寄せ集めの雑文集です。
 一つ一つ独立した内容なので小見出しで読みたいものだけを選ぶこともできます。




1 現代の問題
 自由と"豊かさ"の代償は、爆発的なアイデンティティの危機と精神疾患の急増であった。
 近代的自我の誕生とともに"自分の部屋"ができ、プライバシーができた。(もともとそんなものは存在しなかった) 内面世界が誕生したことで内面と外面の分離が生じ、それが様々な精神疾患となって現れた。



2 サイケデリックスの視覚性
 サイケデリックスはかなり視覚的なんですね。他の幻覚剤類や精神病と比べると。 そこに注目すると一気に面白くなる。 サイケデリックスは、われわれにもともと備わっていながら普段は知るすべがない精神の映像生成能力を、われらに開示する。 事実ほとんどの人は幻視に憧れて使用する。
 トリップ者は、映像の一つ一つを驚きを持って受け止める。
 これほどすごいことがあるだろうか。 我々は外的な刺激-光を通してしかものを見えないと考える。だがそれは大嘘だった。我々の精神はただの反応する鏡ではない。 精神は内容を作る。自らの力のみで。トリップ者は内的世界の実在を知る。
 昔は、サイケデリックスが視覚的だという文を見ると、視覚はそんなに大事じゃないだろと思ったものですが、しかし、他のあらゆる精神変容方法と比べると、確かにサイケデリックスの特徴はそのかなり豊富な視覚性にあると思える。
 精神変容に視覚が伴うのは、実は当たり前なことではないのね。




3 バッドトリップは一回的な出来事ではない
 バッドトリップは一回的な出来事ではない。なので一つのバッドトリップレポートだけを抜き取ってその人を判断したりトリップを解釈したりすることは出来ない。 生い立ちからの全生活史が必要。他人からバッドリの話などを聞くとき、そのバッドリの「核心」に迫るには、その人の最も深いところにあるコンプレックスなどを明らかにしなければいけないことが多い。
 プライバシーと抑圧、抵抗の問題で、最も深いところにある問題はなかなか出てこないので、バッドトリップの解釈は表面的になりやすい。かなりの信頼関係がなければ、そして本人が抵抗を克服しなければ吐き出させることが出来ない情報がある。こういうことに統計は役に立たない。統計には意識の表面しか出ないからだ。
 時間をかけた対話でしか引き出せるものがある。 人がバッドトリップやその他精神疾患のエピソードなどを語るとき、肝心の核はいつも最初は隠れている。




4 バッドトリップはトラウマになるか
 私は昔バッドトリップがトラウマになってないなどと言った。 だが客観的に、心理学的に、精神病理学的に言うとそれは間違いだ。あれは人生最大のトラウマに入る。トラウマかどうかは個人、本人の意見ではない。出来事それ自体のストレスで決まる。
 実際、私は人生最大のバッドトリップのことを考えると過呼吸や心拍数増加が自動的に始まる(そこまでひどいものではないが、ほんの少しであろうと、確かにある)。身体症状があるわけだ。なので私の表層的な自我が「これはトラウマではない」といくら言おうと、私の身体はこう言っているわけだ、「これはトラウマだ」と。

 こういうと"バッドトリップは存在しない"という人たちは私が「悲観的で自己否定的で間違っている」と言うかもしれない。昔の自分もおそらくそう言っただろう。 だがもう一度言うが、これは客観的に心理学に言ってるだけで、私は悲観的でも自己否定的でもない。むしろ楽観、肯定的に言っている。
 トラウマがあるという事実から逃げるほうが弱いのではないか。自分は傷ついてないと嘘をつくのが本当の強さか。サイコノートたちは誰もがトラウマ級の体験をしていると思うが、それがサイコノートであれば当然である、みたいな風潮があるように思える。確かに地獄のようなトリップに通過儀礼的な側面はあるかもしれないが、じゃあ完全に無害なのかというと、そんな単純な話ではないでしょう。



5 女性の病み
 これは差別ではなく統計なのでご了承頂きたいが、ネットで病んでる人に女性が多いのは実際に病むのは女性が多いからだ。 解離性障害の患者は7割が女性、境界性パーソナリティ障害も7割が女性らしい。 女性のほうが協調性が高いことが関係あると思っている。よくも悪くも男性のほうが攻撃的なので、不都合があったときは外界に働きかけて直す傾向が大きい。
 外界に働きかけることが出来ない人は、必然的に自分を変容させることで解決しようとする。それが神経症の症状として現われる。
 もちろん男性も病むし、病むのはストレスだけでなく遺伝やその他複雑な要因が絡むのであまり単純化して考えるわけにはいかないが、大雑把な傾向はある。



6 変性意識
 変性意識と呼ばれるに値するのは自我が変容するものだけです。 狭義の変性意識をもたらすのは幻覚剤類のみ。 多幸感や抗不安、酩酊、覚醒などは広い意味での変性意識かもしれないが、自我の変容ではない
変性意識は自我構造自体が変化しているので、原則として言語化や概念化が困難である。 なので逆に見ると、言語化や概念化が簡単なほど変容意識ではないということになる。 タバコやコーヒーは変性意識ではない。




7 悟りと発達は別の道
 サトリというのはかなり特殊な精神状態を指す。 人格の統合性を得ることがサトリなのかというと、違う。全く関係がない。サトリを目差すのと自我の統合は全く別々の道のりでしょう。
 われわれのはある都合のわるい事実を受け入れなければいけない。それは、スッカスカな人格の持ち主でもサトリ的体験に到達できるということだ。 サイケ使用者だけのことではなく、禅僧にもいた。
 言い方が厳しいかもしれないが、「悟りたい」という強い気持ちは、ほとんどの場合成長したいという気持ちではない。それどころか人生の問題から逃げるためだったりする。




