意識と無意識の関係
 ユングは、無意識が常に自律的に活動していて、強大な力を持っているということを各所に書いている。

 我々は自分の意識、自我を「家の主人」であると思い込み、無意識を意識に付き従うオマケ的なものと考えがちだが、ユングの考え方では、意識の方こそが(進化的に)新しい機能で、むしろ意識のほうが無意識から分化したという。無意識という海が先にあり、そこに島が出てくるように我々の意識が現れると考えて良いでしょう。

 我々は島をみて「自分だ」と思う。そして海から受けている膨大な影響に無自覚なまま生きる。そして海から来たものを、自分が得たものだと考える。

 あなたの思いついた考えは、あなたのものではないのだ。「考え」がどこから来るのかは誰も知らない。それは海の深いところから来る。我々はそれを受け取っているだけだ。


 人は意識を拡張すると、様々な「気付き」を得る。人は革命のような閃きである「気付き」の魅惑的な力に誘惑される。

 西洋哲学史やほかの思想体系にある程度通じている人なら、自分が思いつくようなことは、とっくに過去の賢い誰かが思いついていることだと知っている。我々に思いつくようなことは、もうすでにどこかの過去の哲学者が考えている。本当に新しいことを思いつく人は滅多にいない。

 だが、哲学の類に無知な人はそうはいかない。彼は気付きがあまりに自分にとって新しいように感じるので、他人にとっても新しいと思い込む。そしてこの気付きが自分に特有のものであり、「自分が気付いた」と思い込む。このようなのをユングは、無意識の深層の魅惑的な力によるものだと言う。この魅惑は危険なのだ。

 このような気付きを得た人は、その内容を預言者として広めたくなる。ここまで来ると、ユング心理学的には、無意識の力に憑依されたとか、元型に憑依されたというふうに表現する。


 哲学を学べば、この考え方はサイケデリックだな!という思想が必ず見つかる。特に実存哲学や現象学など。人は「サイケデリックスなしにこれを思いついた哲学者は凄い」などと言う。だが、サイケデリックスがないと思いつかないと思うのは、意識拡張の方法をサイケデリックスしか知らないからだろう。


 無意識・・海は、あなたのものではない。海を自分の資産と思い込むと、島との境界線が曖昧になってしまう。

 無意識の存在を知らずに意識の拡張を語るのは、海を知らずに陸の拡張を語ることに等しい。一体、何に向かって拡張しているつもりなのか。

 やれサイケデリックスで意識拡張がどうだと語る人は多いが、その大半は無意識の心理学を知らない。無意識の心理学を知らずに、意識拡張の何が分かるというのか。

 海は広大で、深く、理解不能で、危険と魅惑に満ちている。それはあらゆる考えと閃き、創造と芸術の第一の産みの親で、あなたがいてもいなくいても常に活動し続けている。そしてこれはあなたの所有物ではない。これを所有したと思った人は破滅するのだ。








 深いトリップと浅いトリップの違い
 サイケデリックスはとてつもなく深く強烈な体験をもたらすポテンシャルがあるが、何一つ洞察を得ない、楽しい遊びに終始するだけのユーザーも常に一定数存在してきた。探求者たちからすると、こういう人の存在は理解に難い。なぜあなた方はこんなものを楽しめるのだ?、と。なぜ人によってこんなにトリップが違うのか。
 テレンスマッケナは、そもそも意識を持ってない人はそれを拡張しようがないと言った。だが私はその表現にあまり納得した事がなかったので、別の考えを提案する。
 より深い意識拡張に必要なのは意識ではなく無意識のほうなのだ。なぜなら意識は無意識に向かって拡張するからだ。
 意識と無意識を合わせた総体を「精神」と呼ぶことにしよう。意識拡張であるトリップは、決して精神を拡張するのではない。精神の発展は人生経験や教養とともに少しづつ進む。意識拡張は、無意識内容を意識に取り込んだため意識の比率が上がった状態だと考えると良い。

 無意識世界が大きいほど、より深く飛ぶ。より多くの教養、知識、考えたことがあるものの多さ、これらはより大きいデータベースを、より大きな「精神」、無意識世界を形成する。
 人生経験もない教養も知識もない、考えたことも少ないという人は精神全体が狭く、無意識領域も狭い。なのでそこに探検しに行っても、大したことがないと思うことだろう。何もないのだから当然だ。
 ここで問題にしているのは意識と無意識のバランスではなく、無意識の絶対的な大きさである。自我が弱く、無意識が優位だという人(いわゆる弱い人)は、ある意味では無意識が大きいということになるが、それは意識に対する相対的な大きさであって、絶対的な大きさではない。
 無意識は様々なもので構成されているが、その大半は記憶だ。記憶とは知識である。知識の多さは潜在意識の多さ。潜在意識の多さは、意識拡張のポテンシャルの広さ。 意識拡張とは潜在意識(=無意識)を意識化することだからだ。

