私が読んだインド系ー仏教系の本の中で特におすすめしたいものを紹介・レビューします。
 また経典類も読んだものから紹介していこうと思います。

 


 インド思想史(J.ゴンダ、岩波文庫)
 訳書なので少々読みにくくはある。眠気との戦いになる箇所もないではないが、インド思想全体の流れを広く把握している良書。ヴェーダ、ウパニシャッドから仏教の興隆、ヨーガやバガヴァッドギーターまでの知識を得ることが出来る。
 最初の部分、ヴェーダからウパニシャッドにかけては特に読み込んだ。この本で初めてインドの思想に触れたが、新しい世界が眼前に開けるようで刺激的だった。
 サイケデリックスの理解にインド系思想が役に立つのか知りたい方は、まず思想史から読むといいでしょう。


 インドの思想(川崎信定、ちくま学芸文庫)
 上の本が取っ付きづらいならこちらがおすすめ。こちらのほうがコンパクトで、深みは足りないかもしれないが、はるかに読みやすい。
 悟りとサイケデリックドラッグに関する記述があったので当ブログの一記事でも引用している。


 ヨーガの哲学(立川武蔵、講談社学術文庫)
 上の二書にもヨーガの解説はあったが、もっと知りたくなったので読んだ。これもコンパクトな本なので、本当にヨーガを知り尽くせるわけではないが、優れた入門書である。
 サイケデリック体験に通ずるものがかなり見つかるだろう。作者はちゃんとした仏教学者なので、スピったナンセンスは書かれていない。


 禅とは何か(鈴木大拙、角川ソフィア文庫)
 名著。特に前半が良かった。意外にも禅について書いている部分は多くなく、まず宗教とは何か、仏教とは何か、から説き始める。宗教学入門としても読めるくらいだ。
 無意識という用語は出てこないが無意識に関する記述もあり、少しユング心理学を思わせる部分もあった。禅は哲学ではなく心理学だという主張にはかなり納得した。
 



 仏教経典散策 (中村元 編著、角川ソフィア文庫)
 仏教経典に何が書かれているのかは長年知りたいことだったが、とにかく取っ付きづらいものだった。このような本を探していたのだ。この本は複数の著者の共著で、17の経典を取り上げる。多くは日本で重要視された大乗経典。
 ここで紹介されていれる経典の多くはのちに自分で読んでみたが、イメージ通りだったものもあればイメージと違うものもあった。なので解説やダイジェストだけを読んで原典を知った気になるのは危険だ、ということだけは言っておこう。
 津田氏が書いた部分は気に入らなかった。他の著者には概ね満足している。
 経典は現代ではかなり軽視されていると思われる。このように経典を広く紹介してくれる本は貴重です。
 ここから以下、仏教経典のレビューをします。


 法華経(大角修訳、角川ソフィア文庫)
 角川ソフィア文庫はとても読みやすい現代語訳経典を多く出版しているのでおすすめする。岩波文庫などに比べてはるかに取っ付きやすいだろう。
 法華経は日本で最も重要視されていた経典で、諸経の王とも言われる。だが現代では法華経無内容説なんてものもあり、嫌われているような節もある。私自身、法華経は内容がなくプロパガンダばかりだと聞いて、たぶん自分は法華経を読むことはないなと思っていたが、結果的には知りたくて読むことになった。
 読んだ感想としては、確かにプロパガンダは半端ない。特に最後の3分の1くらいはかなりくどくなってくる。だが前半から、後半に入るくらいまでは、思ったより断然面白かった。
 確かに他の難しい経典に比べると言ってることはわりとシンプルで、複雑な哲学理論などは展開されていないように見える。その点では、高度な哲学を求めている人は無内容だなどと言うかもしれないが、そういう人が求めている内容とはなんなのだ、と思う。宗教のことをよく分からない人が無内容だと言うのだろう。
 読めば分かるが、法華経はスピリチュアルな本で、確かにこの本から宗教を作れそうだな、という感じがする。他の経典と比べても不思議な記述が多く、解釈の余地はいくらでもある。

 法華経のメインテーマは「方便」だと言える。方便とは方法、手段のことで、仏は衆生を救うために様々な方便を使う。法華経は大乗仏教の立場から「小乗」を批判するが、ただ批判するだけではなく、小乗も人を救うための方便でした、とする。こうして過去の仏教全てを包括的に取り込んで、全てが最終的には同じ救いに到達するということを説く。あたかもこれが仏典の終着点で最終話であるかのような内容なので、内容を信じていれば必然的にこれが一番大事な経典となるのだろう。