8 自閉について
 自閉とは、外から得られない満足を内から得ようとする態度である。 自閉を直すには"外から来る満足の源"を持たなければいけない。これは彼の個人的な努力でどうにかできる問題ではない。他人の献身がいる。とくに強い人間不信には、かなりの献身がいる。肯定者がいる。
 自閉に閉じこもる人は外の世界に理解者を、肯定者を持たない。かれは人間関係に恵まれなかった。 薬物仲間を作っても、薬物仲間は外の世界との接触のきっかけにならないので、彼の全人格を肯定する人にはなりえない。
 自閉的な傾向は退行を伴う。かれは幼児的な欲求を持っているかもしれない。その幼児的な欲求を満たしてやらなければいけない。 幼児的な欲求を満たしてしまうともっと幼児的になる、と考える人もいるが、それは正しくない。 幼児的な欲求を満たしてこそ、幼児は次の段階へと進めるのだ。
 例えば引きこもり。彼は自分が社会に出て働くことを想像できない。その重荷に耐えるだけの自我が出来上がってないからだ。 ならば作ってあげればいいのだ。幼児期を象徴的に再現するのだ。彼をむりやり社会に押し出すのではなく、"もう一度大人になるチャンスを与える"。

 この社会の抱えている重大な問題は、人にやり直しや休息の機会を与えないことだ。 浪人、留年、一度失敗したらキャリアが終わる。人は数値化、データ化されて他人と比較される。 それに疲れた人は自らの世界に閉じこもる。 世間の中で自我を作るより自閉世界の中で自我を作る方が楽だからだ。

 自我形成には段階がある。社会人として機能するには高度な自我が必要なのだが、引きこもりにはそれがないので、段階的に自我を作らせなければいけない。 だからまず幼児的な欲求を満たすことから始まる。自分に価値があるという気持は、自我形成の初期段階なのだ。
 育児放棄や虐待をされた子供は、自分に問題があると考え、自分に価値があるという感覚を身につけることが出来ない。その影響はそれは大人になってからも引きずられる。 理解され肯定されるという欲求を、幼児の段階で親が満たしていればくれなかった場合、その人はのちのち病む。
 自分に価値がないと思っている人を社会にむりやり押し出すと殺すことに等しい。褒め言葉を与えるのも一時的な満足しか与えない。 治療者は、あなたには本当に価値がある、ということを長期的に態度と行動で示さなければならない。
 歳を取るほど理解者を得るのは難しくなっていく。理解者を得ないまま40になると、かなり攻撃的な人が出来上がってしまう。 かれは社会に対する強い恨みをもち、その恨みを晴らすことしか考えていない。だれもかれに近寄らなくなる。孤立する。攻撃的になる。救いの手が差し伸べられないかぎり悪循環は永久に続く。




9 恨みと感謝
 恨みの反対は感謝。恨みは自分の受けた仕打ちが不当であるという気持ち。感謝は、自分が自分の受けた恩恵に値しないという気持。 慢性的な恨みは人を人間不信に陥れる。
 完全な感謝に生きている人はいない。誰でも少しは劣等感やコンプレックスを経験し、恨むものがある。 死ぬときには全てのつけが回ってくる。最後に全てを恨むのではなく感謝出来るのが理想の死に方だろう。 世界を恨みながら死ぬのが最も恐ろしい。(だから殺し合いはしたくないものだ)



10 精神病と正常のスペクトラム
 精神病や精神疾患の心理や症状はもともと健常人が持っているものが過剰に現れているにすぎない、とユングは言う。 だから、精神疾患の知識は、ふつうの人の心理を理解するのにもかなり役に立つのだ。 私は精神病理などを読んで「これはいらないな」と思ったことはない。パーソナリティ障害や精神病者は最も弱い精神を持った人と言える(差別的な意味ではない)。精神の問題について知りたければ、最も発達して安定した鉄筋のような精神を持っている人ではなく、最も崩れやすく脆い人をよく研究しなければいけない。彼らから学べることは多い。治療者も一緒に成長するのだ。




11 使えないアドバイス
 メンタルが強い人はこう、弱い人はこう、という情報は、例え正しいとしてもあまり役に立たない。なぜ役に立たないのか?それは結果しか見てないからです。 "メンタル弱い人"が、"メンタル強い人"の行動を見てそれを真似すればいいと人々は考えるが、そうではない。そんなこと出来ないからだ。
 これを他のものに喩えるなら、遅い車に対して、速い車のように走れと言ってるようなものです。出来ないわけです。結果の違いを指摘しても意味がない。なぜ遅いのか、本質的に理解するにはたいてい深層心理学が必要です。深層心理学は車を分解して作りなおすように、自我を分解して作り直す。
 
 自己肯定感という概念が全く役に立たないことも、同じような理屈で説明できる。自己肯定感の高低ほど役に立たない概念はないのだが、この概念があまりに広まって一般化してしまっている。 自己肯定感も単なる結果でしかない。そうは見えないかもしれないが、それは内面を探求したことがないからだ。自己肯定感とは内面に積み重なった心的内容の結果です。才能のようなエネルギーとかではないし、今現在の行動や気の持ち方で自由に操作できるものでもない。 基本的には過去の出来事に遡る、あなたがどのような発達をしたか、コンプレックスやトラウマと深い関係がある。



