何を悟るのか?
 悟りという言葉が何を指すのかは、はっきり言ってかなり曖昧かと思います。その人の持っている個人的な哲学、または宗教思想によって、到達が目指される領域や、到達出来る境地が微妙に違うように思います。まず悟りの体験を意味する名称がたくさんあるので、それらの意味を一つ一つ考察して、違いや同一性について考察します。



 解脱


 解脱とは、輪廻からの開放を意味します。サンスクリット語ではモクシャ、英訳はLiberation(開放)。
 なので本来は輪廻を信じない人には意味を持たない言葉ですが、次に紹介する「涅槃」と同じ意味で使われる事も多い。バラモン教に始まり、その後ジャイナ教や仏教にも引き継がれる。
 輪廻と聞くと生き続けられるから良いことだと思われがちですが、輪廻は苦しみの生が続くことであり、悪いことだったのです。直感に反しますが、古代インド人の信じていた輪廻は来世信仰ではないのです。無限の輪廻から解脱するのが、宗教の一つの目的として設定されました。輪廻から解脱したものは、おそらく天国らしき場所に永住します。

 ジャイナ教の解脱の考え方は興味深い。ジャイナ教では、霊魂は本来上昇性を持っていると考える。業(カルマ)が微細な物質として霊魂に付着して、霊魂本来の上昇性を阻害し、現世に留めていると言うのだ。業が苦しみの生存を繰り返すことになる輪廻の原因。苦行(修行)によって業を滅ぼす事で霊魂が本来の上昇性を取り戻し、人は生きながらにして解脱の境地、または涅槃に入る事が出来るという。





 涅槃(ニルヴァーナ)


 ブッダが涅槃(ねはん)の境地に到達した事は有名である。
 仏教の考え方の一つに四諦(したい、四つの真実)がある。苦の認識(苦諦)、苦の原因を知ること(集諦)、苦の原因を滅する(滅諦)、苦を断つための正しい修行(道諦)。
 苦の原因を見極めて、真実相の理解が生まれたとき、苦に打ち勝つことができる。ニルヴァーナは「煩悩の燃え盛る炎を消し静めた理想的状態」とされる。
 ただしこのような簡単な説明だけで涅槃を解説するのはおそらく誤りだ。
 Jゴンダ「インド思想史」に見られる涅槃の説明を引用する。
 
 ・仏陀の涅槃は一つの過程、すなわち生死・転生の過程が終止することである。
 ・しかも存在は何ら失われることがないのである。
 ・理解を超え、筆舌を越え、存在でも非存在でもないこの涅槃は、どのような方法でも定義できない。
 ・心理学的に見て、一切の情動の終熄、完全な開放であり、形而上学的には、永遠・無限・無始である。
 ・涅槃は一言で定義することが出来ない。我々の思惟力の限界を越えた領域に属しているからである。
 ・仏陀は、涅槃を事細かに定義する事を断固拒否した。仏陀は、涅槃が知性に基づく思惟の手を借りた概念で言い表されるのを防いだばかりか、人間が持って生まれた思惟力の限界についても、ここで深い洞察の跡を示したのである。涅槃は体験すべきものであり、この生存中に必ずや体験できる。仏教徒にとって重要なことは、涅槃とは何であるかでなく、どうすればそれに到達できるかである。


 


 梵我一如


 古代インドの聖典、ヴェーダの末尾部であるウパニシャッド文献が語る哲学が梵我一如(ぼんがいちにょ)。これはサイケデリック「ワンネス」と呼ばれるものともかなり共通点があり、トリップ者には深い示唆を与える思想である。
 梵我一如を一言で説明すると、I am the universe(私は世界だ)。

 梵とは、宇宙の唯一絶対の原理であるブラフマンを指す。だがただ単に神の名前ではなく、全てに内在する潜在力である。
 再びJゴンダ「インド思想史」から引用する。
 ・梵の最も古い意味は、ヴェーダに内在する力、ヴェーダの祭祀から発言する神秘的勢力、バラモン階級の持っている神秘的勢力、バラモン階級そのものも指した。
 ・梵は「知りえぬ驚異」である。梵は潜在力の総和であり、純粋に精神的・抽象的概念ではなく、実在であり、同時にまた、一個の人格的存在である。梵は神々とともに思惟し、かつ語る。

