自我と統合失調
自我は意識内容の統合の中心である。それがどういう意味か、例で説明しよう。
壁に一枚の紙が貼ってあるとする。その紙に三つの名前が載っている。それを見た人は、「三つの名前だ」と思う。それで終わりだ。
だが、もしその中に自分の名前があったらどうなるだろうか。その場合、知らない名前を見た時と違う意識が経験される。あなたは「自分と関係のあるもの」を目の前に認めたからだ。
自我は、あなたの意識の内容の統合役なので、あなたと関係あるものとないものを区別する働きを持つ。あなたの名前が書いてある紙は、あなたの自我と関わったのだ。
知らない名前しか載っていなかった紙は、あなたの自我と関わらなかった。その紙は視覚的に見えている時点である意味は「意識化」はされていたが、意識の統合中心である「自我」までは届かなかった。これを図で表すとこのようになる。

こう考えると、自我障害である統合失調などの精神病の症状も説明がつく。統合失調者は、そこら中に自分へのメッセージや暗号があると思う。テレビで見たものが自分と関係あると思ったりする(大統領が俺に会おうとしている!等)。テレパシーを受け取っているとか、監視されていると考える。自我は他人や物と関係を結ぶためのものなので、その「統合が失調」すると、どこに誰がいて、それが自分とどんな関係を結んでいるのかが分からないことになる。
幻覚剤でも、ハイドースになっていくほど自我は拡大や分裂や消滅を経験する。「ものが話しかけてくる」などというのは、(言うまでもないが)本当にものが話しかけてきているのではない。自我が分裂しているのだ。
人格の拡大とは、自我の再編成である
成長とは、人格の拡大です。
人格の拡大は、常に"自我の再編成"によって可能になります。
再編成とは、自我の一部を壊す→壊したところを埋める、という流れなので、壊すたびに一時はアイデンティティの危機に陥るのは避けられない。つまり、成長の前にはかならず悩む段階がある。
ユング派の河合隼雄は、これを「死の体験」と呼んでいる(エゴデスとは関係ない)。 新しい自分になるには、以前の自分の自我の一部、問題のあった部分が死ななければいけない。そうしないと新しい人にはなれない。 新しい人になると、周りの人との関係性も変わる。むしろ、周りとの関係性が変わることが自分の自我の再編成そのものだと言ってもよい。自分が誰であるかは、他人との関係性で決まるからだ。
自分一人の力で「変わる」ことは稀で、人格が成長するというのは、基本的には他人にも何らかの変化を要請する。他人との対決は避けられない。
自我は、周りとの関係を統合する一つの中心なので、例えるなら、出入りする全ての列車が通過する「駅」です。 自分が変わるというのは、つまり駅を作り変えることですが、駅の工事中は、あまりの混乱から、列車の出入りは出来ない(トリップや強く悩んでいる状態)。
優れた自我とは、たくさんの丈夫な「列車」が出ている駅となる(もちろん列車は人間関係、コミュニケーションのことである)。そして列車が一方通行でなく、往復であることも大事。
サイケ使用で「イッ」てしまった人は、自我の再編成に失敗した人だと言えます。彼は自我を徹底的にバラバラにすることに成功したが、今度は元に戻す方法が分からない。
「悟っているはずなのに、なぜこんなに苦しいのか?」・・一向に納得できない。そして、「悟りは苦しい」と結論することになる。
自我をバラバラにするのが悟りだという考えはとても愚かだが、そう信じている人はけっこういると思われる。 自我がバラバラになると、あらゆるものを客観的に見れるようになる。もう自分がおらず、自分目線を通していないからだ。だがこの客観的な視点はある意味では病的だ。一時的に経験することにはかなり多くのものを学べるかもしれないが、そこに"真理"がある思うと危険である。
