こんにちは。今回の記事では私の不安障害、パニック障害の発症と、回復までの道のりを書こうと思います。
この恐ろしい精神疾患への、一般的な理解は少ないので、どのような症状なのか、どういった苦労があるのか、興味がある方にはかなり有用な記事になると思います。
起こったことを起こった順番に記述していったほうが読み物として面白いと思うので、時系列順に、私の主観的体験を重視しながら記述していきます。
これは自伝ではありません。おもしろ薬物経験談でもありません。多少プライベートな内容も出てくるかもしれませんが、極力省きます。不安とパニックについて精神医学的な関心がある人に向けて書きます。
この記事を書くことはある程度の苦痛を伴いました。回復してから三年ほどたった今になってやっとできました。2年前ほどにだいぶ書き進めたものがあったんですが、ごく一部を除いて大部分書き直しました。
・トリップ
すべての始まりはある一つのトリップです。私はこのトリップ以降は一度もトリップしていません(ごく軽いものを除いて)。
その日、私は前職を辞めていて、一人で国内旅行に行こうと計画していた時です。そのトリップは、飛行機に乗る前日のことでした。旅行前にトリップするのがいいと思っていたのです。
前職ではかなり厳しいスケジュールで働いており、私は満足のいくほど物質探索が出来ていませんでした。せいぜい週一の休日に軽いものをやる程度。本格的なトリップは長い間していませんでした。仕事を辞めたので、私はやっと、半年ほど前に購入していた玉をできる時が来ました。
玉(MDMA)は魂を洗い、救うものだと考えていました。私は特に強く飲みたかったわけでもなく、魂の救いを求めていたわけではないのですが、やっておいて損はないだろうと思っていました。そして次の職につく前にアヤワスカの一回でもやろうと思っていました(結局やらなかった)。
私はその日最初にサンペドロを摂取し、そのピークが切れたころに玉を飲むことにしました。玉とサイケを合わせるのは初めてでした。
サンペドロの(メスカリン)はドースを少なめにはしておいたのですが、拍子抜けするほど弱いものでした。私は「いつも通り」自転車で海へ行く途中に飲み、自転車上でカムアップしながら、海を目指しました。ピークらしいピークはありませんでした。過去、ウィードで何回かこれよりも強く飛んだくらいです(その頃のウィードは高THCで、さらに自分の感度がおかしいのですぐにトリップした)。ウィードよりも弱いサンペドロトリップだった。海でカラスたちと会話した。しらふではカラスの集まりにわざわざ近づかないと思うが、この時はカラスに親近感があり、避けたいと思わなかった。
いくらか人が自分の前を通り過ぎたが、自分はその際不安を感じることもなかった。挙動不審になることもない。かなりクリーンなトリップだった。
サンペドロのピークが過ぎて、玉を飲んでから事態は一変します。キマりました。強い酔いのようなものを感じる。サンペドロがどれだけクリーンなトリップだったかを思い知る。玉の効き始めはなぜか多少の不安と、罪悪感を感じた。(多幸が現れる前に、最初は不安等が現れるのは他の人からも聞いたことがある)罪悪感!普段は罪悪感を感じることはないのだが・・自分の他人に対する不正直さなどが意識の表面に現れたようだった。
言い忘れていましたが、玉を飲んだ瞬間、後ろから偶然パトカーが徐行しながら通り過ぎました。笑える話ですが、かなりヒヤッとしました。
私は玉を安全に使用するよう心がけていて、必要な抗酸化サプリメントなども十分に用意し、摂取していました。最初の段階では半錠だけ飲みました。が、キマりはじめると、もっと行ける、もっと行きたいと思い、やけくそでもう半錠飲みました。もう半錠を飲んだとき、今まで経験がないほど強烈になりました。正直、半錠で済ませるたほうがよかったと後からは思いました。
「とろける」ような感覚!とろけるという言葉で説明できるような体験はこの一度しか経験がありません。全身の筋肉が緩んで、倒れそうになりました。それに加えて多幸があるので、多幸の強烈さに倒れそうになったかのようにも感じます。
ハイライトとピースを吸いまくりました。音楽も聞きました。音楽は輝く黄金のようで、リズム感の気持ちよさはあらゆる説明を超越するものでした。リズム感がこんなに気持ちいいことってあるのか。音楽の新しい側面を知ったような体験。自作のトランストラックを聞いても天才だと思った。
当時の日記をみるとごく軽いメモがありますが、こう書いてある・・「自分を隠さない」「オープンにアプローチ」「共感できる、共通の興味があるといい。同じ苦しみ」
しかし突然私は雷に打たれるような体験をします。何かがおかしい?何かが違う。私は空を見上げました。そして私は、自分が死ぬことを見たのです。それまでの多幸的体験からいきなりこれがくるとは思っていませんでした。エゴデス的な体験ですが、おそらく私が今まで体験した中でも最も強烈でした。今こうして書いているだけでも、少し落ち着きを失います。
私は自分が末期の病床にいることところを見ました。自分の終わりがすぐそこにありました。
私は実存と向き合っていました。自分が確かに死ぬと言うことを「理解」しました。この理解に時間はありません。つまり、実際に死ぬのがいつなのかは関係がないのです。もう「その時」が来ていました。10年後だろうが100年後だろうが、その時はその時なのです。私は時間のない世界にいました。「今」だけがあったのです。そしてその「今」は、実存と向き合う時でした。どれだけ遠い未来であろうと、私はその瞬間を受け入れ肯定しなければいけなかったのです。
私は、経験から、このような体験に逆らってはいけないことを知っていました。抵抗すると地獄のバッドトリップになる。私は受け入れるよりほかなかった。(玉ではサイケよりは簡単に「受け入れる」ことができる・・)私はとりあえず「ノー」とは言わず、「イエス」といい、体験を肯定してみました。
その後のことはそんなにたくさんは覚えてませんが、恐怖と不安はすぐになくなりました。これはわりと短時間の体験でした。その後、何事もなかったかのように玉のトリップに戻りますが、私はおそらく、人生の最も大きな通過儀礼を通り越えたような気持ちでした。
とにかく、自分はこのレベルのエゴデス体験が来ることを夢にも思っていなかったので、仰天していました。
また私は神が存在することを理解しました。私は無神論者ですが、体験のリアリティは信仰と関係がない。これは一時的な体験に過ぎなかったが、私はあらゆる「真の信仰」の根拠となる体験を経験できたと言える・・
当時の言葉を借りると−
「なぜ生きるのか?存在そのものの謎を問うた時、神がその気配を表した。神がいると納得した。この体験はこれ以上合理的な説明は出来ない。直感的な理解だった。合理的に分析しようとすると内容がなくなってしまう。
この体験の一つの解釈は、「説明不可能性」そのものが「神」なんじゃないかと。
答えられない究極の問題の答えとして神がいる。合理的思考ではたどり着けない、矛盾と不可能性の先にいるのが神。
神は実在ではなく、実在の不在。裂け目の最奥の光。」
MDMAにエクスタシーという名前をつけたのはカトリック神父( Michael Clegg )だが、彼ははじめてエクスタシーを摂取した時のことをこう言っている・・私は山にいるモーセのようだった。彼は神の愛を理解した。彼はその後多くの人にMDMAを勧めた。まだ違法化されていないときの話だ。
・トリップの後
玉の効果が落ち着いてきた時、私は真っ暗な砂浜の中にいました。そしてあることに気がつきました。スマホがありません。どこかで落としたのです。とても恥ずかしい話ですが、この過ちが最終的に私の人生を変えたと言っても過言ではないものになります。
私は疲れ果てていたので、真っ暗な中スマホを見つけるにはアッパーを飲むしかないと考え、リタリンを飲みました。これは明らかに判断力が低下した愚行でした。(が、飲まないと見つけられなかっただろう)
私は翌日に飛行機を控えていたので翌朝まで待つことは出来ません。またスマホを他人に拾われるといろいろ不都合があるので、なんとしても自分で見つけたかったのでした。なので探し始めました。
