エゴデス -自我の崩壊

 幻覚剤はエゴデスと呼ばれるものを引き起こすと言われております。 これについて解説しようと思います。
 エゴデスをした事があるか分からない、という人はけっこういます。 またエゴデスが何か理解しておらず、したと思っているけどしていない人も少なくないです。
 はっきりと言いますが、カジュアルにトリップしている人のほとんどはエゴデス体験を知らないと断言出来ます。

エゴデスは調べても、定義がけっこう曖昧なので、簡単に説明する事が出来ません。
 人によってもエゴデスが何だと思うかは微妙に異なるようです。
 現実には、いくつかの異なる現象にエゴデスという名がつけられていると思います。
 私はこの記事でエゴデスのより厳密な定義づけに挑戦します。


 エゴデスをタイプに分けてみましたが、それぞれの区切りは曖昧であり、複数の中間のような体験も多く存在するでしょう。サイケトリップで起こることは複雑で、説明出来ないものが多いので、この記事での説明が全てを説明しきっていることはないと思います。あくまで目安程度のものとして受け取って下さい。

 




エゴデス 類似現象A
アイデンティティの消失
普通以上の強さのサイケや、サイケ経験者の場合、十分な量の大麻でも達成可能。
 この状態は、自分を構成する要素を考えているうちに、自分を自分たらしめる本質の核のようなものは無い事に気がつき、「俺いねえじゃん」と気がつく現象。
アイデンティティをエゴの一部だと考えれば、これは一種の弱いエゴデスだと言えます。
他人と自分の違いがよく分からなくなる場合も。

追記:ユングはこの現象を自我肥大と呼んでいます。患者の精神分析を続けるだけでこれを引き起こせるそうです。なのでこの現象はエゴデスではない。
 何故自我肥大なのか?と言うと、これは厳密には自我の消失ではないからです。自分の境目が分からなくなっているだけです。自分がいないのではなく、自分が拡大されたから、どこまでが自分か分からないのです。
 この状態は、不快なレベルに達した場合は、離人症となります。離人症状をエゴデスだと思っている人も少なくないです。
 離人は統合失調や解離性障害にも見られる症状です。なので統合失調の方が離人症状をエゴデスと呼んだり、エゴデスの類似性に気が付いたりすることもあります。
 
 
 

エゴデス 類似現象B
乖離
 これはハイドースのDXMやケタミン、中程度以上のサルビア喫煙などでも達成可能。
現実から完全に離れ、肉体を失ったり、意識や記憶を一時的に失ったりする。基本的にドラッグをやっている自覚はない。
 そしてその領域から帰って来た時、初めて生まれたかのような、または死んで生まれ変わったかのような感覚がある。
 リセットボタンを押され、全削除されてから再起動されるような体験。 肉体や意識、人格を持っている事が、‘普通ではない’と感じられる。

追記:これは簡単に言うとただぶっ飛んでるだけですけどね。意識障害と言ってもいいだろうか?なので薬物特有のものであり、これに限っては瞑想や精神分析ではなかなか到達出来ないでしょう。
 



エゴデス 類似現象C
境界消滅
 普通量以上のLSDなどで達成可能。 身体感覚が減っていき、景色と同化していく。
 自分と自分以外の境界が曖昧になっていく。
 これは思考によるものではなく、どちらかと言うと身体的、感覚的なもの。
 この現象は単独ではマイルドであり、楽しむ人も多い思われる。
 カジュアルなユーザーはこれをワンネス(一体感)と呼ぶかもしれない。
 自分と他人やモノとの境界線も曖昧になる。

 よく考えると、アイデンティティの消失と似ています。ですがアイデンティティの消失は精神的、こちらは身体感覚的、という違いだと言えます。
 アイデンティティの消失と同時に起こると、本格的なエゴデスに近づきますが、これ単独では、エゴデスとはあまり言えません。浮遊感などと呼ぶ程度のものかと。
 




