私の思想が濃縮された雑文集です。以前の私の、サイケデリックスへのかなり肯定的な立場から一転して、やや否定的な立場を取っている事が垣間見えると思います。
理論と実践
悟りや神秘にふれる事を目指す神秘思想は、理論と実践に分けられる。
理論とはどうやって、何を悟るのかを理解する体系であり、実践とはその理論を現実にする方法である。
理論だけでは悟りに到達出来ないが、理論のない実践も効果が薄い。理論と実践の適度なバランスが必要である。
実践にかなりの重みを置く宗派などもある(禅などが顕著な例)。 他方、西洋哲学は実践部分がほとんどない、と捉えることが出来る。
精神探求者にとってはトリップは実践の一つの方法である。だが「何を」実践しているのかの理論を少しは持っている必要があると思う。
理論のない実践とは要するに遊びの事である。
ユングによると錬金術も理論と実践に分かれていた。
宗教では、祈りや宗教行事への参加、戒律の遵守が実践部分で、神学が理論だと言える。
実践としてのサイケデリックス
サイケデリックトリップで解脱や涅槃と言えるような境地に到達したい場合、トリップはあくまで最終的な実践段階であり、下積みとしての知識と準備は必須である。 無知の状態でトリップするのは非常に愚かだ。
ブッダは理解出来ない人が悪用することを恐れて当初は教えを説く事を拒んだという。もしブッダがサイケデリックスを知ってたら、同じことをしただろう。つまり誰にでもサイケを与えるようなことはしなかったろう。
今軽い気持ちでサイケを手にしている人は自分が何をしているか分かっていない。サイケデリックスを広めるのは良いことではない。サイケデリックスの前に哲学や思想を教え、瞑想や修行をさせ、最終段階としてサイケデリックスがあるべきだ。
これを考えると、高校の部活で、今日はボールを触らせんぞと言うコーチのことを思い出す。ボールを触わる前にやることがたくさんあるのだ。ボールを触って楽しむ前に、基礎となる体力と筋力とメンタルが求められる。
サイケデリックスを広めること
サイケデリックスを広めようとする強い意志は過去の自分にもあった。だがユングによるとこれは自我肥大の症状の一つだ。自分にうまく行った事が、他人にもうまくいくと思い込んでいる。自分が普遍性だと思い込んでいる。
解脱や涅槃に到達した人はそれをわざわざ広めない。覚者になることは人気者になることではなく、預言者になることでもない。
自分が救われたから今度は世界を救おうとして他人を救う事に必死になっている人は、実は自分が救われていないのだ。
導入としてのサイケデリックス
ついさきほど、精神探究の最終段階にサイケデリックスがあるべきだと言ったが、もしかしたらサイケデリックスは最後ではなく最初に使った方がいいかもしれない。
「サイケデリックスは求道心をより一層高めるように作用します。だがひとたび目標が達せられたなら、それ以上の服用は有害であるばかりか、意味も目標も失われてしまいます」・・ラムダスの「ビーヒアナウ」から。
インドの寺院やアシュラムでは、薬物の摂取は低次元のものとみなされている。
ラムダスはインドで多数の僧や聖者にLSDを与えましたが、ある者は「いいものだが瞑想ほどじゃない」と言ったという。
ラムダスにとって、サイケデリックスは精神探究への入り口でしかなかった。彼はインドで本当の修行を開始してから、トリップに頼らなくなった。これに共感する人は少なくないだろう。
サイケデリックドラッグ
現実、サイケデリックスがなんなのか知らない人は多い。世間ではドラッグの一つに数えられている。 強い向精神作用を持つという意味ではドラッグだが、哲学的、観念的にはドラッグではない。ドラッグと真逆の、ドラッグから一番遠いものだ。ドラッグ類の一員ではない。
テレンスマッケナもこれと全く同じことを言っている。特にDMTに関しては、彼は断固ドラッグではないと言う。DMTブレイクスルー体験を経験した人は特に、そういう考えを持つのが自然だろう。
トリップの準備
サイケデリックスを使用したい人をサイケデリックカウンセラーのような人と合わせ、本格的な対話をさせるとしよう。私の予想では、本格的な分析とカウンセリングを経た後、ほとんどの志願者は自分はまだトリップの準備が出来ていない事に気がつくと思う。
トリップはしなくても効果がある。サイケカウンセラーは、トリップによってではなく、トリップ準備によってだけで十分に志願者を成長させられる事に気がつくだろう。(トリップの予定を立てたり、トリップレポートを読んだりするだけで効果を感じた事がある人はいるはずだ!)