海岸はかなりの広さで、私はかなりの距離を歩いていたので探すのは至難のわざでした。私は小さな自転車のライト二つしか持っていませんでした。ライトで照らしているものしか見えません。木片やゴミなどの一つ一つがスマホに見えますがスマホはありません。
私はもちろん怒りを感じていましたが、この作業はもはや楽しむしか選択肢がありません。なので不快なことは考えず、できる限り楽しむつもりでやりました。足で砂に線を引きながら地道に探しました。少し風が吹いていたので、スマホが砂に埋もれてないか不安になりました。
この地道な作業は、さっきまでのトリップがまるでなかったかのように進められました。トリップであったことを考えることなく、作業だけに集中しました。
90分ほどかけてやっと見つけました。深い安堵を感じました。やっと自転車で長い道のりを帰ることになります。
帰る時、まだ友愛的な空想が続いていました。世界中すべての軍隊が廃止され、真の永久平和が実現した日を空想し、それが映画化されることを空想していました。タイトルはThe Most Beautiful Day「最も美しい日」。苦心してそれを達成させた外交官にして主演俳優の人が自分だったのかは覚えてませんが、おそらく自分でした(笑)。
・旅行の始まり
さてその時は思考力が低下していたので全然気にも留めなかったのですが、私はかなりの愚行をおかしていました。玉の摂取後には神経を回復させるために寝ることが何よりも大事だと言うことは知っていたのですが、一時間ほどしか寝れませんでした。リタリンを飲んでいたので当然です。その一時間程度の睡眠もかなり浅いものでした。
ところでメスカリンはサイケデリックスですがインドールではなく、アンフェタミン類に入れられることもあります。私はある意味ではアッパーを三つ飲んだようなものでした。

図:アンフェタミン、メタンフェタミン
メスカリン、MDMA
これが私の後ほどの不安パニック障害発症の原因だと考えています。MDMA(テストしてないのでこれも本物のMDMAだったという証拠はないが少なくとも類似物質)にリタリンを合わせたことで神経毒性が増し、さらに十分な睡眠を取らないことで回復もできなかったのだと考えています。サプリメントを取ったからかなり油断していました(抗酸化物質が神経毒性を抑えるというのでひどいことになることはまずないと思っていたが、大いなる間違いだったようだ・・)。一回のドースで頭が壊れるとは思ってもいなかったです。これ以前に3−4回玉はやったことがありますが、困ったことは一度もありませんでした。
しかしこういった結論に到達したのは、実はけっこう後になってからです。旅行1日目に話を戻しましょう。
飛行機に乗る際、少しばかりの焦燥感があったのでソラナックスを飲みました。
焦燥感はそこまでひどいわけではなかったです。
私は大阪についてから、バスで出雲へ向かいます。
この旅行初日の大阪での散歩はいまでも覚えています。私はトリップをインテグレート(統合)しようと奮闘していました。理解しようと頑張っていました。が、出来たとは言えない気がします。
トリップ当日より翌日のほうがたくさん考え、たくさん学びます。私は新しい景色を見ながら考えてました。
メスカリンはアフターグロウが長いと聞いていましたが、確かにその通りでした。私は一向に「着地」出来ないような感覚に少し苦しんでいました。「エゴデスが頭から離れない」ということが日記に書いてあります。
私はエゴデス的体験を思考だけで自力で再体験しようとしていました。そしてそこに「行きたいが、行きたくない」という矛盾した気持ちに悩んでいました。私ははじめて、自分がDTMブレイクスルーをする準備ができたんじゃないかと思ったりもしました。もう恐ろしいものはない、次は最も恐ろしいものに挑戦するべきじゃないのかと思っていました。DTMブレイクスルーをすれば、最もおそろしいもの・・死の恐怖すらも乗り越えて、何も恐れることがない人になれるのではないかと思いました。
大阪の、ある路地の階段で「自分が存在しないことを認める」ような体験をした記憶がありますが、詳しくは覚えていません。
その翌々日あたりに、私は美術館にいた際、自力で「魂の世界に片足をつっこむ」体験をしました。すごかったけど、恐ろしくもありました。DMT的な魂の世界にしらふで少し入ったような感じでした。いわゆる身体離脱的体験になりかけていたと思います。ある決まった思考回路というか心の持ち方だけで入れるようでしたが、いつでも好きに再現できたわけではありません。その時だけでした。
今となって考えると精神病様の解離症状、ということになります。幸い、このようなものは持続することはなく、この一度きりでした。
・最初のパニック発作
問題の始まりは四日後です。
私は大阪から島根、岡山と移動して、浜松に向かう列車に乗っていたときです。
列車で私は最初のパニック発作を経験します。この発作は記憶が少なく、あまり思い出せませんが、たぶん私の経験ある全発作の中で一番ひどいものでした。通常私は発作時にベンゾを一錠飲みますが、この初回発作だけ二錠飲んでいます。体験そのもののトラウマ性だけでなくベンゾも健忘の原因でしょう。その日列車を降りてホテルまで行く時の記憶も曖昧でした。
この発作は最もひどいバッドトリップのピークのようなものだったと思います。自殺リスクのヴィジョンや救急車を呼ぼうかという念慮もありました。この世の終わりのようでした。ベンゾがなかったらどうなっていたかは、正直想像もしたくないです。寒気がします。当時私が所持していたベンゾは非法的に入手したものでした(のちに精神科に行ってからは正式に処方されたものしか所持・使用していません)。
今では完全に忘れていたのですが日記には「5HTPのせい?」と書いてありました。5HTPはセロトニンの前駆物質となるサプリメントですが、玉と同時に飲んだら確かセロトニン症候群の危険があるということで、少し後の事後に飲むことにしていました。確かこの日に飲みました。これに原因があるのかは分かりません(今では関係ないと思います)。突然の発作にどうしても納得できる理由を付けたかったので、その日に飲んだものを疑うのは自然なことではありました。
しかし発作が起こった瞬間は、死について考えすぎたので頭がいかれたのだと思っていました。そしてそれはもしかしたら事実かもしれないし、ある程度の真実は含んでいると思う。私は数日間思考しまくっていて、特にアイデンティティや死について考えていた。この突然の発作に薬物が関係あるとは思っていなかった。少し経ってから、玉の離脱症状だと信じることにしたが、離脱症状がこんな時間差で、四日後に現れるというのが聞いたことがないので納得がいかなかった。
(発症原因考察の変遷)死について考え過ぎた→5HTPを飲んだせい→MDMAの離脱症状→3物質摂取後に十分な睡眠を取らなかったこと、コンボで増した神経毒性
ちなみに、玉をまた摂取したいような気持ちは皆無だったし、助かるために玉を飲みたいと思ったことも一度もなかった。
パニック障害を知らない人は、慌てやすい、メンタルが弱い人などといったイメージを持ちますが、全く違います。日常の感覚で使うパニックという言葉とはほとんど関係がありません。
突然、理由なく、強い恐怖を感じる精神疾患です。その恐怖がどれだけ強いかというと、命の危険を感じます。実際に人間がパニックするのは命の危険にいるときですが、パニック発作がくると、実際に命の危険にいるわけでもないのにそう感じるのです。
・ヴィーガニズム
この発作の前にもう一つ特質すべき出来事があります。私はこの時だけヴィーガンになりました。肉を食べることができませんでした。ステーキ屋の看板を見ただけで牛の殺される苦痛を感じました。
私はある飲食店で魚卵が乗った丼ものを食べていましたが、魚卵を口に入れることが出来ませんでした。自分を騙してでもなんとか口に放り込もうと思いましたが、まるで禁じられているかのように、箸が口の前で止まりました。「絶対に食べられない」状態でした。このような状態はたぶんこの一度しか経験がありません。
