないと。ですがそのような医者には誰の心も直せないのです。
 
 同書から・・「そもそも精神科医は、心の専門家ということになっている。単なる「心の病気」の専門家でしかないのに、あらゆる心の問題に精通していると受け取れられる」(p76)・・この文は、自分らが心のことを実は知らないという告白に見えます。

 ユングは、治療者にとても大きな人格的な要求をしました。ユングの著作を読んでいるとちっぽけな人格のヤブ医者を批判する言葉がたまに見られますが、特に「心理療法の実践」という本ではユングの心理療法家への人格的要求がはっきりと出ています。この本を読めば現代の薬物療法中心の治療の問題がはっきり分かります。
 「心理療法の実践」はこの記事の最大の参考文献で、今後いくらか引用することになります。ユングはこころの問題に正しく正面から向き合う方法を知っておりました。私はこころにどのような態度でどう向き合うべきかは、ユングから学びました。ユング以上に、私をこころに近づけた人はいません。





 

 3 精神科医にどこまで求めていいのか?

 ある情報源によると、精神科医の自殺率は一般の職業平均の6倍だということです。
 精神科医は病まないのか、と疑問に思う人もいるでしょうが、病むのです。精神科医は世の中でも最も苦しんでいる部類の人たちと日常的に関わっていると言えます。患者たちに同情するとするほど自分も苦しむ羽目になります。そして「知識があっても自分に応用するのは難しい」・・と言われています。(が、私から言わせてもらうと、こころを守るのは決して知識ではないです。)
 なので精神科医の一見無関心に見える態度や、患者の個人的な人生と関わろうとしない距離感は、正当化されるべきだと考える人もいるかもしれません。精神科医も自分の自我を持った一人の人間なので、自分の自我を守らなければ生きていけません。病的なものの侵入から自分を防衛したくなるのは自然なことです。

 ここに精神科医とカウンセラーの違いが徹底的に出てくると思います。カウンセラーは何でも受け入れて苦しむことこそを仕事にしています。なので決して魅力的な仕事ではないとユング自身も言っています。「カウンセラーが自分で苦しんだ分しか治せない」と言うくらいです。カウンセラーは原則として自我防衛をするべきでないのです。カウンセラーが自我防衛をしていると、患者も自分の自我防衛を克服できず、治療がすすみません。
 患者は自分のこころの一番深いところにある感情を吐き出すべきなのですが、それはそれを受け入れるだけの器がある相手、カウンセラーがいてこそ初めて達成されます。
 精神科医は患者の抱えている重い内容を聞いて受け入れる覚悟がない場合が多いので、患者のこころの一番深いところにある問題を吐き出させることができません。最初からしようとしてないからです。

 例えば一番最初に引用した女性の言葉に戻ってみましょう。「現状辛いことや改善したいことを相談してもまともに取り合ってくれない」・・これは精神科医が自分の自我を守っているから、いわば患者患者の問題を「自分で経験したくない」からなのです。聞き出さないことで、自分を守っているのです。
 カウンセラーのほうはというと、徹底的に、無条件で、全てを聞いて受け入れる覚悟をしています。カウンセラーは自力で患者の苦しい症状を止めることはできません。何もできないという無力を味わうことが多いですが、少なくとも、患者と一緒に苦しむことによって、患者は「もう自分一人で問題を背負っていない」ことになるのです。

 身体の医者がウイルスなどに感染する危険を負っているように、心の医者も心の病に感染するリスクがあります。精神疾患者は生に対して、世界に対して、悲観的な考えを持っている場合が多いです。患者の持っている悲観的な世界観は、間違っているとは限りません。論理的には言ってることがとても正しいことが多々あります。精神科医は患者の悲観的な世界観に感染しないために、それを病的なものだと考えて距離をとろうとします(そして「生きていれば良いことありますから」などと理解のない言葉をかける)。しかしカウンセラーは患者の悲観的な世界観を病的なものだとみなして上から目線で断罪することはできません。それを受け止めて耐えなければいけないので、相当なメンタルが要求されます。カウンセラーは自分の持っている世界観、宗教観、道徳観を直接患者に伝えることはしないですが、患者のそれと自分のそれをぶつけた時に打ち砕かれないほどの信念が少なくとも必要になります。


