幻覚剤がどのような効果をもたらし、使用者にどんな体験をさせるかは他の記事で念入りに説明されていますが、今回の記事は、そもそも幻覚とは何か、哲学的、心理学的なアプローチから考えたいと思います。 



・1・感覚はどこにあるのか?

  幻覚が何かを考えるには、まず幻覚じゃないものが何なのかから考える必要がある。我々が幻覚とは呼ばない、日常的な感覚はどこから来るのかを考えてみよう。
 我々は様々な感覚器官を持ち、これに頼って生きているが、我々は持っていない感覚がどのようなものなのかは、想像すらできない。我々は赤外線を見ることが出来ないし、超音波を聞くことも出来ない。
 そもそも、我々が「可視光」や「可聴領域」と呼ぶものは、あくまで人間にとって受容可能な範囲で線引きしているだけであり、超音波が聞こえる動物にとっては、超音波はそもそも「超」音波ではなく、ただの高音、音なのだ。
 人間は20ほどの感覚を持っていると言われますが、この20近くの感覚は生存に役立ったので進化の過程で身につけたに過ぎず、我々は理論上可能な感覚を全て持っているわけではありません。もしかしたら、30や40の感覚を持つ事もできるかもしれない。
 と言うわけで、我々の感じる感覚の源泉は、外ではなく内にあると言えます。我々が感じているものは、あくまで人間が感じることが可能なことに限られているので、感覚の元になるものは、究極的には外界にあるわけでなく、我々の脳なのです。
 例えば、我々がオレンジの匂いを嗅ぐ時、我々は「そのオレンジ自体にオレンジの匂いがある」と思い込み、オレンジの匂いを、自分の外にあるものとして考えます。自分がそこにいない時も、オレンジの匂いはオレンジの匂いであり続けると。
 しかし本当にオレンジはオレンジの匂いがするのでしょうか?
 嗅覚を持っていない生物には当然匂いはしないでしょうし、嗅覚特性の違いでも匂いは違って感じるでしょう。
 我々が快い芳香として感じる様々なハーブやスパイスの香りは、基本的に虫にとっては毒であり、虫除け効果があるわけですが、そう考えると、ラベンダーの香りを受容した虫は、我々と同じような快い体験をしてないのは明らかです(虫が感覚を持っているかどうかは別問題として)。彼等にとっては、ラベンダーの匂いは不快であり、避けるべきなのです。
 オレンジの匂いはオレンジ自身にあるのだろうか?それとも、オレンジの香りの分子が、人間の中でオレンジの香りという体験を引き起こす「鍵」のような役割を果たしているだけなのか?
 答えは後者であると考えるだけの十分な証拠はあります。すべての香りは空気中を漂う分子であり、それが人間の嗅覚細胞と結合する事で我々は匂いを感じますが、香りは分子自体にあるのではなく、分子が電気刺激に変換されて脳に送られた時に、脳内で、人間の感覚内で発生するものなのです。
 
 感覚は全て内から発生すると言う前提に立つと、次の疑問が現れます。
 「オレンジの香りを嗅いだ事のない人も、元から生まれつき、脳内に『オレンジの香り体験』が用意されているのか?」
 一つ、確実な事は、オレンジ体験を可能にする因子は誰にでも用意されていると言う事です。もしそれがなければ、当然オレンジ体験は出来ない=オレンジの匂いを感じることが出来ないからです。
 そのオレンジ体験を可能にする因子は、それ自体はオレンジ体験ではないですが、オレンジ体験を可能にするものなのです。
 我々人間はいつの時代のどこの誰であれ関係なく皆が、潜在的にオレンジ体験が可能だ、と言う意味では、「元から脳内にオレンジの香りが用意されている」と言えます。
 しかし、オレンジを嗅ぐ=オレンジの香り分子を嗅覚細胞で受容すると言う化学的プロセスを経ないと、脳内の「オレンジの香り因子」は作動しないので、「元から脳内にオレンジの香りが用意されている」からといって、決して脳が「元からオレンジの香りを知っている」わけではありません。作動されない因子は、知られないのです。





・2・何が体験可能か?どこまで到達可能か?


