※この記事は幻覚物質の使用を勧めるものではありません。


当記事では投稿していただいた6つのトリップレポートをまとめました。



タイトル:LSD初体験 

匿名希望 

正しいネタなのか?量は?
分からないし調べる手段も今は無いのでただ「死なない」という確信だけを強く持って摂取。 (その後の経験から150μよりは下かな、と思います。) 
※サイト管理人コメントー良い子は真似しないでね!物質情報なしでサイケデリックをやらないように!※
セッティングにもあまりこだわらなかった。親のいる実家の自室で、仕事に追われ良いとは言えない精神状態での摂取。
※あちゃー※
滑稽だが初心者なりに、「とりあえずすべて受け入れればいい」という覚悟だけをしっかりと決めてトリップに臨んだ。 (一応室内の危険物は全て隠し、多少片づけておいた) 

時間は夜。1時間と少しして、脳と身体に違和感が生じてきた。身体を伸ばすとなんだかビリビリする。気持ちいい 謎にハイ 
ベッドに横になり、漠然とそれを感じる。次第に視界が曲がりだす。微妙に。 文字を凝視して見て自覚できるレベルで、開眼における視覚作用については、今回終始このレベルにとどまる。極彩色の幻覚を期待していた分がっかりしたが、その反面、意識の変容が顕著になってくる。
脳が風呂敷を広げたようにオープンになり感性が裸になるような変化が起こる。 壁に手を当てると、自分が壁になる。いや、壁が自分、、俺か?てか、俺って無くね?自分、無い。無いけど、この壁もベッドも俺だ。ああ、これが自我の崩壊か,先入観や思い込み無しに理解できたことがうれしい。
「個」の概念が消えた普段の自分は、己の感情でさえ様々な恣意思い込みを孕んでいることを常に意識しそれが偽物であるかのように感じている。
今まで漠然と抱えてきた違和感の正体はこれだった自分の欠陥をすんなり俯瞰し受け入れられたことに感動を覚えた。 そのまま溶けて行きたかったが、シャワーを浴びることにした。
これが非常に気持ちいい。熱いシャワーが全神経を喜ばせる。口に水を含んでみる。 これ、一緒に魂とか吐き出せんじゃねwとか思って勢いよく吐き出すと、マジで視界が0.3秒ほどブラックアウトして壁にもたれかかってしまい爆笑。風呂場を出て、そのあとは外に出て散歩してみたり草を吸ったり音楽を聴いたりできる限りのことを楽しんで、寝た。
眼を閉じて見えるイメージの中で俺は魚になって渓流を旅して、魂の意味を理解した。
短いですが以上です。








初トリップ:インドのゴアでの体験

投稿者:TAT 

音楽好きが高じて精神変容の世界に興味を持ち、長く夢見たlsd、初体験を最高の環境で迎えようとインドへ。(当時2013年、1年かけてアジアを周った旅の途中での事)
大量のlsdが消費される年末のパーティーシーズンを狙い向かうも、繁忙期ど真ん中に到着してしまったゆえ宿を探すのにも大変な思いをした。
決めた宿はチャポラという地区のゲストハウス、1ルームダブルベットトイレ・シャワーは共同というもの。トリップを予定していたため共同部屋は避けた。
物を調達しようとカウントダウンのパーティー会場へいく、そこでホフマン(1枚700ルピー、1500円ほど)を3枚入手。lsdを摂ってパーティーで一晩明かそうと計画していたが、いざやるとなって混沌とした会場で初テイクすることに不安を覚えたため、大事をとり部屋にもどってやることにした。
lsdに対する憧れ期間が長かったため、自分なりに調べたり友達や旅の途中で出会った人の体験談(概ねポジティブな感想)を聴くなどしていたが、未知のトリップへの恐怖感は拭えなかった。期待しすぎってほどには楽しみにしていたが笑
その感情から1枚摂らずにハーフにカットして21時ごろテイクした。
恐怖と期待の入り混じったなんとも言えない感情でトリップが始まるのを待つ間大麻を吸うなどしたり、本当にささいな感情や視覚の変化をこれがトリップか?など勘ぐりながらきっかり1時間後しっかり知覚できる変化が始まった。皮膚の表面に痺れに似たような感覚ときな臭いようなものを感じ(この変化は毎回起きるので以後、自分のトリップのバロメータになる)、壁の微妙な凹凸が入り重なり模様となって浮かび上がってきた。その直後3Dホログラムの如く球体が目の前に浮遊していた。ちゃんとトリップが始まったことと自分に起きている未体験の現象に大いに感動し、これは最高のドラッグだと確信して不安を吹き飛ばした。気分は最高笑
ありとあらゆるものに興味が湧き、壁の落書き(目や曼荼羅などゴアらしいもの)に見入ったりそれに付け足して落書きしたり、部屋を歩き回ったり、歓喜の雄叫びをあげるなどしていたようにおもう。テクノやソウルをBluetoothスピーカーでかけてみると音の細部まで理解でき、感情にダイレクトに働きかけた。正直これまでフェイバリットと思えなかったサイトランスを聴いてその存在意義を体の芯で理解した。itunesのビジュアライザをつけるとCGのすべての動きを目で追って理解することができたように思えた。ふと自分の問題点に気付き長いテキストをパソコンに打ち込んだりもした。目をつぶって目の前に浮かぶ幾何学模様の途中で家族の顔が写ったロケットが打ち上がるというカオスのイメージがあったがこれがこのトリップのハイライトである。自分が家族を愛していることに気付いた。大麻を吸い幻覚が強まるのを楽しんだ。大麻ははやり過ぎる気持ちを落ち着けるのにも役立った。オナニーも最高だった笑
朝日が昇り始め、部屋に光が差し込んで外に出てみたくなる。それは6時頃で始めてから9時間が経過している。ピークは終わったがまだトリップしていることに感謝した。
外の日光は素晴らしく、部屋の前に植えてある植物の造形の美しさに見惚れる。
隣の部屋にスカンジナビアの国(どこの国出身かは忘れた)から一人で旅行に来ている太った老婆がいたのだが、彼女が部屋から出てきたので自分がlsdで素晴らしくトリップしていることを伝える笑 彼女はチェックインしたときにおしゃべりしており”この宿はみんなスピードやらケミカルなドラッグをやっていて、どういうことなの”と話しており、そりゃそうでしょ!ゴアだぞここは!と突っ込んだりしたがかわいいおばあさんである笑
そんなこんなで太陽の光を楽しんでいるうちにトリップは終わり、眠りについた。
ハーフでのトリップだったので自我を失うこともなく、エフェクトを噛みしめるように味わうトリップだったように思う。
このあとゴアには1ヶ月ほど滞在し、μ数も聞かずに買ってしまうような初心者丸出し状態から徐々に知識を得いていった。サイトランスのパーティーとlsdに明け暮れた。何がわかったのかわかるためにテイクするというスパイラル。耐性がついてるのにテイクして全くきまらなかったり、苦いものを掴まされたりなどしたが、サイケデリック初心者としていろいろ学びのある良い旅であった。
子供のような感覚を呼び起こし、本当のことを知りたいと思わせてくれるサイケデリックな物質は今の人達に本当に必要なんじゃないかとおもいます。