 なぜ精神科医はカウンセリングをしないのか、と問う人はけっこういますが、必ず同じ返事が帰ってきます。「時間がない」と。(技術や力量、やる気もないんですけど、それは置いといて・・)精神科医は常に時間との戦いで、時計を常に見ています。
 カウンセリングは一回に45分から1時間くらいは使いますし、河合隼雄は初回カウンセリングはかなりの余裕を持たせておくと言っています。しかし精神科診療は平均五分。
 「自費診療の特殊なクリニックでもない限り、そんなに長く患者の話を聞いていられない。いくぶんなりとも繁盛している病院ないしクリニックならば、患者一人の診察に割り振られる時間は平均で五分程度であろう」ー「腹の底」p109
 薬をもらいにくるだけの人は90秒診療にもなるという。
 「保険診療で毎回45分以上を一人の患者に費やすことは難しい。だからカウンセリングは医者の診察とは別にカウンセラーが自費扱いで、全く異なるスケジュールで行うといった棲み分けをしている医療機関もある。てっとり早く言ってしまうなら、精神科医を相手に保険診療でじっくり話を聞いてもらうなんてことは無理なのである」

 カウンセリングを保険適用できるようになれば受けにいくだろうという人はけっこういると思います。カウンセリングは時間がかかるし、なによりもお金がかかるので必要以上にハードルが高い。
 国ははやくカウンセリングを必須の「医療」の一部として認める必要があるように思います。


 ところで、「腹の底」の次の111〜2ページでは、本書の全体の中でも最も呆れさせるような文がありました。
 「診療時間が短い割にどうにか診療に区切りをつけられるのは、医師には薬を処方するという特権があるからに他ならない。「じゃあとにかくお薬を出しておきましょう」という一言は、診療における区切りを示す。
 レストランでフルコースを食べて、最後に出てくるエスプレッソみたいなものである。薬には、薬理学としての効果の他に、「あんたの悩みには、この薬一錠と釣り合う程度のものでしかないんだよ」というメッセージが込められているとも言えるだろう。
 患者としては、「なんだそんな程度のことだった、俺の悩みは」と妙に気が軽くなることがあれば、逆に小馬鹿にされたように感じることもあるだろう。
 (中略)やはり医師にとって薬は武器なのである。それは実際に精神に対して効果を示すと同時に、短すぎる診療時間にメリハリをつけ、さらには医師にとっての気まずさや自己嫌悪を鎮める作用を有しているというわけでる」









 4 カウンセリングとは何か


 「腹の底」の著者はカウンセリングがなんなのか、その本当の狙いがなんなのかを理解していない。
 カウンセリングの深さと難しさを知りたければ、河合隼雄の「カウンセリングの実際」は大いにお勧めできる名著です。これを読んで頂ければカウンセリングがどのようなものか全体像が分かってくると思います。
 この記事でカウンセリング論まで書くとどこまでも長くなってしまうので、できる限り簡潔に、カウンセリングがなんなのかを書こうと思います。主な参考文献は前述の河合隼雄の「カウンセリングの実際」です。河合隼雄はユング派ですから、いちおうはユング派カウンセリングということになりますが、この本はユングっぽい用語がほとんど出てこないので誰にでもとっつきやすいです。

 カウンセリングにもさまざまな理論があり、どんな行動でもそれを正当化できる理論が、探せばどこかにあります。なので逆にカウンセリングに理論などいらないと言う人もいます。どっちにしろ言えることは、カウンセリングは難しいということです。河合隼雄は、基本的にほぼ全てのケースで毎回悩むと言っています。患者のパターンを見抜いてポンポンと診断、処方をする精神科と違って、とにかく悩むのです。
 私はここまでで精神科をかなり批判して、カウンセリングを勧めているように見えるかもしれません。確かにカウンセリングを勧めてはいるのですが、決してカウンセリングが簡単だというつもりはありません。カウンセリングを受ければ誰でも簡単に精神疾患がポッキリ治る、とは言えません。カウンセリングが効果がない人もいます。自我防衛を克服できず、カウンセラーに何も話せない人もいます(特に強制的に受けさせられた高校生など)。深い内容を一気に話してしまってから怖くなって行かなくなる人もいます。だらだらと続けて停滞する人もいます。

 カウンセラーは共感するものだと、よく言われます。が、カウンセラーに本当に必要なのは共感ではなく受容だと考えています。この点については後ほど改めて説明します。
 カウンセリングの真の狙いを一言で言うと、クライエント(患者)に、それまで逃げてきた人生の問題と向き合わせる勇気を与えることです。


