サイケデリックスの危険性
私は昔は、サイケデリックスがいかに安全かだけをテーマにしたような記事も書いてきましたか、ここ数年の間に大きく考えが変わりまして、今ではそうは思いません。
危険性とはそもそもなんでしょう?危険性にもいろいろな観点があります。ただ死ななければ、血が出なければ安全だという低レベルな考えで納得するべきではありません。
サイケデリックスの危険性について、まず医学的危険を考えてみましょう。依存性や身体への害。依存性や毒性はほとんどないと言われている。サイケの「安全性」を語る人の多くは、他の薬物との比較で、医学的に安全だと言うだけで満足します。専門家を名乗る人ですら、依存性と毒性だけを問題にしてサイケデリックスを安全だと言います。しかし他の観点はどうでしょう。
例えば、物理的危険性。意識がないような状態や、錯乱した状態で事故に遭う危険性のことです。これは物質そのものの有害性ではなく、酩酊時の行動の危険性ということになりますが、これがないと断言する人は非常に愚かです。現実に怪我する人もいますし、自殺してしまう人もいます。警察や救急車にお世話になる人もいます。
しかし物理的危険は、防げます。十分な経験や知識、適切なドース、適切なセット&セッティングやトリップシッターなどがあれば、物理的危険性はゼロに近づけることが出来ましょう。
では本当の危険は何なのか?それは心理学的な危険です。
心理学的な危険は、ほとんど話題になりませんし、反薬物側の人ですら心への無知のためほとんど理解していので、教えてくれません。サイケデリックスの心への影響を理解することは難しいです。けっこうな心理学的知識がないと理解できないので、多くの人は深く考えずにスルーします。
多くの人は、心は「ただの心に過ぎない」と言ってその重要性を軽視します。心の危険は危険じゃないとでも言わんばかりに。血が出ないなら大丈夫だと思っている。
私がサイケデリックスは危険だ、と言う時、それは心理学的な危険のことを言っています。それでも多くの人は心理学的な危険が何なのかイメージもできないので、私の発言の意図を掴めません。
ユングは、心を実在するものとして捉えていました。ユングは、想像上の病を患っている患者に、「それはただの想像だから大丈夫だよ」とは言いませんでした。実際の病として扱ったのです。そして患者に、悪化すればそのまま心身がやられる事を伝えたといいます。これが、こころを実在として扱う、正しい心理学的な態度です。
バッドトリップなどについても、「ただの想像だから大丈夫だよ」などと言う人がいますが(自分も昔はそう言っていた)、「ただの想像」という言葉は役に立ちません。ゴミ箱に捨て去らねばならないのです。
サイケデリックスによる精神の変容は非常に強力で、その影響は測り知れません。心に与える影響は非常に強いです。
私はバッドトリップのこと(だけ)を言ってるのではありません。トリップの精神への影響のことを言っているのです。意識と無意識のバランス、精神の構造、意識作用の向き、自我、人格とコンプレックス、これらが影響を受けます。心理学的な危険性は、トリップそのものより、トリップした後の人格や精神に関する問題です。
サイケデリックス単なる「薬物」として見て他の薬物と比較しているうちは心理学的な危険性は理解できません。サイケデリックスを何かと比較するなら、他の薬物ではなく他の意識拡張方法と比較するべきなのです。それが正しい比較です。
サイケデリックスをアルコールやタバコと比較すると、確かに依存性や害がないということになります。ですが、酒タバコはサイケデリックスと関係ないのです。同じところがあるとすれば、せいぜい「ドラッグ」というとても広い意味を持った概念のレーベルの下に収められているというだけ。ドラッグ一つ一つはあまりに違うので、それぞれ別々の観点で評価する必要がある 。
サイケデリックスは他の意識拡張方法と比較した時に初めて、その「心理学的なリスク」が浮かび上がってくる。
分析心理学とトリップの類似性
トリップによる変容過程が、全く新しく、誰も知らないものだと思ったら大間違いです。昔の心理学者が既におおかた記述しているのです。
ユングの著書「自我と無意識」(単行本では「自我と無意識の関係」)を読むと、奇妙なほどにトリップに似た描写が出てきます。まるでトリップとトリップ後の過程を読んでいるようです。
