私はユング心理学の立場からサイケを考えるということをやってきましたが、なんとユング自身が書いたサイケに関する文章があります。
二つの手紙ですが、これを訳してみます。ネットで見つけたもので、日本語で出版されているかは分かりません。どっちみちユングの伝えようとしていることを的確に伝えたいので、自分で訳することにします。補足の説明もつけていきます。
ここでユングが言っていることは、だれでも読んですぐに理解できることではありません。前の3記事をお読みになった方は、それで理解のために十分な下積みになると思います。この記事は前の3記事の直接の続きで、テーマは一貫してサイケ批判です。
ユングはここで心理学の立場から徹底的なサイケ批判を行います。シートベルトを締めて、ポップコーンを用意してください。
〔〕は私による挿入です。→の後にくる分は解説です。
あるカトリック司祭がLSDについてユングに手紙を送ったそうで、以下の文はユングの返信である。1954年。タイトルは「労せずして得た知恵に気をつけるべしbeware of unearned wisdоm」・・このタイトルはユングが言いたいことをひとことでまとめている。サイケは「労せずして」、不当に、統合や消化のできてない知恵を与えるからだ。
LSDはメスカリンなのか?とても奇妙な効果があるようだ。オルダス・ハクスリーの著作を参照してほしいが、私はよく知らない。
→(解説)メスカリンは初めて西洋文明に発見されたサイケデリック物質である。その後LSDが発明された。オルダス・ハクスリーは、「知覚の扉」でメスカリン体験をレポートしていて、この書はニューエイジ、サイケヒッピームーブメントにも影響を与えた本だ。ユングはハクスリーに対して批判的な態度をとっている。
私はその神経症や精神病患者への精神療法上の効能を知らない。
私が知っていることと言えば、夢や直感から得られるもの以外で集合的無意識を知ろうと願うことは意味がないということだ。
→ここでユングは、サイケが集合的無意識を体験させるものだということを説明不要な自明の事実として扱っている。集合的無意識を知りたければ夢や直感で十分だと。
集合的無意識は、知ると知るほど、我々の道徳的な負担は大きく重くなる。無意識の内容は意識化されたとたん、あなたの個人的な任務や使命に変貌するからだ。
あなたは孤独と誤解を増やしたいか?あなたは増していく葛藤と責任が欲しいか?〔サイケの摂取で〕それは十分に得られる。
→この問題は「自我と無意識」で詳細に論じられている。
もし私が、〔人生で〕やらなければいけないと知っていることを全て一通りやり切ったと思った時が一度でも来れば、私はもしかしたらメスカリンを摂取するべき正当な理由を気が付くかもしれない。
しかしもし今メスカリンをとれば、私は「自分はただの好奇心でやったのではない」とはっきり言えるかどうか自信がない。
→私を含め多くのサイケ人がはっとする言葉だろう。我々は探求だなどと表向きに言うが、本当に探究している人はほとんどいない。サイケ使用の動機は、特に最初は、絶対に好奇心なのだ。
世界に色をつけるペンキが作られるところ、夜明けの素晴らしい光が作られるところ、あらゆる被造物の線と形、軌道を一杯にする音、虚無の暗闇を照らすひとすじの思考、私はこれらの領域に触れることを嫌うだろう。
→この部分の翻訳はとても難しい。何のことを言っているかも分かりにくい。おそらくトリップの領域に触れたくないということを言っている。
ある一部の〔精神の〕貧しい人たちにとっては、メスカリンは解毒剤の必要もない天からの贈り物にもなろう。だが私は、「神々からの純粋な贈り物」というもの〔の存在〕に強い不信感がある。
あなたは高い代償を払うことになる。「例え贈り物を持ってこようと、私はギリシア人を恐れる(ラテン語の格言)」
無意識は、その存在またはその内容を知ればいいのではない。そこで話が終わるのではない。むしろ無意識を知ることはスタート地点にすぎず、本当の冒険への入り口に過ぎない。
もしあなたが無意識すぎたなら、集合的無意識について少しでも知ることができたら大きな安堵となるだろう。