 聞くこと
 カウンセラーは基本的な態度としては聞くことしかしません。なのでやる気がないのかと誤解されることも多々あります。しかしカウンセラーは聞いた内容を真面目に、こころで受け取って受容しています。決して話を逸らさずに、クライエントを褒めたりもせずに、あくまで現状を肯定することを重要視します。
 例えば、クライエントがこう言ったとします。「苦しいです」
 これに対して、一般的な人はこう返事すると思います。「文句を言うな、がんばれ」とか、「苦しまなくていいんだよ、元気出して」とか、「お前のためなら何でもする、いつでも何でも言ってくれ」・・
 「文句を言うな」は、父性的な態度と言えます。我慢論です。
 「元気出して」のように褒めるのは、母性的な態度と言えます。
 「なんでもする」・・これは一見、最善の言葉に見えるかもしれませんが、依存関係を作り出すリスクが大きいです。家族などでもない限り使うのは気をつけたほうがいいでしょう。(依存関係は自立を妨げるからです)

 カウンセラーは上の三つは言わずに、こう言うのです。「苦しいのですね」。
 カウンセラーはこう言うことによって、クライエントが苦しんでいるという現状を肯定し、自分でその苦しみの一部を背負おうとします。苦しみを理解したいからこそ、「苦しいのですね」。もしここでそれ以外のことを言えば話を逸らしていることになり、クライエントの苦しみから逃げていることになるのです。(「きっと明日は元気になりますよ」のような台詞ですら、実は話を逸らしているのです!)

 クライエントの方は、苦しいという気持ちを肯定されました。もしかしたら、彼は初めて誰かに苦しみを肯定されたかもしれません。その可能性は高いです。彼の周りの人は、彼に父性的態度や母性的態度で接してきたのです。ですが父性的態度も母性的態度も、彼の気持ちを汲み取ったものとは言えませんでした。
 今まで「文句を言うな」や「元気を出して」と言われてきたクライエントは、誰も自分の苦しみを理解していないことをずっと不満に思っていたのです。しかし今、目の前のカウンセラーが、自分の苦しみに関心を持っている。否定せずに聞いてくれる。なにを言っても受け入れてくれる(かもしれない)。そう感じたクライエントは、苦しみの奥に隠していたものが表面に出てきます。カウンセラーが聞くことによってそれを引き出すのです。
 クライエントは、悩みを話せば解決法を教えてもらえるとか、そういうことに期待してカウンセラーに来たのですが、カウンセラーは話を聞くだけで全然アドバイスをくれません。ですが、カウンセラーが全力で「聞いて」いるからこそ、クライエントは自分が肯定されているという感覚を味わいながら、少しづつ自分の心の中を探求していくのです。(以下引用河合隼雄「カウンセリングの実際」より)
 「われわれの態度としては、話をまだ聴いてゆこう、もっと話を聴こうということになります。クライエントは早く解決策が知りたいのに、こちらがまだ聴く態度をとっていますと、面白いことにほとんどの人がいろいろな話を始めます。このとき、クライエントとしては、悩みを話してカウンセラーの忠告を得て、それに従い解決すると、最初に思っていたのと少し道筋がずれて、悩みの背景をなしている事柄へと知らぬ間に話を発展させていくことになります。カウンセラーから質問するのではなくて、クライエントが話をすすめるのです」(p32)

 「ハイ」と相づちを打たれると、クライエントは次に何かを言わなければならない。次に何か言って、それもカウンセラーが聞いてくれるだけだと、話を逸らすこともできないので、クライエントは自分の抱えているものをどんどん掘り下げていく。
 普段の人間の会話では、人は都合が悪そうなところに当たったら自然と「片をつけたく」なってきて、深入りしないことが多い。問題と向き合いたくないからだ。でもカウンセラーはそのように「もういいかな」と話を切り上げようとはしない。クライエントは話していくうちに、自分の自我に都合の悪いことまで言ってしまうところまでくる。例えば、父の文句をずっと言っていた子が、「実は父が学費を出してくれている」と言ったりする。そういう、都合の悪い事実と直面させるのだ。
 カウンセラーは決して自分の意見をさしはさまない。それが良いとか悪いとかは言いません。(話を聞くのが下手な人はすぐ善悪の判断をする傾向がある!)。良いのか悪いのか、正しいか間違っているかに関係なく、もっと聞こうとして、聞いたことを受容します。

 「クライエントは自分の掘り下げた事実に自分で直面しなければならなくなってくるのです。外的にみれば何もしてない、生ぬるいように見えるカウンセラーは、実は内的には、このようにクライエントが自分自身の問題に直面していく過程を共にしようとする厳しさを持っているのです」(p22)