「自我と無意識」はタイトルの通り、自我と無意識の関係について記述した本です。
ユングが患者の精神を分析する時、患者は意識の拡大を経験しました。
多くの神経症や悩み、コンプレックスの類は、原因が無意識の中に眠っています。その無意識内容を意識化して正面から対決しなければいけません。患者は無意識内容を自我に統合することにより、意識の拡大を経験します。これが第一の段階です。
その後患者は、無意識内容を意識に取り込みすぎた事による副作用として自我肥大や自我膨張と呼ばれる現象を経験することがあります。その症状などが記述されていきます。
患者は最終的に、意識と無意識の適切なバランスを手に入れること目指します。無意識の力に圧倒されず、かつ無意識から離れすぎない。これが最終目標です。
つまり、意識は拡大するとするほど良い、というわけではないのです。意識が異常に発達してしまうと、様々な問題が生じます。
意識拡大のリスクとは、意識が無意識から離れすぎることです。
無意識は「解消するべき邪魔者」ではなく、健全な精神に必要な土台なのです。無意識は必要なのです。必要なのですが、大きすぎず、小さすぎず、健全なバランスを築いていかなければなりません。
ユングはこのような患者の成長過程を、「個性化過程」と呼びました。
個性化は分析治療の後半に規則的に現れるとされます。意識を拡大した患者が、元に戻るための作業だと考えていいと思います。
無意識内容を意識に取り込みすぎてしまったために自分が誰なのか分からなくなり、曖昧なアイデンティティに苦しんでいる患者は、自我と自我でないものを区別し、個性化過程を経て「個性化」し、「自分自身」に近づいていきます。(個性化過程は曖昧な上に理解が難しいので、ここではこれ以上立ち入りません)
早い話が、サイケトリップも一種の個性化過程だと思います。もっと正確には、トリップ後の、統合作業が個性化過程に類似したものだと思うのです。
私は、トリップ「後」が、トリップそのものより大事だということを再三言ってきました。トリップは文字通り「旅」であって、旅は戻ってきてこそ成立します(小学生の先生が言う「家に帰るまでが遠足です」)。強烈なトリップは、意味不明で、どう統合していいのか分からないことが多くあります。トリップ当日より翌日の方がたくさん考え、たくさん学ぶことがあるのも珍しくないです。
トリップは、全体の過程の中で捉えると序盤に過ぎないのです。トリップが終われば同時に心的変容過程の終わりだと思うことは、大きな間違いです。トリップは完結したものではありません。それは無意識を意識化するという、精神分析の最初の段階に過ぎないのです。まださまざまな作業が残されています。
無意識の圧倒的な力に押しつぶされてしまう患者がいるのと同じように、トリップの内容(これも無意識内容)に圧倒されて潰されてしまう人がいます。
個性化過程は、誰もが必ず上手くいくわけではありません。個性化は「一部の人しか経験しない秘儀」であり、その道は「危険に満ちている」・・などと言われているのです。
「ユング派出身の分析家は、分析の実践の中で、ときに人生の後半に人間が引き込まれてしまう個性化の過程が、非常に険しく危険に満ちた道程と感じ取られることを経験するのである」(中略)「不用意に、たったひとりでこの冒険に乗り出してはならぬ。秘教では昔からこの種の識閾での体験が知られている。そこでは人々は、≪自己との出会い≫に耐えうる自分にするために、それ相応の訓練をうけたり、アジアでは場合によってはグルの保護と助力を仰ぐこともある」・・「それは決して無害の冒険ではない。場合によってはひとりの人間の運命を左右しかねぬ大冒険である」(G・ヴェーア「ユング」より) 。精神病の素因のある人は精神異常をきたすことがあることも報告されている(しらふで行う精神分析で!)。
この事実を考慮した上で、サイケが安全だと思う人がいるでしょうか。サイケは精神分析よりも強力な精神分析ですから、精神分析に当てはまることは全てサイケにもあてはまります。それも、より過激に。
精神変容は心理学的にはまだ全然理解されていない新しいフロンティアなのですが、多くの自称目覚めた人が、自分らが被る影響をほとんど知らずに無害だと言って宣伝しています。彼らにとって物質の害は毒性や依存性しか考えられないのです。
