心理学と錬金術と幻覚剤
テレンスマッケナは、弟のデニスマッケナに、「ユングの「心理学と錬金術」を読むまでLSDをやるな」と言ったそうですが、なるほどこの本はサイケデリック体験の理解に有用なものを多く含むようです。
テレンスマッケナはユングを重要視し、ユングとエリアーデ(宗教学者)があれば、精神の地図の大半が出来ると語りました。フロイトは、サイケデリック体験の理解にはほとんど使いものになりませんが、ユングの著作は、本来サイケデリックスとは無関係である文章でも、そのままサイケデリック体験に当てはめて理解出来るものも多く、サイケ経験者には非常に興味深く、有用に感じます。
この記事ではユングの「心理学と錬金術」(池田紘一/鎌田道生訳、人文書院)の軽いレビューを行い、その内容をサイケデリック体験と照らし合わせてみます。
錬金術とは
一件、サイケデリックスとも心理学とも無関連に見える錬金術ですが、ユングの「心理学と錬金術」は一般的な錬金術の認識をはるかに超えて、錬金術が精神的なものであったとします。錬金術士は、錬金作業(opusオプス)と呼ばれる科学の実験をしている間中、ある心理的な体験をしていたのであり、物質に投影された自分の無意識を体験していたのでした。ユングは膨大な量の錬金術文献を研究し、それを引用して、これを裏付けます。
錬金術は金を作る事を目的とした、「失敗した偽科学の迷信」だというのが、一般的な錬金術の認識でしょう。私自身、高校の世界史ではそう習いました。
しかし“真”の錬金術師達は、金を作る事を目的としていたわけではないのです。神聖な秘儀の修得者としての錬金術師たちは、卑属な見せかけの錬金術師たちを非難したと言います。自分たちの求めている黄金は、愚昧な人間たちが考えているような「卑属の黄金」ではなく「哲学者の黄金」であると彼らは言いました。錬金術はただの「化学の前身」ではなく、歴とした宗教思想のようなもので、世界全体を説明しようとする智の体系だったのです。
ユングが錬金術に興味を持ったきっかけは興味深いです。ユングは実は、錬金術を心理学的に説明しようとしたのではなく(しましたが)、本当の目的は錬金術で人間心理を理解する事でした。
深層心理学者ユングは、人の無意識内容が表れているよいうな文献がないか探していたところ、錬金術とグノーシス主義の文献に行き着きました。錬金術は、一見意味不明な神秘的な表現の数々に、人の無意識の様子が表れているとユングは考えたのです。
錬金術が一体なんなのか、短い文章で説明するのは非常に難しいです。この図も参考にしてみて下さい。
錬金術は近代になってから「化学」を生み、科学的じゃない部分はそのまま次第に忘れ去られてしまう事になりました。なぜ錬金術は失われたのか?それはデカルト哲学の登場が最も大きな理由であると考えられます。近代人は主観と客観をはっきりと分けるようになりました。自分にとって正しい事が他人にとっても正しいとは限らない。自分は世界そのものではない。これが近代人にとっては常識です。しかし、古代から中世の人には、これは常識ではありませんでした。多くの古代人は全宇宙(マクロコスモス)と個体(ミクロコスモス)に対応関係があると直感的に信じていました。だから星の動きから個人の運命を把握しようとする占星術などが存在したのです(錬金術は占星術とも関わりがある)。
主観と客観の明確な分離をしていない人たちには、現代的な「科学的方法」はありませんでした。つまり、実験で証明することにより誰でも認めることができる客観的真理を発見するという考え方はありません。自分が直感的に真に感じる理論で十分だったのです。
なので科学的な見地からすると錬金術は迷信の塊ということになりますが、迷信は人間の直観能力や、無意識の構造を研究させてくれる格好の素材なのです。錬金術は忘れられた過去の産物ではなく、現代の我々にも様々な示唆を与えてくれる、象徴とイメージの宝庫です。
錬金術師は、精神的なものと物質的なものを区別しませんでした。それが錬金術の本質とも言えます。だから物質的なものと精神的なものを区別する我々には錬金術を本当に理解することは出来ません。