精神分析/心理療法というのは、凝り固まった自我をほぐし、ほぐれたところから組み替えるのを目的にする。 サイケはというと、自我を粉々にバラすので、明らかにやりすぎである。自我の統合性をもとに戻せないままの場合、統合失調症となる(基本的に統合失調になるのはその遺伝要因を持っている人だけだが)。
自我の崩壊と自我の消失
自我の崩壊と自我の消失はものすごく似てるので、もともと同じ意味として使っていましたが、明らかに違うことに気がついたので、区別してみようと思う。
どのような区別かというと、自我の崩壊は精神病様の混乱ですが、自我の消失は、ヨーガのサマーディ、つまり悟りのような状態です。
(本物の)ヨーガ行者は、本当に「精神を統御」できるので、彼は精神が崩壊しているわけではなく、統御の結果、心を完全な静止に導くことが出来るのです(我々にはなかなか信じられませんが、どうやら本当です)。
サイケデリックエゴデスでもこのような状態になれるかもしれないが、たぶん無理だと思う。トリップ者は決して精神を統御して静止させたわけではなく、精神が崩壊して自我がバラけているだけなのだ。
どちらも自我が機能していないという点が共通するが、崩壊のほうでは、精神活動は超活発なので、無数の心的内容が意識に侵入する(思考の洪水状態)。 サマーディの場合、おそらく心的内容の侵入がない。禅でも同じだ。行者は無数の心的内容や思考の洪水に圧倒されているのではない。訓練により無意識の内容を静止させているので、絶対的な静けさに到達しているのだ。行者や禅僧は、これから行う瞑想がどれだけ恐ろしいかに身を震わせながら瞑想に臨むわけではない。
サイケで「悟りを開いた」と言う人はいる。が、明らかに禅やヨーガと全く同じ悟りではない。悟りに至るまでに(最中にも?)激しい精神崩壊や混乱を伴うからだ。
ラムダスがインド僧にLSDを与えたとき、「いいものだが、瞑想ほどじゃない」と言ったのがいる(「ビーヒアナウ」p34)。そう言う僧はおそらく瞑想を極めた本物の僧なのだろうと思える。ヨーガの無想三昧などは、明らかにサイケでは到達できない。
(無想三昧は全ての活動を止滅したような状態です。対象がある悟り=「有想三昧」にいつでも入れるようになるほど熟練した行者が、今度は対象も止滅した状態が「無想三昧」です。禅僧もこれと同じような無の体験を報告しているのがいる。サマーディがどちらを指すかは場合による。詳しくは立川武蔵「ヨーガの哲学」などをご参照下さい。)
候補があるとすれば、5meo-DMTは、無の世界に行くと言われているので、無想三昧に近い何かを体験できるかもしれない。だがこの物質はとても恐ろしいようで使用者も非常に少なく、レポートも少ない。ケタミンの「Kホール」というのもあるが、これは心理学にどう捉えるべきか分からない。
自我と記憶
自我とは、「自分が誰か」である。なので自分を形作ることに大きく関わった出来事は自我にとって重要なもので、よく記憶に残る。自分を形作ることに何一つ関わってない出来事は、自我にとって不要である。それは忘れても自己の一貫性を問題なく保てるので、優先的に忘れることになる。
幼少期から学生時代までの記憶を掘り起こして見て欲しい。忘れていることはたくさんあるはずだ。しかし何を覚えている?強く覚えているのは、主に自我と関わりが深い出来事であるはずだ。
例外的に、自己価値を大きく下げるような出来事、つまり「トラウマ」は抑圧されるので、アクセスはしにくくなる。だがアクセスしにくいというだけで、データが消えることはない。むしろデータの保存性そのものでいうと、トラウマは最も保存性が高い。
自分の自我との関わりが強い出来事ほど記憶に残り、ないほど残らないわけだが、夢やトリップを忘れるのは、もしかしたら、[脳の中で自我と関わりがない部分]である集合的無意識の内容だからではないか、と考えると面白い。
夢が思い出せないことは、脳科学では、「脳の中の記憶を司る部分が働いてないから」などと言われているだろうが、心理学的には自我の一貫性で説明できないだろうか??
