今回は、前回の記事で軽く紹介したユングの「自我と無意識」(松代洋一・渡辺学訳)の内容に深く踏み込んでいきます。  
 この本はご自分でお読みになられることを強くおすすめします。が、この記事は、読まない人のためのダイジェストとして、そして読もうと考える人のための解説として書いていきます。



 序言でユングはこう告げる。(以下、太字強調は全て私によります。)
 「・・・本書がただの一時の仕事にとどまることではなく、無意識のこころの変容過程という「内面のドラマ」に固有な特徴と経過を、なんとかして把握し、せめてその主たる特徴だけでも記述したいという、10年以上の努力のあらわれである」

 「・・むろんこの研究は、いまだ満足のいくものではない。なぜならば、無意識過程の本性と本質という肝腎の問題に対する回答が、いまだに与えられていないからである。」

 「本書を読まれる方には、これがまだ未だ探究されたことのない新たな経験領域を、私なりに思索的に把握しようとした真摯な試みであるとみなしてくださるよう、お願いしたい。
 これは決して頭からひねり出された思索体系なんぞではない。これまで科学的な見方の対象にされたことのない心的経験の複合体を、言葉で言い表そうとしたものである。」
 
 ユングは自分の研究は決して終わっておらず、むしろ始まったばかりだと言う。これは全然知られていない新しい領域なのだ。そして誰にでもこの新しい領域が理解できるわけではない。本書の最終ページでもユングはこれを強調する。
 「それでもひとつ、大きな障害は取り除くことが出来なかった。すなわち私の議論の根底にある経験が、たいていの人には知られておらず、したがって、異様に思えるという事実である。だから私は読者が、私の結論のすべてについてきてくれるだろうとは期待していない。」

 「私にとって大事なのは、私の考察を人々に解釈してもらうことよりもむしろ、いまだにほとんど解明されていない、広大な経験領域があることを、この本を通じて多くの人々に知ってもらうことなのである。」
 これまでおよそ光を当てられたことがない無意識の領域を、ユングは手探りで探索していたのです。

 わざわざ序言をここまで引用したのは、ユングの態度と関心を理解して頂きたいからです。かれがどういう次元で戦っていたかを。






 *目次*

 本書は4章からなる第一部と、もう4章からなる第二部で構成されています。

 第一部 意識に対する無意識の作用
  第一章 個人的無意識と集合的無意識
  第二章 無意識の同化に伴うさまざまな現象
  第三章 集合的心の部分としてのペルソナ
  第四章 集合的心から個性を解放する試み
   Aペルソナの退行的復元
   B集合的心との同一化

 第二部 個性化
  第一章 無意識の機能
  第二章 アニマとアニムス
  第三章 自我と様々な無意識像とを区別する技術
  第四章 マナ人格


 1−1ではまず個人的無意識と集合的無意識との違いが説明されます。ユングの著書は集合的無意識の概念の説明から始まるものが多いです。
 1−2から、初見者を完全に見失わせれる領域に突入します。ここでは章題の通り、無意識の同化に伴う様々な現象が書かれます。無意識を意識した患者がどうなるのか。
 1−3ではペルソナの概念などが出てきますが、実はユングの著書でペルソナの概念が出てくるものは非常に少なく、もしかしたら本書だけかもしれない。
 1−4では集合的無意識に取り込まれてしまった病的なケースからどのように回復するかが書かれます。
 第二部に入ると本当の目標である「個性化」に入ります。アニマとアニムスやマナ人格という概念が出てきます。

 本書の流れは、患者がユングのもとに来て、分析始めから、とりあえずの終わりまでに経験するものの過程を書いたものと言えます(厳密にいうと、人間成長は終わりがないので、個性化にも終わりがない。なので「とりあえずの終わり」と書いた。とりあえずの終わりとは、患者がひとまず安定し、医者に通うのをやめることを指す)。
 しかし本書は具体的な例が少なく、抽象的な説明が多いので、読者が自分で具体例をイメージできないと、なかなかついていけません。ユングに慣れていない人は、個々のページの理解に苦戦するので、流れの全体像はなかなか把握できないでしょう。
 本書はユングの著作の中で最も体系的でまとまったものだと言われています。それでも私は本書を読み返すたびに、思っていたほど簡単な内容ではないことに気がつきます。この本はユングの後期の錬金術関連著作などに比べるとはるかにとっつきやすいのですが、それでも決して誰でも手にとって理解できるようなタイプの本ではありません。
 