後になってからの解釈では、私はこのときかなりのアイデンティティの危機、自我肥大を経験していたと思います。すべての生き物と同一化していたのです。なので他を害することなど出来ませんでした。何も食べず餓死するのが本当の博愛なのではないかと考えたものです。ブッダは一体何を食べたのだろう?・・植物だって生きているのだから本当は食うべきでない。ただ植物は意識がないので仕方なく栄養のためにとらなければいけない・・そのように考えていた。かなり病的な状態なのですが、こう言う経験を経ている人は自分が病的だとは思っていません。本当に悩むべき問題に悩んでいるとおもっているのです。
この状態はそう長くは続かなかったと思いますが、基本的に私はこの後一週間くらいはソバばかり食べていました。
・予期不安について
一度本格的な発作を経験すると、それ以降発作が来ることが怖くなります。これを予期不安といいます。
個人的には、予期不安自体が、弱い発作だという風に考えています。予期不安はあんなに苦痛が大きいのに、「発作が来ていない状態」と呼ぶべきではないと思う。
本格的な発作は、そうなんども現れるわけではありません。パニック障害は、発作が来るという恐怖に支配されるような病気だとも言えます。
発作は、いつ来るのか、どれだけ続くのかは全く分かりません。それが非常に怖いのです。発作は来たら最悪ですが、むしろ来ないことに苦しむのです。来そうで来ない状態に朝から晩まで延々と苦しみ続けるのです。
強い予期不安が来ている状態で、今の時点ではなんとか我慢できる、という状況でも、それがあとどれくらい続くのか分からないので、落ち着く事ができません。現時点ではギリギリ我慢できても、常に持続と悪化の可能性が怖く、強い緊張だけに支配されて何もできません。
気分の変調は突然訪れます。自分の意思や支配の管理下にはありません。今大丈夫でも、五分後もきっと大丈夫だという確信を持つことは出来ないのです。それがメンタルに与える影響を考えてみて下さい。・不安の始まり
原因不明の不安や恐怖、虚無感が次第に少しづつ、少しづつ背筋を這い登ってきます。自分はその理由がわかりません。ですが気づいたときには、もう旅行が楽しくない状態でした。
私はあらゆる「良い」感情を抜き取られたような気分でした。漠然とした不安感はどんどん強くなっていき、耐えがたいレベルになってくる。なぜこうなるのか意味がわからない。
私はベンゾの連用にはかなりの抵抗がありましたので、抗精神病薬のクエチアピン(25mg)を飲むことにしました。しかしクエチアピン に不安軽減効果があったかはかなり怪しいです。むしろ飛びました。
今度は静岡に向かう列車に乗っていましたが、地獄でした。現実感が少し失われ、視界は少しばかりゆらめいて、幻覚っぽさがあった。やや朦朧とした状態で、嫌な感じが延々と続く。・・これ以降一度もクエチアピンは飲んでいない。
日記にはこう書いてある−「やばみ状態、全ての光が失われる、
横線が引いてあるスーサイダルとは自殺念慮のことである。記録として書いておきたかったが、事実としては認めたくないので、打ち消すように横線を引いていた。日記にはたまにそういう記述がある。
ちなみに私はかなり強い生きる意志があって、自我本人が死を願ったことはその時点では(これ以降も)一度もありません。が、あまりに不安が大きい時はひとりでに生じるように自殺念慮が経験されました。かなり恐ろしいものです。
自殺念慮は自分にとってもかなり都合の悪いものなので、詳しく思い出したいものではありません。
不安の最大の特徴は説明しにくいこと。なので不安障害の不安は本来は不安などではなく、なにか別の名前をつけるべきだ。ただ便宜的に不安と呼んでいるだけだが、不安障害の不安は、一般人が想像する不安と違う。もっとドス黒いのだ。そして外的な原因がないので、理不尽で、長く続く。
けっきょく、その夜はデパスを飲みました。
翌朝、奇跡が起きます。正常に戻ったのです。本格的に泣きました。
そうです、男が泣きました。この日ほど感動したことがない。私は最も恐ろしい地獄を生き抜いた気持ちでした。
外の景色は新鮮でした。ここまで「感謝」したことはないと思う。目の前にある一つ一つのものが、自分への報酬、贈り物だった。自分はもう一度生を与えられたことに感謝して泣いた。
私は自分の強さを知りました。自分より強い人などいませんでした。ゴツいマッチョの人を見ても強そうだとは思いませんでした。あれを乗り越えた俺の方が強い・・。自分より強い人がいるとしたら前線を経験した兵士くらいしかいないと思った。
しかし、この回復はほんの見せかけで一時的なものであり、また地獄に戻されることを当時の自分はまだ知りません。脳内で何が起こっているのかは分からないですが、症状にははっきりとした波がありました。それは特にこの初期段階において最もはっきりしていました。
熱海、横浜を経由して東京へ行きますが、東京でまた第二派に苦しめられます。
横浜では一つだけ印象的な出来事がありました。エゴデス体験時に聞いていた曲を改めてもう一度聞き通したのです。この曲は私の脳内で強い恐怖と結ぶついていて、今でもあまり聞きたくないものです(本当に。マゾな気分でもないと聞けない)。その曲だけでなく、そのアルバム、もっと言うとそのアーティスト自体をあまり聞かなくなってしまいました。
その曲の、ある部分の音が、私の中でとても強烈な意味を持っていました。「あの世の音」でした。あの世そのものを表している音です。その感覚は年々薄れて、今では完全に再体験することは出来なくなりました(たぶん)が、横浜の橋を歩きながら今一度聞き通した時、また恐ろしい神秘体験を追体験したようでした。これ以前の数日間はそれをする勇気がなかったので、この時点では1日だけ調子が良かったことを表しています。
基本的には、不安またはパニック症状がある時は音楽を聴けません。音楽を聴いていた場合、音楽が鬱陶しくなり、聴けなくなることが最初の自覚的症状として現れることも多いです。無理して音楽を聞いても、その曲が嫌いになり聴けなくなるだけです。そういうわけで、考えてみると、自分はよく聞く曲の多くが不安感情と結びついてしまっていて、台無しにされています。不安が回復してから知った曲はそのようなことがありません。
・パニックと不安の違い
パニック症状と不安症状の違いを簡単に一言で表すと、パニックは現在の恐怖、不安は未来の恐怖、と言えます。
パニック症状は、現在だけに意識が集中します。「今」から逃れられません。
不安症状のほうは、未来の最悪のケースを考えることがやめられません。未来がとにかく怖い。
パニック症状時は、いかに何も考えないかが重要でした。考えると怖いので、頭の中をできるだけ空白にするのが重要でした。
対して、不安症状は、頭の中を空白にすることは不可能で、怖い思考に支配されます。考えないということが出来ない状態と言えます。
なので恐ろしいことを考える(ことができる)ような日は、「今日はパニックより不安寄りの日だな~」って感じでした。
私は個人的に症状を二つに大別し、こうしてパニック型と不安型という風に分けて考えていましたが、人によって考え方は違うでしょう。病理学的には私がパニック症状と呼んでいるものの一部は不安症状かもしれません。しかし、現実、症状の分類が難しいのは、各症状は曖昧であり、混ざり合っており、ヴァリエーションがあるからです。はっきりと一言で説明できる事は稀なのです。
パニックはとにかく立ち上がりが早い。不安の方がゆっくりと来るが、重くてドス黒い。パニック発作はそのピークが来た時に手元に抗不安薬があれば100%飲むことになりますが、不安の方は、だらだらとしていて、突如激しいピークが来るというほどではないので、もう少し我慢できるかなと思えて、薬を飲むまで時間を稼ぎやすいように思えます。それでも、不安症状も自力で乗り切るのはきついです。
自分はパニック4割、不安4割、鬱2割という自己診断をしていました。
・第二波、死と無意味の発作
トリップから7日後にして旅行の7日目、「怖くなり、早めの宿」(日記)。
この時連絡をとっていた人が励ましの言葉をくれて、とても嬉しかった。デパス並の効果があるとすら言った覚えがある。だが不安症状が強い時は誰もが自分に敵対しているように感じるので、励ましの言葉も嘘に見えてしまうし、アイデンティティ感覚の希薄さもあり、自分と相手の関係もよく分からず、余計に不安が増す。私は基本的には不安症状がある時はスマホを出さなかった。何一ついいことがないからだ。
8日目には最も印象に残っている発作がくる。これよりひどいものは経験がない。