 上の考え方に従うと、人間精神の中には、無数の体験が用意されていることになる。
 我々は、人生で新しい局面に立たされると、自然とその状況にふさわしい感情を感じるようになっている。我々は怪我すると痛みを感じるが、痛みが何であるか、どこから来るのかは勉強する必要がない。それは元から我々に備わっており、怪我をした部位に自然と痛みが作動する。経験したことのない種類の痛みでも、つまり「本人の意識はまだ知らない」痛みでも、体は必ず提供してくれる。
 失恋がどういう気持ちかを感じるために、失恋の気持ちを学ぶ必要はない。失恋すれば、勝手に体が「辛さを感じてくれる」のであり、どう感じるべきか考える必要はない。仮にそれまで、失恋経験がなく、失恋がどのような気持ちか分からなくても、失恋さえすれば人は失恋時にふさわしい苦痛を自然と感じる。どれだけの苦痛を感じるべきかは身体が、遺伝的素質が、予め定めている。

 体験可能なものの雛形、つまり模型や骨組みのようなものが我々の脳に予め備わっているなら、我々が幻覚と呼ぶ体験の雛形も備わっているはずだ。
 「幻覚」はあたかも、雛形が用意されていない「精神の範囲外」であるかのように扱われるが、それは間違いで、全ての幻覚も体験できる以上は精神の範囲内にあるものなのだ。
 幻覚は幻覚として体験されている時点で、幻覚以外の体験と全く同じ程度に歴として「存在している」。幻覚は体験可能であり、すなわち脳は幻覚を体験するだけの能力を持っている。
  幻覚について考える時、まずこの考え方をスタート地点にする必要がある。これが分からない人は幻覚について何一つ語る資格がない。

 多くの現代人は幻覚体験を「ただの幻覚に過ぎない」と言って、その価値を一切否定する。彼らはただ「存在しないものが見えている」だけだと言う。しかし、入力のない出力などありえないのである。幻覚は無から生じたのではない。幻覚の源泉は人の心であり、幻覚の軽視はそのまま精神の軽視なのである。

 体験可能な全ての意識をXとすると、Xの中において我々が日常的に経験する意識はごくわずかな部分にすぎず、我々はXの全体像がどのようなものかは想像すら出来ていない。
 その中には、人間的手段では到達できない意識も数多く含まれている。感覚器官が足りないから体験できないものもある。感覚器官の性能が足りないから体験できないものもある。脳の能力が足りないために想像すら及ばない領域もある。
 





・3・精神の地図


 我々現代人は、なぜこんなにも、意識を変えることを恐れるのだろうか?我々は、精神の地図を完成させる−あるいは少しでも広げる−ことに関心がないのだろうか?
 「体験可能なもの」(種々の幻覚体験)を省いて、人間精神全体の地図は作れない。こころを知るにはこころを経験する必要があり、こころをより広く経験するには、精神を変容させる向精神物質は不可欠である。サイケデリックスへの無関心は、巨大な経験領域を丸ごと無視することに等しいのだ。

 人間的手段では到達できない体験がある−とユングは「心理学と錬金術」で述べた。特別な素質や、精神病を持った人だけが経験する領域があり、普通の人がただ頑張っただけでは到達が不可能な
体験がある。しかし到達が難しいからと言ってその体験領域を無視したり、否定するのは愚かではないだろうか。手の届かないところにこそ宝があるはずなのだ。
 現代社会の構成員の多くは、未知なる体験領域に無関心であり、無知であり、時にはその体験の価値を否定する。しかし、体験可能なものは、どれだけ不可解であろうとも、精神の地図に加えられるべきではなかろうか? 
 潜在的に体験可能であり、かつ未だ体験されざる世界を冒険しようとする事が、極めて人間的な好奇心では無いというなら、一体何なのか。体験するべきでない体験があるとしたら、なぜするべきでないのか?





・4・幻覚を引き起こす物質?