錬金術師はまだ物質の変容を説明するための化学を持っていませんでした。なので物質の変容を人間経験と比較して説明したのです。(二つの物質の結合を「結婚」、破壊を「死」と呼ぶなど)
夢と錬金術
ユングは、患者が自分自身になっていき個性化していくさまを、「個性化過程」と呼びました。ユングのもとに訪れた神経症患者たちは、神経症の原因であった無意識内容を意識に統合し、その際意識や自我の拡大と、人格の変容を経験しました(この様子はユングの著書「自我と無意識」などによく書かれている)。ユングは、錬金術の作業過程と、個性化過程が同様のものであると認めたのです。
個性化過程は、夢の中で象徴として表現されます。ユングは夢の中に出てくる象徴と、錬金術の象徴を比較し、その類似性を見出そうとします。
「心理学と錬金術」の第一部はキリスト教の宗教的な問題などについて読み応えのある序論で、第二部から本編の、「個性化過程の夢象徴」に入ります。ここでユングは、交流のあった物理学者パウリ(書中では患者のアイデンティティーは伏せられている)の夢を分析し、夢の中の象徴的イメージを錬金術の象徴と比較していきます。
ここでのユングの夢の解釈は非常に不可思議で難解です。夢と錬金術の比較の読解は簡単ではありません。が、サイケデリック体験の解釈に近いものもある程度認められます。ところどころ異常に面白い夢や解釈が混じっており、最後に登場する「宇宙時計の幻覚」は特に凄い内容です。
幻覚と夢が両方とも、無意識内容が意識に干渉するものだとすれば、幻覚は夢と同じような解釈方法が出来ると考えられます。なんとここの夢解釈は全てが睡眠中の夢ではなく、幻覚像も含まれています(ただしサイケデリック幻覚ではないと思われる。何の幻覚なのかは明確に書かれていないのではっきりしない。「睡眠薬による幻覚像」と書かれているところがあるので、多くが入眠幻覚ではないかと考えられる。またユングの考案した「能動的想像」というメソッドがあるが、能動的想像で見えたものも幻覚として扱われているかもしれない)。
夢の発展過程と錬金作業の類似性を理解するのは難しいですが、患者が毎朝起きた直後に夢を書くという膨大な作業こそが錬金作業に似ているとされます。
私も個人的に夢を記録した事はありますが、いざやり始めると書ける量の多さに驚きます。思った以上に時間のかかる作業で、それを長期間続けるのには確かにそれなりの根性を必要とします。夢はすぐ忘れるので、見るだけでは意味がないのです。夢を本当に体験するには、ただ受動的に見るのではなく、能動的に記録する必要があります。(なのでほとんどの人は「夢を見ているにも関わらず見ていない」ということになる)
夢は無意識内容をあらわにするので、長期間夢を記録するとそれだけ自分の無意識を知ることになります。その無意識内容の変化(個体化過程)が錬金術士が錬金作業で体験することに類似していたのです。
錬金術は異質のものを結合させるのを目的にしているといいます(ゲーテのファウスト第一部で、ファウストがそのように言うシーンがある)。異質なものとは、意識と無意識だったのです。
錬金術は、肉体と魂と精神を合体させた「賢者の石」を作るものだという説があります(錬金術の目標はたくさんあり、相互矛盾するものもあるので一口には言えないが、これはその一つ)が、肉体と魂と精神とは、意識と無意識の暗喩だったのです。
錬金作業
作業(オプス)の基礎は、 「第一質量(プリマ・マテリア)」です。
第一質量とは、錬金術士が個別に選んだ、スタートする物質です。これを賢者の石やその他の目標物に変えていきます。
水、水銀、頭蓋骨、血液、塩、酢、石、鉄、硫黄、毒、霊、露、影、海、母、月、龍、カオス・・と第一質量になり得るもののリストはどこまでも続きます。見ての通り、実在しないものすら含まれます。
多数ある錬金術書はそれぞれ別の指示を出してきます。一貫性はありません。錬金術書を紐解きながら、自力で錬金術をしようとしている人がいるといしたら、彼はスタート地点にすらなかなか立てない事に気がつきます。作業し始めるための基本すら、謎に満ちた暗号に隠されているのです。第一質量は一体なんなのか?
