以前エゴデスに関する記事を書きました。そちらの記事も加筆編集を加えて来ましたが、それでもエゴデスを完全に記述しているとは思えないでおりました。もっとうまく説明出来ないだろうかと考えて来ました。
今回は、より完全なエゴデスの記述をするべく記事をおこします。
エゴデス体験
エゴデスとは自我の死、自我の消滅状態を指す用語です。
サイケデリックスはエゴデス体験を引き起こすと言われておりますが、サイケユーザーの何割かはエゴデスを全く知りません。またもう何割かは、エゴデスじゃないものをエゴデスと呼んでいます。
結局のところ、経験がない人はどれだけ説明を読んで想像力を働かせたところで理解できることはないと思われます。
たまに、エゴデス体験の快さを語る人がいます。こう言う人はまず疑った方がいいでしょう。エゴデスは基本的には、人が望んでするようなものではありません。エゴデスは自分の死を認める、または自分に実体がないことを認める体験です。個人にとってこれ以上避けたいものはないはずです。一度経験したら一生忘れることはないでしょう。それが少しでも楽しいことであるかのように言う人、深刻性が一切感じられない人は、エゴデスを知っているとは思えません。人生で一番重い体験になりうるので、本当に経験した人はそれなりの深刻さをもって記述するはずです。
スピリテュアルな人はこれを美しい体験と呼びたがります。事実、捉え方によっては美しい体験になり得ます。しかし、エゴデスに直面した個体は、基本的には、それを望んでいないことを知ります。ほとんどの人はその強烈さに準備が出来ておらず、抵抗します。
(抵抗はサイケデリック体験の場合の話で、ヨーガや禅などの瞑想でエゴデスに到達出来る人は自分から入ることができ、またサイケの副作用と言える強い恐怖感もないため、おそらく抵抗しないと思うが、正直正確には分からない)
また理論上のエゴデスと実際のエゴデスにはけっこう違いがあると考えた方がいいです。本当のエゴデスそのものの記述は言葉では不可能です。私たちに出来ることは、せいぜいアウトラインをスケッチして、体験をガイドし、解釈するための手助けを与えるくらいのものだと思ってください。
自我とは何か
自我の消滅と聞いて、まず人が戸惑う第一の理由は、自我が何かを知らないからです。 知っているようで、実は知らない。自我はごく基本的な用語でありながら、厳密に定義出来る人はそんなに多くないでしょう。今回この記事では、自我が何なのかをはっきりさせます。
「自分」「自己」「自我」、これらの言葉は実に多くの事を指します。一つのものを指すのではありません。だからこそ分かりにくいのです。 これらの言葉一つ一つにはっきりとした意味を与えようと思います。

これはユングの精神モデルです。私はユング心理学からの影響を大きく受けているので、これまでは、自我について考える際、この図を参考にして来ました。しかし見ての通り、これは自我が何か良く分かりません。ユングは自我を「意識の中心点」と定義します。が、はっきり言って意識の中心点とはなんのことかよく分かりません。この図から自我を消したら、下図のようになりますが、これを見たところで、エゴデスの何たるかは全然イメージがつかめません。

そういうわけで、私はしばらくの間混乱の状態にあったんですが、どうしてもエゴデスを図で表したかったので、自分で図を作成しました。

上の図・通常の意識

上の図・自我が消滅した意識
この図に至るまでの考え方をこれから説明しましょう。
あなたは存在しない
今からあなたが存在しないことを証明しますが、その前に日本について話しましょう。
日本とは何か?