日記には「不安発症?」と書いてある。この日を境に主な症状がパニックから不安に変わったと思われる。パニックと不安は入り混じっていて、区別しにくい時もあるが、基本的に私は一週間ほどのパニックがあり、そのあと1週間の不安症状に移行するという感じのサイクルを繰り返した。症状には波とサイクルがあった。必ずパニックの時期のあとに不安の時期が来た。不安の内容というか質も、少しづつ変遷するようだった。パニック発作の内容も時期とともに少しづつ変わる。
この日に経験した発作はこのようなものだった。タクシーに乗っていたのだが、急にとても冷たい風が背筋を吹き抜ける。(この冷たさは実際に体温が下がっている。人は過緊張「戦うか逃げるか」の状態になると、身体の中心部など大きな筋肉に血液が回るので、末端の体温が下がるのだ)
今からとてもとても嫌なことが起こるという強い予感。時間はどんどん減速していき、まるで進まなくなっていく。
私はタクシーの席にいたが、すぐに迷わずベンゾを飲んだ。だがもちろん、効くまでの数十分は耐えなければいけない。目の前にはテレビ画面で広告がやっていたと思うが、無意味に見えた。
外の景色も全て無意味と死にしか見えなかった。
当時の情景を思い出す時、なぜか灰色がかったイメージが見える。いや、銀か。銀色の、幽霊のような人たちが外を歩いているのが、タクシーの窓から見える。街ゆく人々は皆、自分がいつか死ぬことを知らないで、表面だけ笑っているが、中身は空虚だった。彼らはみんな死ぬ。街中にあるものも全て意味がない。どうせ死ぬのだから。
なぜ俺に広告を見せる?広告の何が大事なのだ?商業的なものからは絶望的な無意味さしか感ぜられない。全ての広告は欺きだ。
・・自分だけが世界の真実相を見ているかのようだった。完全に、世の中から切り離されていた。
自分がおかしいのではなかった。自分以外の全てがおかしかったのだ。
あまりの激しい酷さに、よく持ち堪えたと思う。信じられないような体験だった。
その前か後かは忘れたが、もう一つ絶望的な体験を覚えている。自分の死も怖いが、他人の死の悲しみというものも経験した。私は東京の公園を歩いている時、急に景色が揺らめいて、非現実感と恐怖感が現れ始めた。そしてあることに気がついた。自分の周りの人が皆いずれ死ぬということ。愛する人も全員・・。特に、自分の両親が、自分より先に死に、自分はそれを見届けなければいけないという事実が私に重くのしかかった。
東京散歩は、何一つ楽しくなかった。なぜやっているのかもよく分からなかった。ただ時間が過ぎ去るのを待つために歩いていたが、どこにも辿りつかなかった。計画的な旅行は一切不可能になっていた。つまり、観光地を調べてそこに行くということは出来なかった。無目的に歩くことしか出来なかった。
状態が悪い時は、コンビニや店に入れなかった。もしコンビニなどに入れたら、それは比較的状態がいいことを意味した。
私は決して店の中に危険があると思って入るのを恐れていたのではない。私は、何故ある特定の行動が出来ないのかは、自分でも分からないのだ。まず最初に「無意識的」な症状があった。意識的、感覚的な不安感が一番辛かったが、自分で自覚の少ない「行動パターンの変化」もあった。基本的には回避行動である。地下鉄やバスに乗ることも難しかった。徒歩やタクシーばかり使った。
不安が激しい時は文字どおりすべてのものが不安の原因になる。例えば、ビタミンCを飲んだら不安になるかな?などと真面目に考えたりする。理性では、「そんなはすがない」という確信があっても、自分の不安感情は理性と無関係になっていた。最もひどいときは、抗不安薬すら怖い。助かる手段すら怖い。抗不安薬で症状が悪化しないかなどと考え始めると、逃げ場すらも失った感じで地獄である。
じっさい、抗不安薬が悪く働くケースの論文をみたことがあって、その記憶が自分を苦しめていた。それを知らなかったほうがはるかに楽だったろう。そんな感じで、実は知識が自分に敵対することが何度かあった。知らない方が不安にならずに済む。不安が激しい時は脳科学や薬剤について勉強するのもとても怖くて出来なかった。
私はこの苦しみが玉の離脱症状だと思って、前借りした分の多幸のぶんを払っているだけだと考えたかったのですが、明らかに得たものに大して支払わされる量が大きく、不平に感じました。
1万円の商品をもらって、その後毎日一万を払わされる状況が何日も何日も続いているかのようでした。そろそろよくない?と思いました。買った分はとうの昔に払い切っている。
・帰宅、次の旅
9日目はなんとか丸一日ベンゾなしでやりすこした。ちなみに、ベンゾ量を減らすためと効果を強めるためアルコールを飲んでいたが、アルコールはおすすめしない。ベンゾだけを飲んだほうがよかったろう。しかし当時は処方されたものではないのでベンゾの所持数が多くなく、連用への抵抗も非常に大きかったので、できるだけベンゾを飲む量を抑えていた。基本的には苦痛が限界まで行ってからやっと飲むような感じだったのだが、のちに精神科の医者から聞いたのは、発作が来てから飲むのでは遅いので常に飲んでいたほうがいい。
私はかなり長い旅行をするつもりだったのだが、不安のせいで旅行は継続できなくなり、かなり早く切り上げることにした。前日に飛行機を逃していた(笑?)が、この日また航空券を買い(買えた)、地元に帰った。
日記には「少しディソシエート」とだけ書いてある。※離人感のこと。
この旅行は長い間夢に見ていたもので、人生最高の思い出にしたかったのだが、人生最悪の思い出になった。これ以前一人旅行ほど好きなものはなかったのだが、この経験以降、旅行への興味が一気に失われた。
その翌日、家に着いていたが、日記にはこう書いてある「うつ、何も出来ず」
当時父と弟と一緒に暮らしいたが、私はゾンビのような抜け殻になっていることを悟られないように頑張った(薬物使用を悟られたくなかったので、この時点ではまだ不安について黙っていた)。だが無理に思えたので、できるだけ外に出ることにした。実際、家にいて良いことなどなかった。これは家庭が悪かったという意味ではなく、ボーッとしてても苦痛が増えるだけだけだったので、「何か」をしなければいけなかった。ベッドに寝て天井を眺めるなど絶対に論外だった。
11日目ー日記によると−「回復?」また一時的な好調。
12日目ーphenibut900mgを飲んでいるが、どんなトリップだったかは書かれてないので思い出せない。おそらく抗不安効果はあったろう。あるいは、なかった?
13日目ー「たまによくない思考が出るが、けっこう良くなった」
この日、念願の長距離サイクリングへ行くことにして、出発した。
14日目ー「9割回復したね」と書いてある・・が、自分はこれが一時的なものに過ぎないことをまだ知らない。
実は大丈夫なフリをしながら、空虚感に苦しんでいる。二度ほど音楽を聴いて泣いたことも覚えている。不思議な感動だった。
数日サイクリングしてから、やっと帰る時になって、夜に田舎町のホテルでパニック発作が来た。
その日は日中からかなり調子が悪かったが、丸一日ベンゾを飲まずに耐えていた。頭に勝手に思考が吹き込まれるようだった。考えてもいないことを考えさせらる(これは精神病にもみられる症状)。考えは主に死についてだった。どれだけ他のことを考えようと、必死に意識をそらそうとしても出来ない。
発作はグワーっと心臓をえぐられるような恐怖感がピークに現れた。実際に、胸のあたりに物理的な感覚としてだ。これが現れた時はさすがに「一線を超えた」感じがあると言わねばならない。
ちょうど母とラインしていたのだが、母の言葉はどうしても空虚に感じ、相手が誰なのかも実感が乏しかった。母に悪意がないことは分かっているのだが、言葉の一つ一つが不安を与える。例えば「身体は一つしかないから」のような言葉は一番聞きたくないものだった。
発作のピーク時は強く、助けてほしいという感情が生じる。助けてくれる人がいるとしたら、近くにいるのはホテルの受付の人しかいない。ホテルの受付の人は俺を助けてくれるだろうか?と考える。そして気がつくのだが、やはり極限状態で必要なのは赤の他人ではない・・。(かといって、母にラインで助けを求めようとは一ミリも思わなかった。悪化するだけだろう。目の前に実際にいなければ意味がないし、さらにその人がパニックが何なのかを理解している必要がある!)