ほとんどのサイケ使用者が認めたがらない、本当のトリップの動機は好奇心である。好奇心を失ってはじめて、トリップの恐ろしさを知る。トリップ志願者はトリップがどんなものかを知りたい。すごいものが見たいのだ。なぜならサイケはそういう凄いものだと宣伝されているからだ。
だから宣伝をやめるべきだ。宣伝するとするほど、分からない人が使い、さらに宣伝が増え、分からない人がさらに増える。もうどうにも出来ないくらい手遅れになっている。
幻覚剤はあったのか
過去の宗教などの儀式にサイケデリックスやその他ドラッグが使われていたと聞くと、飛びついてすぐ信じる人がいるが、こういうのは決定的な証拠がない時が多い。仮説に反論がある場合もあるので、何でもすぐ信じてはいけない。
古代ギリシアでかなりの影響力があったデルフィの巫女(アポロン神から神託を貰って占う巫女)は、地面から出るエチレンガスを吸ってハイになっていたという説があり、話題になって一部から支持されたが、後にほぼありえないとして否定された。
予言や預言はすぐにサイケで説明しようとする人が多いが、証拠がない場合、信じる理由はない。
モーセがアヤワスカを飲んだ証拠はゼロ(そもそもモーセの実在も怪しい)。キリストがキノコを食べた証拠もゼロ(いや、キリスト自身がキノコだったという人がいるんだよね・・)。
ムハンマドはてんかん持ちで、初期の啓示の頃はあきらかにてんかん発作か何かで幻覚を見ていたが、預言のたびに毎回発作が来ていたわけではないので、てんかんだけで預言者業の全てが説明できるわけではない。
精神探究
精神探求は娯楽と対極にある。 ブッダは、感覚器官の活動、享楽の道は低俗で、聖人にふさわしくなく、無益で無価値なるが故に避けなければならないと言った。 精神探求が娯楽だと思っている人は精神探求などしていない。サイケデリックスを摂取する人の大半は精神探求などしていない。
この人は本当に精神探求に関心があるんだなというのが伝わってくる人はいる。だがそういう人は多くはない。
サイケデリックスをなめている人への苦言
LSDに「ごとき」「程度」ってつける人はトリップしないほうがいい。 LSDに限った話ではない。 「こっちの物質のほうが上だ」っていう考えはほぼ全て愚かである。 もちろんそれぞれ物質に違いはあるが、何を飲むかよりはるかに大事な事が他にある。
ハイドースの摂取を勧めることは危険だし無責任なので、基本的にするつもりはないのだが、サイケを少しでも舐めている人には、決り文句として、ならドースを倍にしてみろと言いたくなる。倍にしても怖くなかったならまた倍にしてみろ。 それでも怖くないならそこから四倍にでも八倍にでもしてみるがいい。それでも怖くないならお前は嘘つきか、精神病のどちらかだ。
サイケは魅力的な面ばかりが宣伝される。 自分も含めて、トリップ経験者は悪い部分を言いたがらない。言ったら自分が悪いことにされる。ただの悲観的な人でトリップに向いてないと。 だが本音では、トリップの恐ろしさを知っている人は心の底から畏怖しているはずだ。
サイケの表現について
サイケの説明として「高次の意識」、「精神拡張」などは、具体的な意味を説明できない、曖昧とした言葉。自分はもう使わなくなった。 脳科学や哲学、心理学などの視点からこれらの言葉を説明しようとすれば、すぐに恣意的な宣伝文句過ぎないと気がつくはずだ。
サイケが「高次の意識」をもたらすなどという情報を読んだミーハーな少年少女たちは、シラフの意識がどういうわけか「低次」で、この魔法の物質を飲めば「高次の意識」に到達出来ると考えてしまう。
意識は次元の上がり下がりではない。次元とは一体なんのことのつもりだ?