12 使えないアドバイス2
 一人一人必要なものが違う。やらなければいけないことも違う。 誰にでも絶対当てはまるような心理アドバイスはない。 誰もが同じ精神発達を遂げてきたことが前提になっているか、各個人の個別性を殺して普遍的なものにしようとしているかでないと、普遍的なアドバイスは存在しえない。
 だから心理療法はマニュアル化できない。ということをユングは言っている。一人一人に違う対応をしなければいけないからこそ面白く、難しいのだ。カウンセリングは毎回同じ対応をすればいい「接客」ではないのだ。
 それでも、誰にでも当てはまるぞーと言わんばかりの顔で心理アドバイスを吐き続ける人は絶えない。 個別性を殺して普遍化させることが目的である学校や塾、会社、軍隊などは常にそれをやっている。 心理に詳しい人も、多くが「自分の心理」に詳しいだけで、だから自分は成長できても、自分とパーソナリティタイプが違う他人を支えるのはもっとはるかに難しい。
 誰かの心理アドバイスに耳を傾けて、それを実践まですると、聴いた側は教えた側の精神構造に近付いていく。
 一人の言うことを聞きすぎるとその人に近付きすぎる。それはいいことではない。教える側の「盲点」まで一緒に引き継がれるからだ。
 必ず、多様な視点こそが発達に役立つ。
 国民性とか文化とかもそういうものだ。幼少期から、我々は無数の心理メッセージを受けて「補正」されながら人格を形成する。
 素晴らしい人格を持った人に出会うと、その経験は自分の一部になる。良いところを真似することで我々は成長する。幼少時の人格形成は特に、ほぼ全てが模倣である。




13 言うことかすることか
 口は嘘をつけるが、行動は嘘をつけない。
 言うこととすることがずれている人は、99%、することが本音を表す。また、子供や新入社員などの学ぶ側の立場の人は、上の人の「言うこと」をするようになるのではなく、「すること」を真似する。
 教育のかなり大部分は、教えることではなく見せること。 なので大人や上司が、本当は思ってもいないことを部下や子供に教えても、教わる側はそれを本気で受け止めることはない。
 例えば、私の高校にはヘビースモーカーの保体教員がいた。彼は授業ではタバコが有害だと教える。だが隙あらば体育館の裏でタバコを吸う。 もし子供にタバコを吸うなと言ってしかし自分では吸うという親がいたら、子供はどうするだろうか。どちらのメッセージを聞くか••言うことかすることか。口は嘘をつけるが、行動は嘘をつけない。



14 感情的な接触
 感情的な接触がものをいう。
 感情的"でない"接触は、表面だけの付き合い。客と店員の関係。「俺は事務的な会話を除いては女子と話したことない」、と言う時の「事務的な会話」のこと。 これは一種の匿名性があり、自分の内面が覆い隠されたまま行われる。なので内側に触れられるリスクがなく、動揺する危険性もない。

 感情的な接触とは、匿名性を脱ぎ捨てた接触。"自分個人"が、"あなた個人"に関心があるというメッセージを含むもの。 事務的でないので、必然性もない。必然性がないので、個人的な内面的な動機付けを必要とする。



15 シャーマン
 もともとシャーマンって呪医です。呪医というのは、心理療法というものが存在する以前の、心理療法家の祖先です。本当にセンスがあるシャーマンは、直感だけで心理療法ができたのだわけです。
 が、現代人には、心理学の教育を受けたカウンセラーよりシャーマンを選ぶのはおすすめしません。



16 コンプレックス夢

 夢はコンプレックスを明らかにする。特に悪夢寄りの夢で汗びっしょで起きたときは、ほぼ確実にコンプレックス、または"解決されていない問題"が登場していた夢である。 これは占いではない。嘘だと思うなら、次汗びっしょで起きた時にすぐに夢を思い出してみなさい。



17 トリップと責任
 落としがあればミディアム〜ハイドースに挑戦できる? それって例えるなら、自動車でブレーキがあればスピードが出せるって考え方じゃないですか。本当に必要なのはブレーキですか。違いますよね。ブレーキが事故を防ぐわけではない。
 トリップはギャンブルか? ギャンブルのような刺激を無意識的にも求めている人もけっこういるのではないか。その場合、安全にやれなんて言っても聞いてもらえないに決まっている。 彼らにとっては安全とはつまらないを意味するからだ。

 責任ある使用ってのはなんですか。まず第一にギャンブル性のスリルを求めないことにするのが、責任じゃないですか。 主観的なスリルだけを見るのから離れて、物質使用のもたらすものを第三者視点から考えてみるのが自分に対する責任じゃないですか。欲動やヤケクソではなく、理性で決めることじゃないですか。 PsychedSubstanceが25歳(以上のほうがいい)と言ったのも根拠あってのことです。 何に関しても責任を背負うというのは、高まった感情ではなく理性で冷静に考えることです。

 でも彼らが聞くはずがないんだよね。そもそも薬物使用者は、薬物を、束縛するもの(社会や親、「自我」••)からの開放として捉えていることが多いので、責任を持てなんていうのは、彼らにとっては、また束縛されることです。まっぴらごめんなのです。ルールから解放されて自立した個人になりたい子供たちにとって違法薬物ほど魅力的なものはありません。
 だから上のような保護者的発言にキレる"若者"がいる。責任は、持てと言われて急に誰でも持ち始めるわけではない。背負わなければ行けない立場に立たされてから、やっと身につき始める。 若者の物質探索を止める方法はないだろう。我々に出来ることはうざい保護者だと思われながらも出来る限り安全に使用できるように情報を提供すること。