日本列島の国土のことか?それとも日本国民のことかだろうか?日本の歴史のことか?日本文化のことか?政府のことか?そのどれでもない。だが、その全てである。
日本とは何かというと、これらの漠然とした諸要素の集合体を、一つのまとまりがある全体として見立てて、一つの名前をつけものなのだ。だからある意味では日本は存在しない。確固たる実体はない。これら諸要素の一つ二つが抜け落ちても日本は問題なく存在し続けるのだ。もし日本国土が突然沈没しても、日本国民と日本文化は生き残るだろう。もし日本国民がみな突然死んでも、国土や文化は残る。
そこで自分とは何か考えてみるといい。この身体のことか。それともこの意識のことか。これまで生きてきた人生のことか。他人に見せるアイデンティティか。社会の中での役割か。それとも今まで経験した総ての意識のことか。 実はそのどれでもない。その全てを同一の、一貫性のあるものに見立てて、一つの全体として見ているに過ぎない。それが自分なのだ。
我らの身体を構成する原子は一定期間経つと全てが入れ替わる。もし身体が自分の実体なら、昔の自分は他人ということになる。
もしアイデンティティが自分の実体なら、アイデンティティを変えたとき別の人になることになる。だが別の人にはならない。 もし意識が自分の実体なら、我々は眠る事が出来ない。 この、自分を自分たらしめる諸要素を、一つのまとまった実体として見なす機能こそが「自我」というものなのではないか。
だが人は、自分に実体があり、自我を実体のことだと思っている。
「自我が消失しているときに自我が消失していることを自覚しているのは誰なのか?」という問題がある。単純に考えると、自我が消失するのは論理的に無理であるように見えるので、これはもっともな質問だ。この質問が私にとって長い間難問だった。これに当たると混乱して、わけが分からなくなった。
この質問に答えるのが難しいのは、「自分」や「自我」や「自己」という言葉が多様な意味を持っているにも関わらず、一つの実体であるように見なしているからなのだ。
この質問の答えは「意識」です。
自我と意識を同一視するからこの疑問が生じる。意識は自我ではないのだ。自我とは意識の形式のようなものに過ぎない。
「自分」という言葉は、自我を指すときもあれば、意識を指すときもある。普通の会話でこの両者は区別されない。だからこそ、人は自我と意識を混同する。
ヒッピーや仏教徒が「自我は幻想」と言うとき、これは身体が幻想だとか、意識や人生が幻想だという意味ではない。常に変動している諸要素の集合体ある自分を恒久的で一貫性のある全体として見立てているのが幻想だと言うのだ。
エゴデス現象は、脳のどこかの活動が低下することによって、自分が一貫性のある実体であるという自覚(=自我)を維持できない状態だと考える。
普段、この自我機能は我々には当たり前すぎて、意識されない。無意識である。自我は意識内容ではなく、意識の形式みたいなもの。
どこかで、自我とは「自分が自分だと思っているもの」という定義を聞いたことがあるが、これはとても的確で具体的だと思う。
図の読み方
意識とは、認識の作用そのもの。
自我とは、意識に「自分が誰か」という情報を付与する機能。
自我の内容としては、時間性、社会性、身体性の三つに分けてみた。これは他の分け方も考えられるので、恣意的なものです。自我を三つに分けることに深い意味はないですが、この分け方が分かりやすく説明できると思ったので採用しました。
時間性とは、これまで生きて来た過去の人生、これから生きたい未来の時間を指す。意識が時間性の自我(そういう呼び方にしよう)に接続されていることにより、意識であるあなたは、過去に起きたことを自分自身と結びつけることが出来る。この自我は過去の後悔や未来の不安を引き起こす。時間性の自我が失われると、あなたは時間から切り離され、「永久の今」を過ごすことになる。
身体性は、あなたの体の感覚。そしてあなたの肉体。身体性の自我は、あなたが自分の体を所有しているように感じさせる機能。これが消滅すれば、あなたは身体感覚がなくなったり、身体を所有していないような気持ちになったりする。
時間性と身体性は内向きの顔で、それぞれ時間と空間に属していると言える。