 *個体としての境界(1−2)*

  第1部、第一章は省略します。
 第一部、第二章「無意識の同化に伴うさまざまな現象」は、トリップ中や直後に経験されるようなことがかなり記述されているので、ここから見ていきましょう。


   精神分析の基本は無意識内容の意識化である。患者には様々なものがいる。重度な精神症状を持つ人から、重度な症状はないが漠然と自分の生き方に問題を感じているような人もいるでしょう。
 どのような患者も、まず医者=分析者の分析を受けます。分析は患者に無意識内容を意識させます。分析方法には色々なものがあると思いますが、本書は心理療法論ではないので、分析方法や分析作業そのものについては扱いません。

 無意識内容を意識化した被分析者は、様々な現象を経験するが、ユングはその両極端を書き出す。(両極端なので、現実にはその中間がたくさんある)
 一方は、無意識から浮かび出てくるものをなんでも正確に知っていると思い込む。彼は自負心過剰から、無意識から来るものを引き受けようとする(だが現実にはそんなことは不可能)。こういう人は、面接しているうちに、「医者の手に負えなくなる」。
 もう一方は、無意識内容に圧倒され意気消沈する。自尊心はおとろえ、あきらめたようになる。無意識に支配しされているという運命の前に自分は無力だと考え、責任を放棄してしまう。

 しかしこの二者を徹底的に分析すると、実は前者には深い無力感があり、後者には傲岸な権力意識があるという。(この点に関しては十分な説明がないので、私個人的には実感が湧かない。追記-この両極端に見える態度は、よくよく考えると大差がないことに気がつく。どちらも、権力意識と無力感があるという点で共通している。どちらが意識に、表向きに出ているかという違いでしかない。ユングは肝心の無意識内容が何なのかは書かないが、基本的には考えたくないような不愉快な、時に深刻なものである。そもそも考えたくないから無意識なので、その意識化はとても楽しくない。)

 これらのかなり別々の症状に見える「思い上がり」と「小心」は、実はある点を共有している。それは、ともに個体としての境界が曖昧になっているということだ。一方は自らを度を越して拡大し(自分に実際以上の立場や使命があると思っている)、他方は自らを度を越して縮小している(自分に何の役割もないと思っている)。
 思い上がった人は、認識が充溢した状態にあるが、それを「たったひとりで持ち堪えることはあまり気分のよいことではない」ので、信奉者を獲得しようとする。彼は疎外されているように感じ、「いたるところで自分の意見や解釈を披瀝せずにはいられない。いたるところでそうすることによって、身を噛む疑念から免れようとするのである。」
 正反対に、小心な人は、表向きには劣等感情を口にするが、内心はそれを信じていない。自らの認められていない価値への確信が、内側から彼に迫ってくる。「彼はごくわすかな否認に対しても敏感になり、誤解され、正当な要求を踏みにじられたという顔を常にしてみせる」。


 アドラーは、神経症的な権力心理の特徴を表すのに「神の如く[ありたい願望]」という表現を用いたという。ユングはこの表現を引き継いで、この段階の患者が「神に似て」いると言う。

 「被分析者は洞察を得るが、それはそれまで意識していなかった多くのことを、彼に示すのがふつうである。当然彼は、多くのことを見る(あるいは、見たと信じ込む)。その認識が自分にとって助けとなったからには、他者にも有用なはずだと、つい思い込みたくなる。そうして彼は、善意かなにかのつもりだろうが、ややもすれば不遜になって、他人からは歓迎されなくなる。彼は、たいていの扉を開けることのできる、ひょっとしたら、すべての扉でもあけることのできる鍵を所有しているのだという気持ちになるのである」・・これが「神の如く」という言葉で把握されている状態である。