18 心理の理解
 そこまでして目立ちたいか!、っていうかなり問題のある行動をする人は、要するに、「そこまでするほどに目立ちたい」のだ。 見てほしいのだ。だが見ている人は、その行動の問題性だけに注目して、動機が見えない。 本人の性格や過去、生い立ちを知らなければ動機を分析することは難しい。問題行動の理由は大抵は低IQではない。馬鹿な行動と低IQはあまり関係がないと思う。IQがなんなのかはよく知らんが。 (知的障害者が問題を起こすのはあまり見たことがない。彼らはわりとおとなしい)
 低IQとか悪意とかは、動機の説明ではないのです。「なぜそこまでするのか意味が分からない」••これは自分が相手の心理を理解していないことを認める発言。••なのだが、これを言う人はこれが負けを認める言葉だと気がつかない。人は他人の行動の意味が分からないとき、その他人が自分と違う知的水準にいるように見えるため、見下してしまう。

 ジョーダンピーターソンというすごい心理学者がいる。かれは刑務所で出会った殺人犯の心理を理解しようとしたらしい。 どうやったら命乞いしている警察官の後頭部を打てるのか? 一週間くらい奮闘して、彼はついに理解したらしい。思った以上に、自分にも出来るかもしれないと!

 分からないなら分析が足りない。分析しても分からないなら知識が足りない。我々人間は皆、多少の違いはあれど基本的には同じような脳を持っているので、究極的にはあらゆる他人の心理を自分のものとして経験できるはずだ。 諦めず、すぐに便利な答えに逃げたりしなければ。



19 無意識の説明
「無意識の内容を記述するために用いられることばは元来、意識現象の記述語であるから、無意識について叙述する場合は、本来の意味からずれて、いわば比喩的な性質をおびる」 もちろん夢やサイケ体験もこれに含まれる。比喩でしか説明出来ない。 「無意識自体」には誰も到達出来ないのだ。



20 フロイトと自由連想
 フロイトの精神分析は、はじめて考案された無意識を暴く方法として、思想史上の意義は大きいでしょう。しかしサイケ体験に比べるとかなり効率が悪い。フロイトは患者に週数回の分析を数年間続けたというのだが、サイケなら数ドースで済むと思えばかなり"話が早い"ように思えてくる。

 もちろんユングのサイケ批判を忘れてはいけないが。 サイケ体験は、患者がまだ受け入れる準備ができいないような無意識内容もむりやり押し付ける強力なものなので体験が全て統合されるわけではなく、多くは自我にとって異物として残ってしまう。準備が出来てないと(セット&セッティング!)有害にもなりうる。
 フロイトの精神分析は基本的に自由連想という方法で行われる。 自由連想では、患者は心に浮かんだことを全て言うことが要求される。どれだけ馬鹿なことでも恥ずかしいことでも意味不明なことでも、原則言わなければいけない。 これは決して簡単ではない。患者は「自分と格闘している」ことに気がつく。
 心に浮かぶものを観測していくというのは、意識が無意識に向かって接近していることとして捉えることができる。あらゆるアイデアはデータバンクのような"無意識"から、次々に意識へ送られてくる。  それを客観的に見ている分析医は、無意識内容を解釈する。
 サイケ体験の場合、解釈するのはトリップ者本人だ。トリップ中は原則、十分な解釈ができない。解釈のしようがない。まだ無意識の侵入が激しいからだ。 だからトリップ後に、最も重要な解釈作業が行われる。後から判明することは多い。




21 不登校は個性か
 不登校は個性だ、と? 適応できないのは個性ではない。これは個人主義、自由主義が行き過ぎた考え方。 個性とは"適応の仕方"である。個性とは"(自分だけの)周りとの関係の持ち方"である。 だから関係(登校)を拒否するのは、個性がないことを意味する。個性があれば関係を持てるからだ。




22 非現実感
 非現実感ほど不思議なものはない。 脳が故障/誤作動している状態だとしても、現実を現実として認識できない状態が存在するのはなぜか。必要なわけではないだろう。それとも必要なのか? 潜在的な非現実感があるからこそ、現実感も存在しうるのか?

 幻覚剤経験者は、統合失調や解離性障害の非現実感症状を想像することにそこまで苦労しないが、経験がない人は本当に毛ほども想像できない。日常と異なる存在様式、体験世界を知っている人は、それを知らない人に伝えたくてもできない。


23 ユングの心理療法
ユング「心理療法の実践」
•神経症は誤った発達のようなもの、短時間では治せない
•神経症は軽症だと思われているが、軽症ではない
•神経症は個人の精神が病んだというだけの見方では足りない。社会的現象でもある。

 ユングを読んでいると具体的な診断名などがほとんど出てこないが、どうやらユングは「診断を度外視」しているという。 これは自分も気付いていたことだが、問題の本質はコンプレックスなので、〇〇障害などと診断名をつけるのは、患者の心理状況を記述するよりは、覆い隠してしまう。




 24死にさえしなければ大丈夫なのか
 神経症は死ぬわけじゃないので大丈夫ーという考え方が間違っているとユングは警笛を鳴らしているが、これはバッドトリップにも同じことが言える。 死なないから大丈夫ーはかなりの誤謬だ。悪質な誤謬だ。なのに自分を含め多くの人がこう言ってきた。
「死ななければ大丈夫」は心的現実の無視から来ている。そして心的体験が精神に持続的な影響を与えうるという事実への無知から来ている。