社会性の方は、外に向いている自我。あなたのこれまでの人間関係、アイデンティティ、ペルソナである。あなたの周りの人との関係、あなたの学校、職場、趣味など、社会=他人との関係性も、あなたが誰であるかを形作っている非常に大きな要素である。これは他人と関係を持つための自我なので、この自我が失われていると、あなたは自分が誰か分からなくなるのはもちろん、他人との関係性を失ったように感じる。
自我とは、認識作用である意識を、この三つの内容につなげているパイプのような役割を果たしています。
「自我が大きい人」は、このパイプが太いということになります。このパイプが太いと太いほど、自分のアイディンティティなどへの執着が強く、こだわる事になります。
自我の消失体験は、自我が弱まる体験です。
意識と三つの自我内容の接続が完全に失われるのが、理論上の「完全なエゴデス」ということになります。この完全なエゴデスを経験した人は非常に少ないです。相当に経験のあるサイコノートでも多くは経験がありません。ほとんどの人は、自我が弱まる程度の体験をエゴデスと呼んでいると思います。ですが、それも間違いというわけではないです。自我が弱まる程度の体験も十分に強烈で、人生観が変わるものです。
ちなみに、ヨーガや禅などが最終的に目指すのも、この完全なエゴデスです。なので、ドラッグなしでも到達は可能だと考えております(もちろん、非常に難しいが)。
信じられないという方は、立川武蔵「ヨーガの哲学」や大竹晋「悟り体験を読む」などを読んでみてください。(この本はいつかレビューする予定です)
自己、全てが同一になる場所
自己なるものは存在しない。意識と自我はもともと結びついており、一貫性のあるまとまりであるように見える。人はそれを自己と呼ぶ。だが自己に実体はない。せいぜい、哲学的/宗教的な設定しかできない。上の図では、「自分」という表記で自己を表している。
内容(自我)を失った意識は、ただの認識作用になる。ただの認識作用となった意識は、全ての自分以外の認識作用(他人の意識)が、自分と同じだという悟りに到達する。各個体の違いは表面的な自我だけで、存在の本質である意識のレベルでは全員が同一なのだ。あらゆる存在が同一であった。世界とは無数の意識が自我の多様性を演じている大きな劇であった。
認識作用そのものは、自己を持たないため、おのれが宇宙そのもの=全体であることを知る。 この領域では彼の元々の人格はもう存在しておらず、死んでいるということになる。
死は意識の終わりである。対して、エゴデスは意識以外の全ての終わりである。死と近いようで、よくよく考えてみると真逆でもある。 エゴデスは死と違って意識自身が実際に経験できる。これはあらゆる全ての経験のなかでもひとつの頂点の場所に位置している。「究極の体験」といっても誇張はない。自我に起こりうる全てのことの中で、これよりも大きな事件は理論上は存在しえない。
おそらく意識は、死とエゴデスをあまり区別できない。だからトリップ者は死を経験したと言うのだ。外野からは戯言に聞こえても、彼らが死を経験したのは本当なのだ。
エゴデスが経験されるには明晰な意識が必要になる。意識が朦朧としていたら、エゴデスを経験している意識が小さいことになる。なので、解離や健忘などはエゴデスではないと考えている。自我を忘れるだけではエゴデスではないのだ。自我に実態がないことを実感する意識が必要。意識が飛んでいてはエゴデス体験とは言えないはずだ。
もう一つのエゴデス
全てのエゴデスが自我感覚の消失ではない。明らかに、自我感覚とあまり関係がないエゴデスが存在する。こちらのエゴデス現象をなんと呼ぶかは昔から悩んでいた。海外でも、この二つのエゴデスは混同されていると思う。
もう一つのエゴデスとは、死を感じる体験である。または死を理解、実感する、自分の死期を見る体験。こちらの現象は上の図では表せていないし、当てはまらない。
心理学的、哲学的にこのエゴデスの違いを説明するのは非常に難しいのだが、脳科学的な説明ならできると思う。
上で解説したエゴデス、自我感覚の消失は、脳の活動で見ると、抑制的なものである。つまり活動が減少していると考えられる。
私がここでもう一つのエゴデスと呼んでいる死を感じる体験は、脳の活動がおそらく増えている。大量の神経伝達物質が、恐怖やその他独特の感覚を作っていると考えてられる。