 
アムスでマジックトリュフ

投稿者:サイケデリオ

アムステルダムのストリートにヘッドショップがあり色んな店でトリュフが売られていました。

強さ別で売られてて結構強めのやつを選びました。
定員から初めてか?と聞かれ初めてだと答えると先に半分食べていけそうならもう半分食えとのことでした。
ホテルに戻りプラスチックの箱を開けると生のきざまれたトリュフが入ってたのでそのまま生で食べました。
とりあえず半分、マリファナはそこそこにしてたのでほぼシラフの状態、食べて30分ほどで少し吐き気が来たのでマリファナを吸いました。落ち着いたのでさらに30分たった頃にもう半分を食べきりました。そこからはベッドに寝転びゆっくりしてました。
すると少したったころ目が開かなくてなにかビジョンが見えました。目が開くようになって天井を見ると花びら大回転のような幻視が見えたのです。ものすごい多幸感とともに外に出たくなり散歩に出かけました。歩いているオランダ人の顔が悪魔にみえました。きっと外人は怖いという思い込みからそうみえたのだとおもいます。
ホテルに戻りマリファナを吸ったら意識が落ちて行くような感じになり3時間ほどして目が覚めたらスッキリしたような感じになりました。
LSDとは全くの別物だと思います。
自分の内面を知るならキノコ系、物事の表裏を知るならLSDって感じかなとおもっています。






