この記事のテーマ
 1ー「戦争経験について」では、戦闘経験が一種のエゴデスのような体験であることを論じます。
 2ー「戦場から帰ることについて」では、退役軍人のPTSDが実は戦闘そのものではなく、帰っていく社会が原因であるという説に言及し、そこからトリップも帰ってからが問題だということを論じます。
 3ー「全体主義と個人主義」では、人間が根本的に社会的動物なので個人主義的な考え方だけでは生きていけないということを言おうとしています。
 4ー「執着について」では、「自分の幸せを見つける」という考え方を批判しようという試みです。



 *1戦争経験について

 我々は戦争経験談を聞くことは多くない。聞いたとしても、お年寄りが空襲を受けたときの話などが多く、兵士が戦場で戦闘するときの心理を聞けることは少ない。特に日本では、戦争イコール原爆や空襲のイメージが強く、戦場そのものへの意識が大きくない。戦争に関するインタビューや番組はほとんどと言っていいほど空襲に充てられている。戦場を経験した兵士の話を聞いてみようではないか。

 我々は皆、表向きには平和を愛し戦争に反対する。自分は戦争と関わりたくないし、支持しないし、考えたくもないと言う。だがそれとは裏腹に、良い金を払って戦争映画を見に行ったり、戦争ゲームをやったりする。戦争は一種のエンターテインメントでもあるという事実を受け入れなくてはならない。道徳的には難しい葛藤があるが、戦場の魅力的な面を無視するわけにはいかない。

 米軍の退役軍人の話を聞いてみると、実戦は思っていたものとは違う奇妙な体験であるそうだ。異常な集中ができ、ほぼ精神変容のような状態。戦闘中は大量のアドレナリンで一種のハイになっており、意外にも、人によっては恐怖感が少ない。初めて敵と向き合った時、人生最大のラッシュ(興奮)を感じたと報告する人もいる。どうやら戦闘前と戦闘後のほうが怖いようだ(アドレナリンラッシュがないからだろう)。
 アドレナリンが出ているからと言って、戦場の男子が全員楽しんでいると言っているわけではない。戦場では様々な苦痛と悲劇が経験されることに変わりはない。だが我々が理解しなければいけない事実は、男子はアドレナリンラッシュを感じるためには様々なことをする、ということだ(そのため若い男性は女性の六倍ほど事故死する)。様々なエクストリームスポーツはもちろん、格闘技の人気もこれで説明がつく。スポーツとは男性の根源的な欲求を平和的な方法で発散するためのシステムなのだ。


 あるイギリス陸軍の中尉ヘンリー・ジョーンズは、第一次世界大戦にこのような手紙を兄弟に送っている。(以下、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモデウス』からの引用、太字強調は私による)

 「(中略)平時には、人はただ自分自身のちっぽけな生活を送る。取るに足らないことにかまけ、自分の安楽やお金の問題といった類のさまざまな事柄を心配しながら、たんに自分のために生きている。なんとあさましい暮らしだ!それに引き換え戦時には、たとえ本当に命を落とすことになっても、どのみち数年のうちにその避け難い運命に見舞われることを予期しているのであり、自分は祖国を助けるために命を捧げたのだと知って満足することができる。現に理想を実現したのであり、私の見る限り、ありきたりの生活ではそういうことはごく稀にしかできない。(中略)
 私としては、この戦争が自分のもとにやって来てくれたことをしばしば喜んでいる。人生とはどれほどつまらないものか、気づかせてくれたからだ。戦争は、言ってみれば自分の殻を破る機会をみんなに与えてくれた・・たしかに、自分について言えば、例えば先日の4月のような、大規模な攻撃が始まる時のあれほどの激しい気分の高まりは、これまで全人生で一度も経験したことはない。直前の半時間からそこらの興奮ときたら、並ぶものなど何一つない。」

 ・・ところで、第一次大戦時、イギリス軍は志願兵が多過ぎて制限をかける必要があった。そう、志願兵が「多過ぎて」、「制限」をかける必要があったのだ。

 同書からもう一つ引用する。ジャーナリストのマーク・ボウデンは「ブラックホークダウン」の中で、ソマリアのモガディシュにおける米兵ショーン・ネルソンの1993年の戦闘経験をこのように描いている。