"もし夢に進化上の利点があるなら、我々は夢を覚えられるように進化したはずだ"、と言って夢の無価値論を唱える人がいるが、それに反論してみよう。夢を覚えるというのは、思考じゃないものを思考するようなものなのだ。ハードウェアが違うから出来ないのだ。 自我と意識だけが精神の全体であると思っている人、つまり無意識を知らない人は、夢のようなミステリー存在に耐えられないので、それをただのランダムなノイズだと言いたがる。
夢が記憶から抜け落ちるのは、それが無意識内容で、意識に対応できないからではないか。 対応できる部分だけが意識に「翻訳」され、イメージとして記憶に残る。 トリップも同じだ。
イメージや象徴は、言語化が出来ない。ユングによると無意識の作り出すイメージや象徴は、意識より原始的なものである。我々の発展した意識ではもはや未対応になっている。
意識(思考)の本質は区別だが、無意識のイメージは区別をしない。 区別しないもの(無意識/イメージ)が区別するもの(意識/思考)に対応するはずがない。
自我肥大とは、偉大すぎることである
自我肥大がなんなのか、これまでの記事で十分に説明されているとは思いますが、補足として、より詳しい説明をしてみましょう。
自我肥大の概念を理解せずに使う人がいるが、その原因は一般的な感覚と逆の意味を持っているからである。
一般に、自我(エゴ)が大きいことは、「エゴイスティックな人」、自己中心的で自分勝手、悪いことだとされている。大きい自我が悪いと考えるとややこしくなるので、この考え方を一旦放棄しなければいけない。心理学的には逆で、大きい自我は優れているものである。自我が大きいことは偉大なことなのだ。
自我の大きさとは人格の大きさである。人格の大きさとは、負える責任の大きさである。
子供などは責任を負う能力がないので、自我も人格も小さいということになる。
人格形成とは、自我の内容を拡大することである。これは決して自分勝手になるという意味ではなく、より多くの人と様々な関係を結べて、より多くの責任を負えるようになるという意味だ。
「偉大な人」と聞いてどんな人を思い浮かべるだろうか。家庭やグループを力強く支える人。老若男女はもちろん、異文化人にも、公平に接することができる人。誰とでも関係を結べるような人、そういうのが浮かぶだろう。このような偉大な人は、しっかりとした自我を築いている。他人と関係を結ぶのは自我なので、このような偉大な人は立派な自我を形成している。ちっぽけな自我では大きな責任は負えないのだ。
自我肥大というのは、「偉大すぎる」状態として考えられる。 自分で背負える以上の人格内容を背負ってしまった状態なのだ。 だから己で背負える以上の問題を解決しようと奮闘してしまう。本人本来の力量を超えた「偉大さ」が引き出されてしまっているのだ。
偉大な人としてのポテンシャルは誰もが持っている。が、十分な準備がない状態で、自分が背負える以上のポテンシャルを(意識拡張によって)一気に引き出してしまうと、"肥大"が生じる。これが意識拡張のリスクである。 意識拡張とは人格拡張の方法なのだが、サイケ使用による意識拡張は人格拡張に寄与することが少ない。なぜかというと、背負えないものを一気に背負わされるからだ。人は準備が出来ている内容しか自我に同化出来ない。 トリップ内容を完全に自我に同化できれば、まったく苦痛も葛藤もないことになるが、そんな完璧な人間は存在しない。
自我肥大の誤用
単純に自分が偉いと思い込んでいる人は自我肥大ではなく、自我がちっぽけなだけだ(ユングを読まない限りは、自我肥大がこういう意味だと思うだろう)。サイケデリックスは自我肥大に効いて自我を小さくすると思われているが、事実は逆で、ユング心理学的な考え方では、サイケこそが最も自我肥大を引き起こす。
スピリチュアル人の一部は、肥大された自我を縮小した自我だと思っている。確かに、肥大した自我は個人性、個別性がなくなって普遍性に近づくので(普遍性については後述)、個性を自我そのものと同一視している人からすると、サイケで自我がなくなるということになろう。だが心理学的には、自我ではなく個性がなくなっている。
自我肥大の苦しみ
私が明らかに自我肥大に苦しんでいた時のレポートを読んでみましょう。昔に書いた非公開レポートから見つけました。
・・「視界が自分の視界に感じられないというか、自分の体が景色と同化する。俺いねえじゃん、みたいに悟ってました。また、何も意味ねえじゃん。みたいな悟りも。・・意味ないのかよ?