初めてやったサイケデリック

投稿者: シン

俺が最初にアシッドでサイケデリック体験をしたのは2018年の5月でした。
それから今までに朝顔の種とかアヤワスカアナログとか草やらをやったが
最初にやったアシッド体験が一番強烈だったのでそのことについて書きます。
やったきっかけは友達が楽しいことをいっしょにしないかと誘ってくれたことでした。
友達は本物のアシッドだと言ってたが、
この体験の後にやったEt〇ladでほとんど同じような体験をしたから
たぶんEt〇ladだと思います。
量は二人とも1枚で。
時間は夜の7時からその友達の部屋で始まりました。 
友達は以前にもやったことがあってセットやセッティングは
その友達がやってくれました。
効果が出るのは一時間くらいしてからと言われ、最初はアンビエントな映画を
見るところから始まりました。
やがて本当に1時間くらいの時間がたつと身体が風邪をひいた時のような浮いてるような感覚になりました。
そして友達の部屋が段々まぶしくなっているように見え始めました。
あらゆるところがキラキラと光り輝いているのです。
感動してダリの画集を見ると絵が動き始めました。
まるでアニメーションのように動く絵を見てすげー、アニメみたいだー
なんてテンションが上がりました。
そのあと部屋にあったザ・ローリング・ストーンズのサタニック・マジェスティーズの
レコードジャケットを見ると光り輝くメンバーが神々しく見えてマジで神様じゃないかと思いました。
さらに中のジャケットを見ると中の色んな写真が一斉に目の前に広がりました。
そこから体験はさらに加速されていきました。
蛍光灯を眺めていると中の電子の動きが見え、やがてそれは回転しながら下に降りてきて
俺を別の空間に連れて行きました。
そこは真っ白な空間で何もありませんでした。完璧な白で構成されていました。
そこには神様がいました。それはとても大きな眩い光でした。
思わず俺は神様に許しを乞いました。
神様はすべてを許してくれました。
しかしそのあと急に部屋が真っ黒になって地獄みたいな場所に連れられました。
見た目は完全にさっきまでいた友達の部屋なのですが友達は残像がつくくらい猛烈なヘッドバンキングを
していて、その後ろには黒いもやもやの人影がいました。
そしてそこで突然に火で焼かれて死にました。
自分が死んだと思った瞬間意識が完全に消えました。
やがて段々と意識が戻ってきたのですが、その間友達が鳴らしていたやくしまるえつこの
声を聞いて女神の声とか思ったりしていた。
みた事のない白い砂浜と青い海のある場所で空に浮かぶ地球を見たり、
立ったり倒れたりを繰り返して友達に「今何回目?」とか言ったりしていた。
だけどやがて腹が減ったことを自覚すると段々意識がはっきりしてきて
それと同時にアシッドの効果が切れ始めた事が分かった。
何かとても大事なこの世の真理が段々遠ざかっていくを認識しながら完全に意識が戻ったのは
次の日の朝5時くらいだった。
しばらくは友達と話しながら生きていることに感謝しました。
朝ごはんの鳥丼がこの世で最高の食べ物だと思いました。

以上です。
その後試した朝顔の種でとんでもないバッドに入ったり、アヤワスカでサイバーパンクなビジョンのイメージを見たりしたこともありますが、最初のアシッドが一番強烈でした。








初めてのサイケデリックで天国と地獄を彷徨う

投稿者:maru

2018年の3月下旬の事だった。
旧友同士で和歌山県の山荘でBBQパーティーをしたのち、アシッドをやろうと誘われた。
他のドラッグは未体験の私は少しの恐れはあったが、既に大麻やアシッドを何度も経験している友人が安全だというし、仲間内の三人でやるのでいざとなったら互いに助け合えるという状況もあり、また私は旧来の仲である彼を信頼していたので、さほど抵抗はなかった。

渡された切手ほどの大きさの紙きれは、黒いビニール袋に入っていた。
後で聞いた話では、Eth-〇adという合法紙だったそうだ。量は紙一枚なので100~150マイクロ程だろうか?Bがいうには合法紙はきちんとしたラボで製造されていないので、紙の個体によって量にブレがあることは多いと言っていた。なので紙一枚でも全然キマらないほど少なかったり、逆に多すぎることもよくあるらしい。
21時頃、それを舌下に挟み、待った。すでに他二人は紙ごと呑みこんでおり、各々が音楽を聴いたり映画を見たり、寝転んだりスマートフォンを見たりして過ごしていた。

友人(以降A)が、時間をしきりに気にしはじめる。10分程が一時間ほどに長く感じられるらしい。アニメの"日常"を見てあまりにも名作すぎると楽しそうに笑っていた。

Aのトビっぷりを見るに、私はキマリが悪いのか?そう思っていると、床に紙が落ちていた。うっかり落としていたらしい。私は焦って、拾って飲み込んだ。

私はしきりに、どうすればAのようにハイになれる?と友人(以降B)に聞いていた。音楽聞くかシコるかしろ、と言われたのでヘッドホンをつけて音楽を聴き、布団に隠れてシコった。勃ちは悪かったが、射精はこみあげる感覚が伸びているようなものがあった。射精の瞬間、まぶたの裏に虹色のシダ状のイメージが見えた。これはキマったのか?そう思った俺はBに寄っていき、キマってるかどうか聞いた。Bは頷きながら答えた。
「その質問な...200回目くらい。もうお前も俺も、とっくにキマってる」
そう言われて私は気づいた。繰り返し同じ言動をしていたのはAだけじゃない。私もそうだったのだ。