 ユングは「神に似ている」という比喩に替わる、より適切な心理学的用語を提案する。それが「自我肥大」となる。

 自我肥大とは、個体としての境界が曖昧になることである。個体としての境界が曖昧になるのは、意識を拡張しすぎて無意識内容を取り込みすぎたことによる。上で記述された「思い上がり」だけでなく、「小心」のほうも自我肥大である。


 心的肥大は、決して分析治療だけで現れるものではなく、日常にも潜んでいるという。その例としてユングは、多くの男性に見られる、自己の、仕事や肩書との「くそまじめな」同一化を挙げる。

 「私が私の職務や肩書きと自分を同一視するならば、私はあたかも、一つの職務に現れている極めて複雑で社会的な要因そのものであり、職務の担い手であるにとどまらず、それに同意を与える社会そのものであるかのように振る舞うことになるだろう。」
 ・・これを聞いて何かが思い浮かぶ人は多いでしょう。
 「職務や肩書きとの同一視には、どこか魅惑的なところさえある。だからこそ多くの男性たちが、社会から承認された地位以外の何者でもないのだ。このうわべの殻の背後に一個の人格を探しても無駄だろう」・・「このうわべの殻は魅力的なのである。個人の不足や欠陥をおぎなうのに、これほど安直なものはそうないからだ。」

 しかし、肥大をひきおこす誘因は、このような社会的な役割などの外的なものだけではない。内的なヴィジョンの中に没入して、周りの世界が眼中から消えてしまう人もいる。
 人格が全面的に崩壊してしまうほど強度の自我肥大が生ずることさえある。これは精神病である分裂病、今で言う統合失調症である。(一過性もあれば持続性もあるという)
 統合失調は自我障害だと言われているが、ユング心理学上は、「自律性を持った集合的無意識の内容に太刀打ちできない」ことによって生じるとされている。原因は多く場合「先天的な弱さ」、つまりは家系に精神病の素因があること。
 






 *集合的心(1−2)*

  ここでは少し社会心理学的な要素が入ります。
 個人的な心と集合的な心の関係は、個人と社会の関係に等しい。
 「個人がもっぱら単独で個別の存在であるだけでなく、社会的存在でもあるように、人間の心も単一でまったく個体的な現象であるだけでなく、集合的な現象でもある」
  あなたは、ただ自分であるだけでなく、あなたの属している文化圏やグループの一員でもある。集合的な影響から完全に自由な個人はいない。


 ユングは、集合的心を、心的機能の「下層部分」、個人的無意識と意識を「上層部分」と呼ぶ。下層部分は生得されるが、上層部分は個体発生的に獲得される。

 もし人が、本来は非個人的なものである集合的心を、自分が獲得した資産の一部であるように扱ってしまうと、彼は「不当に人格の範囲を広げたこと」になってしまう。
 集合的心は人格の基礎として下位に属しているものなので、それは人格の重荷となり、その価値を引き下げる働きを持っている。

  ユングはここで「集合的心」という用語を使っています。これは集合的無意識と混同しやすいですが、別物です。集合的無意識の理解は非常に難しいのですが、集合的心の理解はさほど難しくありません。ここで集合的心の一例を出します。

 我々の住む社会は様々な問題を抱えている。社会問題は決して個人的ではない。個人の力で社会構造を変えたり、環境を変えたり、経済制度を変えたりするのは無理だろう。だから社会問題は集合的な問題だと言っていいだろう。個人的な問題は個人的心に、集合的な問題は集合的な心に属する。
 意識を拡張すると、様々な個人的な問題だけでなく、集合的な問題も意識まで達してくる。なので例えば、政治制度や資本主義が抱えている問題とか、環境破壊や気候変動など、その他様々な集合的な問題が意識化されてくる。
 集合的心の中には、「資本主義って資本家だけが得するシステムだからクソだな」など、誰もが内心抱えていても公にしないような考えが詰まっているわけだ。意識拡張によってこれが意識に達すると、普段無視していた問題、それも「社会全体が無視を推奨している問題」が、緊急性のある生々しい現実として目の前に現れる。『自分はこの問題の重大さを知っているが、他の人は分からない!』・・この感情から人は疎外されているように感じる。この疎外の恐怖から、意識拡張自体を恐れたり、意識拡張が無価値だと信じるようになる人もいる。
 病的なケースでは、人は集合的心の内容と同一化してしまうが、ここまで来た人は例えば「自分が資本主義を打倒する」・・などと言い出す。本来自分の所産ではないこの(集合的な)知見を、自分の所産だと思いこんだ人が、その魅力に憑依されてしまう。心から信じ込み、さらに他人に広めなければいけなくなる。資本主義がクソだというのは決してあなたが思いついたことではないのだ。実は誰もが知っているからだ。