エゴデス 類似現象D
 実存的体験、死の自覚、「宗教的死」
 これは強めのドースのサイケが必要。
 自分が存在している事を自覚し、自分が死ぬ事を理解する。または自分の死期をヴィジョンとして見る、経験する。実存的体験ともいえる。
 自分が‘本当に’死ぬ時が来るという事を理解する凄まじい体験。
 だが死を受け入れる事が出来れば、生きる事の真の神秘と出会える。
 この宇宙に生を受けた事の重大さを認識できる。
 死の自覚は、そのまま生の自覚になり、本当に「今生きている」という美しい実感に変わる事もあり得る。(詳しくはないが、ハイデガー哲学はこういう問題を扱っているところがある)
 エゴデスはそもそも「死ぬように感じる」のが最も大きな特徴であるため、これは一種の本格的なエゴデスかもしれない。この現象を経験した人はおそらく誰もが直感的に「エゴデスをした」と言うだろう。誇張抜きで、人生で一番重要な、または重大な体験に感じる。
 しかし恐怖が大きすぎて恐怖に負けてしまうと、哲学的な洞察も出来ず、単なるパニック発作に成り下がってしまう。そうなるとただのバッドトリップと化す。

 強いトリップ中は死ぬと思い込む事がよくあり、これは一般にバッドトリップの始まりになりやすいですが、それと「エゴデス」の境目がどこにあるのかは私は良く分かってません。
 死ぬと思い込む事自体はエゴデスではない、という事です。つまり死ぬような思いをしたバッドトリップをエゴデスと呼ぶべきかどうかは分かりません(たぶん呼ぶべきでない)

 ※この現象は単独で起こった場合自我感覚はあるので、「自我がなくなった」とは言えない。まだ「自分が誰なのか」は分かっているので。この時死んでいるのは決して自我感覚ではない。何かが自分に起こっているのが分かると言うことは、自我がある。
 だが自分が死ぬように感じるので、エゴデスの名前はつけたくなるものだ。自我をどう定義するかで変わってくる。とりあえず私はこれを実存的体験、死の自覚、宗教的死という三つの名称をつけることにした。





エゴデス 類似現象E
客観性の獲得
 これは弱いエゴデスの一種として始まりますが、他のタイプと重なるところが多いです。
 自分目線の主観を失い、客観的に自分という人間を、自分の人生を、そして自分の置かれている状況、自分の生きている世界を見る体験。
 自分の隠している事、抱えている問題、逃げていることが明らかになることもある。他人目線から自分を見る。
 自分という存在を、外から見る事により、自分の、自分自身と深い繋がり(意味が分かりにくいが、本当にその文字通りの意味で)を感じる事が出来る。恐ろしくもあるが、非常に美しい体験になり得る。

 この体験は感情的な側面と感覚的な側面があります。感情的な側面は、自分の現在や過去の出来事との感情的な接続を失うような体験。感情的つながりを失ったことでトラウマやコンプレックスの自覚が容易になります。身体的な側面は、実際に自分の身体から離れるような体験で、強烈になると身体離脱体験になります。

 追記:これはカウンセリングや精神分析でもある程度達成可能です。
しかしカウンセリングは薬物のように脳に直接作用するわけではないので、サイケデリックスの方が強力で、強制的です。なので準備が出来てないと、相応痛い思いをします。トラウマを強制的に掘り起こされるので。
 自分目線、個人的主観を失うという意味では一種のエゴデスです。これはスピリチュアルな経験になる事が多いでしょう。ですが自分の過去などを見ている状態では、まだ一種の弱い自我が残っているかと思います。完全なエゴデスでは自分がいないので、自分を客観的に見ることすらしないはずじゃないでしょうか。
 また解離性障害やその気質を持っている人は、身体から意識が離れていくような身体離脱的体験と縁が深いです。




 エゴデス
 自我感覚の消失
 狭義のエゴデスはこれを指す。
 上記のエゴデス類似現象は、「広い意味」でのエゴデスに過ぎない。広い意味でのエゴデスは自我の変容の体験である。だが狭義のエゴデスは単なる変容ではなく、完全な自我の活動の静止である。