 カウンセリングでは、クライエントは最初は「悩みの解決方法を教えてもらえる」と思って来ることが多いです。しかしカウンセラーのほうはというと、悩みの解決方法を教える気は基本的にはないのです。そんな簡単には行かないからです。(教えたことが役に立つようなケースがあればカウンセラーは教えることもできるが、基本的な態度はあくまで聞くことで、教えることではない)カウンセラーはクライエントの発展の可能性に注目しています。苦しい症状をいかに抑えるかには注目していません。

 「クライエントは、自分で自我を改造して高次の自我を作り出すということは考えていない。クライエントのめざしているところは、対人恐怖なら人が怖くにようになりたいと思っているだけで、あるいは、姑を憎んでいる人は姑さえよくなればよいと思っているだけで、クライエントの考えている解決は直接的である。古い自我のまま症状だけよくなってほしいと思っている。ところが、カウンセラーは、どうしてもあなたの古い自我を改変しなければならないという仕事を始めるわけです」(p81)
 (ちなみにここでは自我と人格はほぼ同じ意味で使われています)

 「患者の病的状態を異物のようにして、単に摘出するような真似はできない」(ユング)。症状は人格に付着した異物ではなく、人格そのものの現れなのです。なので症状を鎮めるというアプローチでは問題は解決しません。人格が変わらなければいけないのです。

 「腹の底」では著者は、医学が人格を変えることが出来ないことをはっきりと認めています。
 「本人の性格を変えれば神経症は再発しないだろうが、それはもはや患者を別人に仕立て上げてしまうことであり、医療の関与する範囲を超えている」(p179)。
 医療とは症状を抑えることです。精神科医は症状を抑えることしか考えていません。

 117ページにはこう書いてある。「病状をうまくコントロールし安定させるといった方向を目指すことの方が多い」。最初から治すということはあまり考えてないようなのだ。
 そしてその直後にはこう書いてある・・「他者をコントロールする楽しみそのものに囚われている医師は結構多い印象がある」。「医者は患者に対して少なからずコントロール願望を発揮せずにはいられない」。
 カウンセラーはクライエントと対等であることをとても大事にする。間違ってでも上から目線になってはいけない。しかし精神科医は基本的には患者と対等ではない。精神科医は患者に対して権力を持つ(または持とうとする)。服薬も一種の命令であり、患者の希望に反する強制的なニュアンスがある時も少なくない(抗精神病薬を飲みたがらない精神病患者の話は珍しいものではない)。


 「腹の底」のp108では著者はカウンセリングを理解おらず、過小評価しているところが露呈している。この部分にはかなり賛成しかねると思った。
 「目指すのは、クライエント自信が自分を客観的に眺め、「論理をより精緻にすることによりは視野をより広げること」の重要性に気付き、それを以て人格的に成長することであるという。」
 ここまでは特別ひどいことは言っていないが、問題はこの次である。
 「いやはや人格的に成長するなんてずいぶん大仰な言い回しだが、ちまちまとしたこだわりから脱却せよ、そうすれば心も広がって今までの悩みもアホらしくなってくるさーそんな論法に近い。人生に行き詰まったときには海を眺めて大声で叫ぶに限る、そんな熱血ドラマのテーゼと大差がないのである。実は。」
 この人は自分で変容的な体験をしたことがなく、他人を変容させたこともないのだろう。人は変わる能力があるのだ。ユングも、精神科医の岡田尊司氏も、ときおり患者のすさまじい変容に驚かされることがあるということを書いている。人のこころと真摯に向き合ってきた治療者たちは知っている。人格の成長というのは実際にあるのだ。だが見たことがない人はそんなものがないと思っている。

 もちろん成長するのはとても難しいし時間がかかる。数回カウンセリングを受けて急に目が覚めたように人が変わるわけではない。人が変わるには早くても2−3年はかかると考えてよい。変容は長いプロセスだが、とても重要な局面は短時間に一気に起こることもある。
 ここまでの説明で、カウンセリングが、個人の抱えている問題の本質に迫っていって、それと向き合おうとしていくことだということは理解して頂けたでしょうか。