 幻覚剤が無害だという米大学の「専門家」がいる。これは今まるで主流になりつつあるかなり有害な考え方だ。 これも心的現実を無視しており物理的な影響しか考えてない。幻覚剤が「身体に」無害だから無害だという論理だ。 何が専門家だ、お前に何が分かる?ふざけるな素人が。
 心理を考えている人と考えてない人は全く別世界に生きているようなものだ。
 知らないものについて判断できるはずがない。知らないもののリスクが分かるはずがない。無知であるほどなんでも安全に見える。 サイケデリックスが自我に与えうる影響は他の薬物の比較にならない。トリップはただのウィークエンドの趣味ではない。文字通り全人格が関わる。
え、でも自分はトリップがウィークエンドの趣味で、全人格が関わってはいませんよ、と言う人がいれば、あなたは無意識領域も含めた自分の全体について知らない、考えたことがないだけだ。あなたは表層しか、今の感情しか見えていない。 トリップは一回きりの出来事ではない。"落とし"たら終わりなのではない。




 25時間がない
 我々に何がないかって言うと時間と余裕がない。 時間と余裕がない人ほど病んでしまうのだが、そうやって病んでしまう人に限って、時間と余裕がないから治療にも行けない。
 精神科やカウンセラーに使える時間が少ないのは、医者や患者ら本人に原因があるのではないだろう。原因は社会にある。
 何故すぐ投薬して、本当に効果があるような心理療法をしないのか。と、どこで聞いても、100%同じ回答が戻ってくる。時間がない。余裕がない。 患者側にも医者側にも、時間がなく、余裕がない。  そもそも余裕がないことが大部分の精神疾患の原因なのだぞ!
 精神科医の側も、実際はもっと念入りに患者の精神を研究したいという人が多いのではないかと思う。しかし患者の方にも「現代人としての人生」があるわけで、医者に十分な時間を提供できない。
 学校に行っている子は休みすぎると留年する。留年するとそれは永久に履歴書に刻まれる。 働いている人は、退職を余儀なくされることもあろう。その場合次の職を見つけるのが簡単だとは限らない。 「普通」のフリをしなければいけないことがさらに本人を疲れさせる。
 ユングは、心の障害の本質は人間のこころ全体の枠組みの中で捉えるべきと言っている。 つまり、症状だけを見ているのでは患者のこころには接近できないのだ。 「こころ全体の枠組み」の中で症状を見れば、その意味は自ずと分かってくるはずなのだ。



26 聞くこと
 何故カウンセラーは話を「聞く」のか? 聞くことは重要だ。何故かというと聞かれることによってクライアントは「自分をありのままに表現することを肯定されるという感覚」を味わえるからだという。 カウンセラーは出来る限り善悪についての判断をしない。
「聞くのが下手な人」の特徴はすぐに善悪の判断をする人だ。 それは悪い、なんでそんなことをした。と責める。 こう言われると、話しているほうは、「自分の持っている心的内容を表現したことにより否定された」ように感じる。 否定されるだけ事実や真意をはっきり伝えることが難しくなり、孤独は解消されるどころか増す。相手が受容的な立場でなければ、吐き出せないものがある。カウンセラーは受容的な立場で全てを肯定して、「心で聞く」ので、クライエントは出せるものを出せる。

 念入りなカウンセリングは、サイケデリック体験にも似た、「自分自身との深い再接続」を可能にする。 カウンセリングの目的は、ただ単に「精神疾患などの症状が苦痛なのでそれを治癒したい」というものだけではない。 具体的な「精神疾患」を持ってない人でも、自分自身との再接続が必要な時がある。



27 退行
 かなり重いサイケ体験をした人は見れば分かる。行動パターンが一般的なものじゃなくなる。あの内容に本当に耐えられる人などこの社会にはまずいないはずなので、完全に体験を統合させたような人は見たことがない。目に見えて退行する人も少なくない。退行とは自我の退行のこと。実際に退行する。

 あらゆるものを疑問にし、自分が誰かも分からないのは、目覚めではなく退行である。赤ん坊に近い状態だからだ。
 強烈なアイデンティティの危機にあっている人のSNSアカウントはだいたい一目で分かる。プロフィールなどにそれがはっきりと出るのが多い。これは流石にまずいな、という感じがする。
 だが我々に出来ることはない。それが知らない人ならわれわれはアプローチするべきでない。そのような状態の人は極めて高い敏感性を持っていてどんな助言も他者の侵入に感じてしまう。全く同じ思想を持ってない限りたぶんやりとりはできない。



28 サイケをやめる
 サイケを精神成長に使っている人は使うのをやめる、あるいは少なくとも、使用頻度は減っていく。高い頻度で使っていた時期は終わらなければいけない。 なぜか?カウンセラーに行く頻度を下げるのと同じです。(ユングの場合)最初は頻度が高い。次第に下げていく。最終的には自立しなければいけないからです。
 私にはサイケ使用回数の自慢は医者に行った回数の自慢と同じものに見えます。多いほど、あなたが手に負えない患者だということが分かるだけです。

 心理が分からない人が自己診断、自己投与して誰の指導も補正もなく使用すると有害にもなりうる。 ユングは火遊びと言っている。 そして害を受けている度合いが大きい人ほど、本人は受けている恩恵が大きいと勘違いしているので対処は難しい。



29 完璧な人間はいないので完璧なセットは実現し得ない

 セット&セッティングが完璧であればバッドトリップしないか?
 すると思う。でもしないと思う。・・どっちだと?
 問題は、完璧とは何かということだ。何を完璧と呼ぶかが人によって違うので、議論しにくいのだが。
 私の仮説では、本当に完璧だったらバッドトリップはしない。しかし昔も言ったことだが、本当にセットが「完璧」な人はトリップする必要がない。そしておそらくトリップしない。すでにやるべきことを全てやっているからだ。彼の人格は完成しているのだ。実際に人格が完成しうるのかどうかは別として・・(完成することはない!)
 良いセット&セッティングだったのに何故バッドトリップしたのだろう?そう思った人は、今一度セットを見てみるといい、セッティングではなくセットを。 あなたは誰か?どんな生を生きてきたか?何を恐れているのか?何が不足しているのか? 完璧なセットだったと思うならあなたはまだ自分を見ていない。