 「そのときの気持ちを説明するのは難しかった・・物事の本質が明らかになる瞬間に似ていた。死の瀬戸際にあって、かつてないほどの生命感を覚えていた。(中略)死が自分の顔にまともに息を吹きかけてくるのを感じながら生きていた・・一瞬一瞬、三時間以上に渡って・・戦闘は・・完璧な精神的・肉体的自覚の状態だった。路上にいたその間、彼はショーン・ネルソンではなかった。外の世界とは何の結びつきもなく、支払わなければいけない請求書もなければ、感情のつながりもない。何もなかった。このナノ秒から次のナノ秒へと命をつなぎ、一息ずつ呼吸を繰り返し、そのどれもが最後になるかもしれないことを完全に自覚している一人の人間に過ぎなかった。もう決してそれまでの自分ではいられなくなると感じた。」


 死を目前に感じる経験は、独特の精神作用を持っている。トリップと、戦闘経験にはかなりの類似点があるように感じる。
 戦闘経験と強烈なトリップのレポートから、ほとんど同じ言葉が報告される。
 
 






 ✳︎2 戦場から帰ることについて


 武器を持っていない民間人にとっては戦争はただの地獄であり、戦争が恋しいことはないだろう。だが退役軍人は戦場が恋しくなるという。なぜだろうか?
 自身がアフガニスタンで戦闘を経験した、退役軍人のジャーナリスト Sebastian Junger氏はTEDの公演でこの不思議な現象について語っている。
 何度も死にかけて、トラウマを追った人でさえ、恋しいことがあるかと聞いたら、しばらく悩んだのちに、本音では戦場が恋しいと答えるのだ。
 軍人が恋しくなるのは決して戦闘そのものではないのだ。殺すことや殺されることではない。むしろその逆のことが恋しいのだ。それは仲間との協力、ブラザーフッド(絆、連帯)、目的と使命。
 ブラザーフッドは友情とは違う、とSebastian Junger氏は言う。ブラザーフッドは相手に対してどう感じるかではない。お互いに協力し、助け合い、守りあうという相互契約で、自分よりもブラザーたちを大事にし、ブラザーのためには自分の身を惜しまないということなのだ。
 
 最も過酷な試練を戦い抜いた人は、平和社会に戻ると、新しい使命を見つける事が難しい。
 誰に頼ればいいのかも分からず、誰に信頼され、愛されているかも分からず、その時が来たら身をかけて守ってくれる人がいるのかも分からない。それは・・恐ろしいことなのだ。


 退役軍人は自殺率が高いことが知られているが、戦闘経験そのものが自殺率を上げるという証拠はないらしい。
 Sebastian Junger氏は、長期的なPTSDの原因は戦闘そのものではなく、どういう社会に復帰するかの問題なのではないかと言う。彼は好戦的なネイティブアメリカンの部族のことを考えた。部族民たちは、おそらく戦闘経験後、部族社会にすんなりと帰って、元に戻ることができる。親密で、一貫性がある部族的な社会では、短時間でトラウマを克服できそうだ。
 しかし、疎外的な現代社会に戻ると、一生トラウマを克服できないかもしれない。
 現代社会は、退役軍人たちが帰りたいような温かいお家ではなかったのだ。誰も理解してくれない。理解してくれないから孤立し、孤立するからこそ自分にトラウマがあり、問題があるのではないかと思うのだ。
 兵士たちは戦地では、お互いに部族的な「親近さ」を経験していた。一緒に寝て、一緒に食べ、一緒に戦い、普段男性が好むもの(クルマやら、女の子やら)はそこにはなかった。あるのは戦闘と、男同士の協力だけ。
 米国に戻った兵士は、二つの政党がお互いを非難しているのを見る。二つの政党は、もう片方を「反逆者」と呼ぶ。社会の分裂は今までにないほど酷い。差別や民族間の争いも絶えない。命をかけてまで守ったはずの社会、その社会が冷たく、暗く、分裂していると、温かくて結束していた部族的なブラザーフッドに帰りたいに決まっている。
 