 ベンゾがトリップを止めるのは、無意識の働きを抑えるからだ。意識を抑えるからではない。ベンゾ乱用者は、ベンゾ服用状態を「カメラの電源は入っているが録画されていない」ような状態だと言うので、意識自体はあるようだ。何がないかというと、無意識の影響(抑制)がとても弱くなるのだ。


 集合的無意識の内容
 ところで、トリップで得られる洞察は記憶の再整理に過ぎず、新しいことは思いつかないと言う人がいる。それは部分的には正しいかもしれないが、完全に正しくはない。
 経験や記憶と関係がなく、普通は意識化のできないものがあるからだ。それがユングの言う集合的無意識。深いトリップは基本的に集合的無意識の領域である。 
 集合的無意識はでっちあげられた理論ではなく、経験的に認められる存在だ。サイケデリックスが証明するし、ユングにとっては、サイケも必要なく、夢や精神病患者が証明した。
 人はハイドースのLSDでブッダに会ったり、DTMでマシンエルフとやらに出会ったりする。 ブッダなどは記憶の中にある仏像のイメージから説明をつけれると思われるかもしれない。だが見たことも聞いたこともない形象は?マシンエルフは説明できない。
 マシンエルフは元型的なものである。元型とはユング心理学の概念で、集合的無意識の内容である。 子供が見たこともないものを夢に見るのも、元型による。
 元型は誤解されやすいので注意して欲しいのだが、元型には決して実体はない。形而上学的な主張ではないのだ。元型は本能的なパターンのようなもので、我々は経験としてその影響や投影物を確認できるだけで、元型そのものを知ることはできない(無意識の中にあるのだから、仮説の域を出ることはない)。
 ユングの元型論はかなり難しいが、サイケデリックエンティティのことを言っているように見える箇所はいくらでも見つかる。
 ここで私が言っていることはある事実を示唆する。それは、サイケで本当に精神の一番奥底を体験したい場合、最大レベルのドースが必要だということだ。(ハイドースは危険なため決して勧めたくないという立場上、この事実はあまり大声で言いたいことではない)
 ほとんどの人はロードースで個人的無意識の領域を探索する。これは精神分析や哲学のようなものだ。だがハイドースはユングが元型と呼んだものを経験させる。もう自己探求ではない。自分より深いどこかへ行くのだ。ユングが「人間的手段によって必ず招き寄せることができるとは限らない」(「心理学と錬金術」)と言っている体験を、ハイドースのサイケは可能にするのだ。







 哲学による意識拡張
 哲学はかなりの意識拡張を引き起こすことがあるが、科学はほとんどき引き起こさない。
 なぜ?と思う人がいるだろう。科学が意識拡張をそこまで起こさないのは、実はいいことだ。アイデンティティの危機に苦しむこともないからだ。
 本当に考えさせるような哲学は意識を拡張するが、この拡張は、アイデンティティの危機、不安や時に無力感を伴う。
 自分が誰なのか少し分からくなったり、社会がなんなのか少し分からなくなったりしてきたら、それこそが意識が拡張されて、通常の現実構造が崩れ始めている証拠だ。
 前記事をお読みになった方には分かると思いますが、基本的に意識拡張には不快な副作用が伴う。
 哲学的でない人は、ここまで来たら、ここまで来たことを後悔する。考えることにより生じる不安を人は恐れる。これはおそらく、哲学を嫌う人がいる第一の理由ではないか。
 科学もこれが全くないわけではない。天文学や現代物理学などで現実感が変容することはあり得る。だが科学は、個人的な意味とあまり関わらない。自我と直接関わらない。明らかに科学の方が楽だと思える。哲学をやったときのようなアイデンティティの危機に陥る危険性は少ない。

 都合のいい思想、弱者の思想は、意識を縮小する。 意識の縮小とは、視野を狭めること、無意識を増やすこと。現実世界が広がったのではなく、切り取るだけ。本当に深い思想は意識を拡大するが、拡大の度合いが高いほどその思想は恐ろしくなる。本当に優れた本は、恐ろしい。
 好んで意識を拡大しようという人は変わった人である。多くの人は好んで意識を縮小する。 世の中はいかに意識を拡大するかでなく、いかに縮小するかという目標で設計されているようにすら見える。 拡大は少なくとも資本主義、商業主義に味方するものではない。 
  縮小は安定と一貫性を与えるが、過度な拡大は不安定と危機を作り出す。

 








 ヘーゲルの弁証法、真理の正体
 ヘーゲルによると、「ついに真理が分かった!」「〇〇だと思っていたものが実はこういうものだった」というのは全て、真理が分かったのではなく、新しい知識を得ただけである。人は新しい知見をこれこそが真理と思うが、その真理も、さらに学ぶことで次の真理に上書きされていく。新しい発見と理解が過去の考え方にどんどん上書きされて、人は成長していく。
 