もしかすると、こちらのほうが元々エゴデスと呼ばれるもので、自我感覚の消滅はエゴデスではないのかもしれない。正直なところ分からない。だが私のように、分析して区別しようとする人は多くないので、私だけの悩みかもしれない。
こちらの、死を悟る方の体験は、必ずしも自我感覚と関わっていない(自我感覚と関係があるとしても、消滅するのではない)。だが、そもそも自我というものが心理学上の仮定的な概念で、これも実体がないので、この二つのエゴデスを区別する必要はないのかもしれない。
実際のサイケデリック体験はものすごく深く、複雑で、意味不明なもの。本来、図で表現することなどありえない。エゴデスのような体験を図で持って表そうとする試みがそもそも無謀なものなのでしょう。トリップ中は、自分に何が起こっているかなかなか理解出来ません。トリップが終わった後記憶から体験が整理されて、ごく簡略化された説明がなされても、元の体験は説明が不可能なのです。というわけで、ここでこの記事を終わろうと思います。
今回は、より完全なエゴデスの記述をするべく記事をおこします。
エゴデス体験
エゴデスとは自我の死、自我の消滅状態を指す用語です。
サイケデリックスはエゴデス体験を引き起こすと言われておりますが、サイケユーザーの何割かはエゴデスを全く知りません。またもう何割かは、エゴデスじゃないものをエゴデスと呼んでいます。
結局のところ、経験がない人はどれだけ説明を読んで想像力を働かせたところで理解できることはないと思われます。
たまに、エゴデス体験の快さを語る人がいます。こう言う人はまず疑った方がいいでしょう。エゴデスは基本的には、人が望んでするようなものではありません。エゴデスは自分の死を認める、または自分に実体がないことを認める体験です。個人にとってこれ以上避けたいものはないはずです。一度経験したら一生忘れることはないでしょう。それが少しでも楽しいことであるかのように言う人、深刻性が一切感じられない人は、エゴデスを知っているとは思えません。人生で一番重い体験になりうるので、本当に経験した人はそれなりの深刻さをもって記述するはずです。
スピリテュアルな人はこれを美しい体験と呼びたがります。事実、捉え方によっては美しい体験になり得ます。しかし、エゴデスに直面した個体は、基本的には、それを望んでいないことを知ります。ほとんどの人はその強烈さに準備が出来ておらず、抵抗します。
(抵抗はサイケデリック体験の場合の話で、ヨーガや禅などの瞑想でエゴデスに到達出来る人は自分から入ることができ、またサイケの副作用と言える強い恐怖感もないため、おそらく抵抗しないと思うが、正直正確には分からない)
また理論上のエゴデスと実際のエゴデスにはけっこう違いがあると考えた方がいいです。本当のエゴデスそのものの記述は言葉では不可能です。私たちに出来ることは、せいぜいアウトラインをスケッチして、体験をガイドし、解釈するための手助けを与えるくらいのものだと思ってください。
自我とは何か
自我の消滅と聞いて、まず人が戸惑う第一の理由は、自我が何かを知らないからです。 知っているようで、実は知らない。自我はごく基本的な用語でありながら、厳密に定義出来る人はそんなに多くないでしょう。今回この記事では、自我が何なのかをはっきりさせます。
「自分」「自己」「自我」、これらの言葉は実に多くの事を指します。一つのものを指すのではありません。だからこそ分かりにくいのです。 これらの言葉一つ一つにはっきりとした意味を与えようと思います。

これはユングの精神モデルです。私はユング心理学からの影響を大きく受けているので、これまでは、自我について考える際、この図を参考にして来ました。しかし見ての通り、これは自我が何か良く分かりません。ユングは自我を「意識の中心点」と定義します。が、はっきり言って意識の中心点とはなんのことかよく分かりません。この図から自我を消したら、下図のようになりますが、これを見たところで、エゴデスの何たるかは全然イメージがつかめません。

そういうわけで、私はしばらくの間混乱の状態にあったんですが、どうしてもエゴデスを図で表したかったので、自分で図を作成しました。

上の図・通常の意識

上の図・自我が消滅した意識
この図に至るまでの考え方をこれから説明しましょう。
あなたは存在しない
今からあなたが存在しないことを証明しますが、その前に日本について話しましょう。
日本とは何か?