 この最高原理の梵と、我(アートマン)が同一の存在、つまり一如であるとウパニシャッドは説く。神を自己から引き離してきた西洋宗教と比較すると、衝撃的で革新的な発明だと言える。インド人の内省は驚嘆に値する。
 仏教は「個人の核」としての自己の存在を否定する。仏教では移り変わっていくものだけがあり、自己の感覚は一時的な迷妄に過ぎないという考え方が一般的である。
 ウパニシャッドは自己をはっきりと認め、それが世界原理と同一だと説くので、この梵我一如の境地が仏教の解脱・涅槃と同じだと考えるのは誤りになると思える。だが似た境地であはあると思う。梵我一如体験と涅槃体験は両方、瞑想で到達される強烈な宗教体験、神秘体験である。ただ体験の解釈が違うだけなのではないかとも思える。
 
 もちろん自己がブラフマンと同一だという知識だけでは、その境地に到達できるわけではない。これは論理の問題ではない。知識など役に立たない。アートマンがブラフマンと同一だという“実感”を得るためにはヨーガや苦行の実践が必要になる。
 ウパニシャッド以前からインド人の隠者や仙人は様々なヨーガや苦行に励み、宗教的な境地に到達していた。ウパニシャッドはある時誰かが突然考えたものではなく、長い伝統の上に成立したものだろう。

 イスラムの神秘主義スーフィズムはアッラーと一体になる忘我状態への到達を目標とするが、この梵我一如の境地との共通点が非常に多いように思う。脳科学的に見ても似た現象が観測できると思われる。





 サマーディ(三昧)

 インドの古典ヨーガによる、神と合一した最終的な境地。
 Jゴンダ「インド思想史」によるとヨーガとは・・
 「内省・精神統一・忘我によって深い宗教的体験を得、恍惚の中で、尋常一様ならざる仕方で、見えざるものと合一に達しよう」とするもの。
「煩悩を正しい方法で次々に掃討し、無秩序な心の活動を止滅の状態に導くこと。それは平常の精神生活で絶えることのない心の活動を断ち切ることである」
 この説明を聞くと、上記の涅槃や、梵我一如の境地と同じようなものに聞こえる。事実、ブッダが涅槃に入るために行ったものは一種のヨーガだし、梵我一如を体験するバラモンが行う修行もおそらくヨーガなので、境地の呼び方と解釈が違うだけだと思える。



 古典ヨーガの流れの8段階のごく簡単な説明。
 1、節戒−準備段階としての不殺生、真実語、不淫、無所有など。
 2、内制−不浄な考えを除去、欲望を弱め、慈悲を念じる。
 3、坐法−ここからが実践。姿勢を保つ。身体を不動にする。
 4、調息−呼吸の調整。     
 5、制感−対象と感覚を絶縁させる。
 6、凝念−思いを一点に固定させる。
 7、静慮−凝念で得た一点の思いの固定を、引き伸ばす。
 8、サマーディ(三昧)−一種の停止の状態に突入する。こころは対象そのものとなり、時間の支配を受けず、解放されている。

ヨーガとトリップの類似性について、今度別記事で書こうと思います。

 のちに大乗仏教では三昧はただの集中状態を意味するようになり、何々三昧という三昧の名称がたくさん誕生しますが、それらは古典ヨーガの三昧と同じものではありません。

 