 社会の富が増すと、自殺率は「上がる」。下がるのではない。現代社会では、貧しい農耕社会より鬱の発症率が八倍高い。現代社会は、人類史上、鬱や不安、孤独や児童虐待を最も多く生み出した。

 
 戦争から戻ることと、トリップから戻ることがかなり似ていることにお気づきなった方もいるでしょう。我々がトリップで負うトラウマも、トリップそのものだけではなく、帰ってきたときの社会にも原因があるのではないか。
 アマゾンでアヤワスカを飲んでいた部族が、果たしてバッドトリップで暴れていただだろうか?PTSDになっただろうか?
 そうは思えない。サイケを利用していた部族は、おそらく、結束していて、内面も通じ合ったかたい絆で結ばれており、各個人が自分より全体のことを重んじていた。本当に信頼できるトリップシッターには事欠かなかっただろう(もちろん彼らはトリップシッターという概念は持ていなかっただろうが)。

 以前、アマゾンの部族がアヤワスカを飲むのと現代人がアヤワスカを飲むのは違うと書いた。我々がアマゾンに行こうがそんなのはただの真似事だと。その理由は社会構造にある。
 未開人の社会と現代社会は違う。彼らと我々の間でトリップそのものの脳科学作用が違うのではなく、戻る社会が違うのだ。そしてトリップの意味と価値の多くは戻ってきた後に決まる。暖かく迎え入れてくれるホームがあるかどうかで。我々にはそれがない。

 我々は戻ってきた時あまりに多くの問題にぶつかる。まず自分が「犯罪者」だということと、反社会的とみなされていること。人々がトリップを理解してくれないこと。アマゾンの人たちにとってトリップは、祖霊に会う事だったり、神や精霊に会う事だったりする。自然界とつながったり、おたがいの親愛と結束を深める役割もあっただろう。
 我々にとっては違う。我々にとってトリップは「幻覚」であり、異常心理である。少なくとも周りにはそう見做される。帰る社会がなく疎外された個体は、(レアケースではあるが)サイケに依存する人になる。
 疎外に耐えられなくなり、サイケ使用を「勘違い」だとして使用を強く恥じて、離れていく人もいる。つまり、疎外された人はサイケ使用の頻度を異常に上げるか、ゼロにするかの極端な二方向のどちらかで解決しようとする。









 *3 全体主義と個人主義


 極度な全体主義は社会を破滅させることは最近の人は誰もが知っているが、極度な個人主義も社会を破滅させるということに気が付かない人が多い。そして我々はその方向に向かっている。
 親がそろそろ結婚しなさいとか子供を作れと言うのがハラスメントだと考える人がたくさんいる。
 「結婚しない、子供を作らないという生き方もあり、個人の気持ちが大事だ」と人は言う。だが なぜ自分の気持ちが大事なのか?
 親が血統の存続を求めるのは100%自然であり本能的である。子供を急き立てないほうがおかしいくらいだ。しかし自分が傷つかないことが何よりも大事である独身者たちは、そう思わないようだ。
 

 自分が社会の中で責任を負っていないと思っている人が多い。
 その原因は、社会が大きくなりすぎて、冷たくなったからだと思う。もし社会が部族的な規模だったら(近代文明以前は長い間そうだった)、人は誰もが、周り=社会のために、身を投げる事を厭わないだろう。利他は利己で、利己は利他であった。
 現在はどうだろうか。街を歩いていて、たくさんの人が眼前を流れていくが、それをみて「仲間」と思うことはあるだろうか。思わない。人の多い都会ほど、人に接近するのが難しい。
 企業は「お客様のために」などと言うが、二度と会うこともない不特定多数の人間を、無条件で愛することが出来るだろうか。出来るはずがない。
 国のために命を懸けるなんて馬鹿げている。とほとんどの若者は考えている。それもそのはず、国といっても、一億人以上もいる超巨大共同体は、身近に感じる部族とは違うのだ。国家は大きすぎて、具体的にそれのためになにかをやろうと思えるはずがないし、何かをしたところでその結果を実感できることがない。