追記: 意識拡張という表現は問題ない。精神拡張は問題がある。
精神というのはふつう、意識と無意識を合わせた全体のことだと思うが、精神拡張というとあたかも全体が拡張しているように聞こえる(じじつ多くの人がサイケをそういうものだと信じている)
だが拡張するのは意識だ。無意識が意識に同化されるから無意識が減少しただけ意識が増すのだ。なのでどれだけ意識を拡張しようと、意識と無意識の全体である「精神」は拡張されていない。
精神は人生経験や教養とともに発展して大きくなっていくが、それは意識拡張とは別物である。
薬物評価の問題
有名な薬物の危険性ランキング画像などがあるが、今の自分はあれを支持しません。 特に有名なものは例のデヴィッドナット氏が作ったそうだが、アルコールを危険であると見せかけるために作ったようだという批判的な見方が出来るし、違法薬物愛好家に使われすぎている。薬物の危険度に総合点をつけることは間違っている。
科学的調査に基づいて各項目ごとのランキングは出来るが、全項目を合わせた場合、各項目の比重は恣意的な操作が必ず介入する。 別々のベクトルを全部一つにまとめるわけにはいかない。
「本場」の問題
アヤワスカリトリートに行くのはおすすめしない。なぜならアマゾンのシャーマンがアヤ飲むのと現代人がアヤを飲むのは同じことじゃないからだ。現代人は未開人と精神構造が違う。向精神物質をどう扱うかも文化的背景で大きく変わる。我々はアマゾンに行っても家でやってもほぼ同じだろう。
現代人と未開人の心理がどう違うのかを理解するには文化人類学、心理学などが必要になる。
南米のシャーマンに本物がどれくらいいるかは知らない。(はい、そうです、シャーマンには本物と偽物がいます。実は数百年も前からシャーマンがお互いを偽物呼ばわりすることが記録されている)
白人にアヤワスカを飲ませるビジネスをしている人は本当のシャーマンかは分からない。 "本当の"シャーマンかどうかで何かが変わると言ってるわけではないが••「ここに行ってこれを飲めば悟れる」という考えが最も愚かなのだ。
アマゾンで飲むXやアマゾンで吸うYだけが本物だと言う人はただのロマンチストである。 修行は地球上どこにいても出来る。物質を使わなくても出来るし、使う場合も、選択肢はたくさんある。
無自我体験の価値
一時的な無自我状態(サイケデリックエゴデス)は、それを経験した「後」に、その経験を活かして、自我と無意識の関係をより健全に建設し直すことが出来る。そこに最大の価値があると思える。
つまりは一種のリセットボタンでもあるので、高頻度でリセットボタンを押すと意識性ではなく無意識性をもたらすことになる。
言い換えるとこうなる。無自我体験はそれ自体が人を成長させるのではない。無自我体験は「自我に対する新しい視点」を提供してくれる。この新しい視点を、自分の精神構造を一新して調節し直すのに利用してこそ、人は成長する。 これは、トリップをしない、統合期間が必要だということ。
無自我そのものは精神病症状に等しい。
戦略ゲームで、都合の悪い布陣で"積んだ"と思えたとき、リセットボタンを押すことはかなり大きな利益になる。だがそれはリセットした後に「立て直せる」ことを前提とする。立て直すのにまだ努力は必要なわけだ。 ほんの少しの不都合ですぐリセットするプレイヤーは、進んでいるという幻想を得るかもしれないが、全くどこにも進まない。
だからテレンスマッケナは、「出来るだけ大きいドースで、出来るだけ低頻度に」トリップするのが良いと言ったのだ。
最後に見つかるもの
哲学探求のゴールには輝かしい真理が待っているという期待を胸に人々は探求する。