 5 診断の無意味さ


 ユングは、「診断を度外視」していると言います。ユングによると、(器質的な疾患を除いては)診断名をつけることは、患者の状況を説明するよりは覆い隠してしまう。患者の抱えている本質的な問題は何らかのコンプレックスだからです。ユングは、診断名は知らないほど役に立つとまで言っているくらいです。
 もちろん診断は治療の漠然とした目処を立てるために、役に立つことはあります。ですが診断の目的は常にそれであるべきです。すなわち治療方針を定めることに役立つべきです。
 しかし診断名をつけることが単なる言い訳につながってくることもあります。特に、仕事をやめるために診断書を求める人は、最初から診断だけを求めていて治療など求めていないことが多いです。「私は〇〇障害だから」と言えるようになると、自分の問題と向き合うことから逃げることができるのです。
 〇〇障害の根底には何らかのコンプレックスがあります。治療しなければいけないのは〇〇障害のほうではなくコンプレックスなのです。
 
 私は二つの事例を出してみようと思います。実際に自分で目撃した出来事ですが、どちらもこころの問題を抱えた人が心療内科に行ったにも関わらず何一つ有用な変化がなかったことを表す例です。


 事例1ー
 40代の男性。すぐ愛想笑いをしたり、ほんの小さなことでも言い訳を言わなければ気が済まないタイプ(「あれっおかしいな〜」みたいなことを延々と言う)。自分を守るのに必死で、メンタルが弱い。自分のやり方に固執し、他人に自由を与えないというのもあった。
 この人は居酒屋の店長だが、職場でとんでもなく酷使されていた。長時間労働、かなりの低賃金。プライベートの時間もない。ある時からストレスが限界を突破し、職場でものを投げたり蹴ったり、叫んだりし始めた。客がいない時は喉が枯れるほどの大声で叫びをあげたりしていた。
 彼は心療内科へ行ったが、「過労ですね」と言われ、「あ、ハイ」のような返事をしたそうだ。この返事の仕方から示唆されるのは、診断に満足も納得もしていない。(※彼の診断が何だったのかは聞いていない。「過労」が診断名なのかは分かりません)
 彼はスルピリドとブロチゾラムを処方された。
 (スルピリドはもともと胃腸薬で、マイルドな鬱によく処方されるが、気休め程度の薬と言える。意味があることは少ないだろう。ブロチゾラムは中時間型の睡眠薬である)
 服用を始めたが、当然何も変わらない。態度の改善など全く見られない。
 彼の抱えている問題の本質は、言うまでもなく身体的な疲労や一過性のストレスではなかったのです。それは単なる「きっかけ」にすぎず、きっかけは原因ではありません。
 彼の問題の根本的な理由は支えてくれる人がいないことでした。(彼は独身です)
 もう一つは、搾取に反抗できない弱さです。彼は社長であるオーナーに自分の要求を言うことなどできませんでした。会議などでは常にオーナーの意見を褒めるようなことをしていましたが、それも演技で、本当はそう思っていないのだと言います。彼は店長になってから昇給もなく、一部のアルバイトより手取りが少ない(!)月もあったくらいで、労力が正統に評価されておりませんでした。
 しかし、誰かがこの現状をオーナーに報告しようかという気を見せると、彼は拒んだのです。彼は現状に苦しんでいるのに、現状を変えようと思っていないのです。
 
 

 事例2ー
 こちらは20代の女性である。この人も長時間労働によるかなりのストレスを負っていた。若くしてある店の店長にさせられたが、人格や実力は店長に要求されるレベルに到達していなかった。
 帰宅してから泣くことも少なくなかった。
 精神不安定になりやすく、また女性ホルモンの影響もあり気分にムラがありった。うつ病なのかという疑いもあったが、おそらく器質的なうつ病は持っていない。
 よく大事なものを無くすのが見られ、本人は発達障害の疑いも持っていた。仕事とプライベートで別人のように振る舞い、仕事では大人に見えるが、プライベートではいくらか幼児退行しており、実際の発達ラインはけっこう低いように見えた。
 ある時「身体が動かない」と言って休職し、その後退職。動けなくなったのは明らかに心因で、古典的な「神経症症状」と言えるようなものだ。仕事に行かずに済むから動けなくなったのだ。
 彼女は「証拠集め」と言って診断をもらいに心療内科に言った。
 心療内科での診断は「自律神経失調症」と「適応障害」であった。適応障害は分かるが(職場に適応できなかったことによるうつ状態のことだ)、自律神経失調症とは一体何なのか私は気になった。
 「自律神経の科学」(鈴木郁子)と言う本にはこう書いてある。「じつは自律神経失調症の定義はあいまい」・・・。正式な病名ではないという。自律神経に異常がない場合もあると。
 そして「受診する患者の多くは医学的に説明がつかない」
 ストレスによってさまざまな身体症状が現れるものですが、心因性の症状は医学的に説明がつかないらしいのです。(なので彼女は自律神経が失調しているわけではないと思っております。)