 幻覚剤が「幻覚を引き起こす」のか。それとも、幻覚剤は脳内にある、または潜在的に存在しうる様々なイメージや感覚を起動するスイッチのような役割を果たしているだけなのだろうか。
 考えてみると良い。もしLSDが見せる数々のイメージの原型が脳内に無いというなら、どこにあるのだろうか?それはどこかにはなくてはならないので(入力のない出力はあり得ない!)、摂取者が予め持っていないというなら、必然的にLSD分子内にあることになるだろう。LSD分子に、LSD幻覚のデータが入っているとでもいうのか。もちろん、それはありえない。サイケデリック分子には何一つ情報は含まれない。数々のサイケデリック体験が見せる豊富なヴァリエーションの感覚やヴィジョンのデータは、その分子自身には含まれているのでない。

 サイケデリックスはセロトニン受容体と結合するが、神経というものは作動して発火するか、しないかの、0か1かの、2進数の世界だ。ある一つの神経のセロトニン受容体が、セロトニンで作動したか、LSDで作動したかは、その神経自身は区別が出来ない。何で作動しても、発火し、0が1になるだけである。いわゆる幻覚が生じるのは、数えきれない数のニューロンの活動パターンが変化した時であるが、果たしてこれを「誤作動(幻覚)」と呼ぶべきだろうか?誤っているのは何か?分子レベルで探ってみると、どこにも誤作動はなく、ただ単にLSDが脳内に紹介されたというだけである。LSDは他の物質と同じように物理法則に従って移動し、その化学的に定められた働きをし、次第に代謝され排出される。その間、摂取者は主観的に「変性意識」を経験するわけであるが、これが変性意識と呼ばれるのは、LSDが内因性神経伝達物質では無いからだ。もし、LSDが元々体内で生産され、神経伝達物質として利用されていたとしたら、幻覚剤ではなくなるだろう。
 
 我々は自然界から神経伝達物質として働くモノ−ドラッグ−を摂取し、それ特有の意識を
経験することが出来る。人間はアルコールやカフェイン、ニコチンも含む様々な薬物を、意識を変えるためのツール(道具)として利用してきた。






・5・幻覚の定義

 幻覚剤を実際に使用して経験していくうちに、多くの人は幻覚剤という名称が適切ではないという事に同意するようになる。ただ、言語に定着しているので幻覚、幻覚という名称を使い続ける。
 英語では本来幻覚剤の事を総称してhallucinogenと呼ぶが、これが適切ではないと気がついた人がEntheogenやPsychedelicsという語を開発した。日本語でも幻覚剤よりはサイケデリックスと呼ぶのが好ましいのではないかと思う。
 「サイケ」はギリシア語のプシュケー(精神・魂)から来ており、「デリック」は古典ギリシア語の形容詞のデーロス(明らかにする)を英語風にもじったものである。精神を明らかにするもの、これほど適切な名称はあるまい。

 我々の言語の「幻覚」という単語の真の意味、定義は、「何が起こっているか分からない」である。「何故」起こっているか分からない、そして「何が」起こっているか分からない。
 幻覚の定義は、錯覚や、精神の変調なのでは?と思われる人も多いだろう。しかし、もしそうだとしたら、なぜ目の錯覚を幻覚と呼ばないのだろうか?それは、何が起こっているかある程度分かっているからである。なぜアルコールによる精神変調は幻覚ではないのか?それも同じこと。
 幻覚の最も大きな特徴は自分の支配の範囲外から来ているように感じ、何者かが精神に侵入しているように感じる事である。自分の意識の管理下、支配下にあるものは基本的に不愉快感をもたらすことはないが、それは侵入してくる異物のように感じないからである。
 
 日本でサイケデリックスなどの効果が書かれる時、本来、多彩に表現すべきものがひとまとめに「幻覚」片付けられる事が多い。 幻覚呼ばわりは一種の思考停止であり、効果の説明ではない。 英語のwikiなどを見ていると幻覚を意味するhallucinationはせん妄を意味する事が多く、サイケデリックスの効果全般を指すものではない。
 サイケデリックスの効果は、説明できるものから名称が与えられていく。説明が著しく困難なものは未だ「幻覚」と呼ばれ続ける。サイケ体験をより上手く理解するには、何故、何が起こったのかを考える必要がある。何も学ばない人は何が起こっているか分からないので、各現象に「幻覚」以外の名称を与えられない。