 真の完全なエゴデスを達成する人は、サイケユーザーの中でも非常に少数でしょう。ハイドースのDMT喫煙や、LSDでは少なくとも5〜600μgが必要とされている。しかしもっと厳密にいうと、残念ながら、サイケ摂取でこのエゴデス状態になれるかは分からない。ヨーガや禅でこの自我感覚の消失に到達した人はいるが(ソースもしっかりある)、サイケで到達できるかは少し疑問である。現時点で筆者は分からないのでさらなる調査が必要だ。所詮、サイケエゴデスのソースは英語の掲示板サイトなので、専門家から聞いたわけでもない。

 ある程度はイメージできる上記の現象たちと比較して、これについては、ほとんどの人は想像も出来ないだろう。想像もできないので、必然的に実在しないと思って無視する人も多数いるはずだ。この領域は言語をも超越してしまっている。自我の消失を、自我に想像させるというのはそもそも矛盾だからだ。
 
  ヨーガや禅などの瞑想で到達した場合は、意識がそれ自体だけを内容にし、完全な静寂の中にいるようなもの。
 サイケデリックエゴデスの場合は、おそらくもっと激しい精神混乱のようなもので、「自分がいる」というコンセプトが理解できず、意味をなさない世界だと考えられる。「わたし」という概念が形成できない。だが「意識」はある。意識は、自我個性が付着していないただの一つの点、単なる観測者になる。
 自他の境界はない。自=他。他=自。
 自分と自分以外の区別がないので、文字通り自分が宇宙、世界そのものになる。
 主観は客観となる。観測者は被観測者となる。主体は対象と一致する。

 すがりつけるものもなく、ただ流れに身をまかせる事になる。
 これを経験した人はこれを悟りの境地と呼ぶだろう。
 神と出会った、または神になったと語る人も多い。

これは本当の意味で死のようなものであり、人生でこれ以上強烈な体験は存在し得ないでしょう。







追記;ユングの自我と自己概念について

 勘違いしてはいけないのは、自我(エゴ)は自己(セルフ)ではないということです。
 一般に自己という言葉は、自分を指す言葉として使われ、場合によっては自我を指す事にも使われます。
 ユング心理学では、自己という言葉は独自の意味を持っています。
 ユング心理学では、自我は「意識内容の統合の中心」と定義しますが、自己は意識だけでなく無意識も含んだ「精神全体」の中心であり、無形で説明できないものだとされています。
 自己は存在を証明できない抽象的な、理論的なものです。科学はどこに自己があるかを設定出来ません。脳のどの部分が個人の自己なのか?科学的にはどれだけ探っても個人の本質はどこにもないことになります。

 ユングは長年の臨床経験から、自我を超越したような人格の中心点のようなものがきっと存在するという確信に至り、自己の概念を提唱しました。自己は「個我」と訳されることもあります。個我は古代インド人がアートマンと呼んだもので、インド哲学ははるか昔から自己の概念を持っていたのです。
 
 エゴデスは自我の死であり、自己の死ではありません。ユング心理学的にみると、自我の死–エゴデスは、「自己に会う」ことなのではないかと、私は考えています。

 自我は、「自分が自分だと思っているもの」です。他方、自己は全人格の中心点で、それ自体には内容がありません。無形なのです。
 自我が上へ登る螺旋階段だとしたら、自己はその中央を貫く軸のようなものです。しかし実際に軸があるのではないです。軸がある事を想定することにより、自我は変形しながらも上へ登っていくことが可能になるのです。
 
 自我という個人的な仮面が剥がされると、人は自分が本来は無形であることを知り、全てが一つでもある自己のもとにたどり着きます。
 自己に会うというのは、自我が自分の本質であると信じている人には恐ろしい体験になります。ですが、自我が自分の本質ではないということを受け入れることが出来れば、全ての存在と一つになる美しい体験になります。これがサイケデリックスの高みであり、また世界中の宗教や神秘思想が最終的に目指すところである領域だと考えられます。 
 

 「ここにいるすべての人、みなさんが、私の自己です」ーユング