 真理にたどり着いたと思ったがたどり着いていなかったというのは、無限に続くプロセスなのだ。
 経験とは、"真理"がただの知識になり、新しい真理がまたただの知識になることの繰り返し。自分の間違いを知りそれを乗り越える。さらに間違って、さらに乗り越える。このプロセス(弁証法)が繰り返されることで人はより深い理解へ、高度な認識へ進んでいく。

 真理という名の究極の事実がどこかに隠されている。それを発見しなければならない。ただ一つの真理が、見せかけである多数の嘘に埋もれている。人はこう考えがちだ。
 だが真理は常に相対的なものなのだ。 人は何かが真であるという判断をして、ついに自分が「客観」にたどり着いたと思ったりする。だがヘーゲルによると、客観などない。真→知→真→知..のプロセスは、全て自分の意識の中、主観の中で起こっているのだから。
 ヘーゲル以前の哲学は、主観と客観を分離し、主観と客観の一致に真理があると考えた。主観と客観は一致し得ないので、真理にも到達できない、という難問に答えられなかった。だがヘーゲルはこの主観と客観の対立を克服する。
 ヘーゲル以前においては、真理と知識は別物として対立していたわけだが、ヘーゲルにおいては、真理と知識は対立しない。真理と知識が両方主観に属するからだ。存在もしない「客観的な真理」を探そうとするのではなく、主観的な真理をより高度に研ぎすませていこうというのだ。


 科学は客観的だと言われるが、ヘーゲルの考え方では、客観など存在しないので科学も意識の主観的な運動にすぎないことになる。では科学は正しくないのか、というとそういうわけではない。
 私の考えでは、科学的方法は、「主観的な真」に限りなく近付くための方法であり、科学的事実とは、反証できないくらい高度な認識にたどり着いたということ。


 人は新しい真理に出くわしたとき、その新しい"気づき"の内容を、「隠されていた究極の真理」であると考えてしまうことがある。隠されていた度合いが大きいほど、見つけた時に重大な発見に感じるものだ(そして目の前にあるものほど隠れている)。だが究極の真理に到達したと思ったら、本来終わりがないはずの経験と認識の高度化のプロセスを停止してしまうことになる。
 自分が「完全な認識」にたどり着いたと思い込んだら、自分だけが真理を知っているのだから、自分の考えを広める必要性を感じる。世間が真理を知らないことが耐えられない。自分の認識を他人に強制しなければいけなくなる。最悪、暴力的な手段も考えることになる。

 知的探求は終わりがないため、探求者は気が遠くなることもある。学んでも学んでもまだ自分はどこか間違っている。そういうときに「答え」をポンと出してくれる宗教や〇〇主義などのイデオロギーは大変役に立つ。
 信仰を持てば、絶えず自分の考えを否定し続けなければいけないようなこともない。自分が絶対的な認識をしていると思えるからだ。イデオロギーは「真理」を提示する。わけがわからない高度で複雑に入り組んだ社会や人間経験を理解したと思わせる魅力は大きい。








 ワンネスの嘘
 同一化とはなんなのか今一度考えてみると良い。「みんないっしょになった、キモチイイ」ではないのだ。 世界と同一化したら、もう個体としての自分はいないのだから、自己保存にも意味がない。他人と関係を持つこともできない。同一化とは関係をもつことではなく「なる」ことなのだから。
 自分がいないというのは、他人がいないということでもある。この2つは真逆の現象ではなく、同じ現象の2つの側面である。 
 もちろん私はサイケデリックワンネスの話をしている。なるほど全てとの一体感を感じる人がいるのかもしれない。だが一体感とは何だ?一体のように感じることか?どんな感覚だ?ヒッピーやスピ人の多くは、サイケ独特の浮遊感や多幸感を一体感/ワンネスなどと呼んでいるだけなのではないかと強く疑う。
 本当に「世界と同一化」するのが何を意味するか、心理学的に考えたことあるのだろうか。ないに違いない。一体感そのものは何一つ気持ちいいことなどないからだ。あなたがたがしていることは、多幸感に多幸感以外の名前をつけていることだけではないのか。

 自分の経験について話そう。私は自分がサトリ的なものに最も近付いたと思っていた時期は、最も幸せだった−ということはなく、事実最も苦しんだと言わなければならない。今となって思い返すと、アイデンティの危機に陥っていた。あまりに多くの難問に圧倒されていた。
 
 人間は常に個体性と普遍性の間の葛藤に生きている。自分が大事か、それとも全体が大事か。自分を救うか、世界を救うか。
 個体性を保ちつつ、普遍的な利益も同時に最大化することは出来ない。個体の利益は、他の個体の利益と衝突する。生きるには他の生物を食べなければいけないし、食べる以外にもいろいろな方法で他を害さなければ生きていけない。ヴィーガンになればいいじゃないか。もちろんそれは考えた。
 その日、自分は魚卵を口に含む事すら出来なかった。どうしても口の前で箸が止まってしまう。食べることは無理だった。
 植物ならいいという考えも、完全に納得を与えるものではなかった。どれだけ謙虚にい生きても、植物は食べなければいけない・・。果たしてブッダはこんなことに苦労したのだろうか??