 LSDの効果について、psychonaut wikiを見てみよう。
  身体効果ー刺激、自発的身体感覚、身体多幸感、身体軽量感、触覚向上、身体感変化、鎮痛、体温調節抑制、体温上昇、吐き気、身体操作向上、スタミナ向上、食欲抑制、脱水、排尿困難、血圧低下、心拍数上昇、瞳孔散大、(他8つ省略)
 認知効果ー分析力向上、不安、恐怖、概念的思考、認知的多幸、内省、個人的バイアスの抑制、創造性向上、畏敬、集中、没入感向上、個人的意味向上、感情増強、既視感、共感、せん妄、性欲向上、音楽向上、ユーモア、思考加速、思考接続性、思考ループ、時間歪み、(9つ省略)
 聴覚効果ー聴覚強化、聴覚歪み、幻聴多感覚効果ー共感覚超個人効果ー実存的自己の発見、スピリチュアリティの向上、一体感と相互結合性
 視覚効果はエンハンスメント(強化/鋭敏化)、ディストーション(歪み)、ジオメトリー(幾何学)、幻覚状態の4カテゴリに分けられる。
 視覚鋭敏化ー解像度向上、色覚向上、パターン認識向上、拡大、フレームレート向上
 歪みー流動、色流動、残像、距離感変容、パターン化、視点変化、再起、対称性の繰り返し、感覚スライス
 幾何学ー幾何学模様
 幻覚状態ー変容、マシンスケープ、内的幻覚、外的幻覚

 この幅広い身体的、認知的効果をどれだけ省略して「幻覚」という言葉で片付けるべきか??「幻覚」は分析するとするほど別の説明が出来てしまい、最終的に「幻覚」と呼べるものはどこにもなくなってしまう。





・6・神秘体験の価値


 古の人たちは私たちの知らない意識を知っていたかもしれない。世界中の様々な神秘思想の多くは、新しい意識の獲得を目的としていた。インドで発達したヨーガや、それが中国や日本に伝わって変形した禅などはその代表例である。
 現代では、信仰者に何らかの神秘体験を与える事を目的とする宗教は、宗教の中でもカルトに属して、まともでないというイメージが一般につきまとうが、その考え方では、信仰者に神秘体験の経験を特に強要しない宗教のほうが優れていることになる。だが本当にそうだろうか?
 グループでアヤワスカを飲む部族は、キリスト教徒には想像もつかないような精神的体験をしていた。キリスト教は表面的には発達しているように見える。神学者たちは一般教徒には分からないことが分かっていたのかもしれない。しかしキリスト教徒の内面を覗くと・・驚くほど空っぽなのである。イスラームも同じである。これらの一神教は広い土地を効率よく統治するために都合のいい形に発展したに過ぎず、人の精神の内側をよりよく形成するために発展したのではない。精神の内側に触れようとする人たちは異端者となった。教会は幻覚植物を悪魔のものだとしたが、世界中の文明や部族が幻覚植物を神秘的に扱い崇拝していた事を考えると、一神教の幻覚剤の扱いは対照的で、「自然に反する」とも言えるかもしれない。神秘的体験をもたらすポテンシャルがある物質を、神秘体験を目的にしているはずのシステム(宗教)が避けるというのは、よく考えたら不合理ではないか?
 (神話学者のジョセフ・キャンベルはこう言っている・・(アブラハム系一神教の目的は)自分が神と一体になる事を経験することではなく、超越的な資質があると信じられている集団の一員になることによって、神とのある種の関係を確立し、維持することである。一方、インドのヨーガの目的は、神との一体を実現することである。)

 現代宗教はかなり空虚である。 人類は農業、資本主義と大量生産社会を産み育てるために、大地との精神的な接続を断ち切ることを選択した。「発展」するためにはそうする他なかったのだ。それが神秘主義が衰退した理由である。 今神秘体験をしても苦痛が大きいのである。なぜなら神秘体験は現実を、これまで我々がやってきた事をを我々の顔面に叩きつけるからだ。我々は現実を、耐えきれないほど悲惨なものにしてしまった。かくして神秘体験は胡散臭いカルトにまで立場を落とされ、誰も求めなくなった。

 宗教学者ミルチア・エリアーデは、薬物を使用するシャーマニズム(原始的宗教)を退廃的だと考えたそうだが、テレンスマッケナはこれに反対し、むしろ生き生きとしている証拠だとした。薬物で神秘体験をするな、と言う人は多いが、なぜ物質摂取を伴わない体験にしか価値がないという考え方に拘るのか。薬物に対する偏見以外の理由があるだろうか?
 神秘体験、宗教的体験は、誰もが体験していいものなのである。そこに最も効率的に到達する方法はヴィジョン物質(サイケデリックス)の摂取だ。物質摂取なしに到達するのは簡単ではない。だからこそ有効なツールなのだ。