完全に、日常のコンセプトを全て失い、人間社会全てが偽物というか、エイリヤンに感じます。
スマホは全く触りません。存在自体がおかしく感じます。トリップが冷めるまで触りませんでした。
カバンと靴を置いて、裸足で遊んでましたが、自分のカバンと靴が自分のものに感じられない。
所有は幻想なんですよ。所属も幻想です。
全ては宇宙そのものです。それを国に区切ったり、個体に区切ったり、そういうのは全て幻想なのです。」
ここまではヒッピートークみたいなもので、トリップの効果を書いているだけです。これを読んで「自我が肥大している!」という感じはしないかもしれませんが、自我が崩壊し始めているのは明らかです。
問題は次の箇所です。
「帰りの道が、孤独だった。翌朝である今も、何がなんだか分からない気分である。通りすぎる人が、皆次元が違うように感じた。この人たちの日常の関心ごとは私にはどうでもよく、レベルが低いとまで感じる。文明と金の奴隷、テレビと政府の奴隷、着飾って、エゴを演じて、国家とかいう幻想に取り憑かれてる。誰も異世界を知らないし、誰にも語れない。人間文明がいかに嘘に満ちているか説明したいのに出来ない。
強いサイケ体験をすると、それまでの友達とも距離を感じてしまうという人を聞きますが、よく分かります。はっきり言って、現代社会で普通に生きたい人はLSD、特に2、3枚以上のLSDはやらない方がいいです。断言します。視野が広がるのは予想ほど楽な事でも、楽しい事でもないんです。何も問わず、日常の関心ごとの中で生きる方が楽ですよ。」
これは意識拡張による肥大の苦しみをそのまま表しています。
また次の言葉も肥大の苦しみを明確に表しています。これはサイケ界隈でよく聞いた言葉です。
“in an insane world, a sane man must appear insane.” 「狂った世界の中にいる正常人は、狂人として見受けられる」・・
この言葉に共感する度合いが高いほど、肥大の度合いも高いと考えていいです。
どれだけ狂ったように感ぜられる社会でも、その実際の姿を学べば、思っていたほど狂っていないことが分かります。 個人的な善の総和が社会であり、普遍的な善など存在しない。
自我肥大者は、自分のためではなくグループのため、全体のため、普遍的な善のために行動しているという。そして彼らは決して噓をついているわけではない。自分の善を普遍的だと勘違いしただけである。あらゆる善は個体性に基づいていた。自分が普遍的な善を知っている、普遍的な善の側に所属していると思った人間は、それを実現出来ないという現実に苦しむことになる。
この問題はヘーゲルが「精神現象学」に記述している。ヘーゲルはユングの言う自我肥大と同じ現象を、「自分を普遍性と勘違いしている」状態と呼んでいる。
人は常に個人であり、神ではない。言い換えると、主観であり、客観ではない。だが自我肥大者は自分が一種の神のような視点にいると確信している(アドラーはこれが「神に似ている」状態だと言う)。自分が普遍性を持っていると勘違いしているのだ。
自我肥大とは、自我があまりに多くの無意識内容を取り込んでしまったことにより、自分が普遍的なものであると自覚した状態である。このときもう個別性というものは残っておらず、その意味ではアイデンティティの危機に立たされている。

エゴは乗り越えるものではない
エゴ(自我)を、乗り越えるべき障害だと考える人は、厳密には自我を乗り越えようとしているのではない。自我を乗り越えるというのは、原理的に不可能である。自我は意識内容の統合の中心なので、それがない場合、死んでいるか自我崩壊状態かのどちらかになる。
自我を乗り越えるべきものだと考えている人は、心理学的には、自我の主体性や個別性を消し去ろうとしている。それは個性化とは真逆の方向、いわば「普遍化」を目指していることを意味する。「自分勝手」なことを完全に放棄し、「普遍的な善」のための完全な自己放棄。
一部のスピリチュアル思想家は、普遍化がゴールだと思っている。自我から個別性が失われれば問題が解決すると思っている。だがヘーゲルやユングにとっては、「普遍化」は、正しいゴールである「個性化」の前段階にすぎない。
自分を本当に見つけるためには(個性化するには)、一度自分を失わなければいけない(自我肥大しなければいけない)かもしれない。自我肥大は悪いことでも恥ずかしいことでもなく、その後の個性化の契機にさえなれば、むしろ必要な経験だと考えられる。
スピ思想家は普遍化の極みを「悟り」と呼ぶかもしれないが、これが悟りだと思う人は、普遍化がもたらす地獄を知らない。全ての人間が普遍化したら、それはユートピアではなくディストピアだ。共産主義の理想とも重なる。
各個人が個別性を持っている世界では、ひとりひとりの理想の違いから、個別性同士が衝突する。これは我々の資本主義社会では競争という形をとる。我々の社会は個別性の主張とその争いを、金稼ぎゲーム等として経験する。
金稼ぎゲームは確かに腐っている。ではもし我々が個別性を失ったらユートピアができるのだろうか?