ソファに座って、アニメを見たり、音楽を聴いていた。気づいたら、部屋は真っ暗になっていた。私はしゃがみこみ、鬱々としていた。テレビにはアニメの"日常"が流れていた。オーケストラ調のBGMに合わせて、シュールギャグが連発されている。シュールギャグは不安からの落差という笑いなので、この不安が増幅され、私の世界は暗闇に包み込まれたのだった。部屋は真っ暗になり、壁の色は青白く、さっきまでいた友人たちの姿も見えない。私だけが隔絶された世界に取り残されているような...不安定な調子のBGMも相まって、世界が陰鬱な不安さに包み込まれる。私は頭を抱え、うずくまっていた。恐怖はない。しかし、ただ憂鬱だった。テレビを消してほしいと誰かに向けて頼んだ。Bはリモコンをとって、テレビを消した。すると、瞬時に世界は元に戻った。部屋は電気など消しておらず、外は夜なので暗いが、明るく暖色の多い、部屋だった。真っ暗な部屋ではなかったのだ。
Aもまたこのアニメの垂れ流す不安なイメージのせいで死にそうな気分だったようで、私たちはBに感謝した。なにしろ思考能力が鈍っているので、複数の出来事を同士には思考できず、行動もできないのだ。リモコンをとって、電源ボタンを押してテレビを消すだけのことが困難で仕方ない。それは高度な理性と知性を要する行為だ。リモコンという物の意味がわからない。テレビを消すという発想もない。リモコンのボタンを押せばテレビの電源が消えるという理解などどこかに吹き飛んでいる。すべての周囲の物という物から、意味がはく奪されていく。結果残るのは、この見て聞いて触れる、この五感という知覚を通して私のうちに流れ込む、イメージだけだ。その頃私の世界はすべてはフラットに、イメージで構成された世界だった。いま、"この世界"にあっては、イメージを波乗りのように"乗りこなす"ことが必要なのだと、それだけがルールだと私はこの頃理解した。

この世界は、私の作り上げたイメージで構成されている。社会や理性は物体に意味をつけ、普段私たちはすべて意味や理性や価値に従って行動しているが、この世界にあっては意味もへったくれもない。すべてが色の違いでしかない。テレビもリモコンも、ソファもベッドも親も仕事も学校も過去も友人も名前も。私という自己もまた、何者でもなく、この世界が海だとするならば、私は受け取ったイメージを乗りこなすだけの小船のような存在であった。

この時私たちは、ほとんど幼児の頃の世界に戻っていた。

ふとスマートフォンを開くと、youtubeの画面が出てきた。履歴に残っていた動画を適当に再生した。東方アレンジの”feel in the dark”という曲だった。スマフォの画面を見ると金髪の女の子が両手を広げていた。すぐに変化は訪れた。画面に表示されたイラストの色彩が曲のテンポと共に、赤く染まり始める。頭の後ろのほうから、ミシミシ、キチキチ、カサカサという音が迫りくる。世界が赤く、青白く染まり始めた。スマフォとそこから流れる音楽を中心に、世界が危険なイメージへと侵食されていく。金髪の女の子の表情が青白く、紫の混じった恐ろしいイメージへと一瞬で変貌した。世界の崩壊はあまりに一瞬のことだった。感じたことのない地獄が聴覚、視覚、心のうちに至るまでに到来した。この体験から私は音楽が人に与える、イメージの強さを知ったことは言うまでもない。

視覚情報、味覚、触覚よりも音楽がもつイメージは、一瞬で世界をその音楽がもつ色、世界観に染め上げていくパワーがあると感じた。
バッドトリップとはこのことを差すのか。私はすぐにこのスマホを放棄しなくてはと判断した。このままこのデバイスが垂れ流す音楽が世界を崩壊させてしまう。私はスマフォを部屋の天井に向けて思い切り投げ飛ばした。スマフォの電源を切るという冷静かつ理性的な判断は頭に一切浮かばなかった。二階で横になっていたBが驚いて飛び跳ねて起き上がった。
私は、完全にバッドトリップしかけていた。音楽が世界を赤く青く恐怖の色に染め上げ、世界が壊れかけていた。意味も何もわからない状態で、どうすればハイにできる?私は手探りで、自分の世界をバッドからハイにするための行為、物、思考を探り、もがいていた。
突然の閃きだった。
「そうだ!踊ろう!」
なぜ?理屈じゃない、理由などいらなかった。考えもしなかった。
踊るとテンションが上がっているような感じがする。ハイな気分になる。それによってこの世界を恐怖の色から変えられる。私の精神と世界の色合いはイコールで繋がっているのだから。
私は立ち上がって、手を振り上げて踊り、絶叫した。
「何も悪いことは考えなくていいんだー!!!!!!!」
身体を動かせば、ハイの感覚が身体運動から伝わる。世界は再び、明るい色へと戻った。AとBが、正気を失ったかのように絶叫する私を、即座に抱え込んでベッドへと抑え込んだ。Aは私を抱き寄せ、ソファに横たえてくれると、しきりに私に大丈夫、大丈夫だからと囁いていた。私はAに感謝した。ありがとうという情念が一切の曇りなく湧きあがっていた。
Aは押し寄せるイメージの波をコントロールしきれていないようだった。Aは初めから終わりまでずっと、しきりに音を気にしていた。
隣のロッジには他の観光客もいる。Bはアシッドを摂取する前、そのことで騒いだり暴れたりすることによる弊害や周囲への騒音について特に気にしていた。
常識のある大人であればその考えは持って然るべき当然のマナーである。しかし、アシッド・ワールドに入るときは、現実の社会のルールは持ち込んではいけないのだ。
Aは、"騒いだり叫んだりしてはいけない"という強迫観念を自らに強く自己暗示したままこの世界に入ってしまったことで、常にその観念のイメージに振り回されてしまったのだ。
あの世界には、現実の意識下でのルールは持ち込めない。持ち込もうとすると、それは自己暗示となって自らをいつまでも束縛してしまう。完全に囚われてしまうのだ。あの世界に入るならば、完全に自我を放棄して解き放たなくてはならないのだ。どうせ死ぬことなどないのだ。どうせ数時間経てばもとに戻り、記憶も自分も全部元通り。そう思えば、安心できる。私は不安になるたび、そう思う事にした。時計を見て、時間を確認した。既にピークは過ぎている。この頃になると、天国でも地獄でもない、平静な地点にある自分が少し戻っていることを実感した。ピーク時は、この世界は天国か地獄か、完全に二極の変化しかなかったのである。