・7・科学はどこまで行けるか

 マッシュルームやケタミンなどが鬱などに効能があるとして研究が進められ、よく話題になるが、サイケデリックスの「本当の効能」とも言うべきものは、論文になる事はない。鬱に効く事が、サイケデリックスが有用である本当の、または唯一の理由だと言うわけではないのだ。アマゾンの人たちは、決して鬱を治すためにアヤワスカを使用していたのではない。(ちなみに、鬱やその他精神疾患は現代社会にて急増したものであり、未開人には極めて稀なものだった)
 ここで私が科学を軽視していると勘違いして欲しくはない。私は科学的な考えを非常に重視しているし、非科学的な主張は見抜き、批判する。
 しかし現状として、科学は全てを抑えているわけではない。と言う事も理解しなければいけない。脳の働きは複雑すぎて分かっていない事が多く、脳科学はまだ深層心理学に追い付いていないのだ。
 例えば、心理学ではほぼ当たり前のように使用する概念である「自我」は、脳内のどこにあるのか?それは誰も知らない。ユング心理学の概念の多くは、科学的な方法で証明が出来ないので、よく科学的じゃないと言う批判がされる。しかし現時点で、「科学的に」無意識を見る方法はほほ無い。もしかしたら永劫できないかもしれない。だがだからと言って、我々は無意識について仮説を立てて考えるのをやめるべきではないだろう。
 科学は自らを客観的であると主張する。客観的なデータが全てである。しかし人間の意識は主観的であり、意識を客観的に測る方法は無い。サイケデリック体験も全てが主観的であり、主観的にどれだけ価値があろうと、科学は個人の意見(主観)には関心を持たない。科学は「客観的」にしかサイケデリック体験を見ない。なので「何人中何人が鬱の傾向を軽減された」と言うようなデータに拘る。そのような具体的に数値化したデータでしかサイケデリックスの価値を表現できない。
 凄まじいサイケ体験も、科学論文になる淡白な文章ですぐ片付けられ、深い文学的表現はされない。感情に訴えると科学的じゃないからだ。なのでいつも「科学的な」サイケデリック体験レポートはつまらない。一番大事な部分、つまり主観的な変容の強烈さや奇妙さの表現や、宗教的・芸術的解釈が抜け落ちるからだ。そこでは意識も個別性も否定され、”客観“的なものだけが抜き取られる。
 現在、サイケデリックスを精神探究目的で研究する事はまだタブーなのである。だから具体的な効能書きが欲しいわけで、そうでもしないと研究が許されないのだろう。






・8・夢と幻覚は無意識の体験である


 夢とサイケデリック体験はある点では大きく異なる。サイケデリック体験は基本的には目が覚めており、自覚できる感覚や感情が非常に強烈であり、その体験はより現実に近く感じる。
 しかし総括的に見ると夢とサイケデリック体験(幻覚)は類似点の方が多いように思える。体験の方向性を操作できない、つまり次に何が起こるか分からないという不確定性や、その内容を自分で生み出しているようには感じない、体験の自律性。
 夢はわけが分からない。幻覚もわけが分からない。しかし、ここまで議論してきたように、入力のない出力はあり得ないので、夢や幻覚という出力には必ず入力があるわけで、我々はその入力源を、インプットソースを知らないだけなのである。我々の自我や意志との関わりがない何らかの自律的な心的過程が、我々の精神の内奥に潜んでおり、それが夢や幻覚の源なのである。

 フロイトやユングは夢を人の無意識世界を知るための窓として利用した。ユングによると、「夢には、私たちが意図して作り出すのではないイメージや想念が含まれている。それらのイメージは私たちに関係なく自律的に生じ、したがって、私たちの恣意に左右されない心的活動を表している。だから夢は元来極めて客観的な、いわば心の自然の産物なのである」(ユング『自我と無意識の諸関係』)