  この例から分かっていただけると思いますが、ユングが集合的心という言葉で表そうとしていたのはおそらく、社会的なレベルでの抑圧内容です。(これが集合的無意識だと思っている人はおそらくたくさんいる)。
  しかし集合的無意識のほうはというと、社会的な抑圧のことではないです。集合的無意識は、抑圧されたものではなく、本能的なもので、常に心の最下層にあり、基本的には理解が不能です(無意識ですから)。これは夢や神話、投影という形で間接的に現れるのみです。
  集合的無意識は自分に属しているようには感じられないので、その意識への侵入は他者の侵入にも等しく、基本的には幻覚や精神病を意味します。これについてはのちの四章(1-4)にて説明されます。
 
 「集合的無意識を理解するとなると、私たちのぶつかる困難は並大抵のものではない。」



 

 *個人的無意識の意識化(1−2)*

 自己を実現しようとする人は、必然的に個人的無意識の内容を意識に取り入れなければいけない。
 分析によって個人的無意識を意識化すると人格が拡大する。視界の本質的な拡大、自己認識の深化をもたらす。そしてその人は「独自性を減じて、より普遍的になる」。これは要するに、先入観やバイアスから解放されて客観的な視点(集合的な平均視点)に近づくという意味だろう。個人的無意識の解消は悪い面ばかりでなく良い面もある。

 「生まれて初めてを呼び起こし、自分自身に愛情を感じることに成功した例や、またある場合には、自らを、自分にふさわしい運命の中へ織り込むために必要な、不確かなものの中への跳躍を、敢然として行った例をいくつも見てきた。このような状態を決定的なものとみなしつつ、数年間、多幸的気分に包まれる例を見たことも少なくない。そのような症例を分析的治療の成果として称賛する声も一再ならず耳にした。」
  「しかし私にいわせれば、こうした多幸的な気分や進取の気性を示す症例の人々は、実は本当に治ったとはみなすことができないほど、世界と自分とを十分に区別できずに苦しんでいるのである。彼らは同じ程度に治癒していると同時に治癒していないというのが私の見解である。」(「もとより私が言っているのは、例によって境界的なケースについてであって、取り上げるほどでもない、正常で平均的な人間についてではない」)

 ここにユングの態度が表出されている。「私の研究者としての良心は、(治癒された)人間の数ではなく、質に目を向ける。」・・ユングにとって患者の一時的な多幸感は根本的な解決ではない。表面上治ったように見えるかどうかではなく、患者の心の一番底で起こっていることを知ろうとする。






 *ペルソナ(1−3)*

 第三章「集合的心の部分としてのペルソナ」では、ペルソナの概念が説明される。
 ペルソナとはある人間が外の世界、他人や社会に向かって「どのように現れるか」であって、外面的な顔、仮面である。だが、この仮面はその人の内面を表すものではない。
 先ほど挙げられた、男性によく見られる自己の肩書きや職業との同一化は、ペルソナの一例である。
 ペルソナは、「個人と社会の間に結ばれた、一種の妥協である。」

 「この仮面は、個性的な装いを凝らしてはいるが、単に演じられた役に過ぎず、その役を通して語っているのは実は集合的心にほかならない」

  ペルソナは社会の発達のために必要不可欠だったので、決してペルソナを持つことが悪いのではない。問題は、ペルソナと自己を同一視しすぎた時である。
  ペルソナは他人/社会と関係を結ぶために必要なので、ペルソナを全く持たないことも問題となる。ペルソナを持たない人は内面世界だけが分化、発達していて、外面を持っていない。これは他人に見せる顔がないということなので、彼にとって社会とは自分が実際に関係を持つ相手ではなく、ただの空想のようなものになってしまう。
  他方、ペルソナを大きくしすぎた人にとっては、社会こそが実体のある現実であり、内面世界は存在しない空想のようなものになる。彼は外面ばかりが分化発達し、内面が発達していないからだ。


