今回は統合失調、ボーダーライン(BPD、境界性パーソナリティ障害)と解離性障害の三つの精神疾患を軽く解説し、そのサイケとの関係を考えてみます。
 これらの精神疾患は巨大なトピックなのでこのいち記事では語り尽くせません。関心がある方は以下の書籍を強くおすすめします。
 「解離性障害」ちくま新書 柴山雅俊
 解離性障害の主観的体験にかなり重きを置いていて哲学的で面白い。解離性障害に関する本はかなり少なく、この著者は日本の解離治療の第一人者に数えられると思う。

 「境界性パーソナリティ障害」幻冬舎新書 岡田尊司
 これはメンヘラの心理学入門としても読める。こころについてのかなり重要な視点を多く含む本である。この著者の著作は全体的におすすめする。

「統合失調症」PHP新書 岡田尊司
 統合失調に関する新書はいくつかあるが、これが最も内容が充実しているように思う。


 この三つの精神疾患を自我の視点から考えてみようと思うんですが、まずそのために自我とは何かをはっきりと定義することから始めようと思います。
 自我という言葉は学者によって様々な意味を持たされているのでどんな意味で使っても結構なのですが、今回は誤解がないように使い方をはっきりさせます。
  河合隼雄の「カウンセリングの実際」の第三章「心の構造」を参考に、自我を四つの機能で考えます。
 
 自我の四機能 

 1・主体性
 主体性とは、自分が中心となって自分の意思で行動することです。
 西洋的近代的自我は、主体性を大事にします。逆に、学校や軍隊は主体性を殺そうとします。主体性がある人は命令を聞かないときもあるので、いい生徒や軍人になれません。
 主体性がない人は、自分の意思で行動することができません。主体性を持って行動することは、自分の行動に責任を持つことを意味します。なので責任を負うことを避ける人は主体性が弱く、自我が弱いということになります。
 主体性は侵されることがあります。言い間違いやし間違い、情動に取り憑かれて自分の意思でもないことをしてしまう時などは主体性が侵されていると言えます。

 2・同一性
 同一性とは過去の自分も未来の自分も同一の人格だという感覚と確信です。
 10年前の自分が今の自分と同じ人間かと聞かれると、意見が分かれるでしょう。どこで線を引くかが人によって違うのがミソです。同一性は絶対的なものではなく、つねに「ある程度」なのです。
 法律の時効という考え方も同一性の問題が関係あるでしょう。
 人間の身体は一定時間が経つと全ての分子が入れ替わるのですが、それでも同じ人間だと言えるのは自我の同一性があるからです。


 3・他者との区別 
 自分と他人が違うことを理解するのが自我のとても大切な機能ですが、これも人によって、状況によって線を引く位置が違ってきます。思っているほど明確な自他の境界線があるわけではないのです。
 例えば他人が怒られているのを見て、自分が怒られているように感じる人がいます。こういう人はエンパスといいますが、エンパスは共感能力が高い=他者と同一化しやすいのです。
 赤ん坊も他者の区別能力がなく、母親と同一化していると言われます。
 自分と他者をうまく区別できない人はそれを基本的に自覚できません。



 4・統合性
 統合性は矛盾を排除するものです。例えば自分は男であって女ではない。自分は男なのだから女性性を排除しよう、というのが自我の統合性です。
 もし矛盾する内容が自分に属していたら、自分が何者か分からなくなってしまうので人は不安になり、混乱します。
 考えてみれば、昔から性差がはっきりしている西洋人は(最近は揺らいでますが)、自我の統合性がとても強かったのだと言えるでしょう。日本人は西洋人に比較して「男らしさ」とかにそこまでうるさくないわけですが、それは日本人はより漠然とした統合性を持っていたからだと言えるでしょう。

 統合性もつねに「ある程度」のもので、誰もが矛盾したものを多少は持っています。
 特に青少年は、「親に依存したい」と「親から自立したい」という二つの立場の矛盾に葛藤している存在だと言えますが、あまりに葛藤が強いと家出などの行動に駆り立てられます。このような衝動的な行動は、意地でも自我の統合性を維持しようというものなのです。
 衝動的な行動は基本的に自我の統合性を回復しよう、自己実現しようという動機を含んでいます(自殺や他殺もそうなのです)。