ユングによると、錬金術師は、第一質量に、自分の無意識内容を投影しました。第一質量は無意識内容の投影先なのです。
しかし投影は無意識的であるゆえに、当の本人達は投影を自覚してはいません。彼らにとって物質の本質は未知だったので、彼らは、投影された無意識内容の変容を、物質の変容として受け取ったのです。また逆に、物質の変容も、錬金術師たちには自分の精神の変容として感ぜられたのです。
物質と精神を明確に分ける我々現代人からは馬鹿げたことに聞こえるかもしれないが、中世以前の人間には物質と精神の境目は曖昧だった。この曖昧領域で錬金術は行われるのだ。
ユングによると、錬金術士達が第一質量について残した数々の説明やメタファーは、実は無意識を説明するものだったのです。錬金術師たちは第一質量について語るとき、無意識について語れることも同時に語り尽くしていたのです。
我々現代人にとって、物質の本質はもう未知ではありません。我々は物理学と化学、そしてその他多くの分化された学問を持っているため、物質に想像と無意識が入り込む余地はありません。我々がそのような、境界線が失われる曖昧性を経験できるのは、かなり特殊な状況においてだけでしょう(サイケデリックスを摂取した時、など!)
錬金術はいまだ学問が分化していない時代の、全てを理解しようとする総合的な知だったのです。錬金術師にとっては、科学と魔術はまだ分化しておらず、物質的なものと神秘的なものも分化していなかったのです。
錬金術は合理的思考では説明出来ない、無意識世界の体験だったわけで、幻視や幻覚も少なからず絡んでいたと考えられます。錬金術師たちは、言葉で説明出来ないものを象徴で説明しようとし、無数の象徴画やメタファーが生み出されました。「心理学と錬金術」はなんと270点の画像を含んでおります。
ユングは象徴の裏に潜む心理学的な意味の探求に生涯をかけて挑みましたが、錬金術文献は彼にとって象徴の宝庫であり、人間精神の内奥を探れる金脈でした。
錬金術象徴の例。
これらの図は錬金術の過程を表している。
精神的根本態度
心理学と錬金術は下巻に入ってからは第3部「錬金術における救済表象」で、錬金術の数々の表象の心理学的解釈になります。
錬金術師は作業に挑むときの根本的な精神態度を非常に重要視していました。ここを読んでいるとどうしても、サイケデリックスのセット&セッティングのことを言っているのではないかと感じてしまうのが避けられなかった。
錬金術師たちは錬金作業への態度にどのようなものを求めたのか?下巻から引用します。
(『』の中にあるものは、ユングの引用している中世錬金術文献であり、括弧のないものはユング自身の言葉です。)
p 48『さまざまの著者の書物を集めるがよい。さもなくば彼らの言うことを理解する事は不可能だからだ。書かれていることがよく判らなくても、一度や二度で、いや三度読んでも投げ出してはならない。十回、二十回、五十回、いやもっと繰り返し読むがよい。ついには著者たちの見解がどの点において最もよく一致しているかを見出すであろう。すなわちそこに真理は隠されているのだ』
p49 作業とその目的とが少なくとも精神的前提に相当に深く依存する事が示唆されている。
p56 『作業を行う者は自分のやろうとしている仕事と同じ高みに立たなければならない、すなわち、自分が物質に期待するのと同じ過程を、自分自身の内において実現しなければならない。』
従って、作業者自身が作業の中に身を置く、これが鉄則である。『すなわち探求者が(作業との)類似点を微塵も持ち合わせていなければ、彼は..高みに登ることはないであろうし、目的に通じるあの道に達することもないであろう。』
p61 錬金術作業過程の初期の段階と自分自身の心理的制約とを同一のものと感じていた、あるいは同一のものとして体験した
p61~62 真正の術者であるための心理的、性格的前提条件。極めて繊細な精神の持ち主であること。貪欲であってはあってはならない。ぶらぶらと揺れ動く優柔不断な人であってもならない。短気であってもならず、自惚れの強い人であってもならない。
反対に、意志堅固で、根気強く、忍耐力に富み、温和で、気長で、節度を弁えた人間でなくてはならない。