 エクスタシー

 エクスタシーというと快楽をイメージする人が多いと思うが、ギリシア語の語源を見ると、魂が身体から離れる事を言う。シャーマニズムにて、シャーマンの魂が身体から離れるとされるトランス状態のことを指す。
 シャーマニズムは脱魂型と憑依型があるという。自分の魂が身体から抜けるタイプと、他の魂が自分に憑依するタイプ。だが現象的に起こっていることはおそらく大差がなく、両方エクスタシーと読んで差し支えないと思う。
 エクスタシーは薬物がもたらす境地との類似点がいくつか認められる。が、上の悟り系体験とは色々と違いがある。これを悟り的体験と呼んでいいのかは微妙なものがある。だが少なくとも変性意識体験ではある。
 シャーマンはエクスタシーの達人であった。熟練のシャーマンは、エクスタシーへの導入方法を身につけていた。

 テレンスマッケナはFood of the Godsにて、エクスタシーをこう説明している。

 ・エクスタシー体験は二元性を超越する。それは同時に恐ろしく、愉快で、畏怖の念を起こさせ、見覚えがあり、奇妙。そして何度も繰り返し体験したくなる。
 ・エクスタシー体験は単なる快楽ではなく、非常に強烈で複雑。
 ・エクスタシーそのものは愉快でも不愉快でもない。あなたが陥る至福もパニックもエクスタシーの付随物に過ぎない。エクスタシーの状態では、自分自身の魂が身体から掬い取られるようで、どこかへ行ってしまう。誰がそれをコントロールするのか?自分か?潜在意識か?それともより高い神的なものか?周りは真っ暗かもしれない。それでもあなたは今までにないほどはっきりとしたものを見、聞く。あなたは究極の真実と向き合っている。これがエクスタシー体験の与える強烈な印象、または幻覚である。

 エクスタシーへの到達に幻覚剤が使用されることがあるが、おそらく向精神物質を使わない場合の方が多い(要出典)。エクスタシーへは、太鼓、呼吸、苦行、断食、禁欲など様々な導入方法がある。
 宗教学者エリアーデは、自力でエクスタシーに到達できずに薬物を使うシャーマニズムは衰退の段階にあると考えたが、テレンスマッケナは逆の考えを持ち、幻覚剤を使用するシャーマニズムこそが本物で生きている証拠だと考える。
 薬物シャーマニズムへの評価は、自らが薬物を使うかどうかで逆転するということが分かる。

シャーマニズムの深い世界について、後ほど改めて記事を書くことを考えております。






 賢者の石

 錬金術が最終的に目指したのは賢者の石の製造。
 ユングは、賢者の石を個性化(=個人の成長)のゴールの暗喩として捉え、実際に賢者の石が製造されたことはなく、人はゴールに到達することはない(つまりは完璧な人間になることはない)とした。

 だが同時にユングによると、中世の錬金術文献の中には、賢者の石をこの目で見たという錬金術師が何人もいるという。これは物理的に何らかの石を製造したという意味ではなく、一種の悟りに到達したという意味として捉えられる。
 錬金術師たちが賢者の石をキリストに例えていた例も多数指摘されている。


心理学と錬金術の記事で、ユングの「心理学と錬金術」からの引用をしておりますが、こちらで錬金術師たちの、錬金術に挑む際の「態度」が表されています。興味深い事に、上記のインド神秘主義とも重なるところが多い。到達する境地にもある程度共通点が認められる。真実に到達した錬金術師は、生まれ変わったような気持ちになったとか、永続する平穏を手に入れたなどと言う。

 錬金術文献は相互矛盾が多く、用語の使い方も難解で意味不明な部分が多いため、賢者の石、または石(ラピス)が必ずこの意味を指しているというわけではありません。ユング以外の書籍にあたると、全く心理学的ではない解釈が出てくることが多いです。
 
 それでも、錬金術師が最終的に到達を目指した境地は、明らかに悟り的な何かです。しかし西洋人はインド人と違い、内省的な意識を発達させなかったので、西洋人は心の内の変容を自覚する事が出来ませんでした。なのでそれは外の物質に投影されたのです。心の内の変容が物質の変容に投影される、それこそが錬金術の正体です。なのでデカルト哲学の誕生より以降、心の内と外界が完全に区別されてからは、錬金術は意味のないナンセンスになってしまい衰退します。