しかし、知ると知るほど危険は増していく。なぜなら人はそれと同時に、バランスをとるための意識の対応物(equivalent)を学んでいないからだ。
→ここで思想の説明が必要だろう。ユングはここで、無意識内容が意識に同化されたとき、意識のほうに、無意識内容のequivalent(対価、対等)物が必要だと言っている。
通常、段階を踏んだ精神分析では、人は準備が出来た無意識内容から、順に意識化していく。意識的な対応物が出来ている、つまり準備が出来ている。だがトリップにおいては、準備ができていなくても無意識内容が流れ込んできて、意識は圧倒されてしまう。意識と無意識のバランスが崩れてしまうのだ。
これがオルダス・ハクスリーの犯した間違いだ。彼は自分が「魔法使いの弟子」を演じていることを知らない。師匠から幽霊の呼び出し方を学んだが、追い出し方を学ばなかった。
→ディズニーの映画「ファンタジア」のミッキーもこの魔法使いの弟子。
これは我々の時代全般の間違いだ。我々は新しいものを見つければそれで十分だと思っている。だが新しい発見は、それに対応した道徳の発達も要求するということに我々は気がつかない。
日本、コルカタ、サスカチュワンの上の放射線の雲は、地球の大気を毒するところまで進行する。
→日本の放射能というと、文脈から言って核兵器使用の批判だと思うが、インドとカナダの地名が何を意味するかは調べてもよく分からない。
もしあなたがLSDによる資料を見せてくれるというなら、私はあなたに協力する義務があるだろう。精神医学者たちが、かすかな知識や責任感すらなしに、遊ぶための新しい毒を手に入れたことは恐ろしいことだ。
これ[サイケデリック実験]は、外科医が患者のおなかを切り開いてそのまま放置することしか学んでいないようなものだ。無意識の内容を知るようになれば、それに対処する方法も分かってくる。
私は、医者たちが自分自身に徹底的に「聖なる恩寵」メスカリンを投与し、自らの身をもってその素晴らしい効果を学ぶことを願うくらいしかできない〔これは皮肉〕。
あなたがたはまだ、意識の側〔の探求〕が終わっていない。 無意識の側から一体何を期待するべきだと思っているのか?
私は集合的無意識を35年間は知っている。そして私は、それに対処する方法と手段を準備することに努力を集中してきた。
→人は集合的無意識の探索、つまりサイケデリック状態の探索の準備ができてないということを暗に言っている。
最後の部分はサイケ使用者への痛烈な批判となっているが、私が考えていることと同じである。
一般にサイケ使用者たちはサイケ使用を「意識の探求」というが、サイケ使用は無意識の探求なのだ。
**第二の手紙**
こちらは1955年に書かれたものである。
メスカリン計画への招待をしていただきありがとうございます。
私はこの薬物を摂取したことがなく、人に与えたこともありませんが、私はこの薬物が明らかにするのと同じ精神領域を研究してきました。ヌミノースな体験の領域です。
→ヌミノースは宗教学者ルドルフ・オットーの言葉で、宗教体験や神秘体験を指す。
三十年前、私はプリンゾム博士のメスカリン実験と知り合い、この薬物の効果と実験に関わる精神的素材を知るための十分な機会を得ました。
私はこれらの実験が、心理学の理論的な興味を最もそそるものだというあなたの考えに同意せざるをえません。
しかしメスカリンの、より実用的な、一般的でない応用という面になると、私は一定の疑いや躊躇がある。
分析心理学〔ユング心理学〕の心理療法(能動的想像法など)は、[メスカリンと]とても似た結果を生み出す。つまり、コンプレックスの完全な自覚や、ヌミノースな夢やヴィジョンなど。
→能動的想像(アクティブ・イマジネーション)はユングが考案した精神療法。こころに自然と現れるイメージをそのままに追っていく。
これらの現象は、治療の過程において、適切なときに、適切な場所で現れる。
しかしメスカリンは、個人がそれを統合できるほど成熟しているかどうかと関係なしに、精神的な事実〔無意識内容〕を開示してしまう。
→とても重要なポイント。ヒーリング効果がある「無意識の統合」は、準備ができていてこそ効果を発揮する。だから患者は心理療法では、準備=成熟に時間と努力を費やす。