 前半は専ら比喩のストーリーが展開する。ブッダが仏の慈悲と方便を説明するために様々な比喩を用いる。
 後半に入ると、実は仏は無限の昔から悟りを開いていました、と仏陀が真の姿を明らかにする。インドで悟りを開いた歴史上のブッダは方便であり、真の仏は永久に存在するという、普遍的な仏身観を表明する。あらかじめネタバレされていると大したことがないように思うかもしれないが、事前知識なしで読んだら結構衝撃的なのではなかろうか。
 


 浄土三部経(大角修訳・角川ソフィア文庫)
 浄土宗、浄土真宗などが所依の経典として定める阿弥陀経、観無量寿経、無量寿経の三点セット。
 無量寿とは無限の寿命という意味で、阿弥陀仏の別名である。なので三部経は三つとも阿弥陀仏の名前だという事になる。
 阿弥陀経は一番短く、すぐに読める。阿弥陀仏の浄土を称える。浄土の美しさをイメージしながら読むとなかなか味わいがある。「風が吹くと一斉に百千種の楽器が交響するかのように音楽を奏でるのです」という描写は特に美しいイメージに感じたものだ。
 
 観無量寿経は三つ中では中間の長さで、無量寿仏を「観る」方法を説く。ユングは観無量寿経に関する短い論文を一つ書いており、「東洋的瞑想の心理学(創元社)」に収録されている。ユングはこの経を瞑想の指南書として読んでいる。
 だが興味深いことに、日本ではこの経は瞑想の指南書として読まれていないようなのだ。
 この経は阿弥陀仏の浄土を「観想」する方法を説いている。浄土は瞑想によって心の中に具現化するものなのだ。正確に読むと、確かに浄土そのものを説いているわけではない(はず)。※ちなみに、阿弥陀仏と釈迦は別人で、釈迦が阿弥陀仏の浄土のことを説いている。釈迦がこの苦しみの世界の仏で、阿弥陀仏が苦しみのない極楽浄土の仏だという寸法だ。
 だが観無量寿経は「浄土の様子を説いている」と解説されることがほとんどで、「浄土を瞑想する方法を説いている」という解説はあまり見られない。
 こういう発見が原典を読むことの醍醐味だろう。もし浄土教が、称名念仏ではなく観想重視の方向に発展していたら?などと妄想すると面白い。※念仏とは本来は仏を念じることで、仏身を観想して心のうちに具現化することを指す。一般に念仏と言われているのは称名念仏で、こちらは仏の名前を唱えること。

 無量寿経は三部経の中で一番長く、一番重要とされている。浄土教を知りたければ必読だ。これは阿弥陀仏の本願を説く。菩薩時代の阿弥陀仏は「これこれを実現しない限りは私は仏になりません」という誓願を48つ言うわけだが、阿弥陀仏は既に仏になっているので、ここで言われている誓願はすでに実現している、という論理になっている。
 無量寿経の中で個人的に最も印象に残ったのは、釈迦が弥勒菩薩にこういう場面。「この世間では、神々も怒りをおこして生き物を殺したりしています。この悪世で仏であることは、哀れみと大きな悲しみがあり、激烈な苦です」
 これを読んで感動したと言うと変に思われるかもしれないが、苦しみを無視せずに直視している姿勢に感心したのかもしれない。典型的な仏教の考え方では、悟りを開いた者である釈迦牟尼仏は苦を感じるはずがない。なので釈迦がこの世界で仏になることは激烈な苦ですと言うのは、通常の考え方とは矛盾する。だからこそこの記述には大きな価値があると思う。

 


 維摩経・勝鬘経(大角修訳、角川ソフィア文庫)
 最重要経典ではないが、日本の大乗仏教を形作った経典で、聖徳太子が注釈書を書いた歴史もある。
 維摩経は、維摩(ヴィマラキールティ/ゆいま)が、在家の立場から在家優位の仏教を説く。在家優位を説くため、出家僧はこれをありがたい経典だとは思わないことだろう。なのでこれを所依の経典に定めている宗派はない(聖徳太子は珍しく、出家しない在家の仏教者だった)。
 序盤ではまず維摩がブッダの弟子たちを次々と論破していく。これは議論というよりは、維摩が突然現れては一方的に喋り散らすだけなので、ちょっとシュール。論破されるブッダの弟子たちは小乗仏教の立場を表しており、維摩は在家主義の大乗仏教を説く。「出家の利益と功徳を説いてはなりません。なぜなら、功徳も利益も求めないのが出家だからです」・・これは名言。
 維摩は理想の人間像として中国などでは特に人気だったそうだが、欠点がない人みたいに書かれているので、正直読んでいて、感情移入は出来ない。現代人の我々にとっては少しうざい人かもしれない。が、小説の登場人物としてではなく、理想の菩薩像として見ればいいのだろう。

