深層心理学のすすめ
フロイトの「精神分析入門」序論 ・・『みなさんは心理学的な思考法に慣れておらず、その種の考え方を不審の目で眺め、その科学性を認めず、それを非専門家、詩人、哲学者および神秘家に委ねるというのがみなさんの習慣になってしまっているのです」
これはもう100年前の本なのだが、今でも事態がほとんど変わっていないと思った。
現在、大学の心理学部で行われている「心理学」とは、概ね、統計を用いて、できるだけ自然科学的に妥当な手法で人の心を明らかにしようとする学問であり、基本的には認知心理学や行動心理学などである。・・だから、心理学をやってる人も人の精神について何も知らない。
統計を用いて、人間の内面に触れることは絶対に出来ない。データには人間精神のごく表面しか出てこない。人間の内面に触れたいなら、神話や宗教、芸術、文学などは絶対に無視してはならない。これらは人間の精神が生み出したのだから。過去の文献は、統計よりも人間を明らかにする。
今までサイケデリック体験の理解に役に立ったものがあるとしたら、大部分がユング心理学です。
哲学(特に現象学)、脳科学なども大事だが、ユング心理学ほど精神の内奥を記述しているものはない。
比喩について
サイケ体験を何かに喩えるときは注意したほうがいい。 人は説明に役立ちそうな類似経験を探すが、そのために"本源的な出来事が曲解されて、借り物の諸観念で割り切られてしまうということが頻繁に起こる"とユングは言う。
あるサイケ体験を"5億年ボタン"とやらに喩える人がいたが、この喩えに私はかなり反発を感じていた。その理由を説明するのが難しかった。 ただ単に比喩が上手いか下手か、っていう問題じゃないんだよね。
外面的な飾り
サイケデリックス、特にアシッドを文化的アイコンみたいに使われるとあまり気持ちよくない。60年代ならいいけど。 サイケデリック体験はごく個人的で内面的なものだと思うんだが、これを外面的な飾りに使える人というのは、要するに内面的なトリップをほとんどしたことがないのかと思う。
四年ほど前か、私はアヤワスカを煮た時、それを面白おかしく撮影してうpしたが、トリップの後、この神聖で(俗じゃない、程度の意味)ごく個人的で深い体験をもたらす物質をギャグみたいに撮影したことが非常に恥ずかしくてすぐに消した。
考えてみるといい。今から座禅やヨーガをして神秘に触れようとする僧が、座禅をする部屋を撮影したりするだろうか。
神に触れる事について
神を己の内に体験し、自分が神だったと言う人は、自分を崇拝しているとして非難されるかもしれない。 だが、自分が神であると気がつくのは、自分を崇拝対象にするという事ではないのだ。
神を自分の外にあると考えて「崇拝」している人は、自らの中に神を見つけることは出来ず、実は神を体験することもない。
ユングは「心理学と錬金術」の序論で、この問題について触れている。 ユングによるとキリスト教徒の心は空っぽでまだ原初の異教徒であり、彼らは神を経験する方法を知らない。 そして東洋人(インド宗教)は神を体験する方法を知っていた。
インド人たちは古来から神との合一を体験していた。それが宗教者にとって至高の体験だった。 しかしアブラハム系一神教徒は神を経験する方法を確立する事がなかった。イスラームを例に見てみよう。なんと最初にアッラーとの合一を経験した人は、異端呼ばわりされ処刑されたのである(Mansur Al-Hallaj) 。ムハンマドですら、アッラーとの「合一/同化」はしていない。
のちにアッラーとの合一を目指す神秘主義のスーフィズムが誕生するが、スーフィーはよく奇異な目で見られ、異端扱いされている。
ところで、ムハンマドはあらゆる宗教者のなかでも最も自我中心的で利己的だった。外面的なカリスマは十二分にあったが、内面はスッカスカだったのだ。
イスラームは神への帰依と称しているが実際は預言者への帰依である。ムハンマドは自分が最後の神の使いだと称したが、インドの聖者たちは誰一人自分が神の使いだと称したことはかった。