 自我の四つの側面、主体性・同一性・他社との区別・統合性を説明しました。
 この四つはどれも「ある程度」のものであるということを頭に入れておいてください。どれも、明確なラインはないわけです。なので人は自分探しをするとするほど自分が誰なのか分からなくなってしまうのです。そして仏教やインド系思想に至っては自我は存在しないという結論にまで到達してしまいます。
 我々は今回はこういう仏教的な考え方は採用せず、自我を存在するものとして扱います。自我は悪いものでも思い込みでもありません。意識内容の統合の中心として、必ず人間に必要なものです。




 精神疾患と自我機能の崩壊
 健常な自我は、この四つの機能が正常に働いている状態だと言えます。統合失調などの精神病者を見ると、この四機能が全て崩れていることが分かります。
 なので理論的には、自我の機能が正常に回復された時には病も治っているということになります。

 ・主体性の崩れ
 統合失調では「させられ体験」という症状がある。これは自分がやりたくもないことをやらされているような感覚である。幻聴の声の命令に逆らうことができず自傷行為する、などというケースがある。
 主体性を侵されるさせられ体験は、あらゆる症状の中でも最もつらいものに入る。


 ・同一性の崩れ
 統合失調では自分の過去が分からなかったり、すり替えられたりすることもある。身体の痛い場所を自分から切り離して別の存在のように扱う例もある。自我=自分の中心がないからそうするしかないのだ。
 またセシュエーによると分裂病患者は三人称で呼ばれ、会話することを好む。「私」や「あなた」を聞くと混乱や不安の反応をする。
 特に同一性の崩れが激しいのは解離性障害である。解離性障害では「過去を思い出せない(健忘)」「過去をどこかに置いてきたように感じる」「過去が他人事のように感じる」などがある。解離性同一性障害では交代人格、いわゆる多重人格になる。
 

 ・他者との区別の曖昧
 統合失調の最も重度なケースでは、自我と非自我の区別がつかない。なので例えば便所で小便をしている時に外で雨が降っていると、雨が自分の小便なのかどうか本当に分からないということが経験されることもある。
 セシュエーの「分裂病の少女の手記」(以下「手記」)では、セシュエーは病者の前で魔術的な効果を利用するため、身代わり人形を用いた療法を行っている。
 統合失調の少女は医者が出した身代わり人形を完全に自分と同一視していた。医者が人形を可愛がったり、その他様々な操作をすると、病者は人形に起こったことを自分に起こっていることのように受け止めていた。
 一例をあげると、少女が攻撃衝動に侵されている時、「猿の人形の手を上げさせる」ことで攻撃衝動を象徴した。その後「猿の人形の手を下させ」、人形が自分の攻撃衝動をコントロールしているところを見せた。こんなことでこうかがあるか不思議に思われる方が多いでしょうが効果があったのです。
 (p76)セシュエーは猿に「『いつでも腕を下げているようにお願いします。そうすればルネちゃん(少女)は怖がらなくなるでしょう。分かったわね』」と言い、「小さなお猿さんは承知しました。それは彼の眼で分かりました。ママ(医者)がお猿さんにそのような姿勢を取らせたことで私がどんなに安心したかということは、いうにいわれぬほどでした。いずれにしても、その瞬間から、自己を傷つけたいという衝動は、突然なくなりました。私は猿がその腕を下げているかどうかということを、非常に注意深く眺めていました。偶然に手をあげていると、私は自分を叩きたいという衝動にかられました。なぜならば、それを猿が望んでいたからです。私はすぐに猿のところに駆け寄って、その腕を下げました。」

 現代では統合失調は軽症化してきているというので、ここまで重度に自我が崩壊している患者はそう多くないと思われる。薬物療法の効果が大きいだろう。だが自他の区別の曖昧さはあらゆる精神疾患で見られるものである。
 ボーダーラインの場合もある程度の自他の混同が見られる。自分が好きなものを他人も好きだと無条件で思い込むこと。他人の心が読めると思うこと。
 他人の心が読めると思うのは読めているからではなく、自他の区別が上手く出来ていないことによる勘違いなのです。