 勝鬘経というのはかなり特異な書で、女性である勝鬘(シュリーマーラー/しょうまん)夫人が教えを説き、釈迦がそれに賛同するという形式になっている。
 仏教はインドの女性差別風潮を引き継いでいるので、例えば浄土三部経では、女性は男性に生まれ変わってからでないと極楽浄土に往生できないという記述があるが、勝鬘経の立場では、おそらく女性もそのまま悟りを開ける(はず、明確な記述はなかったと思う)。
 勝鬘が説く内容は、難解なところが多い。何度読み返しても意味が分からない箇所があったので、記述が不完全なんだという考えに落ち着いた(言い訳ではなく、本当に論理的に不完全で筋が通ってない。だが不完全だからこそ解釈の余地ができ、解釈の余地があるほど宗教は発展できるので問題はないのだ)。でも深い何かが書かれているように思うので、気が向いたらまたチャレンジするかもしれない。

 後日追記:大乗仏典シリーズ「如来蔵系経典」に収録されている勝鬘経を読んだが、こちらの方が分かりやすい翻訳であった。私の知識が増えたからもあるかもしれないが、こちらの訳を読んだ時は勝鬘経の思想内容を問題なく理解できた。しかし難解であることには変わりありません。思想の密度はかなり濃いです。




 般若心経・金剛般若経(中村元・紀野義訳注、岩波文庫)
 おそらく最も有名な経である般若心経は数ページに収まるほど短い経で、日本の大乗仏教のほとんどの宗派が利用する基本的な経典。大乗仏教が誕生してから最初に成立したという般若経典類の思想をごく短いエッセンスに濃縮したようなもの。般若とはプラジュニャー(知恵)の意味である。
 般若経典は空の思想を説く。あらゆるものは空、実体がない。これもない、あれもない、あれもこれもないという文が続く。
 読むのは簡単だが、実感を得るのは難しい。悟りに到達しないと、空を本当に実感することは出来ない。こういう経は仏の悟りの目線から見た世界を説いているので、我々にはナンセンスに聞こえるものも少なくない。

 金剛般若経も比較的短く、50ページ程度しかない(全く同じ内容の繰り返しがあるので実際の内容はそれより少ない)。般若心経を引き延ばしたような内容で、釈迦が弟子たちにこれもない、あれもないと説く。中国の禅士たちの中には、金剛般若経を読み込んで悟りを得た者もいるそうだが、確かにこの経の内容にはかなり禅的なものがある。どこまでも徹底的に常識を疑う態度。如来は何も悟っていないとか、如来は誰も救わないとまで言う始末。
 自分が悟ったと思っている人が、実はまだ自我に執着しているということを暴いていく。

  追記:大乗仏典シリーズ1「般若部経典」に収録されている金剛般若経のほうが読みやすい。この本には「善勇猛般若経」も収録されているが、般若思想をより理解したければオススメする。金剛般若経は分量が少ないので、これだけで般若思想を理解することは出来ない。
 もっとマニアックに攻めたい人は、大乗仏教シリーズ2〜3の「八千頌般若経」を読んでみると良い。こちらは個別の記事でレビューを書いています。


 華厳経入門(木村清孝、角川ソフィア文庫)
 けごんきょう。全体を解説したコンパクトな入門書。
 アマゾンで見かけた華厳経全訳は上下巻で2000ページ近くあり、4万八千円だったので一生読むことはないかもしれない。書店で華厳経全訳を見たことはない。※岩波文庫の「華厳経入法界品(上・中・下)は華厳経の最終章である入法界品だけです。

 華厳経はおそらく最も内容がリッチな経だろう。だが長ったらしく、叙述が不完全なところもいくらかあるようだ。相当な人でないと読みこなせないだろう。入門書でも眠くなるところはあった。
 華厳経は単独の経というよりは、経典のグループである。華厳経の全体はインドでは発見されていない。インド由来の経典が、西域でまとめられたものと推定されている。
 華厳経は仏の悟りの世界をそのまま説いているとされる。法華経は誰でも分かるように説かれているのに対し、こちらは聞いている側のレベルが高くないと理解できない教えということになっている。