時計の存在!これもまた、ありがたい存在だった。
あの世界においては、時間の感覚が伸びるのだ。それは、私たちの時間の感覚が、主観的で時計に左右されない、イメージとしての時間として確固に私たちのうちに存在するという事実を、私に理解させた。
もしこの部屋に時計という客観的な時間の経過を知らせるアイテムがなかったならば、私たちはこの狂宴の経過を理解することなどできなかっただろう。客観的な世界の、時間の経過を確認できることは、このアシッド・ワールドが永遠の世界でないことを理解させる素晴らしいアイテムだった。
アシッド・ワールドでは、"いま"がないのだ。現実の"いま"は前後の時間の流れのあいだに、自我を中心に位置づけられる。自我という中心がないために、前後の時間の流れを感じられないのである。私たちは普段、時間は絶えず1から2に進む中で生きている。間違っても今よりも以前には、過去には戻らない。当然として、そのように感じながら生きている。
しかし、それはシラフの時、私たちの脳がそのように私の時間への感覚を位置づけているだけなのだ。私たちの感覚の内にある生の時間は、24時間や1分1秒といった数値化できるものでは本来存在しない。原始社会に時計など存在しない。原社会に住む人々の一日は24時間ではないのだ。それは暦という社会規範に合わせた、単なる概念に過ぎない。
1や2、100、√、数字は自然の内に存在しない。時間も同様である。その変化は実際の日常的生活の中でも存在する。
仏哲学者のアンリ・ベルグソン"時間と自由"は、時間の主観的イメージ性と、時間が個人にとって自由な感覚であることからして発する、時間を自由の源泉であると考えた名著である。この事実を体験するのに、アシッド・ワールドは素晴らしいガイドブックになりえるように思う。
しかし、私たちはアシッド・ワールドにいつまでもい続けるわけにはいかない。いずれは現実に返らなくてはならなかった。いつまでも時間の感覚が一直線にいかず、"いま"が過去にも思えて前後がわからないままでは困る。永遠に時間がループして戻ったり伸びたりして"いまの時間"から切り離されたところに自分がいるなどというのは困る。そして、そんな不安で絶望的なことを考えるようになれば、まずバッド=地獄行きだ。
テレビではアニメが流れていたが、いつ見ても同じシーンを何度もループしていた。実際には客観的な世界ではまっすぐに映像作品は流れているはずなのだが、アシッド・ワールドに入ると人の知覚上ではそうなるのだ。
そのために、客観的な世界のものさしとしての時計はありがたかった。時計の針は変化しない。自分がいまどこにいてどれだけ前後の時間の感覚が無くても、時計を見れば客観的な世界との橋渡しができる。この事実は不安を和らげる装置として充分に機能し、私たちを大いに安心させた。

視界の中心に、波の模様が見えた。また、身体感覚が体内にまで延長されていた。頭の後ろのほうに"ある"感覚。頭、顎の後ろのほうから喉を通って腹部の側面にかけての身体感覚。後で調べてわかったことだが、位置からするに、頸に二本の筋を強く感覚があった部分は頸動脈と思われる。
グレープジュースを飲むと、喉を通って胃にドリンクが流れ込み、胃からなにかがかけあがり、喉を通って脳に走っていく感覚があった。
さながら、"脳でジュースを飲んでいる"如き感覚だ。これはあまりにも不思議で異常なので、自分でも笑うしかなかったのを覚えている。
腹や頭がカッカと発光しているような感覚は、いまだによくわからない。もしかしてヨガでいう"チャクラ"というやつが本当に存在し、開いていたのではと思わないではない。位置的にも一致しているのだ。チャクラなんて今までは妄言以外の何かと思えなかったが、実際にそのようなものを体験してしまうと、完全な眉唾とは思えなくなってくる。

友人の姿が獣になったり、悪人になったり、仏になったりした。私がAに抱いたかすかな恐怖感が、そのままAの外見的イメージを構成した際は、Aは人の姿をした毛むくじゃらの黒い獣となり、聞こえてくる寝息は生暖かく、恐ろしい獣の唸り声になっていた。