p 62 傲岸不遜であってはならず、敬虔で、誠実で、深い理解力をそなえ、晴れやかな表情をたたえ、快活な心を持していなくてはならぬ
p 63『化学(錬金術)には、最初は辛酸に充ちた苦しみにまみれているが最後には晴やかな歓喜に包まれる高貴な物体が存在するとされている(賢者の石)。そこで私は、それならば私の身にも同じような事が起こるだろうと考えた。すなわち最初は困難、悲哀、不快に悩まされるが、しかしついには歓ばし区軽やかなもろもろの物を目にする事になるだろうと考えたのである』
p64 (神秘に目を開いた者は)『衣食のごとき取るに足らない日常の憂いを脱して、いわば自分が新たに生れ変わったような気持になるだろう』
作業の最初には困難と悲哀が現れるとされていました。ある錬金術師はそれを「精神の恐ろしい闇」と呼びました。錬金術過程には四局面があるとされ、最初の局面は「黒化(ニグレド)」と呼ばれました。ユングによるとニグレドは影との出会いに相当するようです。
ユング心理学の概念で影とは、人の無意識内容のうちの、向き合いたくない部分を指します。ユングの理論では、その無意識内容である影は、自分の苦手な人などの形態をとって擬人化され、夢に現れるといいます。
サイケデリックスも影との出会いをもたらします。サイケ体験の中で最も辛いのはピーク前の序盤にあることが多いですが、錬金術の最初の局面と照応するところがやはり見受けられます。
錬金術師は錬金作業中に何をするかよりも、錬金術をしていない時にどう生きるかのほうを大事にしていたのではないかと思われる。(ちなみに、錬金作業がなんなのか、具体的に書かれている錬金術書はない!どの錬金術書も、一見化学の実験を指示するように見えても、神秘的な表現をし始めて、結局何を指示しているか分からないのだ)
作業準備こそが作業より大事だったのではないだろうか・・?まさにトリップ準備が、トリップより大事であるとでも言わんばかりに・・
神の照明
錬金術師たちは、錬金術を成功させるには「神の照明」が必須であると語りました。作業を行うのは神だけである、とする錬金術師までいます。
錬金術の境地は、凡人に辿り着けるところではなく、神の導きが必要なのです。
p 43「(賢者の)石の製造は理性の及ばぬことであり、ただ超自然にして神的な智の身が石の形成される正確な時を知っている」
ある時代以降は神の照明は「自然の光」であるとされるようになる。
『この光は自然の真の光にして、この世に生を享け、神を愛するすべての賢者に啓示(照明)をもたらす。(中略)だが世の人々はこの光に気づかない。(中略)世の全ての人々はこれを眼前に見ていないがら、それに気づかないのである。』
神の照明をサイケデリック体験と照らし合わせると、それはドースであるように思えるのですが、どうでしょう。
摂取すること。また、摂取量(Doseは動詞としては前者を指し、名詞としては後者を指す)。
サイコノートは、サイケ物質の導きを利用する。当然ながらサイケの摂取がないとサイケデリック体験は出来ない。
シラフで宗教的体験、神秘体験を実現したい場合、自力で達成するのは非常に難しい。精神病や、かなり特別な素質が必要になる事が多い。普通の人にとって宗教的体験はかなり限定された条件の下でしか発生せず、ほぼ受動的だとも言える。この宗教的体験の難しさも、「神の照明」という概念が表している意味だと思う。
・錬金術についての書籍
私は錬金術の予備知識もない状態で「心理学と錬金術」を読み始めたので、かなり苦労しました。のちに錬金術に関する書籍を読んだんですが、先に読んでおけば良かったと思うものです。紹介しておきましょう。
「錬金術」創元社 知の発見双書72 アンドレーア・アロマティコ著 種村季弘監修
さくっと読めるサイズの本なのでおすすめ。カラーの図が多量にあり、視覚的にも満足。
心理学的な記述はほとんどないので、ユングを読むような難しさはない。
「錬金術大全」東洋書林 ガレス・ロバーツ著 目羅公和訳
タイトルには大全とあるが大全というよりは入門書で、本文は150pしかない。カラーの図は少ないが、本文内容はこちらのほうが充実している。錬金術の歴史、著作、理論と言葉使いについて学べる。


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