だがニーチェは、人が最終的に見つけるのは無意味だけだと言う。残念ながら自分はこれに同意しようと思う。 こう言うと悲観者、虚無主義(ニヒリスト)などとレッテル貼りをされるだろうが、これが正直な結論。
宗教を信じない人はほぼ全員、心の奥底では本音はニヒリストであるはずだ、と思う。ただ認めたくないだけ。 "あの先"に何かいいものがあると思っている人は、あまり深く行ったことがないか、あるいは強い信仰を持っている。
最終的に無意味が見つかるという考えは、だから探求に意味がないとか、生きる意味がないという意味では決してない。生きる意味も探求する意味もあると思う。
だが、神は愛だとか、世界は愛だとかいう考えは断固拒否する。そのような"真理"は幻影だ。
セットの難しさ
セッティングが大事だと思っている人が多い。いいセッティングを教えてと聞く人も多いが、セットのことを聞く人はまるでいない。
ここで改めて言おう。セッティングが大事なのではなく、セット&セッティングが大事なのだ。
セットはセッティングより難しい。なぜなら一回的な都合でどうにかできるセッティングと違い、セットとは生き方だから。あなたが誰であるかだから。
セッティングだけに気を配るのでは、遊んでいるだけ。
世界各地の古来の神秘思想も、瞑想や実践時にはセット&セッティングに似たものが必ず求められた。インド思想を読めば、聖者に求められていた態度はそのままトリップのセット&セッティングに当てはめて読める事が多い。 聖人にように生きることは、悟るための前提条件である。他人に優しくすること、嘘をつかないこと、非殺傷、etc.日頃の習慣。
瞑想に適切な場所と時(セッティング)を見つけるのは、あくまでこの次。
悪いトリップをしないために必須なのはセッティング。本当に深いトリップをするために必須なのはセット。 もしかしたら、真の修行者は常にセットが完璧なので、セッティングを意識する必要がないのかもしれない。
でももしセットが完璧だったら・・実はトリップする必要がない。
無我について
無我のイメージが難しいのは、無我をイメージしようとするのが自我だから。 自我がないことを自我が想像するというのは矛盾になる。 ユングは自我がない意識は想像できないと言った。だが想像出来ないからといって存在しないわけではない。 無我状態の中にいる時は分かる。
視界の景色を見て欲しい。いま何が見えるか?そしてその視界を見ている人をイメージして欲しい。 「誰が」見ているか?今この視覚を体験しているのは誰か? 今起こっている事は「誰に」起こっているか?・・それは自分にだ。 この感覚が自我である。 自我は感覚そのものではなく、感覚を"自分が受けている"と感じる機能。自分がここにいるということ。
無我状態の時に見える景色は、自我との関わりを持たないので、自分が見ているわけではない。ただ景色だけがそこにある。そこに自分がいるわけではないし、それが全て。
I seeではなく、see.
自分がいないなら、見ているのは一体誰なのか? 誰でもない、ある"一点の意識"だけが見ている。その意識には自我という中心的がない。この一点の意識とは、付属物がない純粋な意識と言える。 付属物(=自我)を省かれた意識とは、単なる「感じる主体」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
この付属物のない純粋な意識性の世界において全ての人間は同一である。 人間同士の個体差は全て自我にあり、意識そのものにはない。
我々は自我と意識をほぼ同一視している。普通はこの2つを切り離せると考えない。無我になれば意識もないと思ってしまう。 しかし無我はむしろ意識"しかない"状態なのだ。
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