私は不安に取りつかれそうになった時、Bを頼ることにした。
つまり、Bはアシッドを何度も経験し、何度もこの世界から帰還し、そしてまた私たちと共にこの世界に入っている。その事実からして、私とAもまたこの世界から帰り、元の意識状態に戻れることが可能であるという事実である。そして、Bが比較的平静であり、冷静に状況判断する能力があるという事実である。短期記憶がイっているので、これらの事実は何度も再確認する必要があった。
その事実を確認しなければ帰ってこれないような気がした。また不安な気持ちを静めるのに、安全であるという事実を確認するのは精神衛生上大事なことに思われた。

バッドになった時の絶望感は覚えているが、ハイの時はあまり覚えていない。
小便をしている時、瞼の裏に黄色と緑色のイメージが構成されていった。さほどでもないが小便の放出感はシラフよりも心地よかった気がする。
天井を見ると、木組みの板が交差する模様がとても美しく見えた。気持ちを這わせると、天井は鮮やかに色彩が変化する、ぎらぎらとした虹色に変わった。シダ状をベースとした、色鮮やかな極彩色だった。気持ち悪いものは微塵もなかった。

やがて、夜が明けた。朝日が部屋に差し込み、カーテンが揺れていた。風がカーテンに当たって揺れ、光の当たりかたでカーテンの色が、赤色から、紅色に、あるいは茶色に、オレンジ色に、明度を変化しながら揺れているのがとても美しかった。

三人で段々と戻りつつある記憶を確認したのち、自分の関係する様々な人の名前や場所についての情報や一般常識を確認し、思い出し、拾い直していた。だいたい落ち着いた頃になると、朝食を摂りバイキングに出向いた。朝食はひとわけ美味しかった。しかし、隣にいた男女のグループがどうも陰気臭く、女性の方は鳴いていたので別れ話でもしていたのだろう。こちとら幻覚は見えなくなったが、まだ感受性は高まっているので、勝手ながら見ていて不快さが強まるので私は食事を切り上げてさっさと部屋に帰りたい気持ちになっていた。
その後は車で休んで途中で銭湯に寄ったりしながら帰宅した。昼の12時を過ぎた頃には、すっかり記憶も完全に戻り、今までの自分に戻っていた。しかし、脳から顎、喉にかけて感じる身体感覚は、服用後10時間以上たった後でも、

その日から一週間ほど、私は夜眠り朝起きると、今までとは明らかに異なる。非常にすっきりとした目覚めになっていた。まるで幼少の頃朝目覚めた時のような爽快感だった。むしろ、目覚めとは爽快なものだったのかと、驚かされた。それはもうずいぶんと長らく、自分の内から忘れていた感覚だった。

神も仏も宇宙人も到来するトリップではなかったが、天国と地獄は垣間見たと思う。それは現世とはかけ離れたところにあるのではなく、この私たちの世界の裏側に位置して存在している、そんな風にも思えた。
脳がコンピュータだとして、普段の睡眠はスリープ、トリップは脳のデフラグ、再起動なのだろう。しかし、これだけ強烈な体験でもまだ、サイケ界隈の人々からするに知覚の扉の門を叩いた程度でしかないということらしいので、サイケデリックの世界はあまりに奥が深い。この世界を追及するのは求道者だと思う。
1960年代当時のヒッピー達は粉末状のLS〇-25を手のひらに握りこんで経皮接種していたというのは本当だろうか。
後でBがいうには、今回は初回だから自分がガイドになってやってみたけれど、一人でやるのとは全く違う現象がいくつもあった、アシッドは一人でやることで真価が訪れるということらしいが、しばらくは度胸がないので遠慮しておくつもりだ。素晴らしいものも見えるが、怖いものもある。陰と陽、ハイとバッド、天国と地獄で世界のイメージは構成されている。己を見失って行き場がなくなった時には、またいつか改めて、見つめ直しに、バランス感覚を取りにいってもいいかもしれない。実際にあれ以来、自分の内から根本的なところでの閉塞感は和らいだ。サイケデリックが解うつに有効という研究が海外でされているらしいが、私自身が身をもってその体験をした。この物質が医療的利用され、人類のために役立てることを望んだというA・ホフマン博士の気持ちも今ならわかる気がします。

レポートは以上です。一言でいうならば、素晴らしい神秘的な体験でした。これから先、一生忘れることはないでしょう。友人たちに、またこの文章を載せる機会に、また世界中の友人たちに、感謝します。
 

 



 
LSD+アヤワスカ・アナログ体験

匿名希望

<Set & Setting>

・時期:1年前の夏
・場所:かなり山奥のキャンプ場。ほぼ貸切
・時間帯:LSDを日没頃+アヤワスカ・アナログを深夜から
・ドース: LSD1枚(何μgかは不明)、アヤワスカ・アナログ根皮6g(水出し)+MAOI300g
・その他:信頼できる数名と共に。楽器、オーガニックのドライフルーツなど遊び道具を色々と。LSD、アヤワスカ・アナログ共に単体での経験あり。


<序盤>
テントを張り、火熾しをした頃に日没。
雨が強く降ってきたが、おかげで他に客がほとんどおらず、踊っても笑い転げても奇声を発しても平気な環境だった。
焚き火が安定した頃にLSDを一枚。(比較的強め)