 このように、心療内科は個人のパーソナリティの問題に一切触れようとせず、身体の問題として片付けようとします。何一つ役に立たないのです。
 彼女は弱いベンゾ系抗不安薬であるクロチアゼパムを処方されましたが、周りの人にそれを飲む必要がないと説明されると、その理由を理解して承諾しました。
 彼女がベンゾを飲むべき理由など何一つありません。彼女はベンゾジアゼピンがなんなのかすら知りませんでした。ベンゾが何なのかも知らずに飲んでる人がいるのは恐ろしいことですが、けっこう沢山いるようなのです。
 ベンゾは本来2-4週間以上処方してはいけないのですが、まるでどこの精神科医もこのルールを守ってないように見えます。まるでこのルールが存在しないかのようです。依存や離脱の説明もまるでしない。本当に不思議なくらい、説明しないのです。なぜなのか?それで大半の患者は大丈夫なのか、私は不思議に思っています。
 彼女に話を戻しますが、彼女の問題の本質はもちろん人間関係と、パーソナリティでした。パーソナリティを少しは発達させない限りは次の職場でも同じような適応障害になるのは見えています。本人も次の職場で同じことになることを恐れていました。
 彼女は「他人が何を考えているかすぐ気になってしまう」と言いますが、それはつまり自分に自信がないということです。なぜ自分に自信がないのかというと、元を探れば、小学生時代にいじめを受けたとか、親の育児が放置的だったことや、褒められたことがない、という理由が過去の分析によって浮かび上がってきました。
 このような分析だけで自信が湧いてくるわけではないです。人格を変えたいなら過去の原因ではなくこれから何になりたいかという視点の方が大事です。それでも、これから発達をやり直すためには、「どこで間違ったのか」を知っておいて損はないです。
 彼女は自分が誰なのか、自分にどんな価値があるのかを知る必要があり、それが分かった時にはもう神経症症状はなくなるでしょう。ベンゾ系薬剤はそのようなことに何一つ貢献しません。








 6 治療者に必要なものとは?

 再度カウンセリングに話をもどして、治療者に何が必要なのかを考えていきます。
 さきほど教育分析の話をしました。
 一般的なカウンセラーの養成過程に教育分析があるかは分かりませんが、少なくともフロイトやユング派になるには教育分析を受けなければいけません。その理由は、治療者にも必ずコンプレックスがあるからです。
 完璧な人間などいませんから、カウンセラーにも必ずコンプレックスがあります。問題はコンプレックスがあることではなく、無自覚なことです。心理療法家になる人は自分のコンプレックスを全て自覚する必要があり、消すわけじゃなくとも少なくともコントロール下に置く必要があります。

 人はコンプレックスがあると、無意識的にもその方向へ話が進まないように誘導してしまいます。また、実際は問題でないことを問題であると思い込むことあります。
 例を挙げると、親に関するコンプレックスがあるカウンセラーがいるとする。そこにクライエントが来て、「実家にいるとつらい」などと言うと、カウンセラーは自分のコンプレックスが思い出されます。それを思い出すと苦痛なので、怪訝な顔をしたり、さりげなく別の話題を振って「実家はさておき、自宅ではどうなんですか」等・・話の方向性を変えようとするかもしれません。
 また、親に関するコンプレックスがあるカウンセラーは、親の問題がないクライエントに対して、親の問題があると思いこむこともあり得ます。かれは親の問題が「ない」人の心理を経験したことがないので、それを普遍的な問題だと勘違いしているわけです。


 (以下ユング「心理療法の実践」より)
 ・・「医師自信がこうも劣った存在であるのに、どうやって患者が病的な劣等感を克服できるように手助けできるというのか。まるで劣った存在と見なされることへの恐れから、権威、有能さ、卓越した知識などといった職業的な仮面を脱ぐことができないとでもいうかのようにして、医師が自分自身のパーソナリティとかくれんぼをしているのを目の当たりにしているというのに、いったいどうすれば患者が自らの神経症的な口実を手放すことができるようになるというのか。」