 中国と日本では、経典の成立年代と関係なく経典が輸入されたので、釈迦が各経典をいつ説いたかというのが問題になった(大乗経典は釈迦の直説ではないが、直説だと信じられていた)。法華経は釈迦の入滅直前の最後で最高の教え、華厳経は釈迦が悟りを開いた直後に悟りの世界をそのまま表した経ということになっている(実際は、両方とも釈迦入滅後数世紀たってから成立したものだが)。
 華厳経の仏は毘盧舎那(びるしゃな)仏と呼ばれているが、これは後の密教の大日如来と同一だとされている。どちらも光輝くという意味のヴァイローチャナから来ている。奈良の大仏が毘盧舎那仏だと知ると、急に親近感が湧く。
 華厳宗という宗派は華厳経を最重要視して研究していた。現在もまだ存在するらしい(華厳宗は経典研究がメインで、葬儀などはやらないそうだ)

 華厳経は、小が大だとか、一が全だとかいう思想を説く。全てが関わり合っていて、悟りの世界ではすべてが隔てなく同一。そういう形而上学的な面も魅力的だが、菩薩道に関する道徳哲学的な記述も目を引く。菩薩がどう生きるべきか、何を願うべきか。どういう行動をすればいいか。様々な菩薩の境地が延々と書かれる。すんなりと頭に入るものではなく、よく考えることが要請される。全体的に、かなり深い経だとは思うが、読み易くはないので、法華経のように万人向けのものではない。
 

 大日経・金剛頂経(大角修、角川ソフィア文庫)
 これはレビューしていいのか分からない。意味不明な本だった。立ち読みの時点でこれはどう見ても読めないなということは分かっていたが・・。 
 これは密教経典で、真言宗が所依の経典として定めている。大日経はまだギリギリ大乗要素が残っているが、金剛頂経はもう大乗ではない密教経典だと言われる。
 どちらも、読書として読むような本として書かれたのではない。密教僧向けの修行の指導書みたいなものである。これが読めないのは読解力の問題ではなく、もともと意味不明に書かれているのだ。
 象徴的な表現に満ちていて、深い意味が隠されているという寸法だ。なので注釈書や、師からの指導に頼らないと意味が分からないのだろう。
 私はこの本にはすごい悟りの秘密が隠されているのではないかと昔から思っていて気になっていたのだが、読んでみたところ何も印象に残らないまま終わってしまった。大日経は全然頭に入ってこないし、金剛頂経に至っては半分以上読み飛ばした。マンダラの菩薩の出生について書いてあるのだが、全く何の意味もない文章が延々と続いているようにしか見えなかった。
 この二書はあの有名なマンダラ図の出典になっている。胎蔵曼荼羅は大日経から来ており、金剛界曼荼羅は金剛頂経から来ている。この二経はマンダラの作り方、マンダラへの入り方などを説く。
 大日経と金剛頂経、そして密教一般について知りたければ、下に紹介する二書をおすすめする。


 密教(正木晃、ちくま学芸文庫)マンダラを生きる(正木晃、角川ソフィア文庫)
 この二書は同じ著者で、内容が被っているところもあるので一緒に紹介する。どちらも密教の歴史と、曼荼羅の理論を解説しているが、手応えが欲しければ前者の本、マンダラが関心なら後者の本だけ読むのでも良いだろう。
 ここでは大日経の胎蔵曼荼羅と、金剛頂経の金剛界曼荼羅が解説されている。
 前者の本には密教の具体的な修行方法についての記述もある。月輪観や阿字観、五相成身観など。
 
 追記:私はこの著者の思想には一部反対するものがある。例えばユングがマンダラを「誤解」しているとの記述があるが、(はるかにユングを読み込んでいるだろう)私からみると、この著者のほうがユングを誤解している。またこの著者は密教が主な専門分野だからか、大乗の理解にはいくらか穴があるように見える。