 ・統合性の崩れ
 統合失調の発症間際には「同性愛の傾向が現れる」ことがある。性同一性障害的な症状から統合失調が始まった人もいます。
 解離性障害ははっきりと統合性が失われている障害です。解離性同一性障害の場合は、はっきりと人格がいくつかに分かれてしまう。こうなると統合された一人の人間ではなく、バラけた複数の人間の集まりのようになってしまう。矛盾する立場がそれぞれ独立した人格になってしまいます。(基本的に、二重人格は「いい子」と「悪い子」のような分かれ方をする)
 統合性の崩れはそっくりそのまま罪悪感として現れます。罪悪感とは自分に不正直である時に生じるものだからです。分裂病では、またボーダーラインでも、理由もないような慢性的な罪悪感が生じたりします(「生まれてごめんなさい」)。統合性のある人間は自分の中に矛盾を持たないので、罪悪感を感じることがありません。




 精神病と神経症とそのボーダーライン
 精神病と神経症という概念はもう使われておりませんが、ボーダーの理解に役立つので軽く説明します。
 神経症は自我の一部の障害です。今で言う各種パーソナリティ障害などのほとんどの精神疾患が神経症に入ります。(が、パーソナリティ障害と神経症を区別している医者もいる。神経症は漠然とした概念なので厳密に定義するのは難しい)

 対して精神病とは自我の総体の障害です。かつては早発性痴呆、その次は分裂病と呼ばれた、現在の統合失調が主に精神病に入ります。
 統合失調をまた3カテゴリに分けると、妄想病、緊張病、破瓜病(解体型)があります。

 ボーダーラインとは精神病と神経症のボーダーラインだという意味で命名されました。
 精神分析やカウンセリングがうまくいかない、とても扱いにくい層の患者たちがあったのですが、それがボーダーラインと名付けられました。
 ボーダー患者は自我がとても脆くデリケートですが、統合失調のような精神病症状はないか、あっても少ないため、ただの「性格の問題」だと思われがちです。しかしボーダーはれっきとした精神障害で、「ある時点で発症する」とされます。
 神経症患者にはカウンセリングや精神分析が効果を発揮します。(とはいっても決して神経症が軽症ということではなく、ものによってはとっても治療に苦労する)
 しかし精神病者には精神分析は禁忌とされています。精神病者は自我が崩壊しているので、自分の無意識内容に耐えるような自我をそもそも持っていないのです。
 人は誰もがなんらかのトラウマを持っていますが、精神分析はそのトラウマを暴きます。神経症の場合は、「そのトラウマに今では耐えることができる」ことが知れると、大変な治療効果を持ちます。
 しかし精神病患者は原則としてトラウマに耐える能力がありません。分析するだけ混沌としたものが出てくるだけなのです。
 ボーダーの人も、精神分析やカウンセリングがうまくいかないという点では、神経症より精神病に近いものがあると考えることが出来ます。
 ユング派の河合隼雄は、ボーダーの人にはユング流の夢分析や能動的想像法をやらせないと言っています。危険なのです。



 精神疾患と幻覚剤使用
 統合失調者にとっては幻覚剤は禁忌であるべきです。ですが中には使っている人もいるそうです。「幻聴の声を味方につけた」などといって幻覚剤を常用している人の話を聞いたことがありますが、社会適合は全く出来てないだろうなと思います。不思議です。
 統合失調の遺伝子を持っている人は幻覚剤使用によって統合失調が発症します。なので家系に統合失調があったら幻覚剤使用は禁忌です。
 ボーダーライン者も幻覚剤はやらない方がいいでしょう。プラスの体験をする可能性がかなり低いように思います。もしかすると劇的な治療体験がありえるかもしれませんが、それを断言できるような治療ケースは聞いたことがないので分かりません。リスクはとても大きいと思うので、カウンセラーの指導の元でもない限りは絶対に使用しない方がいいと思います。トラウマが思い出されてそれと一人で向き合う深刻な体験を誘発して、自傷や自殺に行き着くこともあり得るでしょう。

 幻覚剤は基本的に自我を崩壊させますので、強くて発達した自我を持っている人にこそ様々な効能があり得ると考えています。もともと自我が弱い人には危険となります。
 私は以前から病んだ人は幻覚剤をやるべきでないと言ってきましたが、病んだ人というのは主にボーダーのことを想定しています。ボーダーラインと診断を受けたことがあるかどうかに関わらず、ボーダーの特徴が当てはまる人は使用しない方がいいです。

 解離性障害と幻覚剤の相性は、今のところ私にはよく分かりません。統合失調やボーダー者に比べたらもう少し安全なのではないかという勘を持っていますが、確証はないのでなんとも言えません。
 幻覚剤使用後に解離性障害の症状が少し良くなったと言われている人をひとりほど見たことがありますが、それだけでは勧めるわけにはいきません。幻覚剤には手を出さない方が無難だと思います。