私がここで「心理学的」と言ったことによく注意してほしい。現在、サイケの脳科学的研究がすごい勢いで行われているが、脳科学は心理学ではない。脳の働きを理解することは、心的影響や意識経験の理解ではない(ユングはまだ大した脳科学がない時代に、意識拡張と変容を記述したということをお忘れなく)。トリップをガイドする方法としてユングの著作は、そこらへんの「サイケデリック科学」より何十倍も役に立つ。専門家でないと理解できないような小難しいサイケデリック脳科学は、より優れた向精神薬の発明に寄与したり、脳の働きの理解に新たな光を投げかけたりするかもしれないが、トリップしている人の個人的な精神発展のレベルではあまり役に立たない。
サイケデリック音楽のDJであるraja ramは、ある映像でLSD使用について語りますが、彼が若かった昔、60年代にサイケデリックブームでは、“we didn’t know what we were doing”・・我々は自分たちが何をしているかなど分かっていなかった、と言っています。彼はサイケを賞賛する文脈の中でこう言いましたが、私はこれを、心的変容に関する無知の告白として受け取ります。
テレンスマッケナも、60年代は、我々がまだサイケデリックスを扱う準備が出来ていないことを明らかにした、というようなことを言っています。
「この発達の道は、中年(通常35歳から40歳の間)になるまでは、ほとんど意味がない。そして、あまりに入るのが早過ぎたのなら、明らかに有害ともなり得るのである」(ユング「黄金の花の秘密」)
人生前半の問題と、人生後半の問題
子供と大人と老人は、別々のライフステージにいる。別々の目標を持っているはずだ。
子供は受動的で、自主的な行動はあまり許されていない。教育を受けて、社会の中での自分の役割を見つけ、一人前になることが求められる。大人は、家庭を築いたり、キャリアを築いたり、やりたい事をみつけ、より能動的に生きなければいけない。
老人となると、うわべではない本当の生きがいを見つけ、いつかは死ぬ準備も始めなければいけない。
・・サイケデリックスはどの年齢の人に向いているだろうか?子供か、大人か、老人か。
サイケ使用は人生後半に行ったほうが良いのではないかと思う。それがこの記事のメインテーマで、そもそも書こうと思ったきっかけです。
「ユングの見解では、人生の前半における個人の課題は、この世に自分を確立し、自分を両親と結びつけている幼児的な絆を断ち、配偶者を得、新たな家庭を起こすことである」(ここより以下引用はAストー「ユング」)
ユングは、フロイトやアドラーの心理学が、「大抵の若い人には完全に当てはまる」と繰り返し述べている。だがこれら両派の見解は、人生後半の問題に直面した時、あまり満足のいくものではないという。フロイトやアドラーの心理学はいわば、若い人を成熟させることに主眼があると言える。弱い自我を強い自我に変えること。
対してユング心理学は、すでに強い自我の持つ成熟した人に向けて、自我よりも大事なものを見つけさせるのが目的の一つであった。ユングは人生後半の心理学とも言われる。
人生の後半に達した人は、「この世を超えた霊的目標のために、権力と性的満足という現世的目標の追求」を引き戻さなければならない。「人生には成功以上のものがある」ことを知らなければいけない。
そして「一面的な発達」を正さなければいけない。知的な人は意識が異常に発達するが、その発達しすぎた意識こそが問題なので、再び意識と無意識のバランスを取り戻さなければいけない。
ユングの患者は、すでに家庭を持って、ある程度社会的にも成功している人が多かった。中年に差し掛かったような人が、愛や権力ではなく、本当に大事なものを見つけるためにユングのところに訪れたのです。彼らはすでに一人前になっているのですが、人生の無意味さと無目的という、一番深くて難しい難問に直面している人たちでした。