デパスが効いてから、気付いた時には「ああ、これだ、これが俺の感じたい気持ちだ」と、平穏を経験できた。なぜか、この時の平穏感はやたらと記憶にある。これ時だけ。
その数日後、また別のところに列車旅行するが、相変わらず不安はある。四日連続で酒を飲んでいた(自分にしては多い)。
・仕事はじめ
トリップから三週間後。
次の職のための面接をし始める。一つ面接で辞退して、2番目に行ったところで採用された。精神疾患持ちでは落とされると思ったので、面接で不安パニックについては黙っていた。
日記には「完全に回復!」などと書かれている日もある。ああ、それが本当に回復だったならどれだけ良かったことか。
私は次の職に就いてからも延々と不安症状に苦しまされることになる。
その間に、ウィードで飛んでたり(日記では「クソ飛ぶ、クソ怖い!」とある。地獄の最奥への扉を開くような感覚。自殺へ至る道のりを把握するような感じなのだ)、phenibut +リタリンをやったりしていたようだ。自分はその記憶がなかったので意外である。この時期もうドラッグはやってないと思っていた。
酒と非ベンゾを飲んで記憶を失いながらクッソ遠くまで散歩していた日もある。終電も過ぎた時間にかなり遠くの郊外で意識が戻(?)って、自分の行動を批判的に見ることもなく(笑)歩いて帰った。
新しい職場では、初対面の人と打ち解けるのに苦労した。不安のせいでうまく喋れなかったのだが、初対面なのでもともとこういう人格だと誤解された。自分の苦しみを理解する人など当然いない。
まさに話しかけられている時にぞくぞくと強い不安症状が登ってきたときもある。当然、会話できない。一生懸命に会話できるフリをしても、出来ない。不安がない時は、頭に浮かんだ言葉がすぐに口に出るが、不安がある時は、頭と口の間にストッパーがかかっているのようで、思いついた言葉を言えない。ひどい時はそもそも言葉が思いつかない。
時間をかければ職場の人たちと打ち解けられるだろうと楽観的な考えを持っていたので、そこまで心配はしてなかったのだが、最初はかなり嫌われた。嫌われをなくすのには一年くらいかかったのではないかと思う。
また頭が働かないために仕事が遅い時もあり、それも俺の能力の問題であると思われたので苦労した。
・バカな出来事
比較的安定してきていたと思ったのだが、五週間が経った時点で、私の史上最も愚かな物質カクテル事件が起こる。この事件の三日後にまたパニック発作がはじまるので、この出来事が「再発のきっかけ」になった可能性は十分にあり得る。
私は30mgほど少量のDXMと、グレープフルーツを飲んでいた。そこに新トニンを半分入れた。もう少し経ってから、もう半分も入れた。
自分はこの時ほど本当のパニックをしたことがないと思う。・・というのは、今回の出来事は内因的な「発作」が来たわけではないのだが、外因的な理由で本当に落ち着きを失った唯一の経験である。
この三つの物質のうちどれか一つでも省いていれば大丈夫だったのではないかと思うが、この組み合わせは大丈夫ではなかった。
私はその日グレープフルーツに関する記事を見ていた。グレフルは代謝酵素に関わるので一部薬物の作用を強める。・・が、その英語の記事には、危険性も書かれていた。グレフルにより薬物の効果が増強されすぎた場合lethal(致死的)なことにもなると。
この文章の記憶がまるでフラッシュバックのように現れて、脳裏から離れない。自分は自分が飲んだものを後悔した。大した量じゃないと思った。少量のDXMが多幸感を増すのではないかと思ったが、そんなことはなかった。私はとても嫌な寒気と不快感と不安を感じ始めた。
これは飲んだものに由来するパニックなので、普通のパニック発作とは全然違うものだった。普通のパニック発作は抗不安薬を飲めばいいが、今回は決してそうではなかった。身体が問題なのだ!。
本格的に危険を感じ始めた。私は救急車を呼ぼうか本気で考え始めるほどに不安緊張が高まっていた。無視しろ、我慢すれば大丈夫だ、と自分に言い聞かせてしばらくやり過ごそうとしたが、もう無理だった。不安は一線を超えていた。どれだけ無視しようとしても、「本当は大丈夫じゃない」と体の内側が激しく主張してきた。音楽を聞くことにも全く集中できない。
片方のひざが曲げられなくなって、足が固まった。私はピエロのように歩くことになった。もう片方の足も固まりそうになった。流石にそれはやばいと思った。(パニック症状で足が固まるとは思えないので、これは飲んだものが原因であるはず)
というわけでここで初めて実際に救急車を呼んだ。「風邪薬をまちがって飲み過ぎた」と言った。
このとき家からだいぶ遠いところにいて、自転車で坂を降りながら電話していたが、目の前に自転車に乗っている少年がいて、明らかに俺の電話を聞いているようだった。何人かいたとおもう。とても恥ずかしかった。どんなバカだと思われていただろうか。だが自分は選択肢がなかった。
私の主な不安は呼吸抑制の不安だった。パニック障害のパニック発作は基本的に外的な原因がないが、今回は外的な原因があったので、自分が呼吸抑制で窒息死することはないという確信や、なった場合助けてくれる人がいる状態にさえなれば不安は収まるはずだった。もともと自分は昔コデインとアルコールをあわせて(いい子のみんなは絶対にやらないでください)激しい呼吸抑制に苦しんだ経験があり、その記憶も強く影響していた。呼吸できないのはかなり怖いです。
救急車では脈を測ったり体温を測ったりされたが、自分はそんなことはいいから!と思っていた。
ぽろっと「ナロキソンないですか」と聞いたが、リーダー格の救急医はそれが抗不安薬だとでも思ったのか(無知!)、「救急車ではそういうのは使わせない」と即答した。しかしもう一人がややしかめ面をしていたので、もしかしたら私の言っていることを理解していたかもしれない。(※ナロキソンはオピオイドを無効化するので、ODから人を救える。海外ではハームリダクションとして、ヘロイン使用者などが所持するべきだと言われている)
それで思い出したのだが、救急車を呼ぶ前に私は病院と薬局に寄ってナロキソンがあるか聞いていた。これほど恥ずかしい思い出はない。病院のほうはもう閉まる時間で、受付の人に聞いたところ、薬のことなら隣の薬局に行ってくださいと言われた。隣の薬局では「それはなんの薬ですか?」と言われたので、オピオイドを消すものだと答えたら、分からないようだった。
救急車ではいろいろめんどくさいことがあったが、最終的には「多分大丈夫だろう」ということで、病院への搬送はなかった。夜間病院を紹介され、気分が悪くなったら自分で行けということになった。
レクリエーションのためにわざと服薬したのではないかとは聞かれなかったが、救急医3人のうち一人か二人は気付いていたのではないかと思う。ちなみにDXMとグレフルの服用については言ってない。
私は救急車が来てからはものすごく落ち着いていた。救急車の心理的効果は非常に大きかった。だが戦いはこれからだった。このあと丸一晩、夜間病院の周りをうろうろすることになる。
突然呼吸抑制が来るのではないかという不安が付きまとい、寝るのは論外だった。なので深夜になっても家と夜間病院の間を自転車で何回も往復して時間を潰していた。もしものときにすぐに行けるように。家はかなり坂の上だったし、病院も近くはなかったので、かなりつらい夜だったと言わなければならない。一時的な呼吸困難感はずっと続いて、それが来るたびに不安になった。
翌日の仕事では「息が苦しいので早退するかも」と言った。顔色が悪いと言われた。二日目もまだ「夜間病院の周りをうろうろ」が続いた。
三日後に、パニック発作がくる。この発作が新たな時期の幕開けとなる。そこから自分は七週間ほどベンゾを常用することになる。
・精神科へ