日本列島の国土のことか?それとも日本国民のことかだろうか?日本の歴史のことか?日本文化のことか?政府のことか?そのどれでもない。だが、その全てである。
日本とは何かというと、これらの漠然とした諸要素の集合体を、一つのまとまりがある全体として見立てて、一つの名前をつけものなのだ。だからある意味では日本は存在しない。確固たる実体はない。これら諸要素の一つ二つが抜け落ちても日本は問題なく存在し続けるのだ。もし日本国土が突然沈没しても、日本国民と日本文化は生き残るだろう。もし日本国民がみな突然死んでも、国土や文化は残る。
そこで自分とは何か考えてみるといい。この身体のことか。それともこの意識のことか。これまで生きてきた人生のことか。他人に見せるアイデンティティか。社会の中での役割か。それとも今まで経験した総ての意識のことか。 実はそのどれでもない。その全てを同一の、一貫性のあるものに見立てて、一つの全体として見ているに過ぎない。それが自分なのだ。
我らの身体を構成する原子は一定期間経つと全てが入れ替わる。もし身体が自分の実体なら、昔の自分は他人ということになる。
もしアイデンティティが自分の実体なら、アイデンティティを変えたとき別の人になることになる。だが別の人にはならない。 もし意識が自分の実体なら、我々は眠る事が出来ない。 この、自分を自分たらしめる諸要素を、一つのまとまった実体として見なす機能こそが「自我」というものなのではないか。
だが人は、自分に実体があり、自我を実体のことだと思っている。
「自我が消失しているときに自我が消失していることを自覚しているのは誰なのか?」という問題がある。単純に考えると、自我が消失するのは論理的に無理であるように見えるので、これはもっともな質問だ。この質問が私にとって長い間難問だった。これに当たると混乱して、わけが分からなくなった。
この質問に答えるのが難しいのは、「自分」や「自我」や「自己」という言葉が多様な意味を持っているにも関わらず、一つの実体であるように見なしているからなのだ。
この質問の答えは「意識」です。
自我と意識を同一視するからこの疑問が生じる。意識は自我ではないのだ。自我とは意識の形式のようなものに過ぎない。
「自分」という言葉は、自我を指すときもあれば、意識を指すときもある。普通の会話でこの両者は区別されない。だからこそ、人は自我と意識を混同する。
ヒッピーや仏教徒が「自我は幻想」と言うとき、これは身体が幻想だとか、意識や人生が幻想だという意味ではない。常に変動している諸要素の集合体ある自分を恒久的で一貫性のある全体として見立てているのが幻想だと言うのだ。
エゴデス現象は、脳のどこかの活動が低下することによって、自分が一貫性のある実体であるという自覚(=自我)を維持できない状態だと考える。
普段、この自我機能は我々には当たり前すぎて、意識されない。無意識である。自我は意識内容ではなく、意識の形式みたいなもの。
どこかで、自我とは「自分が自分だと思っているもの」という定義を聞いたことがあるが、これはとても的確で具体的だと思う。
図の読み方
意識とは、認識の作用そのもの。
自我とは、意識に「自分が誰か」という情報を付与する機能。
自我の内容としては、時間性、社会性、身体性の三つに分けてみた。これは他の分け方も考えられるので、恣意的なものです。自我を三つに分けることに深い意味はないですが、この分け方が分かりやすく説明できると思ったので採用しました。
時間性とは、これまで生きて来た過去の人生、これから生きたい未来の時間を指す。意識が時間性の自我(そういう呼び方にしよう)に接続されていることにより、意識であるあなたは、過去に起きたことを自分自身と結びつけることが出来る。この自我は過去の後悔や未来の不安を引き起こす。時間性の自我が失われると、あなたは時間から切り離され、「永久の今」を過ごすことになる。
身体性は、あなたの体の感覚。そしてあなたの肉体。身体性の自我は、あなたが自分の体を所有しているように感じさせる機能。これが消滅すれば、あなたは身体感覚がなくなったり、身体を所有していないような気持ちになったりする。
時間性と身体性は内向きの顔で、それぞれ時間と空間に属していると言える。
社会性の方は、外に向いている自我。あなたのこれまでの人間関係、アイデンティティ、ペルソナである。あなたの周りの人との関係、あなたの学校、職場、趣味など、社会=他人との関係性も、あなたが誰であるかを形作っている非常に大きな要素である。これは他人と関係を持つための自我なので、この自我が失われていると、あなたは自分が誰か分からなくなるのはもちろん、他人との関係性を失ったように感じる。
自我とは、認識作用である意識を、この三つの内容につなげているパイプのような役割を果たしています。