 米国のyoutuberのCGkid氏はメスやヘロインについての動画を出しているが、サイケに関する動画もたくさん出している。彼はあるところでこう言った。セット&セッティングがよくてもバッドトリップすることはあると。 ・・だがそれを言った本人が、深いトラウマを持つ依存症者だということを忘れててはならない。つまり彼はどうあがいてもセットが完璧になることはないのだ。ということを言っている。 セットが「その日の気の持ち方」だと思っている人がものすごく多いが、それはセッティングだ。 セットはなかなか変えられない。あなたが誰であるかだからだ。
 完璧なトリップなんてものがあるとすれば、理論上のものに過ぎない。実際は到達できない。 しかしその理論上の完成につられて人は修行する。悟りへの修行と同じじゃないか。 トリップは完璧である必要はない。完璧だったらむしろトリップではなくなってしまう。

 つまりここまでで言ったことを簡単にまとめるとこういうことだ。人間は永久に不完全だ。なので完全へは到達できない。 しかし我々は不完全さにこそ美があることを学べる。不完全の中にある美を知ることーそれが「不完全の中にある完全」ではないか。受け入れること。





 30 勇気づけは否定になりうる

 勇気づけは本人の感情を否定しかねない。だからこの罠にはまる人はかなり多い。
 どういうことか具体例で考えよう。これこれができないと思う、という人を勇気づけるためにあなたは絶対出来る、と言ったとする。もちろんあなたの勇気づけは善意によるもので、心の底から助けようとして言ったことだ。
 しかしできないと思っている人は、自分がなぜできないと思うのか、相手が自分の気持を理解していないように感じる。彼は「君なら出来るよ」と言われたいのではなく、「できないとという気持ち」を誰かに肯定してほしいのだ。 その場合褒めるのは逆効果になる。

 なので、「できない」と言う人を本当に支えたいなら、まず何故できないと思うのかを聞いて、その気持ちを理解しようと努めて、「できない」という考えを肯定したほうがよい。 もちろんこれは解決が難しい重大な問題に関する話です。簡単な仕事とかの話ではありません。

 できないという気持を肯定された人は、そのままやらずに終わるわけではない(それでは意味がない)。彼は本音ではやらなければいけないと知っているのだから、最終的にはやることになるだろう。 肯定されることこそが勇気づけになるのだ。

 離婚した人や失恋した人にかける言葉が思いつかないで困る人は多い。村上春樹もエッセイで言っていた。「ううむ」くらいしか言いようがないと。 だがそれでいいのだ。褒めるよりはマシだ。 失恋した人を勇気づけようとして褒めたら「なんで嬉しそうなの」と怒られた人を知っている。

 子供を育てるためにもっとも重要なのは肯定することです。特に幼年期においては肯定するかしないかがのちのちに大差を生む。 今では、かなり小さい子供に算数をやらせ、間違っても正解だと言うという教育法をしている人もいる。不正解だと言うと子供の自主性を否定してしまうからだ。



 


 31何をしているのか分からない
 人は自分が人生で何をしているのかが分からない。"No one knows what the fuck they're doing with their lives."と、昔あるスピサイケ人が言っていたのを覚えている。
 この人は、生を理解できない状態こそが正しい世界認識で、理解できていると思っている人は「低レベルな現実」にいると思っている。しかし本当にそうだろうか。それは本当は投影なのだ。
 本人が自覚することは難しいが、彼女は自分の状況を外界に投影しているのだ。何をしているか分からないのは自分なのだ。
 人々がしなければいけないのは、「自分探し」ではなく「自分見つけ」である。
 自分探しなど簡単だ。自我が崩壊する物質を飲めばいいだけ。そうすれば自分が何者か分からなくなって嫌でも探さなければいけなくなる。見つけるのは別問題だ 。自分見つけはもっともっと難しい。一生かかる、終わりがない仕事で、物質を飲むだけではない。
 
 「生きづらさ」の原因は、多くがアイデンティティ感覚の欠如である。決して、アイデンティティ感覚が"あること"ではない。
 苦しんでいる人や悩んでいる人、特に若者に、あなたは誰ですかと聞けばいい。ほぼ確実に分からないという返事が来るだろう。




 32 外傷と自我
「すでに成長した人であれば、外傷体験は、異物的体験としてそのひとを脅かすだけだが、幼い頃に起きた体験は、その人の中に取り込まれて一体化するため、違和感を抱えながらも、単なる異物として排除することができず、よけい対処が難しいのである」
 トラウマは、幼い時ほど、心の深いところまで根を張る。 大人からすると大したことに聞こえない出来事でも、子供の精神には重大な影響を与えることがある。 育児放棄や過保護が与える悪影響は巨大。

 これはサイケ体験が若いと若いほど有害になりうることを示唆する。 サイケ体験は心的外傷を癒やすものとしてばかり言われるが、同時に心的外傷を作りうるものでもある。本当に過酷なバッドトリップをした人には分かるだろう。



 33 愛への飢え
 自分が正当に評価されてない、十分に感謝されていないと思っている人は、探しさえすればかなりたくさんいることが分かる。 そしてその度合いは基本的には性格の悪さに比例する。 彼らは"悪い"のではない、苦しんでいるのだが、周りがそれに気付かないうちは変化が訪れることはない。
 よく「犯罪者が反省していない」ということに不思議がる人がいるが、これは心理が分かれば何も不思議なことはない。問題を作る人ほど、もとは被害者だったのだ。