効くまでの間にキャンプ場を出て、周囲を友人と散歩。
何せ山奥なので、街灯が少ない。田んぼのあぜ道に逸れると、虫たちの鳴き声がうるさい程に鳴り響く。
小さな茂みに、あらゆる種類の虫たちが違う音・タイミングで、めいっぱいに鳴いていた。
まるで虫たちの宿るホテルみたいだ!と小学生のように興奮し、しばらく黙り込んで音を聞く。
ふと思い立って靴を脱ぎ裸足で立ってみると、足裏に様々な情報があることを知る。岩のゴツゴツ感、濡れた泥の冷たさ、土の柔らかさ、草のくすぐったさ。
こりゃ楽しい!他のメンバーも連れてこよう!とキャンプ場に戻る間に、一台の車とすれ違う。
ヘッドライトがやたらと眩しく光が様々な色に分解されて見え、目をあけていられないくらいに感じて、そこではじめて「効き始めてる!」と自覚して言い合った。

焚き火の元に戻ると、他の友人達は火の周りでスマホから音楽を流してくねくねと踊っていた。アフリカンの力強いビートの曲。
が!スマホの不具合か、音が途切れ途切れになってしまう。もういいや、音楽は切ってしまえ!ということになり、持って来ていた笛を誰かが吹き始める。
誰も正しい演奏方法など知らないが、ただただ息を吹き込み、音を感じながら流す。スピーカーの音とは全く違い、その人の息の音がする。
自分でも吹いてみると、最初は掠れた自信のない音が出るものの、だんだん「笛の芯」、空気の通り道の芯が分かってきて好みの音を出せるようになってくる。
笛遊びをしたり踊りつつも、虫のいる茂みのことを思い出し、皆で散歩に出かけた。

焚き火を小さくしておき(火の扱いに慣れている人がいて、こういう時に経験がものを言うなと感心した)、全員揃って裸足でキャンプ場を後にする。
泥のぬかるみや石ころの感覚、肌を打つ雨、遠くをうねる風、虫たちの羽音・・・思わず身体から踊りが溢れ出る。
踊りながら道を歩き、途中からは全員が手を繋いで、小学生のように横開きになって進む。
どこからも灯りが届かない、真っ暗な場所に差し掛かると、繋いだ手から誰かの不安が雪崩れ込んできた。もしかすると自分自身のものだったのかもしれない。
が、大丈夫だよーと声に出すと、それもすぐに収まる。
結局田んぼや虫のいる茂みにも行ったのだが、より印象に残っているのは、その真っ暗な場所で過ごした時間だ。

暗い竹藪や森、夜空を背景に、目を開けているにも関わらず閉眼幻覚が重なって見える。原始的かつ普遍的な幾何学模様がリアルな景色に重なって見え、ああこれか、と思った。
この紋様、世界中の刺繍や、葉の葉脈や、水の揺れる模様や、指紋に浮かび上がっているやつだ!今、かなりぶっ飛んでいるなあと。
暗闇の中で踊ったり、こみ上げてくる音を歌ったり、今自分が見ているものを周りの人と説明し合ったり。
メンバーのうちの一人が比べ物にならないくらい深く深くぶっ飛んでいて、友人が「トビの才能あるなあ」と絶賛する。
自分はトビに抵抗はしないものの、呼吸とヴィパッサナーにすがりつく癖がある。良し悪しだが。

しばらくして焚き火の場所に戻り、用意していたドライフルーツなどを齧ってみた。
オレンジのスライスは燦々と降り注ぐ太陽の味がしっかりするし、ごぼうやサツマイモのチップスは大地に繋がるような、身体にグラウンディングするような味。
なぜか宇宙食の乾パンを持ってきていた人がいて、そのパッケージデザインや匂い、味、そもそも乾パンの存在感に30分(体感では)くらい爆笑し続けていた。


<中盤>
LSDのピークを過ぎた頃&ちょうど夜明けがアヤワスカの切れ目になるよう時間計算をして、水出しアカシアを飲む。くっっっっそまずい。
普段でも飲む時には香りやタンニンの味で吐き気が催してくるのに、五感が敏感になっており尚更まずい。味覚センサーを故意にオフにするように、息を止めて一気に飲み干した。
アシッドは身体も口も動くが、アヤワスカ・アナログでは姿勢ひとつ変えるのも、湧き上がるイメージを言葉にするのも、難儀するくらいに身体が重い。
すぐに効き始めるわけではないが、先ほどまで爆笑していたのが嘘なくらいに、静けさが満ちる。
言葉を収めて静かに座っていると、様々な情報がなだれ込んでくる。LSDのめくるめく共感覚。
喋って笑っているうちには気がつきにくいが、肌を叩く雨のリズムが色となり、周囲の小さな草花は彫刻のように踊り、隣の人の感情は音楽として幻聴に。