 一見個性に見えても実際は集合的なものであるものはとても多く、真に個性的なものを発見するには根本的な省察が必要となり、困難を極める。

 




*ここまでのおさらい*
 ここまでの流れをおさらいするとこんな具合になる。
 患者は不快なために抑圧していた個人的無意識を、分析によって意識に同化する。個人的無意識が同化される。これと同時に、いくばくかの集合的無意識も意識に同化される。個人的無意識と集合的無意識はぼやけて微妙に繋がっているので、一緒に現れるものだと考えれば良いだろう。患者は、個人的無意識から来たものと集合的無意識から来たものを区別できないので、不当にも自分のものではないものまで引き受けてしまうわけだ。
 ※ここで言われている集合的無意識とは厳密には集合的心のことだと思う。ユングはこのあたりの表現をあまり明確にしていない。集合的心は集合的無意識の一部だと思えばいいのか。
 患者はこれによって意識と人格の拡大を経験する。それが自我肥大の状態を引き起こす。これは「ただ分析の作業を続けるだけでひきおこされる。」「意識化の結果の不愉快な一面とみなしうるだろう」。






*集合的心と同化するとどうなるか(1−4)*


 第四章「集合的心から個性を解放する試み」ーAペルソナの退行的復元

 ここでは集合的無意識が圧倒的な力で意識に侵入してくる際の状態が記述される。強いトリップの真っ最中のような記述がある。どのようなケースで集合的無意識が意識に達するのかはあまり明確に書かれていない。おそらく、これを経験するのは精神病の素因がある人などシビアなケースだけだと思われる。

  集合的無意識の侵入は、意識的態度を崩壊させる。
 「意識的態度が崩壊するということは、けっして些細なことではない。それは一つの小世界が没落することであり、すべてはふたたび原初の混沌に立ち返る。
 ひとは、放り出され、方向を失って、自然の諸力の気まぐれにゆだねられた舵のない船となる。少なくとも、そのように思われる。」
 これが集合的無意識が指揮をとっている状態。

 「危機の瞬間にあってまさに「救済する」観念やヴィジョンや「内なる声」が圧倒的な説得力を持って現われ、生に新しい方向を与えるという例は、現実にいくらでもある。」が、そのまま破滅するケースもある。どっちにしろ安全な状態ではない。

 集合的無意識の内容が意識に達したときの個人の反応は三つに分けられる。
 ・圧倒されて打ち負かされる。この場合妄想症もしくは統合失調になる。
 ・その内容を頭から信じ込む。この場合は預言者じみた変人もしくは幼児的な人間になり、社会から切り離される。
・その内容を拒否する。この場合は、ペルソナの退行的復元が生じる。

 「ペルソナの退行的復元」というとえらく専門的に聞こえるが、心理療法だけでなく、暴力的な運命に見舞われた人などなら誰もが経験することらしい。
 治るような傷である場合は問題にならないが、ひとりの人間を完全に破壊するような体験の場合に退行的復元が生じる。これは自分を卑小にすることである。
 自分の立場や価値を下げてしまい、人格が縮小する。人格が縮小したことによって行動できる範囲も減ったので、また同じ冒険に出て同じ危険に遭う不安がなくなるというわけだ。

   アイドルやAV女優などが引退するのもこういうことと関わりがある。アイドルはよく内面が壊れるが、これはまさにペルソナとの同一化によって確固たる安定した自我を築けないからだ。ボロボロになった人はペルソナを退行させる、つまり引退する。
  アイドルは個性的なものであるかのように扱われるが、心理学的には個性的ではない。個性的なアイドルがいるとしたら、それは自由で何一つ制限を課されないアイドルである(制限とは恋愛禁止など)。
  アイドル業は心理学的に問題が多い。アイドルファンも様々な問題を抱えることになるが、それについては別の機会で書こう。

 

 