 最も根底的な所には愛への飢えがある。とくに親に十分に愛されなかった人はほぼ一生その影響の傷を引きずり続ける。 彼らに必要なのは短期的には感謝や評価だが、長期的には安定にした信頼関係、深い人間関係がいる。
 一過性のストレスは様々な悩みや苦しみの原因になるが、最も根本的な問題でないことがほとんど。 きっかけと原因は違う。 原因を知ると解決方法も見えてくるが、解決方法がないように見える時もある。ない場合、とりあえず今は精神探索をやめるのがいい••と思われる



34 「恥を知れ」
 薬物使用者は(特にヘロイン使用者)は、助けが必要な時にそれが求められるように、薬物使用を恥に思うべきではないう考え方があります。米国かカナダのある広告にはこう書いてあるのがありますー「(薬物)使用を恥じないでください。安全に使っていることを誇ってください」
 しかし恥にはいい面もあるということを今から議論します。
 恥に感じることは、依存症治療に繋がります。 恥とはそもそも何だと思いますか。社会的に受け入れられてないことに対する恐怖や罪悪感の現れなのです(強い恥は恐怖に近くなる) 恥は行動を変えさせる強い影響力を持ちます。そもそもそのために進化的に発達した感情だからです。

 ドラック系youtuberのCGKid氏はハームリダクションチャンネルをやっていたが、彼はある動画でアヤワスカがきっかけてシャブをやめたことを語っている。 アヤワスカによる身体離脱体験は、彼にシャブ使用を客観的な視点から見せた。彼は「自分は一体何をしているんだ!」と強い恥を感じた。それまでは、シャブまみれな自分に何も思わなかった。自分とシャブの二者しかいない世界に没頭していたわけだが、それを第三者視点から見たときにはじめて、その異常さに気がついたのだ。彼はやめなければいけなくなった。そしてやめられた。

 物質に依存するというのは、物質が自我に組み込まれていくこと。シャブ依存者の世界は自分とシャブの二者関係だけでできており、第三者視点がない。
 依存の克服は必ず自我の再編成を必要とする。物質を自我から引き離し、相対化すること。自らの行いを相対化して見ること。もし彼がアヤワスカ体験で"自分の行いを全て肯定する"ような体験をしていたら、シャブをやめようとは思わなかったろう。 依存症の克服は、古い自分の一部を殺し、それを脱ぎ捨てることで達成された。 母性的な態度の治療ではできなかったことだろう。
 

35 罪悪感
 罪悪感は自己愛の欠如を表す。 自信は適切な自己愛を意味する。 過剰な自信は過剰な自己愛を表す。
 精神病などの症状の一つに罪悪感があるが、これは自我形成の不十分または自我の崩壊に由来する。自分が出来ていないから、常に「自分はそれに値しない」ように感じるのだ。





36自我を作る
 自我が作るのが問題です。 自我を作らなければいけない人がたくさんいる。 精神疾患者は特に、自我形成こそが問題である場合が多い。 だが人々は自我を失うのが面白そうだと思ってサイケを飲む。自我を失えば問題が解決するかのように。逆なのだが。
 西洋の心理学は自我を作ることを目標にしている。 東洋の宗教は自我を失うことを目標にしている。 どっちが正しくてどっちが間違っているというものではなく、両方とも思想として価値が高い。 だが安定した人格として現代社会に生活する気なら、絶対に自我を作った方がいいと断言する。
 サトリは余暇にやることではなく生き方だと思う。 「仏教は高尚じゃないよ!誰でもできるよ」と言って売ろうとする僧もいるが、そんなの嘘だ。 本当にヨーガや禅などをやる気なら、本当にやる必要がある。だから私は今のところやろうと思ったことがない。尊敬はしているが、自分はやりたくない。






37 自我の統合性
 自我にとって重要じゃない/不都合な心的内容は、常時大部分がシャットアウト、無意識化されている。これを「生身の人間の制限」とか、「目を開いていない人の狭い視野」として考えるべきではない。これは正気を保つためにに必須の機能なのだ。もし全ての心的内容が自我と結合してしまうと、すぐに自我は自分が誰なのか分からなくなり、パンクする。
 無意識内容に「気付かない」ことによって、われわれは正気を保っているのです。その逆ではない。  気付きは確かに、とても有益な情報をもたらすこともあるが、"気付き"にはアイデンティティが曖昧になるという副作用が必ず伴う。 "気付く"ほど、もともとの自分がどこかへ行ってしまう。だから魅力的であり、恐怖でもある。

 「自分が誰であるか」は、自分が普段何をしているかや何を考えているかなどの積極的な要素だけでなく、何をしないか、何を考えないかなどの消極的な要素によっても決定される。 前者が意識内容、後者が無意識内容である。 意識と無意識の総和が全体である「自己」を作る。 しかし我々の表面的な生活は自我が中心になる。意識だけが。
 普段考えない、思いつかないことを「気づいた」ときは、無意識が意識に侵入している。 これが自我膨張を引き起こす。自我が普段の内容に比べて膨張しているからだ。 "気付き状態"が激しいほど、それは強烈なアイデンティティの危機になる。もともと「気付かないもののライン」が本来の自我だからだ。