夢について
古代や、現代でも無文字社会などでは、夢は神々か霊などのお告げとして非常に重要視されていた。 夢が軽んぜられるようになったのは近代になってからである。 約百年前、フロイトやユングは夢を無意識の告示者として再発見したが、現代科学がまたそれをゴミ箱に放り投げてしまった。
夢のイメージはサイケデリックイメージと同じくらい興味深いと自分は思う。人は毎晩、合理性の通用しない不可思議な象徴性に満ちた夢世界に行くというのに、それに気付いてすらいない人の多さは凄いことだ。本当に凄いことだ。トリップして気付いてないようなものじゃないか。
思いつきでハイドースをする人
Psychedsubstance夫婦が超ハイドースを飲んだ人を普通に馬鹿にしてた。自我中心的、理解できない、子供だとか言う。完全に同意するが。この前俺がredditで読んだ990μgトリップのレポートも、なんと18歳のガキだったんだよね。将来が少し心配になる。
一人で飛ぶこと
自分が誰なのか、何なのかが分からくなるのは怖い。人は機能するためには周囲と自分との関係性を把握することが必須で、それが出来なくなるとパニックに陥る。 自分がいない状態では他人との関係も結ぶことも出来ない。なので愛や信頼感情も分からない世界へ行ってしまう。自分がいなくなると、自分と関係を持っていたものも同事にいなくなる。家族も最愛の人いなくなる。何にも繋ぎ止められていない、宙に浮遊したような状態。この領域は一人で行かなければならない。必ず一人。 これがレクリエーションとサイコノートを隔てる境界線。
この領域が見え始めたとき、レクリエーショナルユーザーは後悔し、身を引く。これは多くの人にはストップサインなのだ。だが修行者はここで引かず、この先へ自ら進んでいかなければならない。これに必要な勇気は大きい。
人格形成について
意識や人格がまだ十分に発達していない時にサイケデリックスを接種すると特に有害なんじゃないかと思う。 少なくとも、アルコールとタバコと同レベルの規制は最低限必要だ。
どこでどういう文脈でかは忘れたが、ユングは、若すぎる人の意識拡張は危険だという事を書いていた。もちろんここでいう意識拡張とは幻覚剤のことではなく、過度な精神分析のことだが。
「正す」のは「作る」より後。作る前に正すのは、順序がおかしい。人格は変容させる前に、まず作らなければいけない。
「自分探しの旅」は、自分が何なのか分からない人がすることではない。一時的に勘違いで満足する可能性はあっても、結局何も見つからなくなって余計に苦しむ。「自分探しの旅」をするべき人は、既に自分を持っている人で、その自分をさらに高次に作り変えたい時だ。
考えすぎること
サイケをやって、考えて、考えて、考え抜いて、考えすぎている自分が病的だと思えて来たら、考えるのを止めることをおすすめする。
こういう時に考えるのを止めると、逃げのように思えるかもしれない。もっと考えたいだろう。 だが退行が重要な時もある。一機能(思考)を過度に利用すると人は病的になる。
考え過ぎがもたらすデメリットは、感情が軽視されすぎて無意識に沈むことである。感情は思考に影響するので、合理的な思考を極めようとする人は、思考の邪魔になる感情を抑圧していく。 こうして出来た思考人間は機械のようで、言ってることは100%合理的だが感情が一切なくなり、周りから必ず嫌われる。そして彼は自分の言うことが正しいと思っているので、(そして、現に正しいのだが)なぜ自分が嫌われるのかも理解出来ない。
思考に長けた人間ほど、感情は不合理なものだと考えがちである。だがユングは感情も合理的な機能だとしている。
考え過ぎているときは、一度意識を休めて、無意識との再接続を試みるといい。無意識に還ることを退行というが、退行は常に悪いことだというわけではない。
科学絶対主義から離れる?