 理趣経(正木晃、角川ソフィア文庫)
 般若経典のグループに属しているので空の思想を説くが、密教経典でもあるので密教の真言宗が読誦している。
 密教は性を肯定する方向に進んだという歴史を持っている。この経は性欲も性行為も肯定して「洗浄」だという衝撃的な初段から始まる。性の快楽を菩薩の境地に喩えるのだ。
 密教は大乗仏教から堕落したものだと考える人もいるが、この経典は一種の発展を示しているのではないかと個人的には思う。
 第三段では、「欲望は、その本性をよくよく観察すれば、善とか悪とかいう分別を超えるものなのです」。ここまで来るともう仏教じゃないという人もいるかもしれない。だが、自分は原始仏教の説教がましい態度より、こちらのほうがいいのではないかと思う。・・が、原始仏教の知的で禁欲的な面こそが仏教の特徴だと思っている人には、確かにこれは受け入れがたいかもしれない。

 最澄(天台宗の開祖)は理趣経の解釈に悩み、空海(真言宗の開祖)に理趣釈(理趣経の注釈書)を貸してくれと頼んだところ、空海が断る、といったエピソードが残されている。理趣経にも、凡人には分からない深い意味が隠されているように信じられているらしい。空海は、密教の深みは文字では伝えられないと信じており、部外者に注釈書を渡してはいけないと考えたのでしょう。

 理趣経は性に関する記述があることばかりが有名だが、初段を過ぎると後は意外にも大乗仏教的な内容であった。慈悲による救いを説く。読みにくい部分も特になかった。







 「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々(大竹晋、新朝選書)

 この本はしっかり読み込んでから個別の記事でレビューしたいのですが、ここで軽くレビューします。
 これはすごく価値の高い本で、筆者の努力を心から誉めたいと思います。我々のために相当な量の古書を掘り出して読みあさってくれたのでしょうから。
 古代中国から古代〜現代日本までの、様々な宗派の人たちによる悟り体験記をまとめたものです。50以上の悟りレポートを含みます。
 原文が古文のものはもちろん現代語訳されてます。この本はサイケデリック悟りと驚くほど類似した様々なタイプの神秘体験が(もちろんしらふで!)昔から経験されていたということをはっきりとあなたに証明します。
 中には頭がおかしくなる人など、神秘体験の副作用的な面もふくめて、あらゆるバリエーションが記述されています。

 これはおそらくマニアックな人しか読まないような本でしょうけども、ほこりをかぶって忘れられてしまっては非常にもったいない。日本仏教の精神が忘れ去られないように、維持して語りつぐ責任が我々にはあると思います。





(2023年追加分)


 インド仏教の歴史(竹村牧男、講談社学術文庫)
 悟りと空というものに焦点を当てて、原始仏教、部派仏教の展開、大乗仏典の紹介と、空と唯識思想の解説を含む。
 アビダルマや中観、唯識はどれも煩雑で難しいが、もともと難しいものなのでしょうがない。インド仏教思想史としてはおすすめできる本。



 ブッダが説いたこと(ワールポラ・ラーフラ、岩波文庫)
 これは原始仏教入門としては、手に入る中で最高クラスの本です。「仏教を語るにふさわしい」と評されたスリランカの学僧である著者が英語で1959年に発表した本の翻訳です。 
 我々の日本の仏教は基本的に大乗仏教なので、我々は原始仏教やパーリ仏典にはあまり馴染みがありません。この本は開祖であるブッダ本人の思想がいかに優れていたかというのを教えてくれます。
 主にキリスト教徒が読むのを想定しているため、一神教側からの仏教への誤解や偏見などを斬ることにも力が注がれていますが、それも現代の日本人著者には書けないものですね。
 内容は、仏教的な心のあり方、四諦の解説、瞑想についてと進んでいきます。四諦は原始仏教の根幹とでもうべきもので、四諦の理解がそのまま原始仏教の理解と言っても過言ではないです。
 また瞑想についても優れた紹介をしています。この本は瞑想が「陳腐なテクニック」のようにされてしまったということであえて瞑想という言葉を使わずに「心の修養」と呼んでいます。




 菩薩ということ(梶山雄一、法蔵館文庫)
 これはタイトルどおり菩薩ということが何かを説いた名著である。この本は大乗仏教入門として、そして般若経典や空思想の入門としても優れている。
 菩薩と小乗の修行者はどうちがうのかというと、菩薩は執着しない、区別をしない(不二)ということを重点的に言う。小乗の修行者は聖俗を区別し、聖なるものを求める。だが大乗の菩薩は聖俗を区別しない。なので世俗の中で聖なる生活をする。この区別をしないという不二の考え方を支えているのが空の思想なのです。小乗の修行者は聖なるものや悟りを求めるあまり、結局はそれに執着しているのではないか、と大乗側は言うわけです。