 個人という概念は近代に始めて誕生した。日本では明治に輸入されるまで個人という言葉は存在しない。ヨーロッパでも、 人はもともと自分の部屋など持っていないのが普通だった。プライバシーという概念もない。個人概念とプライバシーの誕生が、神経症患者の急増をもたらした。
 実は未開社会では精神病が著しく少ないのだ。近代、栄えている国家ほど、不安やその他精神疾患が多い。個人主義は「自由な個人」を作ったが、コミュニティの結束を破壊し、人間関係を浅くした。

 私はたまに大学生などに、将来何をしたいかなどを聞くが、自分が何をしたいか分かっている人はほとんどいない。やりたいことがある、使命がある、目的がある人は本当に少ないのだ。
 現代人は、自由であるがゆえに、出来ることの選択肢が多すぎて、自分の求める価値を見つけられないのだ。
 もし社会が単一の価値観しか持っていなかったら、若者は道に迷うことがない。「青年期の危機」を経験しない。多数の選択肢から自分の選ぶ道を見つける必要がないからだ。
 現代人の思春期、特に受験生は膨大なストレスを経験するが、未開部族などはこういうストレスと無縁なのだ。日本の若者はあまりにストレスが大きいため、社会に出ることができず「引きこもり」になる人もいる。引きこもりは部族社会にはいない。部族社会では「社会に出る」という概念すらないのだから、自分が社会で通用するかどうか不安になって自分の部屋にこもる青年などいない(自分の部屋すらないが!)





*4 執着について


「自分の幸せを見つけなさい。自分が幸せになることをしなさい」

 もしこれが間違いだとしたらどうする?
 人は自分の幸せがなんなのか分かるのだろうか?もし分かるなら、なぜこんなに多くの人が幸せを見つけることに苦労しているのか?
 自分の幸せが大事だという考え方は、実は個人主義なのだ。そう、近代に初めて登場した考え方である個人主義。
 古代の人たちは、こんなことを言わなかったはずだ。聖書にも仏典にも、「自分の幸せを見つけろ」なんて言葉はない。

 ここで私はこう言いたい。「自分より大切なものを見つけなさい」
 本当に幸せな人は、おそらく、自我よりも高い原理を持っている。自分よりも大切なものを持っている人は、その大切なもののためにこそ、生きなければならない。自分一人のために生きているのではない。だからこそ生きる意味がある。


 戦場でも恐ろしいトリップでも、恐怖に打ち勝つ方法は同じで、一つしかない。それは自己への執着を捨てること。執着を捨てるという考えは世界的な宗教(仏教!)をつくりあげたくらいに強力なものだ。
 戦場だろうがトリップだろうが、自我に執着していると、苦しみの自覚だけが意識を支配する。そうなるとただその場から逃げ出したくなるような苦痛以外何もなくなる。自我よりも高い原理を持っている人は、おのれの身が第一ではない。彼はちっぽけな個人ではなく、より大きな全体を経験しているのだ。仮に自分が苦しんでいるとしても、それは「より価値のあるもの」の陰に隠れ、重要ではなくなる。

 戦場のブラザーたちが、お互いのことを、仲間のことを自分自身より優先したように、自我の死を経験している行者は、神や仏や、その他なんらかの自我より価値のある原理のために身を投げた。

 (これも先程のSebastian Junger氏の話だが、彼の部隊のリーダーは、部下が撃たれ、自分は部下の命を守れないと悟った時に泣いたという。このとき撃たれた兵士は実は銃弾がヘルメットから逸れていて、無傷だったが、頭を撃たれて死んだように思われていた。リーダーは、自分自信が何度も死にかけているが、それはどうにも思っていなかった。ただ、部下がやられたと思った時に最も苦しんだのだ)

 一応言っておくが、私はここで戦闘などを賛美しているのではない。ただ、junger氏の公演内容で、人間について、今まで深く考えたことのない側面についての洞察を与えられたということだ。