 
 パーソナリティ障害について

 
次はボーダーラインと統合失調を、パーソナリティ障害の一部として解説します。
 全てのパーソナリティ障害は根底には共通したものがあります。それは否定される不安です。 不安への防衛方法の違いにパーソナリティのタイプが出るわけです。 

 ・回避性パーソナリティ障害
 自分が正しく評価されない苦痛などが原因で対人恐怖が形成されていき、人と合わないことを選ぶようになっていく。
 防衛方法→回避(自分に自信がないので、関係を避ける)

 ・演技性パーソナリティ障害
 注目されないと気が済まないので、服装などで人の気を引く。それが演技的態度になる
 防衛方法→演技(自分に自信がないので、自分でない誰かになる)

 ・依存性パーソナリティ障害
 自己不信から、自分の自我にほとんど主体性がないので、自分の自我を他人の自我と同一化する。それが他者などへの依存になる。
 防衛方法→依存(自分に自信がないので、恋人や薬物に依存する)
 
 ・反社会性パーソナリティ障害
 人間全体、社会への恨みがあり、それを表現するために不良やヤンキーになったり、暴走など反社会的行動をする。
 防衛方法→反社会的行動(やられる前にやる、自分が強いと見せかける)

 ・強迫性パーソナリティ障害
 一定の秩序を保つことへの固執。元をたどれば親に怒られた経験などが元凶である。ルールなどが道徳そのものになり、「ダメなことがダメ」であるという強迫観念を乗り越えられない。主体性がない。
 防衛方法→秩序を保つ(「正しいことをした」から安心)

 ・境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)
 ほとんどのケースで幼少期に見捨てられた体験などがある。見捨てられる不安から愛を求めるが、いざ愛が手に入りそうになると怖くなり、とても不安定になる。慢性的な空虚感がある。衝動性が高く、同一性混乱も高い。治療には相当な技術と根気が必要で、おそらく最も重篤なパーソナリティ障害に入る。
 防衛方法→場当たりなセックスやその他スリルあることに逃げたり、自傷行為をして注目を得ようとする。 


 ・統合失調型パーソナリティ障害
 軽度の統合失調と考えていいと思う。風変わりな言動や思考、対人関係を避けて孤立しがち、不適切なことをしがちで交流が難しい。
 防衛方法→自閉









 崩壊した自我をいかにして治療するか?
 このトピックも巨大なものなので今回は簡潔に済ませておきます。
 統合失調者はか弱さそのものだと言えます。統合失調の治療は病者の努力ではなく治療者の努力にほとんどの比重がかかっているように思います。
 ボーダーのばあい、統合失調ほどではないのですが、こちらも周りからの支援と治療者の努力にものすごく大きい比重がかかります。
 
 崩壊した自我を治療するには自我を一から形成し直すしかありません。発達をやり直すのです。
 なので心理療法は、現在の患者の自我のレベルを把握して、その段階に合わせて自我を形成していく、自信を形成していくというものになります。

 解離性障害では、解離の原因となったようなトラウマ的出来事と向き合わなければいけないのですが、これは危険の伴うものなので、柴山氏は「人格の統合や心的外傷への直面化にあまりこだわらない」と言っています。過去と向き合うのももちろん大事かもしれませんが、過去と向き合ったら急に自分が、自我が「できる」わけではないのです。それよりも、これからどうなりたいか、どうしたいか、のほうが大事なのではないでしょうか?

 精神疾患とは取り除くべき異物があるわけではなく、「誤った発達」です。誤った発達は、もとを辿ればほとんどは幼児期の家庭環境やトラウマ、親との関係などに原因が求められます。原因を理解するのは非常なプラスになることが多いです。しかし過去の問題にばかりこだわっているのは病的な態度だとユングは言います。現在と未来に向き合ってこそ自我ができるのかもしれません。

 サイケデリックスの使用は、使用者に新しい自我の形成を助けるわけではありません。自我形成は全て使用者が自分で、トリップ後にしなければいけないのです。その作業をする能力がなければサイケはセラピューティックになりません。
 トリップそのものは自我を形成するのではなく、自我を崩壊させます。トリップは精神病状態に近いです。
 このようなことすら分かっていない救世主コンプレックスの人たちが、サイケデリックスを万能薬であるかのように宣伝しているわけですから、われわれは危機感を感じざるを得ません。