*自我肥大を受け入れる(1−4)*

 第四章「集合的心から個性を解放する試み」ーB集合的心との同一化
 
 集合的心との同一化とは、自我肥大を受け入れることと同義である。
 その人は、「偉大な真理や、諸国民を救済する究極的な認識の所有者となるであろう。」改革者や預言者になろうとする。
 集合的心への入り口を開くことは、「個人にとって生の更新を意味する」。ある人は生命感情が高められ、ある人は新たに認識を増すことを約束され、またある人は人生を変える鍵を発見する。人は集合的心の中から見つけた偉大な価値を手放したくない。そのなかにペルソナを解消するのが一番楽になる。

 ユング心理学では神話が無意識領域の表れであるとされているが、ここで英雄神話の話が出てくる(具体的に何の英雄神話かは書いていない)。英雄が怪物に打ち勝つことは集合的心を征服することだという解釈をする。怪物を退治すると真に価値があるとされる様々な財宝が手に入る。
 集合的心と同一化する人は、「ドラゴンの財宝に近づくことはできる」が、手に入れたわけではないのだ。

 預言者となった人には使徒/弟子がつくが、預言者だけでなく、「預言者の弟子」のほうも、集合的心との同一化であるという。どちらの場合にも集合的無意識による自我肥大が生じ、個性の自立性は失われる。弟子は全ての責任を師に押し付ける事ができるので、自分の頭で考えないことのつけが自分に回ってくることがない。彼は自分が、偉大な真理を発見した人の弟子であることを誇りにする。「自我肥大の快感は、精神的自由の喪失に対するせめてもの代償」。
 自分が預言者だと思っている人は基本的には苦しみに満ちた人生を生きた人だ。なので彼を熱烈に讃える使徒の群れは、補償の役割を果たしている。ユングはこれを叩くわけでもなく、「人間としてごく納得のいくこと」と言っている。

 これはあらゆるカルト団体に働いている心理だと言ってもいいだろう。私はこの部分の上に「イスラーム」というメモをしていた(全てが当てはまるからだ)。
 
  最近、「環境活動家」が、環境破壊への抗議として美術館の名画を攻撃する事件が多発しているが、これも同じことだ。彼らは顔を隠さずに堂々と行う。自分らの行いが英雄的だと信じている。だが彼らは、自分が個人的に責任を負わなければいけないなら、やらなかっただろう。彼らは集合的な心に埋もれているので、このようなことが出来る。自分には責任がないのだ。彼らは集合的な意志の代弁者なのだ。集合的な意志に身を投げる快感と誘惑は強く、人はこうやって「英雄的」な行動を可能にする。
  
  ところで念のため言っておくが、ユングは実際に起こることの記述を目的にしているのであって、他人叩きが目的なのではない。ユングは決して自我肥大について道徳的な価値判断をしていない。すなわち、「良いか悪いか」は、心理学的には問題ではないのだ。
  私はここで環境活動家を例として挙げたが、だからといって私は環境活動家を批判しているのではない。その心理を説明しようと試みただけに過ぎない。具体例を出してしまうと、心理学を通り越して道徳的な価値判断をしているように思われてしまう。ユングがほとんど具体例を出さないのにはこういう理由もあったのだろうと思われる。
 
  






 これで第一部は終わります。この先第二部は本格的に「個性化」の段階に入ります。ここからより発展してさらに難しくなります。個性化になると問題はより曖昧になり、より抽象的になっていくので、これまでのようにただ症状や症例をあげるだけでは済まなくなります。
 一部の人には第二部の内容は未知の領域すぎて、第一部の内容の方が有用になるでしょう。








 *おまけ記事〜ヘーゲルの「精神現象学」*

 近代哲学、ドイツ観念論の完成者とも言われるヘーゲルの主著の一つ「精神現象学」には、奇妙にもユングの自我肥大や個性化にかなり似た記述が出てきます。使う用語や視点は違いますが、明らかに同じ現象を記述しています。