個別性を否定すると、価値観や利益の衝突もないので競争はなくなる。だから一見ユートピアに見えるかもしれない。だが、その代わりに個別性がある人、競争しようとするが処分されなければいけなくなる。個別性が排除されなければ社会が成り立たなくなってしまう。
スターリンや毛沢東、ポルポト(共産主義!)が大量の人間を粛清したのは、彼らの理想が、個別性を完全に抑圧した「普遍的な社会」だったからだ。ほんの少しでも個別性がある人間は、普遍的な社会の敵とみなされ、処刑されなければいけなかった。
最も多くの人を殺せるのは、最も「悪に堕ちた」人ではない。「普遍的な最高善に到達した人」なのだ。悪に堕ちるなんてものは、ファンタジー世界にしか存在ない。
エゴを乗り越えたと思った人は、事実誰よりも大きいエゴを持っていた。これが「肥大」なのだ。
心理学的な「個性」、「自己実現」とは何か
ユング心理学的な個性とは、自分勝手や自己中心的になることではありません。「自己実現」を生きていることです。
他人からの不当な影響から解放され、自分のやりたいことをやること(これは決して他人との関わりを断つという意味ではない)。
浮きたいがために周りから浮くことではありません。個性的になると、結果として周りから浮くことはありますが、浮くこと自体が目的なのではないのです。
個性的な人は「替えが効かない」というのが最も大きな特徴だと思う。個性的でない人は普遍的なので、いくらでも替えが効く。
私の考えでは、次の説明がしっくりくる。まず人が生きているときに行う全ての行動を三つに分類してみる。一つは生理的行動。これは自己実現とあまり関係がないので無視するとする。
残り二つは、理想の自己の実現に近づく行動と、そうでない行動。
個性的になるというは、前者の行動の割合をできるだけ増やして、後者の行動の割合をできるだけ減らすことではないかと思う。
だがこれは決して怠け者になるという意味ではない。働きたくない場合、働かないことが自己実現だと思うのは間違っている。やりたくないこともやらなければいけない。むしろ成熟した人ほど、個性化した人ほど、やりたくないこともしっかりやっていることだろう。
理想の自己へ「向かう」行動があなたのやりたい行動で、理想の自己から「離れていく」ことがあなたのやりたくないことなのだ。
理想の自己への道は直線的なものではない。軌道的なものだ。個性化はある地点で終わるわけではない。続くのだ。月が地球の周りを回るように。月が地球に衝突してはいけない。ゴールしたと思った人はそこで成長を止めてしまうのだ。目標とは、たどり着ける点ではなく、螺旋階段の軸のようなものである。あなたは螺旋階段をどこまでも上に登っていく。その軸があなたの理想の自己だが、そこにたどり着くわけではない。理想の自己とは到着点ではなく方向性なのだ。
無個性としての、普遍的なもの
個性的なものの対義語として、普遍的なものという概念を考えれば理解が深まる。
個性化は自己実現だが、普遍化は他己実現(?)だと言える。
人間は個別性と普遍性という二つの視点を持っており、その矛盾と葛藤を一生背負い続ける。自分が大事か。それとも他人/社会/世界が大事か。
この葛藤は様々なアーティストが抱えている。普遍的になれば確実に売り上げが上がるが、個性的になるとあまり売れない。個性的すぎるとあまり客に理解されない。
普遍的になるというのは(「普遍的な名作」というときの「普遍的」ではない)、自分の個別性を抑圧して、需要に合わせたようなものを作ることだ。あまり特徴がないと、つまりは「くせ」もないので万人に受ける。
例えばネットのイラストレーターが、オリジナルの絵がほとんど閲覧されないとする。二次創作をすると一気に閲覧数が増えたので二次創作だけするようになった。・・これも普遍化である。閲覧数が増えると増えるほど絵柄の特徴も失われていく場合が多い。
もちろん、個性的なイラストイレーターもたくさんいるし、個性の高さから人気を得る人もいる。だが個性を売ることの方がはるかに難しく、才能がいる。