私は精神科に行くことにかなりの抵抗があった。行かずに済ませるつもりだった。しかし、そろそろ秘密にしておけるレベルを超えてきていた。仕事にも支障をきたしている。隠しきれるものではない。周りの人に知らせずに生活を継続するのは無理だった。
私はSSRIを飲みはじめることだけはしたくなかったのだが、もうするしかないのではないかと思い始めていた。SSRIを使わなければ永久にベンゾを飲み続けることになるのではないかと恐怖していたし、ベンゾは今の消費ペースでは密売ものでは足りなかった。
私はネットで、MDMAを一回だけ使用した女性がパニック障害を発症したことに関する英語の論文を見つけた。その論文によると、女性にはSSRIのセルトラリンが処方され、次第に症状が回復し、半年くらいで断薬したと書かれていたと思う。
私はセルトリンを試すことにした。が、SSRIを始めることはもうサイケを飲めないことを意味した(ウィードや一部のサイケは多少効くっぽいが、DXMやアヤワスカはセロトニン症候群になるため絶対不可能になる)。サイケ使用者としてどうしてもそれは避けたかったのだが、他に選択肢はなかった。
私はセルトラリンを個人輸入代行サイトで個人輸入することにした。
しかし輸入の品が届くまで待つことができない。精神科で、輸入品が届くまでのつなぎとして10日分だけセルトラリンをもらうことにした。ソラナックスも処方された。
精神科の医者は女性だった。俺は自分で必要な薬も病名も分かっていたので、医者にどう思われたかは分からないが変なやつだとは思われただろう。おれは正式に不安パニック障害を診断されたわけではない。診断書とかを貰った覚えはない。実は最初から自己診断である。セルトラリンも上の論文を見て自分で決めたので処方されたわけではない。安定剤は最初はソラナックスを貰ったが、1日三回飲むのが自分のスタイルに合わなかったので、もっと長いのはないかと聞いたところ、次からはリボトリールを貰うことになった。
リボトリールは丸一日効くので、俺の最も苦しい日々を支えてくれた。かなりの良薬で、信頼している。
医者に自分の症状を説明するさい、嘘だと思われないか少し不安があった(薬物使用について黙っていたので、俺の話に「穴」があることが見抜かれるだろうと思っていた)。自分は面接前にもすでに密売ベンゾを飲んでいたし、面接中にも追加で飲もうと思いたくなるような不安症状があった。
しかし医者はぜんぜん詮索しなかった。俺は「睡眠薬を持っていたので、それでこれまで発作をなんとかした」と言ったが、それをどこで手に入れたかは聞かれなかった(聞かれたら、個人輸入と言うつもりだった)。
今となって考えてみると、私は自分の症状のひどさを完全に説明してはいなかった。やはり薬物を悟られないために押さえたのだろう。それでは深刻さを理解してもらえるはずがなかった。
私は症状の深刻さのわりには、医者からも父親からも職場の人からも十分な配慮とケアをもらえなかったが、その最大の原因は自分が十分に説明していないからであった。
私は自殺という言葉をタブーとして考えていて、それを自分と関係あるものとして自分の口から発することはどうしてもしたくなかった(それはいまでも変わらない・・)。相手を慌てさせたくなかった。自殺念慮の話をするとかなり慌てさせるだろう・・
実際に重症ではあったが、重症だと認めたくない心理があったと思う。普通の生活がしたかった。
後にうつに関する本で読んだところ、自分の症状を軽く表現してしまう患者は結構いるようだ。
私はSSRIのセルトラリンを今も個人輸入しているので、ベンゾを断薬してからは医者に行ってない。精神科に行ったのはせいぜい3−4回くらいしかない。主にベンゾを貰うために行ったわけだが、すぐにその必要もなくなった。
セルトラリンの初回ドースは25mg、10日目から50mgになった。その後75、100まで増量する。次第にまた75−50と減量して、これを書いている今は25mgまで減量している。3年ほど服薬していることになる。半年くらいでやめるつもりだったが、半年経った時点では全然やめられる気配はなかった。
・SSRI服用はじめ
SSRIの服用し始めに症状が悪化する人がいるそうだが、自分も悪化した。(医者は少し驚いた顔をしていたが、知らなかったのか?)
SSRIは聴き始めるまでに時間がかかる。二週間ほどでやっと効果を発揮し、完全になるまでは1−2ヶ月ほどかかると言われている。自分もそれくらいかかった。
しかしそんなに何週間も待てる状態ではなかった。すぐに効いてもらう必要があった。
地獄のような状態で、さらに状態が悪化する。飲まないほうがいいんじゃないか、という疑いもある中、毎朝「決断」をしなければいけなかった。・・飲むか?・・と。
私は助かるために飲んだ。科学を信じて。もはや信じるしかなかった。
信じるというので思い出したが、私はいっとき宗教に救いを求めるのを「試」そうかと思ったが、やる前から意味がないことが分かった。キリスト教も仏教も私を救うことは出来なかった。こんなものは所詮、健康な人しか救えない。自分のような末期の人には何一つ効果がない。キリスト教の救いの論理はかなり低レベルに見えたし、仏教も無意味に見えた。ブッダは不安障害になったことはないだろう。苦しみを知っているフリをしていながら実際は知らないのだ、と思った。
SSRIの服用し始めの最初の3−4週間は自殺の危険性が上がると言われている。特に若い人は自殺念慮が見られたらすぐにやめたほうがいいとのことだ。恐ろしいことに、自分がまさにそれを経験した。
それでも特に医者に報告せず服薬を続けた。
最も苦しんだのは、SSRIを始めた後の最初の二週間だったと思う。「戦い」だった。
私はその間もずっとベンゾを飲んでいたが、飲む量は日に日に増えていった。私はベンゾ離脱を何よりも恐れていたので、飲む量は最小限にしたかったのだが、そのせいで余計に苦しんだと思う。もっと大胆に飲めばよかったのだろう。
ベンゾが切れ始めたとき必ず強い不安感が現れ始めるが、それが離脱症状なのか、もともとの不安なのか、自分には分からなかった。ベンゾは文字通り常用している必要があった。1秒もベンゾなしでは生活できない。
ベンゾを飲んでいる時に発作らしいものが来ても、なんとか耐えられる。・・一応は。しかしひどい時はベンゾを飲んでもまるで飲んでなかったかのような不安があったりした。
ベンゾが効いている時に来る発作は、閉まっている扉が叩かれているようなイメージ。バン!バン!バン!とかなり激しい音で死神が扉を叩いている。扉は閉まっているので死神は俺のところまでは来れずひとまずは安心なのだが、「すぐそこにいる」のが分かる。薬を飲んでなかったらスッと通り抜けて俺のところまで来ていたのだろうと考えるとヒヤッとする。発作が「押さえられている」ことは分かるのだが、発作自体は止まらない。発作の鋭い「トゲ」がとれて、丸くなったようなイメージとも言える。
SSRIのほうは、効き始めると発作がくるのを止める。命を救う。SSRIを飲んだら落ち着きますかーと聞かれたことがあるが、「発作がこなくなる」と答えた。それが本質だ。落ち着く薬ではない。
私は器用にも、ベンゾ服用量をかなり正確にモニタリングしていた。その記録は日記に残っている。
私は処方された通りに「1日1錠」では飲まなかった。ひどい時はそれで全然足りなかったし、大丈夫な日はできるだけ飲みたくなかった。なので次第に自分流のシステムが出来上がっていった。
そのシステムはこういうものだった。朝に少量を飲む。そして気分が悪くなるごとに追加で飲む。
1回で1錠飲むことはなく、多くても半錠、よく4分の1錠で飲んだ。症状が悪化していくにつれ飲む量はどんどん増えていった。もちろん、依存しているためとか楽しむためではない。生き残るため、生活するために最低限の量を飲んでいたに過ぎない。
もっとも酷かった日々の記録は例えばこういう感じだった・・
これは2019年7月13日、SSRI服用し始めから10日目
(朝)4時 ランド1/4 デパ1(!)