トリップというのは、ほとんどの場合精神的な準備がないまま挑むので(そもそも準備が何かをほとんどの人が知らないので、本人が準備できていると思っているかどうかなど全く関係ない)、圧倒的なトリップに面した人はもう手遅れな段階で「準備ができていない」ことを知ることになる(この経験がある人はよく分かるだろう)。
・ここでサイケ幻覚論のようなものが展開するが、意味が分りにくい上に重要ではないので省略する。
…メスカリンは、知覚の選択的なプロセスのベールを荒々しく取り除き、精神の根底にある知覚のバリエーションを露わにする。それは無限の富の世界であるようだ。
従って、[メスカリンを服用した]個人は、精神的な可能性の全体像についての洞察を得るが、それは[メスカリン服用がない場合]本来は、勤勉な努力と比較的長くて難しい訓練のあとに初めて達成されるものだ。
もし彼がこのような体験に[自力で]到達したら、彼は正当な努力でそこに到達したというだけではなく、同時にその体験の意味を理解して統合できるような精神状態にいることになる。
メスカリンは[そのような体験への]ショートカットなので、畏怖の念を起こさせるような美学的印象を持つかもしれないが、それは[精神の中で]孤立したままで統合されていない体験となり、人間人格の発展への貢献はとても小さい。
→トリップ後の統合作業はトリップそのものより大事だと私は何度も言ってきたが、統合作業の難しさこそがサイケ体験の、「精神にとっての異物性」を証明する。自然な精神療法では、統合できないほどの量の精神内容を一気に叩きつけられたりしない。もっと時間と努力をかけるべきプロセスなのだ。
私はニューメキシコでペヨーテを服用する部族を見たことがあるが、彼らはプエブロインディアンに比べると良い印象を与えなかった。彼らは薬物依存者のような印象を与えた。彼らは今後、興味深い精神医学的調査の対象となるだろう。
→これは今では差別的表現などと言われるのだろう。薬物依存者の印象というのがどういうことを指すのかは、説明がないので分からない。
メスカリンが超越的体験をもたらすという考えはショッキングだ。
この薬物は単に、普段は無意識的機能である知覚のレイヤーや感情の変種を顕わにするだけなので、心理学的な意味だけで超越的なのであり、決して「形而上学的」な意味で超越的なのではない。
→ありえないようなサイケ体験はこの世界を超越したものとして受け取られがちだが、サイケ体験が何かを超越しているとすれば、通常の精神機能を超越しているだけである。どれだけありえないと思える体験も、もともと「あり得る」のである。私は「幻覚はどこから来るのか?・幻覚の価値」という記事でこれと同様のことを書いている。
このような実験[トリップ]は、精神の中に無意識の領域が本当にあるということに納得したい人々には実際的に良いものかもしれない。彼らには、[無意識領域の現実性について]十分な実感を与えることができよう。
しかし私は、メスカリンを、物質主義を超えた神秘的体験の可能性を確信させる手段としては,、決して受け入れることができない。
むしろこれはマルクス物質主義のよいデモンストレーションである。メスカリンは「神秘的[皮肉]」体験を作り出せるほど、脳を操作できるからだ。これはボルシェヴィキ哲学とその「すばらしい新世界」にとって都合がよい。
→これは現代人のサイケ像と真逆の考えなので、多くの人が反発するだろう。だがカルト団体などが信者の「操作」のためにサイケデリックスを使っていたという事実があるので、完全に的外れとは言えない。「すばらしい新世界」はオルダス・ハクスリーによるディストピア小説である。
もし西洋文明が提供できる「超越的」体験がこれだけだというなら、我々は「神秘的な」体験も単なる化学的な方法で達成できるというマルクス主義の願望を裏付けることになる。
最後に、私には答えられない質問がある。対応した経験がない。薬物が無意識への扉を開くときに、潜在的な精神病も同時に放たれないかという懸念だ。
→潜在的な精神病、つまり統合失調の遺伝子を持つ人は確かにサイケ使用によって発症するので、ユングの懸念は正しい。