あえて正直に認めよう。自分は脳科学を恐れているかもしれない。精神経験が物理的なものに還元されるのが怖い。 昔はそうじゃなかった。昔は脳科学が一番面白い世界だと思った。
三年ほど前、不安パニック障害を発症してから変わった。脳について考えるのがあまり好きじゃなくなった。精神病や精神薬に関する本をよく立ち読みしていた頃があったが、今ではその本棚に近づくことすらしなくなった。面白いこともなく、助かる感じがしないからだ。
俺の脳神経は、俺の努力とも知識とも関係がない。勝手に活動し、狂うときは勝手に狂う。その活動を知ると知るほど、俺は実在的不安に陥るだけかもしれない。
生物学は化学の上に成り立ち、化学は物理学の上に成り立つ。では、最も根源的な学問は物理学なのだろうか? 芸術や、文学、宗教など人間の行いは全て物理学に還元できるだろうか?出来ない、と思いたい。が・・
科学の何が怖いかというと、非科学的なことが許されないこと。 脳の中の一体どこに「自己」がある?これに答えられる人はいない。だろう。自己がどこにあるかは哲学的にしか見つけられない。 なので精神的な危機に陥っている人であるほど、科学は虚無に見えてくる。科学者は実在的不安から助けてはくれない。
こういう話を聞くと科学者はいつもこう反論する。「宇宙はすごい!物理学はすごい、天文学はすごい、この世界は奇跡だ!こんな奇跡的な世界に生まれたのだから、我々は命をありがたみ、この世界の理解に努めるべきだ。科学は無意味ではない、むしろ最も生き生きとした学問だ」
だが科学者はこう言うとき、自分の主観からものを言っているだけで、決して「科学的」ではないことを留意しなくてはならない。
外向的なトリップと内向的なトリップ
外向な人は客体に関心を持ち、内向的な人は主体に関心を持つ傾向があるという。 テレンスマッケナが外向的な人だったかは分からないが、彼は客体に強い関心があった。 マッケナは、トリップは自己分析するためではない、というようなことまで言っている。
トリップを面白いもののように宣伝する能力が高い人は、客体への関心が非常に高く、外向性も高い傾向があるかもしれない。 マッケナはエイリアンなものとの出会いを求めていた。彼のトリップは私(主体)についてではなく、彼ら(客体)についてだった。
テレンスマッケナの兄デニスマッケナは、テレンスのトリップが「私」についてのトリップになったとき、彼は恐ろしくなってトリップをしなくなったのではないかと言っている。
私は内向的な人だが、トリップ体験も主体に集中が置かれていたように思う。 「私」についてのトリップは、面白いものとして宣伝する要素もない。エイリアンに出会う面白さの前に、自分に起こっていることの異常さに集中してしまう。たまにトリップレポートを読んでいると、客体についての報告しかないようなものがある。そういうレポート見ると「本当にトリップしたのか?なんでそんなスッカスカなんだ?」と思ってしまう。意識作用の向きだけで、トリップは全くの別物になるのだ。
自己分析こそがトリップの目的だ、という人と、自己分析はトリップの目的ではない、と真逆の態度の人がいる。この理由を内向と外向に関連付ける説得力はあると思う。しかしこの仮説を証明するには、もっとたくさんのケースを研究する必要があるだろう。
在家修行、サイケデリックセラピー
修行はふつう出家するものだが、在家修行の考え方もある。在家修行の最大の欠点は、「独学」なので、間違っている時に誰も正してくれないということ。 独学で外国語や楽器をやると、自分が出来ていると思いながら実はとんでもない間違いを侵している可能性があるだろう。宗教的な修行も同じだ。
サイケデリックスを一種の修行として捉えた場合、ほとんどの使用者は在家修行していることになる。 だから人それぞれ、トリップが大きく違う。これでもかというくらい違う。違うのはいいことかもしれないが、あまりに違いが激しいので様々な意見の相違が生じる。
だからプロの指導のもとでトリップできる施設はあったほうがいい。そんなものがいらないと思っている人ほど、逆に必要なのではないか。 指導がいらないはずがない。 なぜいらないと思うのか?サイケデリックスは楽器や外国語より簡単だと思うのか? そんなはずがない。
プロフェッショナルなサイケデリックカウンセラーがいれば、トリップするべきでない人を見抜けるだろう。自我肥大やその他の社会生活に困る事になる副反応も、未然に防いだり、悪化を防いだり出来るだろう。が、一人で飛ぶのと比べ金と時間がかかる、本格的なセラピーということになる。
これが一般化していくと、今度はプロフェッショナルを自称するボッタクリ業者が大量に現れる可能性がある(これは既に起こっているだろう)。施設が出来たところで、今度は信頼できるハイレベルな施設を見つけることが問題になる。本当にハイレベルな施設は予約が一杯で入れないだろう。
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