「心理療法の大いなる治療要因は、医師のパーソナリティなのです」

 患者は人格を発展させなければいけないのですが、人格の発展とはより具体的に言うと「できることが増えること」のことだと思います。では、どうやったらできることが増えるのか?
 それは、それまで逃げていた問題と向き合って、恐れて避けていた可能性の世界に、心を開くことではないでしょうか。
 カウンセラーはクライエントに、そのような「可能性の世界」へ意識を広げることを要求しなければいけません。
 クライエントは、「意識が高い」人にならなければいけないのです。それまで無意識だった問題を意識化することによって。
 しかし、クライエントが意識を高めるには、カウンセラーも同じくらい高い意識を持っていなければいけません。
 
 ある会社の会議をイメージしてみてください。誰もが見て見ぬ振りしている問題があるとします。ある社員が勇気を出してその問題を持ち出した時–かれは「場の意識を高めよう」としているわけですが−、かれは周りの人の「自我防衛」に直面することになります。この問題に向き合いたくない人たちが聞こえないフリをしたり、そっぽを向いたり、相槌を曖昧にしたりします。
 そして周りの人たちはこう思うでしょう、言い出した人からやれと。我々はそこまで意識を高めたくない。高めて欲しいなら言い出した人が手本を見せろ、という態度をとるでしょう。

 カウンセラーはそのような勇気ある社員のような人でなければいけません。カウンセラーには、つねにあらゆる現実を認識する覚悟と準備が必要なのです。
 精神疾患になるクライエントは基本的には何らかの理由で現実の問題と対峙する勇気を失った人です。
 クライエントに現実と向き合う勇気を与えるには、まずカウンセラーが手本として現実と向き合って、どれだけ重い内容にも耐えなければいけません。
 カウンセラーが、クライエントから打ち明けられた重い内容から話を逸らさずに正面から受け取る勇気を見せることで、クライエントはその内容が耐えうるものだということを知り、勇気を得るのです。
 もちろんカウンセラーにとってこれは決して簡単な事ではありません。とても高い人格的要求があります。カウンセラーは他人のために傷つくのが仕事で、これは決して誰にでも魅力的な職業とは言えません。他人の苦しみを背負う覚悟が必要なのです。

 カウンセラーはクライエントに、「自分の人生の問題に向き合え」と、直接言葉で要求するわけではなくとも、基本的態度でそれを暗に要求していきます。しかしそのような要求ができるのは、カウンセラー自信が自分の人生の問題に向き合える時だけです。自分にできないことを他人に要求することは出来ないからです。




 弁証法的な過程

 心理療法は、完全な人間が不完全な人間に一方的な治療をするのではなく、不完全な人間どうしで一緒に成長する過程です。
二人の人間が出遭って、2つの世界観と考え方がぶつかり、そこに新たな可能性が創造される。これが弁証法的な過程というものです。ユングは心理療法をこういう弁証法的な過程だと考えました。 A(治療者)→B(患者)ではなく、AxB=C(新しい可能性)なのです。 治療者も毎回発展しなければいけないのです。
 真面目なカウンセラーは常に自分の不完全さを自覚することになり、つらいです。学校の先生なども同じで、これによって病むことも多いです。 ですが病むのは不完全だからではなく知識が足りないからだったりします。心理学の知識がカウンセラーを支えます。不完全であることへの道徳的な反省はあまり重要ではない。
 カウンセリングを真面目に受けに行こうという患者は、「今の人格に満足していない。新たな発展の可能性に心を開いてみたい」という態度が必要ですが、これと『全く同じ態度』がカウンセラーのほうにも必要です。
 (ちなみに私はよく犯罪心理学や犯罪心理学者から「偽善臭」を感じます。治療者が患者と対等に立とうとしないで、上から目線であることが多く、犯罪者や非行少年の心理を理解していないことが多い。自分は犯罪者を更生する!などと意気込んでいる人は救世主コンプレックスかもしれません)



  
  受容の意味
 カウンセラーに最も必要なのは共感ではなく受容だということをさきほどお話ししましたが、それについてより詳しく説明します。

 共感とは「その気持ち分かる!」ということです。
 特殊な境遇に置かれていたり、珍しい難病を持っている人などはなかなか他人に苦しみを理解されないですが、同じ境遇にいる人に出会うと初めて共感し合うことが出来ます。
 自分の苦しみを分かる人が他にもいるというのは、心強いことです。
 しかし共感には限界があります。例えば、男性は女性が子供を出産するときの気持ちなど分かりません。若い心理療法士にお年寄りの気持ちは分かりませんし、暴力事件を起こしたことがない人は暴力事件を起こした人に共感できるとは限りません。結局一人の人間として共感できるものには限りがあります。「辛いの分かるよ」と言ったところで、本当は分かってない時はだいたいバレているものです。