でもユング心理学がサイケトリップとどう関係あるのか、と思う方がいるかもしれないが、はっきりいって関係しかないのだ。フロイトやアドラーの心理学はトリップには耐えられないが、ユング心理学はそのままトリップの心理学に等しい。先ほども言ったように、サイケトリップはユングの「個性化過程」と類似性が多いため、Aストーが「個性化は本来、人生の後半に生じる」と言っていることを考えると、おそらくユング派の人の多くは、トリップもまさに人生の後半にこそ適していると考えるだろう。
ユングが記述するような数々の珍しい経験、滅多なことでは出会えない経験たちを、サイケ経験者は絶対に知っている。
ユングの記述には普通の人には信じがたい、イメージができないものも多いが、サイケ経験者はユングの主張を認める。サイケデリックスはまさにユンギアンな無意識領域を経験させるものだからだ。
サイケデリックスは人格を変容させるほど強力な体験をもたらすことができるが、果たして、まだ成熟した人格を形成していない人が精神を変容させて何の意味があるのか。まだ固まっていない粘土をさらにこねてどうするのか。いい形に練り上げて、焼き上げることが先ではないか。
そう子供たちに言うと、子供たちはほぼ決まって、自分は大人だ、もう成熟しているという。子供たちに分からせる方法はない。
「われわれの課題も若い時と、歳をとってからでは違うのである」「若い人間が外部に見出し、又、見出さるを得なかったものを、人生の後半にある人間は、自己の内部に見出さなければならぬのである」(ユング「無意識の心理」より)
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古代インドには、人生を四段階に区切る考え方があった。
「四住期(アーシュラマ)」と呼ばれるものである。
古代文献で何度も言及されている、典型的なインド人のライフスタイルのモデルらしい。
学ぶことに力を注ぐ「学生期」、家庭を築く「家住期」、森に入って修行する「林棲期」、煩悩を離れ瞑想し、解脱を目指す「遊行・遁世期」の4区分である。
それぞれ20年くらいだと考えていいと思う。多くの人は第二の家住期あたりで安住したらしい。その先へ行くのは宗教と修行を求める人だけだったと考える。
あれだけ宗教と宗教体験を大事にしているインド人でも、子供には学習させ、大人には家庭を築くことのほうが大事だと言っているのだから、注目に値する。
子供が悟って一体どうなるのか。悟った後、何十年もの人生をどう生きていくのか。自分はすでに解脱したから、金を稼ぐ必要も、家庭を築く必要もないなどと言う子供がいたら、大人はどう見るだろうか?
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個人的な話になるが、私は昔トリップしていた時、まだユングを読んではいなかったが、本当に深いトリップをした時は、まさに人生後半の問題、はては臨終の問題と向き合ったように感じることもあった。 強烈なトリップは死を受け入れなければならないような体験である。若くして死を受け入れるような体験をして、一体何になるのか。自分が凄いものを乗り越えたという優越感か?そんなものはないし、あったとしてもどうにもならない。ごく個人的な霊的な体験は、社会の中では何の意味も為さない。まだ自分には若者の問題がたくさん残っていると言うのに。
社会の中での自分の役割も見つけておらず、家庭やその他大切なものを築いてもおらず、そんな状態で「悟りを開いて」、その悟りをいったいどうするというのか。人格を形成し終わってすらいないのに死の準備をするのに何の意味があるのだろう。そう真面目に自問したことがある。
トリップは最終的には仏教的な、「執着を捨てろ」というテーマになってくる。だが、執着を捨てるべきなのは老人である。若者が執着を捨てたら、これから何も達成できないではないか。
執着を捨てるには欲を全て捨てなければいけない。欲がないのはいいこと・・のはず?・・だが人を成長させるのは欲ではないか。欲しいものを手に入れるために我々は前に進むのではないか。
欲を捨てたいが、欲がないと成長できない(または、する必要がない)というジレンマに到達した私は、「なぜトリップしているのだろう?」と自問した。本気でトリップを続けるなら、出家するしかない。無欲を徹底的に生き方にしなければいけない。現代社会でそのような生き方は無理だ。
本当に強烈なサイケ体験に挑むのは、相当な理由、それも宗教的と言えるような理由がなければいけないと思っていたものだ。その考えは今でも変わっていません。