38 自我の統合
 自我の統合とは何かと言うと、自分の中の全ての人格をつなぎ合わせて統一体にし、一人の人間になることである。 あの自分とこの自分、どっちが本当の自分なのか?という悩みを持つ人は、自我が分裂していると言える。 どの自分も全部自分であるという実感が、統合の完成ではなかろうか。
 例えば、親に従っている"良い子"である自分がいる。そんな自分に嫌気がさし、親がやるなと言ったことをやることにした"悪い子"の自分もいる。 この二者を統合した第三の新しい自分を作るのだ。状況に応じてそれぞれの自我を使い分けるのではなく、常に良くも悪くもある全体としての自分にならなければいけない。分裂は苦しみを生む。分裂は酷くなれば精神疾患の症状として現れる。
 




39 全肯定の体験
 全肯定される体験とはどういうものか。 ただ単に肯定される体験ではない。仮に人格の99%を肯定されていても、まだ1%が残っていれば全肯定ではない。 人によっては、その最後の1%が、自我の最も深い所にある、幼児的な欲求かもしれない。最も見せられない、最も弱い部分。
 こころを開くというのは、最も弱い部分を見せることを意味する。人は肯定されるほどこころを開く。否定されるほどこころは閉ざさる。 最も弱い最後の1%を肯定される体験は、他の99%を肯定されるよりはるかに強い体験になりうる。
 じっさいに、解離性障害の交代人格(多重人格)現象では、幼児的な人格がはっきりと現れるときがある。 もともと健常人にも、はっきりとした交代人格としてではなくても、同じような現象が認められる。酩酊や抗不安の産物として出ることも多い。酩酊は自我の外壁を溶解し、「本音を露出」させる。抑圧内容が顕わになる。なのでアルコールは正しく(?)使えばソーシャルドラックとして機能する。現状を壊すために「言ってはいけないこと」を言うことによって。飲む人たちは自我の外壁を壊し合い、より内側に入り込んだ対話をできる。心理学的に、アルコールを有効(?)に使えたといえるのは、本音を出すための補助として使った場合だろう。そしてその本音が、状況を変える意味を持つ場合。しかし実際にその機能を持った"飲み"が行われるケースは少ないと思われる。





40 新しい自分
 新しい自分が準備できていない状況で今の自分が死んだら、文字通り死んでしまう。
 人が変わるには、悪い部分を"治す"だけでは十分でない。前の自分がいなくなったら、替わりに誰になるのか??
 次に誰になるべきかが分からないからこそ、なかなか変われない。
 パーソナリティの問題が解決したら社会復帰できるのではない。 社会復帰したら、パーソナリティの問題が解決するのだ。 "不適合者"は成長したら適合できるようになるのではない。適合したら成長するのだ。



41 自我肥大
 自我肥大とは、自分の結論や感じ方を普遍的なものだと確信することです。つまり、自分の意識を世界に投影している状態です。
 自分が全ての人間の心理を理解できるはずはありません。なので自分が全てを理解していると思うのは幻想なんですが、この幻想は「自分が世界を代表している」という錯覚から来ています。
 この錯覚の原因は、自分と世界の区別がついていないことです。自他の境界線が曖昧になっているのです。それが自我肥大です。
 自我肥大というと偉そうにしている人のイメージがあるかもしれませんが、自我肥大には必ず「自分が偉いという考え」がセットで付いてくるわけではありません。悲観的な自我肥大もあるのです。
 人生に意味などない、そして"全ての人が内心それを知っている"という確信などは、悲観的な自我肥大と言えるのではないでしょうか。

 痛みは大きいほど痛みだという自覚が増しますが、投影は違います。 投影は強いと強いほど投影だという自覚ができなくなります。病んでる人やけんか腰の人はみんなそうなんですけど、視野が狭いんですね。でも視野が狭い人ほど自分は全てを見ていると思うわけです。 そういう人が男はみんなクソとか女はみんなクソとか、〇〇人はみんなクソとか人間みんなクソとか言うわけです。全体を見れるようになれば、「みんな」なんてものは本当は自分の意識の対象でしかないことに気付きます。





42 優越感と劣等感の関係
 何かを達成した時の優越感の大きさは、それまでの劣等感の大きさに比例する。
 背徳感の気持ちよさは、束縛の強さに比例する。
 欲求が満たされたときの喜びは、それまでの欲求不満の大きさに比例する




43 苦しむことと傷つくことは同じではない
 苦しまないことではなく、傷つかないことを目標にするべき。 その2つを混同している人は、傷つかないために苦しみ自体を避けるようになる。そうなると回避的になり何も達成できない。
 苦しみは(種類によるが)実はそんなに悪いものではない。何かを完遂した達成感は道のりの苦しみに比例するからです。
 ゲーム的な用語で言うと、傷つきやすい人ほど「当たり判定」が大きい。なので本来自分への攻撃じゃないものも自分への攻撃に感じてしまうのだ。
 これが最も極度に現れたのが統合失調で、そこら中のものが自分を批判してくる。ユング心理学的な意味で自我が非常に膨張しているから、当たり判定が巨大なのだ。
 傷つかないためには当たり判定を小さくすればいい。つまり自我=自分が自分である範囲を限定するのです。 実際にトラウマ対する生存戦略として自我を縮小する人がいますが、縮小しすぎるとそれはそれで別の精神疾患になってしまいます。それが解離性障害です。
 ある出来事を自分に起こったこととして認めたくないなら、"どこまでが自分か"を操作してしまえばいい。それで解離が発生する。
 なので解離を治すには、「自分である範囲」をまた広げなければいけない。自分を縮小するために作った別人格を、自分に再度統合しなければいけない。

 では苦しみと傷つきはどう違うのか。
 苦しみは自我にとっては深い意味付けはされない、一過性のものです。
 傷つきは、自我が自己価値を下げるような意味を付与した苦しみです。一過性でなく、解決するまでずっと引きずります。