9時 ランド1/4
12時 ランド1/4 デパ1/4
6時 ランド1/4 デパ1/2
8:30(!)デパ1/4
9時 ランド1/4
11:30 デパ1/2
12:30 ランド1/4
1日総量・・ランド1.5、デパ2.25
※ランドはランドセン、リボトリールと同じ薬。デパはデパス。この頃はまだ密輸ものを使っていた。(!)は発作か、非常に悪い状態があったことを示している。
こんなモニターと細かい分薬をしているのは自分だけでしょうか(笑)。のちに減量をはじめてからは、1/8で使う時も増えます。よく小さい錠剤を8個に割ってたな・・
記録が朝の4時から始まることに気付かれたと思いますが、そうです、早朝覚醒です。この頃は朝起きて最初に感じる感情が「恐怖」でした。恐怖で目が覚め、飛び起きて速攻でベンゾを飲みます。朝起きた時に一番最初にやることがベンゾを飲むことでした。
一度、起きた直後に身体がゴーーっと震えるような激しい発作が来たこともあります。凄まじくてもう終わりかと思いましたが、10秒くらいで終わりました。かなり短かったのでトラウマ度でいうとほとんど忘れるほどのものでしたが、ピークの強さだけでいうとトップクラスでした。あれが数十分も続いたらまず生きて出ることは出来ないでしょう。
SSRIの副作用は、最初が一番酷かったです。体が慣れると次第に減少して気にならないほどになっていきましたが。
医者は副作用を主に胃腸障害といって、性機能障害のことは教えてくれませんでした(恥ずかしいのか?)。私はあまりの不感症に、最初かなり不満がありました。性生活は終わりだと思いました。が、時と共にある程度は回復します。だが後ほど彼女が出来てから、やはり悩みになります。アルギニンなどのサプリメントが大いに活躍しますが、ハーブやサプリメントなしでは「最中」にしぼむ可能性が高いです。精力剤を使ってやっと「正常に近づける」程度だと思ってます。
立ちくらみの症状はよく現れました。また最初の頃は食欲のなさがかなり大きな問題になりました。
死の恐怖
様々な症状の中でも最も辛かったものとなると死の恐怖を挙げなければいけません。
あいにく、細かいことはそこまで覚えていないのでこの症状を詳細に記述することはできないと思います。が、思い出せることを書いていきます。
まず一つは、死という言葉が持つ重さが大きく変わったことです。街中で女子高生が「死ぬ〜」などと言うのを効くと過剰に反応しました。職場で、「疲れていた」という意味で「誰々が死んでいた」という表現をしている人を聞いたときも過剰に反応しました。軽い気持ちでそんな言葉を使わないで欲しいと切に思ったものです。こちらは深刻な戦いをしているのに・・
死に関連するものへの過剰な反応、そして異常なまでの死の連想のしやすさには苦しめられました。
例えば、墓地の看板を見ただけですぐに死を連想します(普段は墓地の前を通っても何も思いません)。一番ひどい時期はガイコツ柄がついたシャツを見ることも出来なくなりました。絵柄自体が怖いからではなく、それが死を連想させたからです。ほんの少しでも、間接的にでも死と関わっているものは、死に関する思考が作動する原因になりました。
自分は結果的に回復したわけですが、もっとも悪化していた時(SSRI服用開始直前からSSRI服用し始めの最初の二週間)は、まだ回復するかどうかなど分かっていませんでした。自分がどうなるかの本格的な不安がありました。これが耐えられない程に悪化し、自殺に追い込まれるのではないか、という不安と疑いに勝つことができません。死は思弁上のものではなく実際に起こりうるリアルな問題した。
がん患者の闘病記や死と向き合っている人の書いたものなどを読むと共感できました。当時の自分には理解できました。
ベンゾは最短二週間ほどで離脱症状がで始めると言われてますが、私はベンゾ連用が二週間を超えたあたりからは特に離脱への恐怖が高まっていきました。そして一度離脱について調べている時「自殺」という離脱症状があることを読みます(症状じゃなくて行動ですが、確かにそれが症状の一つとされている)。元から知ってたとは思いますが、改めてそれを読んだ時かなり体が冷えました。冷や汗をかきました。そして自分はこれを絶対に生き抜くという強い意志を持とうと努力しました。負ける気はありませんでした。
死の恐怖には二種類があったといえます。漠然とした死そのものへの恐怖と、より緊急性を持った近い未来の危険としての死の恐怖。同じように聞こえますがこの二つは全然違います。前者の方がよっぽど恐ろしいです。前者は死の概念そのものへの恐怖なので逃げようがないのですが、後者はとりあえず今生き残ればなんとかなるといったようなものです。「冷やっ」とするのは主に後者の方で、前者の方は冷やっとはせず、絶望と虚無です。
死の概念への恐怖は、自殺の危険性を作り出しました。これは一見矛盾しているようにも聞こえるでしょう。死が怖いなら死にたくない、自殺したくないんじゃないの?死が怖いから自殺するってどういうこと?と思われるでしょう。そうではないのです。死が怖くなると、自殺するのです。
死の概念が恐ろしくなるとなるほど、人はもう一秒も生きていたくなくなります。なぜなら「死に至る」ことこそが怖いからです。人は次第に気がつくんですが、実は怖いのは死そのものではなく死に至る苦しみなのです。なので死に至る苦しみがあまりに大きくなると、それを出来る限り早く終わらせようと考えるのです。
生きているのが猛烈な苦痛で、死ねば苦しみが終わると思えば、苦しむ人には死は魅力的で合理的な選択に見えてきてしまう。マイナスよりゼロの方がいいのではないか、と。
死の概念に取り憑かれている人にとって、生きていることはただ「死に向かっている」だけに感じます。自分が常に落ちていたことに気がついたようなものです。人生とは長いスカイダイビングなのです。パラシュートは存在せず、人はいずれ着地とともに死にます。健康的な人は下に地面が待っていることを忘れています。地面のことを考えてもまだかなり遠くだと思っています。しかし、苦しんでいる人は地面が見えます。ただそこに向かっているという事実だけに意識の全てが取り憑かれ、落ちている今を楽しむことが出来ません。
この部分はこの記事全体のなかでも最も書きたくない部分でした。感じを悪くしないために省いてもいいのではないかと思うくらいです。しかし不安体験を伝えるためにははっきりと書く必要があると思って書きました。
発作の変質について
初期の発作は、非現実間と恐怖感がメインだった。
どういうわけか、経過が進むごとに発作の身体性が増した。
最初は過呼吸や心臓バクバクといった要素は少なかったのだが、後ほどにはそれがメインになっていく。過呼吸は呼吸できなくなるという恐怖を感じ、心臓バクバクは心臓がやばいと思ってしまう。胸の痛みという症状も慢性的にあった。
正直に言うと身体的要素が強い発作のほうがマシでした。最初期の、非現実間を伴う類の発作が一番恐ろしかったように思う。
かなり回復してからは、深夜–早朝に突然目が覚めて発作になるというのが何度かあった。頻度は非常に低かった。強度も弱く、抗不安薬を飲まなくても耐えられることが多かった。ほんの一度だけ、手足が激しく震えた発作があった。止めようとしても動かすのをやめられない。原因はわからないが、正直少し面白かった。
バッドトリップでも同じですが、パニック発作は、助からないという確信をしたときに新たな恐ろしさレベルに到達します。助からないと思った時にこそ真の発作が始まるとでもいいましょうか。
私は発作を経験したとき、ほとんどの場合一人でした。一度、当時の自宅で弟が隣部屋にいた時に発作が来た時があります。私は隣部屋に弟がいるということを知っているだけで、発作の強度が下がっているというか、最悪のケースを想定しなくてもいいような感じがして、はるかに楽だったのです。(弟は自分より体格がいいので、最悪な場合私を抑えることが出来ただろう)
弟は部屋にこもっていて、私が発作中だと言うことは知りませんでしたが、ただ「近くに誰かがいる」だけでこう不安効果があるということを知りました。
それから、私は子供のように(笑)、弟の帰宅時間を毎日聞きました。遅いと不満でした。誰もいない家にいるのが恐ろしかったです。奇妙なことに、仕事からの帰宅路では大丈夫なのに、家に着いた瞬間パニック気味になり始めたりしました。とくに、一度家で発作を起こした直後数日はそうなりやすかった。
帰宅路が異常に恐ろしい時もたくさんありました。人と一緒にいるのは常にいいことでした。セロトニンなどになんらかの影響があるのでしょうか。仕事中は安定していることが多く、終わってから家に帰るまでが辛い時間だったことが多いです。