私が昔から尊敬していたサイケ系YoutuberのpsychedSubstance氏は、子供が出来てからDMT喫煙をやめたと、ある動画で言っている。その理由は、DMTのようなトリップをすると、結局全ては無であるように感じるので、子供を育てるような立場の人間にはとても辛いらしい。このように、まだ自分は現世での活動に力を注ぐべきだという強い意志を持っている人は、わざわざ自発的に臨死体験のようなトリップをしない。
執着を捨てると、「実は子供も大事ではない」・・なんてことになってしまうからだ。
✳︎
シロシビンが末期患者の死の不安を和らげるという研究がある。これは決して遊びのように使わせるのではなく、何度も面接して準備した上でかなり厳重な管理のもとで行われた。ドースはけっこう大きかったようだ。患者は決して楽で楽しい体験をしたわけではない。
末期患者じゃない人が末期患者じゃない人にシロシビンを宣伝するためにこの研究を言及するのを見かけるが、なんとも皮肉だ。この研究はどちらかというと若い人が(特にハイドースを)やるべきでない根拠になるのではないか。間違っても、シロシビンの安全性を証明しようとした研究ではない。
末期患者は若くて生き生きとしている人と別のライフステージにいる。働いている心理が違う。必要なものも違う。
小僧が何をしているかも知らずにハイドースを飲んで、それが無条件でセラピューティックだと思うのは大変な間違いである。
末期患者じゃない人が末期患者じゃない人にシロシビンを宣伝するためにこの研究を言及するのを見かけるが、なんとも皮肉だ。この研究はどちらかというと若い人が(特にハイドースを)やるべきでない根拠になるのではないか。間違っても、シロシビンの安全性を証明しようとした研究ではない。
末期患者は若くて生き生きとしている人と別のライフステージにいる。働いている心理が違う。必要なものも違う。
小僧が何をしているかも知らずにハイドースを飲んで、それが無条件でセラピューティックだと思うのは大変な間違いである。
規制について
年齢制限には意味がない。未成年で飲酒、喫煙している人などごまんといるのだから、サイケデリックスに年齢制限が設けられても守られることはないだろう。
大人しかやってはいけないことは、大人っぽいことに違いない。大人にしか許されていない事をすれば、自分も大人として見られる。そういう心理が働くため、「かっこいい」子供たちにとって、年齢制限は逆に魅力的なのだ。意図しているかどうかとは関係なく、「子供だからやるな」は、「やったら大人だ」という意味を含んでいる。
この情報社会においては、面白いものを隠すのは至難の技だ。出来るはずがない。サイケデリックスを摂取したい未成年はたくさんいるし、彼らの多くは、特定の年齢まで待てないだろう。
だが現時点ではまだ年齢制限について悩む必要はない。すでに全年齢で禁止されている。完全に野放しの状態である。禁止banとは規制regulationではない。禁止とは、規制がないことなのだ。
サイケデリックスを正しく規制するためには(規制とは禁止のことではなく法的に管理する事である)、サイケデリックスが個人や社会に与える影響をよく考える必要がある。現在のレベルではそれが出来る国家はほとんどないのではないかと思う。
サイケデリックスが持っているポテンシャルはあまりに大きいので米政府が恐れて禁じたことも肯ける。
「幻想から目が覚めるから禁止されたのだ」とか、「支配しやすくなるから禁止されたのだ」と言う人は何も知らない(私自身かつてそれを信じていたが)。禁止されたのは向精神作用が強すぎて、現時点ではまだ上手く扱う方法が分からないからである。そして私の考えうる限りでは、近い将来に人類がサイケを文明に統合できる日は来ないだろう。
psychedsubstance氏は、科学的に、脳が発達しきるのは25歳前後だと言われているので、これくらいの年齢になってからサイケを使用した方がいいという考えを何度も言ってました。おそらく医者系の人なら、これと同じ考えを持つ人が多いと思います。