 私は「超読解!はじめてのヘーゲル「精神現象学」竹田青司+西研」の半分しか読んでないんですが、軽く紹介してみましょう。 
 ヘーゲルはかなり難解で、精神現象学は入門書がいくつか出ていますが、その入門書すら難しいというクレームに答えて、より簡単にしたのがこの本らしいです(と、言われているわりには、まだ難しい)。
 精神現象学は「意識」の立場から書かれている。意識が単純なものからより高度なものへ成長していき、「絶対精神」(悟りのような領域のことだと思われる)へ到達するまでの道のりが書かれます。その途中で経験される様々な現象が記述されています。
 精神現象学の序論には「問い」がない。読んでみて理解しろみたいなスタンスで書かれている。西研によると、精神現象学を貫くモチーフ、この本がそもそも何を問題としているのかと言うと、それは自由な個人が何を頼りに生きればいいかということ。
 キリスト教の絶対的な力が崩れ始めている時代、人々はある意味で「意識が拡張」されて来ていました。共同体や掟から自由になってしまった個人は何を経験するのだろうか?世間と自己にどのような関係を持たせればいいのか?・・この説明で、ユングの「自我と無意識」と少しだけ重なるテーマだということがお分かりになるでしょうか。
「自我と無意識」は、精神分析により拡張された意識が、元に戻って成長するまでを書いています。
 「精神現象学」のほうはというと、哲学探究により拡張された意識が、他人や世間との健康な関係を築いていきながら(=元に戻って)成長するさまを書きます。
 
 

 p107~108
 自己意識(主人公)は、「社会のいままでの掟は人の心胸(ハート)を欠いていると考え、世直しを試みる。しかし自己意識は、自分の目指すものが本当に普遍性があるかどうかを検証せず勝手にあると思い込んでいるので、この世直しは人々に支持されないーー心胸の法則
 つぎに、自己意識は、普遍的な善は自分の個人的な欲望を犠牲にすることによってのみ実現されうると考え、徳の騎士となってふたたび世直しに挑むーー徳と世間」

 p110
 意識はある段階で、普遍性を自分自身の本質であると自覚する。
 →ユングの自我肥大を、ヘーゲルは普遍性と呼んでいる。自分が普遍的なものだと思い込むのは自我肥大のことだ。

 p111
 「人類の福祉」を生み出そうとする。そこには、世直しする自分はかっこいいという意識も含まれている。
 →はっきりと自我肥大の症状。

 p 113
「さて、錯乱した個人は自身の錯乱と転倒を他の人々に投影して次のように言う。狂信的な坊主ども、豪奢に耽る暴君たち、そしてこれら両者から受けた辱めを腹いせに下の者を弾圧する役人たち、こういった連中が人類を操縦し欺いているのだ、と。こう語ることによって、意識は「個体性」(個人の利益を求めようとすること、エゴイズム)こそが狂わせるものであり転倒したものである[あいつらのエゴが世の中をおかしくしている]と言うのである。
 しかし、転倒しているのはむしろ自分のほうだ。自分をそのまま普遍性であると思い込み、そこに自分の「卓越せる本質」を見出していた彼のあり方こそエゴイズムだったのである」


 ここまでは自我膨張だが、p119では個性化のはじまりが見えてくる。
「行為することじたい、つまり、個体性を現表することじたいが自己意識にとって絶対的な目的となる」。

 自我肥大の時点では、世直しをしようとし、世間と戦うが、勝てないことを悟る。次第に意識は、世間のエゴ=個体性が、思っているほど悪いものではないことに気が付く。
 p118「個体性は、①潜在的な善を現実化するものであり、②かつ自分では利己的に行為すると思い込んでいるが、その行為によって公益をもたらしている」
 個体性があらゆる問題の元凶であると思っていた意識は、実は個体性こそが善を実現するものだと理解する。

 個人の利益が全体の利益になるという考え方は、資本主義の基本的な考え方だ。強欲な会社が大儲けをしている間に、彼らの競争からイノベーションが起き、テクノロジーが発達し、雇用ができ、社会全体の資産が増すいうわけだ。皆が平等だという共産主義は、利己的な個体性を抑圧した理想経・・のはずが、現実には数千万人が殺された地獄と化した。
 共産主義は、自分らが正しい認識をしており、普遍的な善で、共産主義への移行は「歴史的必然」だという。 ここまで自分が普遍的だと考えたら、個体性のある人は全て邪魔になるので、粛清しなければいけなくなるわけだ。だからインテリから殺されていった。