「自我が大きい人」は、このパイプが太いということになります。このパイプが太いと太いほど、自分のアイディンティティなどへの執着が強く、こだわる事になります。
自我の消失体験は、自我が弱まる体験です。
意識と三つの自我内容の接続が完全に失われるのが、理論上の「完全なエゴデス」ということになります。この完全なエゴデスを経験した人は非常に少ないです。相当に経験のあるサイコノートでも多くは経験がありません。ほとんどの人は、自我が弱まる程度の体験をエゴデスと呼んでいると思います。ですが、それも間違いというわけではないです。自我が弱まる程度の体験も十分に強烈で、人生観が変わるものです。
ちなみに、ヨーガや禅などが最終的に目指すのも、この完全なエゴデスです。なので、ドラッグなしでも到達は可能だと考えております(もちろん、非常に難しいが)。
信じられないという方は、立川武蔵「ヨーガの哲学」や大竹晋「悟り体験を読む」などを読んでみてください。(この本はいつかレビューする予定です)
自己、全てが同一になる場所
自己なるものは存在しない。意識と自我はもともと結びついており、一貫性のあるまとまりであるように見える。人はそれを自己と呼ぶ。だが自己に実体はない。せいぜい、哲学的/宗教的な設定しかできない。上の図では、「自分」という表記で自己を表している。
内容(自我)を失った意識は、ただの認識作用になる。ただの認識作用となった意識は、全ての自分以外の認識作用(他人の意識)が、自分と同じだという悟りに到達する。各個体の違いは表面的な自我だけで、存在の本質である意識のレベルでは全員が同一なのだ。あらゆる存在が同一であった。世界とは無数の意識が自我の多様性を演じている大きな劇であった。
認識作用そのものは、自己を持たないため、おのれが宇宙そのもの=全体であることを知る。 この領域では彼の元々の人格はもう存在しておらず、死んでいるということになる。
死は意識の終わりである。対して、エゴデスは意識以外の全ての終わりである。死と近いようで、よくよく考えてみると真逆でもある。 エゴデスは死と違って意識自身が実際に経験できる。これはあらゆる全ての経験のなかでもひとつの頂点の場所に位置している。「究極の体験」といっても誇張はない。自我に起こりうる全てのことの中で、これよりも大きな事件は理論上は存在しえない。
おそらく意識は、死とエゴデスをあまり区別できない。だからトリップ者は死を経験したと言うのだ。外野からは戯言に聞こえても、彼らが死を経験したのは本当なのだ。
エゴデスが経験されるには明晰な意識が必要になる。意識が朦朧としていたら、エゴデスを経験している意識が小さいことになる。なので、解離や健忘などはエゴデスではないと考えている。自我を忘れるだけではエゴデスではないのだ。自我に実態がないことを実感する意識が必要。意識が飛んでいてはエゴデス体験とは言えないはずだ。
もう一つのエゴデス
全てのエゴデスが自我感覚の消失ではない。明らかに、自我感覚とあまり関係がないエゴデスが存在する。こちらのエゴデス現象をなんと呼ぶかは昔から悩んでいた。海外でも、この二つのエゴデスは混同されていると思う。
もう一つのエゴデスとは、死を感じる体験である。または死を理解、実感する、自分の死期を見る体験。こちらの現象は上の図では表せていないし、当てはまらない。
心理学的、哲学的にこのエゴデスの違いを説明するのは非常に難しいのだが、脳科学的な説明ならできると思う。
上で解説したエゴデス、自我感覚の消失は、脳の活動で見ると、抑制的なものである。つまり活動が減少していると考えられる。
私がここでもう一つのエゴデスと呼んでいる死を感じる体験は、脳の活動がおそらく増えている。大量の神経伝達物質が、恐怖やその他独特の感覚を作っていると考えてられる。
もしかすると、こちらのほうが元々エゴデスと呼ばれるもので、自我感覚の消滅はエゴデスではないのかもしれない。正直なところ分からない。だが私のように、分析して区別しようとする人は多くないので、私だけの悩みかもしれない。
こちらの、死を悟る方の体験は、必ずしも自我感覚と関わっていない(自我感覚と関係があるとしても、消滅するのではない)。だが、そもそも自我というものが心理学上の仮定的な概念で、これも実体がないので、この二つのエゴデスを区別する必要はないのかもしれない。
実際のサイケデリック体験はものすごく深く、複雑で、意味不明なもの。本来、図で表現することなどありえない。エゴデスのような体験を図で持って表そうとする試みがそもそも無謀なものなのでしょう。トリップ中は、自分に何が起こっているかなかなか理解出来ません。トリップが終わった後記憶から体験が整理されて、ごく簡略化された説明がなされても、元の体験は説明が不可能なのです。というわけで、ここでこの記事を終わろうと思います。
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