静かに静かに、それは静謐に、DMTが身体へ馴染んでいく。誰も何も喋らない。
火を前にゆったりと座っていると、おもむろに友人がアクセス・バーズをしてくれた。
何も考えず、頭皮に触れられる指先に集中していると様々な模様が浮かびあがる。ハイになるというよりもクリアになる感覚。ちなみにバーズは他のサイケデリクスやカナビスとも相性が良い。
座禅で習った「半眼」で見ると、開眼幻覚と閉眼幻覚が交わる(両方見える)ポイントがある。火が揺らぐ中、バランスを取ることに集中する。
焚き火が燃える。風が熾の隙間を通り、薪をまるで銀河のように光らせて、火が燃える。その姿の中に、智慧の本質のようなものを垣間見た。

それから、ヴィパッサナー(観察)をすることに。呼吸に集中し、知覚出来る全てのことを観察する。
ヴィパッサナーの良いところは「全て」を体験できることだ。例えば雨の音を感じると、普通はそれだけに心奪われてしまいがちになる。
しかし呼吸を主軸におくことで、音も風も暖かさも、あらゆる身体・体内感覚、外の世界の動き、思考や感情の動きなどを、同等かつ同時的に見つめられるようになってくる。
集中力が必要で、少し疲れることもあるが。

絶え間なく広がる共感覚を観察し続けると、混ざり合っていた感覚が、ひとつの「感覚そのもの」となった。
五感、いやそれ以上の多くの感覚がひとつの「装置」として統合される瞬間、それは一年経った今でも、言葉にも絵画にもできない。あえて言葉にするとしたら、アート、としか言いようがない。
統合されてしまった感覚は、もはや次から次へと変化するわけではない。
今思うと、LSDもかなり抜けてきていたのかもしれない。DMTらしい幻覚タイムもとっくに終わっていた。
ただ、ものすごくクリアだった。(アヤワスカ・アナログをするといつも「結局めっちゃシラフじゃん」状態になる)
呼吸の観察は続いていたが、焚き火はただの火で、空は明るくなり始めていた。


刹那、そこに居た。

疑いようもなく、悟りだった。
森羅万象と共に在った。

悟りという表現に語弊があるならば、空でもいい、ワンネスでもいい、梵我一如でもいい、アヤシイ体験でもいい、ジャンキーの妄想と人が呼ぶならそれも構わない。宗教や表現を超えたところに意味がある。
全身を貫くような体験でありながら、踊り喜ぶでも、うっとりとするでもなく、ただただ静かだった。生まれて初めて経験する静けさだ。
目の前に広がる明けた空も、照らし出される森の木と土と、そこに生きる虫たち、そよぐ風・・・そこに連なる身体(自我は無いが)、全てが美しい静寂に満ちていた。
過去もなく、未来もなく、永遠の今。
ずっと探していた疑問の答えを見つけた、と思った。
変わらないもの、本質、宗教で神と呼ばれるもの、アートの指し示すもの、科学のたどり着く場所、生きていること。


<終盤>
だんだん自分の名前を思い出し、みんながシラフに戻っていく最中にも、LSDの余韻と悟りの状態が共存して、周囲の美しさに目を瞠っていたように思う。
落ち着いてから温泉に行き、併設された宴会場でご飯を食べたが、そこに集っていた農家の人々の面白いこと、食べるものの美味しいこと。
周りのおばちゃんたちが沢山話しかけてくれ、同時に自分の畑で採れたという果物や持ち寄ったおかずを分けてくれる。
会話の一つ一つが「その人らしさ」に輝いていて面白い。バーニングマンになんて行かなくても、ここにフェスはあるじゃん!と。
休みを終え、仕事に行き始めると感覚はどんどん鈍っていく。普通に忙しく、普通に腹を立て、友達と笑う日常に戻った。


<振り返って>
自分にとっての「LSD+アヤワスカ・アナログ」=「外側+内側を観るためのツール」であり、だから双方を繋ぎ合わせた悟りの境地を体験するのに一役買ったのだろう。
悟り(初期段階の)とは結局のところ人間ができる”体験のひとつ”である。それは「泳げるようになった!」だとか「美味しいものを食べた!」みたいな体験と、実のところ何の差異、ましてや上下があるものではない。
嫌な思いが全くなくなったり、生活がガラッと変わるわけではない。もちろん体験には様々な深さがあり、日常に根付く大悟もあるが、現在の自分は未だその境地には至っていない。
それを認めた上でやはり、LSDやDMTの力を借りつつ「やってみたい体験ができた」ことをひとつのサンプルとしてここに記した。

ただ、「日常に戻った」と上で書いたが、少し違う。
上記から現在、1年程経ったところだが、振り返ってみると「日常がアップデートされた」感覚に近い。
それから多くのことを学び、修正し、失敗し、楽しみ、より多くの方法(シラフの)で学ぶようになった。
結局のところサイケデリクスはドアを開けてくれる(脳のシナプスを繋げる)が、その先をどう遊ぶか・生きるか・価値あるものにするかは、普段の、日々の、地味な生活にかかっている。