しかし我々がこういう事を言うとき、我々が「法的拘束力を!」と叫んでいるように受け取る人がいますが、そこまでは言っていません。どうせ法的制限をつけたところで守られることはありません。ただ、「医者がそう認めた」という事実があれば、ある種の効力を持つかもなと思う程度です。
遊びじゃないことが伝わればいいのです。
また、成熟のスピードにはかなりの個人差があります。二十代後半に入っても驚くほど幼稚な人もいれば、高校生とは思えないほど立派な高校生もいます。数字だけに拘ることは愚かでしょう。
自我肥大について
ユングの「自我と無意識」は、自我肥大の危険性とその克服をテーマにしている本としても読めます。
が、自我肥大は理解が難しいです。かなり誤解もされやすいので、ここの説明で誰もが理解するとは思いません。
他人に自我肥大と言うと、確実に攻撃として受け取られるので、言わないほうが得策です。誰が肥大しているかという問題にこだわるのでなく、まず自我についての考え方をしっかり身につけなければいけません。
自我肥大という字面だけをみて、それを単に自惚れのことだと思う人が多いですが、違います。もっと複雑な心理学的概念です。自我肥大にサイケが効くと思っている人もいますが、実際はサイケ「が」、自我肥大を引き起こします。
「ユング心理学辞典」によると、「膨張inflation」はこのように書いてあります。(翻訳によって肥大、膨張、インフレーションなどと表現が違う)
「集合的な心との同一化に少なからず関係する。この同一化は、無意識の元型内容によって引き起こされるか、もしくは意識の拡張の結果である。
方向性の喪失が生じるが、これには、測り知れない力をもっているという感じや、唯一無二の独自な存在であるという感じの伴う場合と、無価値感、無意味感が伴う場合とがある。前者は軽躁状態であり、後者は抑うつ状態である。
ユングは述べる。「自我肥大とは、意識の無意識への退行である。自我肥大が生じるのは、つねに、多くの無意識内容を意識が過剰に引き受けすぎ、区分する能力を失ったときである」」
これだけを読むと、トリップの副作用というよりはトリップそのものという感じがしないでもない。
私の考えでは、自我膨張には小さいものから病的なものまでがあります。病的なものに発展する方も何人か見ましたが、ほとんどの人は小さいもので、次第に回復します。
自我が膨張するというのは、「自分である範囲」が大きくなることです。その大きな自分には、自分じゃないものが含まれているので、それを分別して捨てなければいけません。
病的なケースでは、意識が膨らみすぎた結果、ほぼ無意識との接続が失われたようなことになる人がいます。
無意識が失われた状態は地獄です。全てが意識的なので、延々と何もかも意識する羽目になり、あらゆることを考えつづけ、どんな答えにも納得できず、ずっと考え続けることになります。
人は何かを理解して実感を得るためには、無意識の中にある「イメージ」を必要としますが、これにアクセスできないので何の実体も掴めず、何の意味もわからず、何も理解できないような状態になります。
例えば、愛とは何か?その答えはイメージとして、感情や無意識の中にあるもので、考えつけるような論理ではないので、意識的な思考で愛を導き出す事は出来ません。意識的になればなるほど、考えれば考えるほど答えから遠ざかります。
一般に、サイケデリックスは自我を殺したり小さくしたりすると思われているので、サイケ使用者は自我肥大という用語を見ただけで反発しますが、“自分がなくなる”ことこそが、実は心理学的には自我肥大です。自分以外のものに取り込まれているからです。自我は、原則なくなることがありません。なのでヒッピーやスピリチュアル人が「自我がない」などと呼んでいる状態は、ユング心理学においては自我が膨張している状態で、膨張しているから自分の中心点が分からず、アイデンティティの危機に陥っています。
・次の記事で、ユングの「自我と無意識」のより詳細なレビューをしていますので、この問題により深く入り込みたい方は是非お読みになって下さい。
サイケと心理療法
サイケに批判的な事を言うと、サイケに救われたという人が出てくる。サイケに救われた人がいることは否定しようがない事実です。彼らを否定しているわけではありません。