 このまま何も食べずに餓死するのが世界全体の生命の利益のためになり、倫理的に最善の選択なのではないかと考えた(それを実際に遂行しようと思ったわけではない、単に論理的な帰結である)。
 自我膨張に最大値があるとすれば、これはその一つだろう。その場で餓死するまでじっとすることだ。 これは自殺ではなく、世界に最善のことをするためだ。完全に普遍性となった自己は、個体性を放棄することになる。
 自我が世界の全ての生命と同一化するというのはこういうことなのだ。これがスピリチュアルだと思う人がいるだろか。 少なくとも私が知っているワンネス、心理学的に「世界と同一化」した状態はこういうものである。

 おそらく、これはワンネスじゃないと言ってくる人がいるだろう。もっと素晴らしい宗教的体験のワンネスがあると。きっとあるのだろう。私は自分の経験と見解を書いたまでだ。自我−個体性が失われ、普遍性そのものと同一化した人間はもう社会生活を営むことはできないのだ。彼にとっては全ての生命が自分なので、あらゆる苦しみが自分の苦しみであるように感じる。ステーキ屋の看板を見ただけで、牛の屠殺される恐怖を理解する。
 もし、ステーキを食べながら牛の生きた愛の人生を感じるのがワンネス体験だなどという人がいたら−流石にいないと思うが−彼にはほんの少しのリスペクトも与えるつもりはない。その低俗で精神性のかけらもない下劣な妄想に吐き気がすると言わせてもらおう。







 高次の意識、宇宙的意識・・
 サイケデリックスが「高次の意識」をもたらすなんていう言い方がいかに馬鹿げているか、そろそろお分かりいただけると思う。
 高次の意識などと呼ばれているものは、意識と無意識のバランスが崩れた状態、無意識が侵入している状態だ。これを高次などと呼びたいならどうぞ呼べばいい。が、少なくとも高次というのは心理学的な言い方ではない。形而上学的だからうさんくさいのだ。宇宙的意識という表現も同様である。
 

 ユングは、サマーディの状態が無意識の状態だと言っている。
 ※サマーディはヨーガの最終到達地で、禅の悟りに相当する
 ユング「個性化とマンダラ」の2-「意識、無意識および個性化」から引用・・

 「(無意識の)制御の名人であるヨーガ行者が到達するサマーディの完成、恍惚の状態は、われわれの知るかぎり無意識の状態に当たる。彼らがわれわれの無意識を「宇宙的意識」と呼んでいるからといって、事態は変わらない。じつはそれが彼らの場合、無意識が自我意識を呑み込んでしまったということなのである。
 彼らには「宇宙的意識」が<形容矛盾>だということが見えていない、なぜなら排除・選択・区別こそが「意識」の名を要求できるものすべての根源であり本質だからである。それに対して「宇宙的意識」は論理的にみれば無意識性と同じである。
 なるほど『パーリ経典』や『ヨーガ・スートラ』を厳格に適用すれば、意識の著しい拡大が生ずることは確かである。しかし意識が拡大するにつれて、意識の個々の内容は明晰さを失っていく。最後には包括的になるが、しかしぼんやりとしてくる。そうなると無数のものが茫然とした全体へと流れ込むが、この全体は主観的なものと客観的なものとの完全な同一性と隣り合わせである。これはじつにもって素晴らしいものではあるが、しかし北回帰線より北の地域にはあまり薦められない」

 私はかなりインド思想が好きなので、これを読んだときは少し夢を台無しにされたような感じはあったが、心理学的には正しいと考えている。最後にユングが「北回帰線より北には薦められない」というところにはなんとなくユーモアを感じる(ユングはヨーロッパ人が無批判に東洋/インドの神秘主義などを導入したらまずいということを各所で書いている。本当は理解していないものの単なる真似事になるからだ)

 我々は確かに、まだ新しい意識性を獲得するポテンシャルはある。「無意識は、どこまで広がっているか定かではない一つの経験領域のように思えてくる」(ユング「自我と無意識」)・・が、正しい探索をすることは、非常に、非常に難しい。病的な反応を経験せずに、どこまでもどこまでも安全に行ける旅ではない。
 高次とか宇宙的とかいう言葉で飾り立てることには気を付けたほうがいい。