Youtubeのコンテンツクリエイターも、より普遍的なものにコンテンツを合わせることで再生数が増えるが(炎上商法もこれ)、本当に自分がやりたいことを続けるか、受けるコンテンツを作るかで葛藤に陥る。普遍的なコンテンツは大抵は低俗なもの。エロや他人叩きは特に受ける。だがこういう「受ける」コンテンツを作っている人は、それが本当は自分の実力ではない、「自己実現ではない」ことを薄々と感じているのではないだろうか。
最も普遍的な人は、おそらくアイドルだろう。
普遍的な人は、個性がないので、よく投影を受け付ける。簡単に言い換えると、中身がないので、他人の妄想を引き受けることができる。
日本のアイドルファンがアイドルに求めているものは、普遍的な女性性や普遍的な男性性です。個性的なアイドルは日本では売れません。かなり気持悪がられます。
アイドルグループは、人数が多いほど普遍性も高い/個性がない傾向があると思う。ファンじゃない人からすると、特徴がない人ばかりに見えるが、それは実際に特徴がないからではないか。
日本人は「個別性への嫌悪感」を感じる人が多いらしい。つまり個性的な人が嫌い。浮くからだ。皆が普遍性に合わせたがる。 個性的な感じがする日本のアイドルグループが、「国内より海外での方が人気」だというケースを確認するほど、この確信は強まる。「自分らが『最先端』だと思って他と違うことをするようなアイドルは気持ち悪い」・・これは実際に聞いた言葉。
自分のやりたいことをやっているアイドルは、自分のためにやっていて、他人のためにやっているのではないので、他人の要求に答えない。なので「要求に応える」ことをアイドルに求めている人からすると全く不愉快でしかないだろう。
自分のやりたくないことをやらされている人は、心が分裂する(だからチラシやティッシュ配りのような仕事は精神衛生のために禁止すべきだと昔から思っている)。分裂とは、理想の自己と実際の自己との乖離である。自分のやりたいことをやっているアイドルは、やりたくないことをやらされていないので、心が分裂せず病むこともない。
事務所に所属した団体みたいなアイドルは1人1人の個人性はかなり抑圧されている。「恋愛禁止」などは個人性を完全に潰し、結果的に必ず病んだ人を作る。
(アイドルが恋愛したことを謝罪するニュースを見ると、病的なものを感じる。もちろんルールを破ったアイドルに対してではなく、そのルールをアイドルに強要する事務所とファンに対してである。その程度のこと、「個人的自由」を、彼らは重大な問題のように扱うのが気持ち悪い)
なるほど「普遍的」なグループの方が売れる。商品だから。彼女らは人間ではなく商品だ。客層の集合的な欲求や女性像に合わせたものを売る。だがその裏では人格が分裂して苦しんでいる人達がいる。
普遍的であることは、本当に自分がやりたいことを見つけていることではない。統合された自我がないことを意味する。 なるほど個性が抑圧されたアイドルら本人は、表向きにはそれを否定するだろう。〇〇グループにいたことは素晴らしい経験だったなどというだろう。 自分を見つけて、自分がやりたいことを見つけたら、それはファンの要求に応えることが出来なくなり、ファンが大幅に減ることを意味するからだ。
人気や売上を犠牲にしてまでも自分のやりたいことを貫くのが心理学的に「個性的」な人だ。彼らにとっては個体性を表現することじたいが己の生きる意味となっている。他人から受ける影響は小さく、自立した自我がある。なので他人と自分を比較する必要もなく、他人からの評価も重要ではなくなる。普遍的な人は、常に比較の中で生きているので、最も高い評価をされることにこだわる。なので総選挙という名の人気投票なんてものを思いつく(某アイドルグループの話)。
ショーペンハウアーは、「読書について」所蔵の「著述と文体について」で、このように言っている・・「どんな作家でも、稼ぐために書き始めたとたん、質が下がる。偉大なる人々の最高傑作はいずれも、無報酬か、ごくわずかな報酬で書かれたねばならなかった時代の作品だ。」
コメント
コメント一覧 (3)
意見が稚拙かもしれませんが、今自分が自我肥大しているのかそれとも本当に成長をしているのかを判断する術はあるのですか?そのような記事を書いていますか?
こんにちは。それは私のすでに書いている記事でカバーしていると思います。探して読んでみてください。あとは自己分析したり、他人と会話するのがいいでしょう。