私自身、今はそうではないですが、昔は、ほんの少しでも、そう、ほんのちょっとでも、サイケに批判的な事を言う人を見るとキレたものです。キレて反論しました。どれだけサイケが素晴らしいか知っていたからです。しかし、今では新しい段階に来ました。今まで気が付かなかったリスクを段々と理解してきました。
サイケに“救われた”人は、当然ながらサイケに対してやたらと強い感情を抱く。こういう人の中には、サイケ「しか」自分を救わない/救えない/救えなかったと思い込む者が多い。本当にサイケしか効かないような重病もある「かも」しれないが、ほとんどの場合、特に悩みの類は非サイケ手段でも治療できるはずだ。
他の方法を試さずいきなりサイケに行くのは、初診の人に一番強い薬を出すようなものではないか。 いや、一番強い薬よりもさらに強い毒を出すようなものだ。サイケで救われたと言う人の中で、サイケの前に他の方法を試した人はどれくらいいるのだろう。他の方法が全て上手くいかなくて、サイケ「だけ」で救われたなら、確かにそれはめでたい事だし、サイケに強い感情を持つこともうなづける。
だがサイケをやたらと持ち上げる人の中には、心理療法やカウンセリングのことを一切知らず、考えたこともない人がかなりいるだろう。そんなものに効果があるわけない、と思っていることだろう。・・プロたちが何十年もかけて磨いてきたような方法が幻覚剤に勝るはずがないと。
精神分析、心理療法やカウンセリング等について読んでみれば、これらの方法がトリップに似たような過程を経るものだと分かるだろう。 トリップはその過程を強制的に、強調して、個人的に、時に神秘的に経験させるようなもの。
心理療法について完全に無知な人が、サイケの効能を謳うのを見かける。彼らはあたかも全てを分かってるかのように言うが、心理療法を知っている人などから見ればそういう人は、プロでもなんでもなく、分かってもいないハイリスクな物質を自己責任で試して自己治療しただけである。
自己治療は他人と関わらずに済み、社会的要素もないので、多くの人にとって魅力的だ。物質を飲んで解決すると思ったら多くの人が試すだろう。だが専門家の指導がないと、間違ったとき間違ったままでいてしまう。誰も正しいやり方も副作用も教えてくれない。
ネットでサイケを薦めるのは、医者でもないのに自己治療を勧めるようなものだ。
医学も心理もほとんど知らない人が、自分には上手くいったと思って、それだけで他人にも効くと思って宣伝する。これは医者から見れば危険行為としか言いようがない。
現に、サイケをやたら広めている人の中には自殺者を出したのもいる。
危険な状態の治療には危険な手段が必要だと言われている。高い効果を見込むにはリスクのある方法は必要なのだ。だから、リスクのある薬をすぐに悪いものと決めつけるわけにはいかない。
サイケデリックスはハイリスク&ハイリターンであると考えていいだろう。
持てるポテンシャルが大きいからこそ、上手く行ったときは奇跡的なことも起きる。だが上手くいかないと、とても危険にもなりうる。
私はサイケは危険だと断言して使用している人を叩いているのではない。そんな低レベルではない。
我々は、リスクがある事をわきまえて使用してほしいというだけです。薬効が強いぶん、リスクも大きいのです。私は、こういうリスクがある、という提示をしたいだけなのです。
ですがリスクにかけるほどの理由があるという人を止める権利は、誰にもありません。
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この記事は「サイケ批判」への導入です。「サイケ批判」カテゴリの記事は全てこの記事の続きになります。
・「自我と無意識」→ユングの著作「自我と無意識」前半をダイジェスト。意識拡張の過程と副作用などを記述。
・「意識拡張と「気付き」の構造」→意識拡張とはそもそも何かを論じる。気付きや真理概念の批判。
・「ユングの手紙ーサイケデリックスについて」→ユング自身によるサイケデリックスの批判を解説付きで翻訳。
・「サイケデリックスと自殺」→自殺を説明しようという試み。
・「自我について、個性と普遍性について」→自我の心理学的本質を明らかにし、誤解に基づいたスピリチュアル思想などを批判する試み。
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