私の経験の限りでは、潜在的な精神病は実際の精神病よりもはるかに高い頻度で確認される。メスカリン実験のなかでそのような[精神病発症の]ケースに出くわしてしまう可能性は十分にある。そのようなケースは精神療法を悩ますものなので、これはとても興味深いと同時に、とても賛同できない経験になるだろう。私のフランクな批判的意見に、あなたが気分を害していないことを願います。
*終*
・まとめ
一度もサイケを飲んだことがないユングにサイケを語る資格はあるのか?・・あるだろう。ユングは、その身をもって、嫌というほど、意識拡張の何たるかを理解していた。
・・「孤独と誤解を増やしたいか?増していく葛藤と責任が欲しいか?」・・
現在、意識拡張と聞いてサイケに興味を持つ人はあとを絶たないが、彼らが意識拡張の何たるかを理解している様子は見られない。
ユングは、患者だけでなくおそらく自分の身も通して、意識拡張の副作用をよく理解していた。それが彼の仕事だったからだ。分析心理学は基本的に、意識を拡張させてから元に戻すための方法なのだ。
サイケ使用者は、元に戻す術も知らないままに、無理やり意識を拡大する。ユングはこれを、腹を切り開くことしか知らない外科医というかなり厳しい言葉で喩えている。
トリップの「内容がすごい」ということに完結するサイケの宣伝は、旅の内容が凄いと言って、帰りの切符を出さない旅行会社みたいなものだ。
注目してほしいポイントは、ユングがサイケデリックスを他の薬物と比較しているのではなく、他の精神拡張方法(分析心理学)と比較していることだ。薬物という概念、レーベルははっきり言って何の意味も為さない。サイケデリックスがアルコールやタバコに比べれば害がないなどというのは誤謬なのだ。なぜなら、アルコールやタバコはサイケデリックスと無関係だからである。意識拡張剤でないものを意識拡張剤と比較して一体何の意味があるのだろうか。サイケデリックスを何かと比較するなら、他の精神変容方法、つまり分析心理学や瞑想法などと比較するべきなのだ。この正しい比較をした時に初めて、サイケでリックスの「心理学的」リスクが見えてくる。
恥ずかしいことに、現在はph.Dを持って専門家を名乗る人ですらサイケデリックスがとんでもなく安全だという主張をする。彼らはサイケデリックスを他の薬物と比較することしかできない。そしてそれが科学的な考えだと思っている。彼らの「科学」は、毒性と依存性だけが問題で、こころ/精神については何も考えたことがない。
責任ある使用をしろ、リスクを知れ、などと言われるが、そもそもリスクを「理解」するために必要な心理学的考え方をかなり多くの人が持ちあわせていない。なので自分が「責任ある使用をしている」と主張する人の多くも、心理学的なリスクを知らないので、何が責任で、どうやって責任を取るのかも知ってるようで知らない。
サイケデリックスはスピリチュアルな体験可能にする。私はそれがサイケ使用の最大のメリットだと考えていたが、ユングによるとこの考えこそが有害なものらしい。物質を飲むだけで神秘が得られると思った人は、本当に神秘を得るための努力を放棄するだけでなく、神秘がただの物質的な現象だと思ってしまう。 事実、サイケ界隈を見れば分かる。意識拡張や宗教的体験を「シラフで」獲得するなど馬鹿げた考えだとほとんどの人が思っているだろう。
自力で到達した領域は、自力で獲得したものは、確かに自分のものになる。それは適切な時に現れる。受け入れる準備が出来ているからだ。受け入れるための鍛錬も同時に行っていたからだ。 サイケではそれがない。受け入れ準備がないまま相当な重さの精神内容が侵入してくるので人は錯乱する。統合できない。
薬物で高い快楽を経験すると、自然な生が提供する快ではものたりなくなる。同じように、薬物で超越的な体験をすると、あなたは次に超越的な体験をしたいとき何かを飲まなければいけなくなる。 物質摂取により自分の経験をコントロールできると思ってしまう。(だがトリップは決してコントロール出来ない!)
神経伝達物質(サイケ物質)を体内に紹介すると、自然が整えてくれた意識と無意識バランスを壊す。これは外来種の紹介で生態系のバランスが崩れるようなことなのだ。
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