 しかし受容は限りがなく、無限です。受容とは受け入れることで、「〇〇なんですね」と現状を肯定、理解することです。自分で経験がないことでも、聞いて受容することは出来ます。受容は苦痛や不安をじっくり味わうことでもあります。受容は同じ気持ちの理解ではないのですが、理解しようという態度のことを言います。

 なぜ私が共感より受容の方が大事だと考えるかというと、共感は同一化と停滞を引き起こすことがあるからです。
 同じ問題を持っている人たちが集まって、共感しあうと、「他の人がこの問題と向き合う気がないなら私も向き合わなくていいよね」と、現状を維持する口実を作ることができます。このことを私は同一化と停滞という言葉で表現しています。
 もしクライエントが「人と話すの苦手なんです」と言って、カウンセラーが「わかる!私も!」と共感してしまったら、クライエントはそこで安心してしまい、発展への可能性が閉ざされてしまう可能性があります。
 しかし受容の場合は、こうなります−「人と話すのが苦手なんです」「苦手なんですね」。
 こうしてクライエントは気持ちを受け入れて貰えたが、同時に自分で認めた苦手なものと直面することになる。まだ直面したくないなら逃げることもできる。クライエントが話題から逃げようとした場合カウンセラーはそれを尊重し、できる限り追及しない。クライエントの心の準備に合わせた対応をしなければいけない。だがカウンセラーのほうは常に準備が出来ている。いつでも聞くことが出来る、という準備を受容の態度で表す。



 こころの問題を抱えている人は、基本的には自分に自信がない(例外もあるが)。
 苦しんでいる人の話を聞いていくと、根源的なところにあるのは、他人に受け入れて貰えないのではないかという不安であることが多い。かれらは自分に価値がないと思っている。その理由は元をたどると、親の愛が無条件じゃなかったからであることが多い。
 人は、無条件で受け入れられることを、幼少期に両親との関係で経験するべきなのである。その経験は、その後のあらゆる人間関係の作り方のモデルになると言っても過言ではない。自分には受け入れられるほどの価値があることを学ばないと何も始まらない。

 こういう人を支えるカウンセリングで、カウンセラーは「遅ればせながら」母親の役割を演じるようなものです。患者は自分が受け入れられるだけの価値があることを学ぶのです。今まで受け入れられたことがない人には、それが最も重要な薬になります。

 しかし患者は治療者との関係を最終的には乗り越えなければいけない。受け入れられたことに喜んでその関係に依存し始めると(これは転移と呼ばれる)よろしくない。治療者との関係は、あくまで「これから築いていく人間関係のモデル/準備」であるべきなのです。
 メンタルが弱い人を支えるためにできる最大のことは、話を聞くことです。それがすなわちカウンセリングです。心理学などの知識を教えてやってもあまり効果はありません。知識は、本人のメンタルが強くなっていく過程で本人が自然と身に着けます。知識不足がメンタルが弱い原因ではないのです。






 ・おわりに・

 まだまだ引用したい文章などはたくさんあるのですが、十分に長い記事になったのでここらへんで切り上げようと思います。
 別の機会に、心理療法論やこころの発達についての話にもっと踏み込む記事を書くかもしれません。
 
 この記事はやや野心的な内容でしたが、伝えたいことを十分に伝え切れているかは分かりません。また私はカウンセリングについて、ユングやユング派以外のものは現時点では読んだことがないので、ここに書いたカウンセリング論が一般的なカウンセリングでどれだけ当てはまるかは分かりません。
 この記事を読んでカウンセリングに関心を持って、カウンセリングを受けに行ったがカウンセラーに失望したという方がいても当然責任は取れません(スミマセン)。カウンセリングは難しいですし、お金も時間もたっぷりかかります。それでも、投げやりでやる気がない精神科と違ってこころに向き合ってくれる、ということだけは信じています。

 ・(河合隼雄はユング派ですが、彼のカウンセリングはロジャースの影響を強く受けております。この記事で紹介されたカウンセリング論は実際はユング派というよりロジャースです。ですがロジャースもユングも根底的なところでは似たような考え方を持っていると思います。それは患者が医者に「治療される」のではなく、自分自身の治癒力で自己実現していくということです。)