 サイケデリック体験は、ユング心理学的に捉えると、無意識の体験である。特に、軽めのサイケデリック体験は個人的無意識の体験であり、強烈なサイケデリック体験は集合的無意識の体験であると言える。
 念のためここでユングの個人的無意識と集合的無意識の解説をしておこう。
 個人的無意識は、人が個人的な経験により身に付けた無意識である。元々は知っている事柄なので潜在的には考える/思い出す事が出来る内容だが、考えたくないから抑圧され、無意識化したものである。個人的無意識は人の自我と大きく関わる。それに対して、集合的無意識は、誰もが生まれつき持っており、経験で身に付けたものではない。そしてその内容は自立しており、つまり意識と関わりなく独自の活動をしており、ほとんど自我と関わらない。なので「正常な人間の中に集合的無意識が存在している事を証明するのは容易ではない」(以下引用はユング「オカルトの心理学」の第2章「無意識の心理学」から)。事実、集合的無意識の理解は非常に難しく、かなり誤解されることが多い概念である。それは、ほとんどの人が一生のうち一度も、それを具体的に体験しないからである。

 集合的無意識は、自立しており自我から分離されているが故に、それが意識と結合すると外部から生じた異質なものの侵入であるかのように感じる。これはまさにDMTブレイクスルー時に人々が出会うというエンティティー(存在)たちの正体なのではないか。エンティティーの特徴として、自分の内から発生したように感じない、それ独自の活動をしている、というのが挙げられるが、これはまさに集合的無意識の特徴である。
 集合的無意識の体験は基本的に精神病の症状となる。本来自我と関係ない心的内容が自我に結合するためだ。人は集合的無意識を経験すると錯乱し、それは「極めて不快で危険」でさえあるという。またそれは「奇妙で不気味であると同時に魅惑的なもの」でもある。
 しかし、個人的無意識を意識に取り戻すと、「開放感やしばしば治癒の効果が生じる」。サイケデリックスのヒーリングパワーは、個人的無意識を自覚させ、統合させられる所にあると考えられる。サイケデリックスは無意識内容をほぼ強制的に体験させるため、それなりの苦痛を伴う。個人的無意識はそもそも都合が悪いから考えたくない内容で出来ているため、それを思い出すのが楽しいはずがない。サイケデリックスを試し、非常に悪い体験をして再挑戦しなかったという人は、無意識の内容に耐えられなかったという場合が多い。だが彼らはその自覚はなく、無意識の内容の不快感が幻覚剤から来たものと考え、幻覚剤そのものが恐ろしくて無価値なものだと思い込んでしまう。
 





・9・意識の拡張


 サイケデリックスは意識を拡張する、と言われている。が、どこに向かって拡張するのか?それは無意識に向かって、なのである。つまり、意識の拡張は無意識の縮小なのだ。意識と無意識は反比例の関係にある。意識が「拡張」されるには意識に何らかの内容が流入しなければいけないわけだが、これは無意識内容しかありえない。意識拡張とは簡単に言い換えると「もっと考えること」、「考えすぎること」である。普段は考えない無意識内容が意識に同化されたからだ。

 意識を拡張するとどうなるか−無意識的過程が減少し…どこまで減少するかと言ったら、最終的には身体動作や呼吸までも意識しなければいけなくなる。前提となる概念は何一つなくなり、最も基本的な概念ー自分人生、家族、愛ーすら分からなくなる。「無意識的な前提」となる答えが用意されなくなる。最も根源的な概念すら、意識的に構築し直さなければいけない(がそんなことはできない)。超ハイドーストリップはそういうものになるが、地獄にしか聞こえない。

 果たしてこれが楽しいだろうか?…明らかに、無意識でいる方が楽しいだろう。人類は無意識になるために、アルコールや麻薬を利用してきた。そして厳しい現実から逃れるために様々な娯楽を編み出した。だが、我々はいつまでこの「つけ」を払い続ける事ができると思っているのか?
 意識しなければならない問題は、年々増えている。もう寝ている時間はない。我々はこれ以上意識を縮小するべきではない。意識を拡張しなければならない。だがその為には、意識の拡張が苦痛ではない世界をまず作らなければいけないのだ。
 しかし人類はまだそこに到達していない。意識の拡張は我々の世界ではまだ犯罪であり、気違いがやる事であるとされているのだ。