最後の戦い、サタン
不安がない今は、不安だった頃の思考回路を完全に理解することは出来ません。
しかし今では忘れていても、過去に書いたものを参照することで、私はある程度当時の葛藤を思い出すことが出来ます。
例えばこんな感じのことを書いていました・・
「宗教は信じられなくても、『自分を信じる』必要がある。宗教が信じられなくても救いはある。哲学によって。だが哲学に救いの効力を持たせるには、自分の思考回路を信頼できなければいけない。自分の思考回路が正しくなければ哲学も正しくないことになるからだ。哲学も宗教と同様に、諦めや疑いに邪魔をされる••」
「自分を救うための哲学を展開して行っても、どうしても『救われない』という疑いが生じた。その疑いを与えてくる頭の中の声を、俺はSatan(サタン)と呼んでいた。 こいつは全てに意味を与える神と真逆の存在で、死と悪の根源。こいつに遭うのは非常に怖い」
ふざけた文にも見えるでしょう。まるで宇宙的なレベルの戦いをしているかのような言葉使いが胡散臭いと思う人もいるでしょう。誇大妄想だと。しかし私は確かにこの時宇宙的な戦いをしていたと思う。私は、健康的な人ではまず気にすることがないような、より根源的で原始的なレベルで葛藤し、戦っていた。俺を殺そうとする頭の中の声は、俺ではなかった。悪魔だった。最も邪悪な存在だった。私は自己実現とか社会的欲求とかいうレベルではなく、ごく基本的な生存欲求のレベルで戦っていた(マズローの欲求五段階説でいうと、一番下のレベルでだ。この時期、自己実現なんてものはなかった。1日1日の生存だけが問題だった・・)
頭の中の声と言っても、幻聴ではない。統合失調のような症状はなかった。私は希死念慮などを頭の中の声と呼んでいるのだが、間違いではないだろう。私を殺そうとする、死を勧めるサタンは、私の自我に属しているものではなかった。私の自我は抵抗した。私は自分の頭に中指を立てて、バカヤロー、お前に絶対勝つからな、どれだけ苦しくても絶対に生きぬくからなと誓った。
私の精神には分裂が起こっていた。これは本格的な精神分裂、つまり統合失調ではないが、確かに私は自我で自我以外のコンプレックス(自我とは独立した人格)と戦うことを経験した。
一度、仕事中に激しい発作が来たことを覚えている。しかし仕事はかなり忙しい状況で抜けることは出来なかった。自分は仕事を継続した。それしか選択肢はなかった。休んだところで発作が治るわけではないので、内的現象に集中しないためには仕事をやり続ける方がマシだった。周りの人は誰一人俺が異常だとは思わなかったようだった。俺が主観的にどれだけ重大な体験をしていても、外に出る症状はほとんどない。他人には見えないのだ。
私は朝からベンゾを飲んでいたし、発作が来てからは追加のベンゾも飲んだ。それでも強烈な恐ろしさがあった。
サタンが、自らの首を切れと言ってきたのだ。そうすれば苦しみを終わらせられるぜ、と。
ところで私は一体なんの職業をしていたと思いますか。厨房です。その時私は『包丁で牛肉を切っていました』。
悪魔は、その包丁で自分の首を切れと迫ってきたのです。
私は抵抗し、なんとか打ち勝ちましたが、もうヘトヘトでした。もうこれ以上できない。やっと店長に問題を打ち明け、父にも打ち明け、仕事の休みを貰いました。
その日のことだと思うんですが、私は仕事終わりに外に出た時、ふと目を瞑ると、ゆらゆらと動いている少し悪魔的なイメージを確かに見ました。サタンの姿を見ました。強い幻覚とかではないのでうっすらとしたイメージに過ぎなかったんですが私はそれを「ギーガーが描いたデスタムーアのような横長の顔」と表現しました。(ギーガーとデスタムーアを知らない方はググってみてください)
休み中は父に支えてもらいました。父は不安やパニックをちゃんと理解してはいませんでした。「ポジティブになれ」と連呼してきたり、寝込んでいる私を起こしてきたり、発作があったと言ってもほとんど関心を払わなかったり、看護人としては最悪でした。しかし父は精神科医でもカウンセラーでもない素人なのであまり責めようがありません。彼の行動は助けになりませんでしたが、心理的な支えは助けになりました。ひとりで過ごすよりはるかに良かったです。父の教えてくれたものの中で一つだけ役に立つテクニックがあって、一度実践しました。
親指と人差し指で丸い形を作る(インド系の神がやってそうなやつ)
肛門を引き締め、緩める
これだけです。手の形や肛門の動作を維持することに意識を使うことで、内的なものから意識を逸らすわけです。これにプラスして舌を出すとか、声を出すとかいうアレンジもあったと思います。
パニック時に一番大事なのはおそらく呼吸で、呼吸法のことはよく言われてますが、呼吸のみではまだ内的なものに意識が行きやすい(かも)。
このグランディング瞑想を私はある朝一時間くらいベッドで行いました。詳しくは覚えてませんがこれはまさに最後の戦いで、胸が物理的にゾワゾワして、本当にこの世の終わりのように感じていた時間でした。
これを境に私はゆっくりと回復していきます。発作や不安はまだしばらく続きますが、強度と頻度は時と共にどんどん下がっていきます。
回復・・その後
発作がほとんど来なくなってからも、「深い傷跡」が残っている感じがしました。生気を取り戻すにはもう半年くらいかかったのではないかと思います。
ちなみに、当初は半年でSSRIをやめれると思ってましたが、ぜんぜんやめれる気配はなく、例の半年で回復したという論文の女性のようにはいきませんでした。95%治っているという自覚はありましたが、時折現れる不安症状は、昔ほどじゃないにしても十分に苦しいものでした。
私の哲学と世界認識は悲観的なものになりました。私は「苦しみ」を説明しなければいけなかったのです。
人は誰もが、世界全体についてなんらかの概念を、アイデアを持っています。自分はこういうもので、世界はこういうもので、自分と世界の関係はこういうものだと。
苦しみの経験のあとには、苦しみを何らかの形で説明して自我に統合しなければいけませんでしたが、悲観的にならずにそれを成し遂げることは不可能でした。
私はこう感じていたのです・・世界の半分は苦しみであると。それは闇であり、悪であり、死であると。この都合が悪い半面も直視して受け入れなければいけないと。
しかし世の中は、人々は、光の半面しか見ていないと感じた。あなたがたの世の中の哲学や世界認識は、まだ「半分」でしかなく、不完全だと。もう半分が必要だと。
私は最も苦しんだ人たちへの関心が高かったです。なので第一次世界大戦や第二次世界大戦やその他様々な最もひどい出来事を、知らなければいけないと感じました。知らないことは無責任だと思ったのでしょう。(不安症状がある時は戦争に関する映画やドキュメンタリーをみることは出来ませんでしたが)
私は不当な仕打ちを受けたように感じていました。ふつう、人は苦しみを乗り越えて成長します。しかしこの不安は最初から最後までただの苦しみ損で、なにも得たように感じませんでした。メリットがほんのひとつでもあったとしたら、それは苦しんでいる人に同情できるようになったくらいです。それ以外には一つも思いつきません。
苦しんだ分報酬が与えられるわけではありません。乗り越えたものの大きさの割には誰も褒めてくれません。「まだ薬飲んでるの」とか、「本当は大丈夫なんでしょ」のように言う人もいます。今これを書いていてはじめて気がつきましたが、私は苦しみを誰かに理解、肯定して欲しかったのでしょう。それがないので、ずるずると悲観的な哲学を引きずりました。でも現在はかなり自然治癒したので、このことは問題にしていません。この記事を書いたのは同情して欲しいからではないです、というのははっきりと言っておこうと思います。この記事を書いたきっかけは、精神疾患の内的体験を記述したかったからです。
私はサイケ摂取が出来なくなりました。一度だけDMTアナログを吸いましたが、最初に感じる効果が死の恐怖だったので、二度やろうとは思いませんでした。
私は変化にかなり敏感になっていて、ごく軽いドラッグにも変な反応をすることが多く、気がついたらコーヒー以外の薬物は何一つやらなくなりました。そうなってから一年以上が経ちます。
私はユング心理学と出会い、その力と魅力を知り、その世界に入っていくことにしました。そして今に至ります。今現在私にとって、読むこととと書くことは、精神を安定させ、アイデンティティ感覚を作り、生きる意味を感じる上で最も大事なものになっています。心理学、哲学、宗教学などはサイケデリックスに変わる新しい精神探究方法になりました。
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